今日から香が担当します。よろしくお願いいたします。
今回のブログテーマは「般若身経を解説」となっています。
では解説してみます。
般若身経とは、操体の創始者、橋本敬三医師が、操体で説いているからだの使い方、動かし方につけた名称であり、「般若心経」とは直接的な関係はありません。
つまり操体法で示す「般若身経」はからだの使い方、動かし方のことをさします。
今日から香が担当します。よろしくお願いいたします。
今回のブログテーマは「般若身経を解説」となっています。
では解説してみます。
般若身経とは、操体の創始者、橋本敬三医師が、操体で説いているからだの使い方、動かし方につけた名称であり、「般若心経」とは直接的な関係はありません。
つまり操体法で示す「般若身経」はからだの使い方、動かし方のことをさします。
般若心経の 「心」 を大般若六百巻の 「提要」 などと解してしまう仏教学者は、インドの思想について全く理解していない証拠である。 「心」 の原語である hṛdaya:フリダヤ(心)」 はまさに心臓のことであり、その心臓はからだの中で最も大切なところであるというだけでなく、その中に 「アートマン(魂)」 が宿っていると考えられてきた。 この考えはインドの聖典ウパニシャッド(紀元前七~八世紀)の中にすでに記されている。
「チャーンドギャ・ウパニシャッド」 の中に有名な句がある。
『この梵の都城(肉体)の中に小さな白蓮華の家(心臓)がある。 そのさらに内部に小さな空室がある。 この中に存在するものこそ、まさに探求すべきものである』
『これは老いもせず、殺されもしない。 これは真正の梵の都城であって、その中には種々の願わしい事柄が包括されている。 これは罪垢を絶ち、老衰を脱し、死を離れ、憂いがなく、飢渇なく、実現確実な欲望と思惑とを含有するアートマン(魂)そのものである』
ウパニシャッドでは、心臓は洞穴とか、隠れ家と呼ばれており、奥深いとか、秘密とかいう意味合いが心臓という語に結びついていて、要点などという意味合いとはまったく無関係である。 強いていえば、秘儀とか秘訣とかいう意味合いなら無いこともないが。 ウパニシャッドの句の中にある 「白蓮華の家」 という蓮華と心臓との関連については、仏教などでも心臓のことを 「八葉の蓮華」 と言うように、インドでは今日まで通用するチャクラ(微細身)の思想である。
タントラ・ヨーガでは、心臓に意識を向けて精神集中をすると、それまで下向きに垂れていた心臓の花弁(アナハータ・チャクラ)が上を向くので、その中に包まれていた 「アートマン(魂)」 の光がヴィジョンとして見えてくると言う。 「心地観経」 の中にも、心臓の中の心の本体が明月の形でヴィジョン化されることが述べられている。 インド人なら、「hṛdaya:フリダヤ(心)」 という言葉を耳にする時、すぐ思い浮かぶのはこうした連想になるものと思われる。
操体の般若身経においても心の重要性として、心の使い方とからだの使い方がわかれば心がからだを動かすことができるものだと教えている。 つまり、動きの回路には目的という方向性が不可欠であり、最初に心から発信した 「意識づけ」 が必要となっている。
これまで述べてきたように般若心経の 「心」 は明呪(マントラ、真言)であり、この密教思想に準えた操体における般若身経の 「身」 においては、自然法則に基づいた身体運動の姿勢と動作を、からだのリズムとしての呼吸、すなわち脳幹呼吸と一体となって実践する甚深微妙なる 「からだで唱える明呪」 であるのだということを特筆しておきたい。
その 「からだで唱える明呪」 は 「仏の舞」 であると昨日述べたが、この 「舞」 という言葉は三浦寛師が操体講義の中ではじめて口にされた表現である。 操体の動きは単なる動きや運動ではなく 「舞」 であると言われたのを今でもはっきり記憶に残っている。
明日からは香さんの担当です。 お愉しみに!
