投稿者: karib_sotai

  • 結界を解いたときに

    このブログでも何度か書かれている話題になるけれど、

    新種のコロナウイルスの影響によって、「マスク」という道具が

    日常生活のなかに組み込まれた。

     

    他者の健康を慮り、また自分の防衛の為でもあるそれは、

    目に見える境界線であり、ある種の「結界」を身に纏っていることのようにも思える。

    そういうもの同士が接し合うときには、マスクをしていないとき以上に、コミュニケーション力を要する気がする。

     

    このマスクについては様々意見をもたれると思うけれど、

    逆転の発想で最近いいかも、チャンスかもと感じる事もあった。

     

    マスクを纏っていると明らかに呼吸がしずらくなる。

    当たり前のことながら、それはフィルターの役割を果たしているので

    ウイルスは勿論のこと、それ以外の空気の「旨味」のようなものまで取り除いているように思う。

    現に、散歩中にちょっと息苦しくなってマスクを外してみると

    やけに空気のおいしさを感じる事がある。

    早朝の新鮮なものは別として、いままでマスクなしに日中散歩していた時には、都会の空気をおいしいと感じられることなんてなかった。

     

    マスクをつけている人は少なからず、外した時のこの「空気おいしいな」感を味わっているのではないだろうか。結界を解いたときに、何を感じているのだろうか。

     

    息苦しいという不快感も、呼吸が楽になったという感覚も、空気がおいしいという気付きも、目に見えない、当たり前の、でも生き物にとって最重要な「呼吸」という営みにハッと気が付くきっかけになっているんじゃないかと感じている。

  • 色んな自分とともに

    ここ数か月の間に、起こっている変化として、

    自分以外の他者の存在について考える機会が増えた結果、回りまわって、今まで見えていなかった自分の一面を知り、それを踏まえながら先へ進む方向を向いている自分がいる。

     

    これは自分のことだけを考えていたのでは、たぶん感じられなかった変化だと思っている。身体的にも精神的にも、自分の中だけの循環から、「環境」を含めての「循環」をより意識するようになり、その流れのなかで感じられてきたことのように思う。

     

    そこで、いままで言葉になっていなかった考えや感情にも出会っている。これは良くも悪くも、ではあるかもしれないけれど、でも先週の瀧澤さんのブログ

    blog.tokyo-sotai.com

    で登場した言葉を借りれば、「以前よりも色んな自分がいてもいいなと思えるようになってきた。」である。

     

    こういう変化が起こったこと、またそれを生かす方向で、目の前のことを転がしていこうと思えているのは、多分操体で学んでいる事の、その世界観の変化と決して無関係ではないと感じている。いままでの流れや循環の概念とはまったく違った世界を、いまの操体はみようとしているのではないだろうか。

  • 免疫力と寛容力

    自分のからだや自分の都合ばかりを考えているだけでは間に合わず、自分以外の他者という存在について、もう少し改まって考えざるをえない状況にちょうど対峙していたタイミングで、今年の春季東京操体フォーラムは開催された(zoomによる開催)。

     

    その際に、当フォーラムでも相談役としていつも大変お世話になっている太田剛先生《株式会社ギア(編集工学機動隊 GEAR)代表〉から免疫学者の多田富雄氏の「免疫の意味論」という、本を御紹介いただいた。この書籍以外にも、その日の話題を深堀する上で有用な著作をたくさんご案内いただいたが、自分にとっては特にこの一冊が響いた。

     

    免疫の意味論

    免疫の意味論

    • 作者:多田 富雄
    • 発売日: 1993/04/30
    • メディア: 単行本
     

     

    太田先生より「自己」と「非自己」について考える上で、この一冊は読んだ方がいいよと薦めていただいた。自身のからだで真っ盛りに起こっている免疫という現象と、目に見えないウイルスという存在感、そして自分が考えざるをえないように感じ始めていた他者という存在について、あらゆる角度からその点と点をつなぐ手がかりがつまっているような本であるように感じられた。

     

    大変興味深かったのは、免疫という在る種の「拒絶」に関わる人体の現象に関わることを研究されている専門家が、その著作のなかで「寛容」ということをテーマにされていたことだ。

     

    この本を読みながら、免疫や免疫力という事に関しての感じ方が変化したように思う。「免疫力を高める」というと、非自己(例えばウイルス)を適切に排除していく機能が十分に機能し保たれているという印象が今までは強かった。一方で、ひとつの捉え方として、免疫力が高いというのは、非自己に対しての「寛容力」があるかないか、とも言いかえられるんじゃないかと今は思い始めている。

     

  • 点検してみて感じたこと

    おはようございます。
    瀧澤さん、一週間の投稿、ありがとうございました。
    本日から寺本がバトンを引き継いでまいります。
    テーマは引き続き「この時代の暮らし方・私の免疫力アップ法」です。
    宜しくお願い致します。

     

    ここ数か月間、これまでリアルタイムで経験したことのない規模の感染症というものに出会って、そこで感じてきたことを振り返ってみると、そのなかで試してきたことは、今までのことをひとつひとつめくる作業、「点検」する作業だったように思う。

     

    この確認作業は今も継続しているけれども、そのプロセスの中で興味深かったのは、自分以外の他者のことに関して考えることが自然と増えてきたことだった。

     

    それまでは自分自身というある種の最小単位のなかでいろいろなことを考え、感じてきた。

    故に、自身の健康について考えるときには、「自分のからだ」のことについて考え、感じている事が多かった。勿論それは、大事なことであることには変わりがないと考えているけれども、自分自身の健康を考える上で、この最小単位は身近な人の健康ともかなり密接な関係性を持っていることを思うようになった。

     

    心理的な面も同じようなことを感じている。自分の中で、渦巻いているあらゆる心理的な現象は、周囲の人と決して無関係な出来事ではいられない。以前にも、ここで書いた記憶があるけれど、自分に気持ちの余裕がないときというのは、周囲の人に大きなストレスを与えることもある。それが、あからさまに感じられることもあれば、目に見えず相手の中に鬱積していくこともある。そしてそれが、自分からだけの眼差しではなくて、相手の方からも起こっている相互作用なんだということに興味が湧くようになった。

     

    自分の中で何かしらがうまくいっていないときに、相手を観てみれば、相手も同じように間に合っていないことがある。そういうときに、自分を顧みてもいいし、相手を気遣ってもいい。

     

    息(呼吸)、食(飲食)、動(身体活動)、想(精神活動)の自己責任の営みは、いままでも考えて実践してきたことだった。その自己責任の最小単位に常に触れていて、それを陰ながら大きく支えている存在、「環(環境)」の領域に関わることについて考えるようになったのだと思う。

  • ここから これから⑦

    今回のブログも今日で最終日を迎える。

    前回のブログを振り返りつつだったので、続きを書いているような気分だった。

    当初、不安を感じたり、悩んだ時期もあったけれど、
    結果的には色々と変わるきっかけになったと思っている。

    色んな自分がいてもいいし、色んな考えがあってもいい。

    今までと違うこと、人と違うことを受け入れられるようになったら、

    気が楽になったし、過ごしやすくなった。


    これが今のところ、僕の「この時代の暮らし方・私の免疫力アップ法」。

    一週間お付き合いありがとうございました。

    明日から寺本さんです。

    よろしくお願い致します。

     

  • ここから これから⑥

    月が出ている夜に外に出てみると、
    ほとんど街灯のない家の前も、月の光で思いのほか明るい。

    お陰で山に続く坂道も仄白く浮かび上がり、
    目が慣れてくるとさらに奥にある木々の輪郭も見えてくる。

    足下から立ち上がってくる青々とした草の匂い、
    近くをチョロチョロと流れる水の音や蛙の声が混じる空気はぬるくやわらかい。

    そんな7月の空気を感じながら、ぼーっと夜空を眺める。

    いつの間にかすーっと吸い込む息が深くなる。

    自分でも意図せず深く息を吸い込んでいる瞬間が好きで、
    からだの中を風が通るような感じがしてくる。

    住んでいるところのその時々の夜の空気を味わうのは好きで、
    去年や一昨年も今頃やっていたことだけれど、今年はちょっと感じ方が変わっている。

    なんだかホッとする。

    新しい生活様式になったり、感染予防に努めるようになったりで、
    今までとは変わってしまったことに目がいきがちだったけれど、
    こうして変わらずにできていることもある。

    その変わらずにできていることの中にも変わっていることはあるから、
    やっぱり色んなことが変わってきているのかもしれない。

    なんだか最近振り返ることが多くなったけれど、
    元に戻りたいというわけではなく、ここからがこれからの始まりという気がしている。

  • ここから これから⑤

    今回の豪雨災害のニュースを見る度に、
    被害に遭われた方々の悲しみや辛さ、無念さを思うといたたまれないきもちになる。

    ここ何年か毎年各地で水害が起こり、
    被害状況も厳しくなってきているように感じる。

    僕の住んでいる久慈市も、ここ数年で2度、台風による水害があり、
    家族の間でも話題に上がり、個人的にも影響を受けたことを思い出す。

    当時心配して声をかけてくれた人達、
    復旧作業中に差し入れを持ってきてくれた人達のように
    直接きもちを伝えてくれたことは原動力になったし、

    それぞれの場所でこちらにきもちを向けてくれていた人達の存在を
    後から知った時も嬉しかった。

    当時はそこまで気がいかなかったけれど、

    きっと今回のニュースを見てそれぞれが感じているように、
    あの当時も、画面の前で安否を気遣ってくれていた人達もいたはずで、

    そのほとんどが一度も会ったことがない、これからも会うことはない人達が大半
    だったんじゃないだろうか。

    当事者がたとえ知らない人であったとしても、
    他人事のようには思えない瞬間は誰にでも訪れるだろうし、

    当事者がその時気づかなくても、
    遠く離れた場所から送られてくる想いもあるんだろう。

    もちろん、励ましや気遣いとは反対のことも起こるわけで、
    そこは僕自身も紙一重だけれど、そこに生まれる素朴なきもちと
    それぞれの事情を慮ることは持ち合わせていたいと思う。

  • ここから これから④

    前回のブログの中で、職場まで歩くようになった話を書いた。

    さしたる目的があったわけではないけれど、
    外に出たくなるような陽気に後押しされて、
    職場までの道のりをいろいろ感じながら愉しんでいた。

    あれからしばらく続いていたけれど、
    朝の生活リズムが変わったこともあり、最近はまた車通勤に戻ってしまった。

    それでも、歩く時間は持ちたくて、
    朝の身支度を終えると近くの山に散歩に行くようにしている。

    やっぱり歩くとなんとなく気分がいいのだ。

    このくらいシンプルな動機がちょうどいい。

    そういえば以前ご近所さんから、
    朝の挨拶がてら「車はどうしたの?」と聞かれたことがある。

    ちょうど職場に向かって歩こうと、家の近くですれ違ったときのことだった。
    通勤に車を使うのが当たり前になっている土地柄だから、
    「どうして、わざわざ歩くのか?」と不思議に思ったんだろうと思う。

    急に聞かれて、
    「このあと妻が使うんで」とかなんとかそれらしく答えたんだけれど、
    ホントのところは、その日ただなんとなく歩きたかったから。
    ただ、その時は相手が納得するようなそれらしい動機をその場でつくってしまった。

    「ただなんとなくそうしたい」っていうのは、動機としてどこか頼りない印象が僕の中にあったからなのかもしれない。

    コロナ前の出来事である。

    先日、久しぶりに歩いて職場に向かった。

    別のご近所さんから「運動のためか?」と声をかけられたとき、
    「歩くと気分がいいんで」という言葉がとっさに出た。

  • ここから これから③

    朝一番に各部屋のカーテンと窓を開けてまわる。
    そこに停滞していた空気が流れ出す瞬間を肌で感じる。

    風通しがいいっていうのはきもちがいい。

    不安を感じていた3月、4月は、
    からだの中は何かが詰まったように、固まったように、
    重くなったように感じることが多かった。

    からだとこころはつながっている、そんなことを改めて感じていた。

    そんな状態を変えるきっかけになったのは、
    気の置けない知人との会話や身の回りで起こる日々の些細な出来事、
    ゆっくりとからだと向き合うことだった。

    何かがスパッと解決したわけではないけれど、
    みんな色んなことを感じたり、考えたりしていることが分かったし、
    何でもない日常の断片に支えられていることにも気づけたし、

    からだとこころはゆるんで「これもありだな」って思えるようになっていった。

    朝一番の換気のように、
    停滞していた空気が流れ出すように、
    自分の周囲や内側に通り道ができていたんだろうと思う。

    今でも、ふっとゆるんで風通しがよくなる瞬間を大事にしている。

    きっかけはどこにでもあるんだなって感じているし、
    特別なことがなくても、「今日も悪くないね」って思えるくらいが
    今の僕にはありがたい。

  • ここから これから②

    そのとき強烈に感じたことでも、日が経つにつれて、
    頭の中の記憶は否が応でもどんどん薄れていってしまう。

    1週間前の記憶だってもうすでに怪しい。

    あのときどんなことを感じていたんだっけ?

    こんなときだからこそ、そんな生の感触をとっておきたくて、
    最近はこれまで以上に、一日の中で感じたことや思ったこと、
    考えていることなんかを書き残している。

    誰に見せるわけでもないノートは、ときに呟くように、ときに吐き出すように、
    気兼ねすることなく、そのとき発したい言葉で毎日埋められていく。

    後になって読み返してみると、
    書いたこと自体忘れてしまっていることも多いけれど、
    きれいにまとまっていない生の声は、
    確かにその時そう感じた自分を思い出させてくれる。

    ノートの中にその時々の自分を再発見すると共に
    以前よりも色んな自分がいてもいいなと思えるようになってきた。