インドの習慣では、マントラ(明呪)は公開的なものではなく、グル(宗教上の師)が弟子と二人だけの席で、弟子に授けるものであって、弟子は自分に授けられたマントラは固く秘密にして、他人に漏らしてはならないことになっている。 これらの習慣を鑑みて、般若心経の明呪(マントラ、真言)においても同様に、当初はそういう性格のものであったのではないだろうか。 そのような疑いも当然起こってくる。
科学文明至上主義を妄信しておられる方々は、呪文(マントラ)といえば、頭から馬鹿にされていると思うが、世の中には科学で解らないことは山ほどある。 日本にも 「ことだま」 という言葉があり、言葉には 「いのち」 があると言い伝えている。 インドでは声に出した言葉よりも、声の元にある声なき言葉に偉大な力があると信じられている。 試しに、毎日一定時間マントラを唱えるのを実行してみて欲しい。 数カ月も経つ頃には、何かが自分の心の中に起こることであろう。
仏陀が言葉で説いたとされる八万四千の経典と同じように、仏教の 「心経」 では仏陀のエンライトメント(光明、悟り)と智慧の内容が経典を読誦し理解するという知解(ちげ)のみに依るものである。 しかし、操体の 「身経」 では、体解(たいげ)、つまりからだという全身の実践(身体運動)に転化して、生命そのもので解読する方便が編みだされた。
それはからだの使い方のルールである 「重心安定の法則」 とからだの動かし方のルールである 「重心移動の法則」、そして、からだの末端が動けば全身が動くという 「連動の法則」 のことである。 そのような動きが即ち、「体解」 というものであり、この動きこそがまさに 「仏の舞」 と言えるものなのだ。
仏典によると、明呪(マントラ、真言)には功徳と効験を賜っていると書かれている。 この明呪はジャパ(念誦)という作法と結びついて、百八の念誦をつまぐりながら低い声でマントラを繰り返して唱える作法である。 その明呪を繰り返し唱えることによって、自己の内なる魂と仏性が啓発され、仏陀の説いた四苦、すなわち 「生老病死」 の束縛から解放され、成仏できるものであると密教経典は伝えている。
そういった意味合いから、般若心経全文を繰り返すのは無駄であって、最後の明呪だけを繰り返せば充分であるという結論に行きつく。 心経全文を繰り返すというのは、薬を飲む都度、薬品の効能書を読んでは服用するというのと同じことであろう。 心経の内容というのは、いわば効能書きにあたるものであり、そんな効能書は一度読めばそれで充分なはずだ。 薬そのものが大切であって、この経典では明呪(マントラ、真言)の部分がそれにあたるのだから。
明呪(真言)の最後で 「僧莎訶」(スヴァーハー!!) という唱え言葉は、「掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提」(ガテー! ガテー! パーラ・ガテー! パーラ・サンガテー! ボーディ!) までを一定の数だけ繰り返した後で、一応の区切りをつける時に、菩薩の前にお香を献げるとか、その他の供物をそなえる作法を行ないながら一度だけ唱えるのがその作法である。 そのようなインドの風習をまったく知らない仏教学者の御仁の解釈というものが、いかに当てにならないかということである。
操体臨床家にとっても大切なことは 「感じること」、「感覚すること」、「感じとること」 であり、患者さんに対して、まるで逃げるものを追いかける動物のように診てはいけないということ。 動物のようにではなく、植物的に診るように接するのである。 そもそも治療というのは、引き寄せるものであり、患者さんを症状疾患で診るというのは動物的な診方をしていることになる。
初日よりこれまで述べてきた内容から、般若心経の解釈は日本の密教である真言密教の空海上人の解釈に近いと思えるであろう。 しかし、密教を大日法身の内証の境界をエリート層の菩薩たちのために説いた教えであると、そのような勿体ぶった解釈をする弘法大師さんにはとてもじゃないが賛成できない。 密教というのはもっとくだけたものであり、そんないかついものではないはずだ。
仏伝文学上、密教の元はといえば、母性神信仰である。 人間の最も原始的な宗教は母性神崇拝であったと思われる。 母性神崇拝は我々人類の原始社会が母系社会であったのと関係があり、母たる女性がその中心であって、男性は社会的に影の薄い存在であったようだ。 また、天地万物を創造した神もまた女性でないと理屈に合わない。 インドの古典である 「リグ・ヴェーダ」 にもそのような女性神が見られるし、インダス文明の神像のなかにも、万物創造の母神の姿が見られる。
女性神といえば、ふつうは優しく美しい姿を想像するものであるが、実はものすごく恐ろしい姿の神さまであって、母系社会の権力者たるお祖婆さまの威厳を表現したお姿をしておられる。 この女神は現代に至るまでインド社会に勢力を持っており、「女神カーリー」 と呼ばれている。 カーリーは真っ黒なからだで、いろんな武器を持ち、恐ろしい顔をして、しかも夫である 「シヴァ神」 を足で踏みつけた女神さまである。
般若波羅密多(ハンニャ・ハラミッタ)が女性の菩薩の名前であるとすれば、ここでは、この菩薩の心臓ということになる。 その般若波羅密多(ハンニャ・ハラミッタ)という菩薩の心臓とは一体何を意味するのであろうか? 「陀羅尼集経」 という経典には菩薩の 「大心真言(偉大なる心臓の呪文 mahā hṛdayamantra:マハー・フリダヤマントラ)」 のことであると書かれている。
つまり、この経典の最後に提示された明呪(真言)の部分 : 掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提僧莎訶。(ガテー! ガテー! パーラ・ガテー! パーラ・サンガテー! ボーディ! スヴァーハー!!)というマントラこそが、この経典の主旨であり、この心経の説かれた目的であって、大衆に唱えてもらうことを念願としたものであろう。 だから鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の訳、「魔訶般若波羅蜜大明呪経」 の中の大明呪とは、まさに 「心」 にあたるわけである。 それだから、そもそものねらいが、最後の呪文を提示することにあったものと言えるわけである。
そのような大明呪である 「心」 を 「身」 に換えて唱えてみれば、操体の身体運動である般若身経はまさに 「仏性の舞」 と言えるものだ。 それを合理的に証得するため、医学的に身体生命の実験的手法、つまり自然法則に基づいた重心安定と重心移動、そして連動の法則というからだの動きから身体運動を可能ならしめたものが 「般若身経」 なのである。
般若波密多(ハンニャ・ハラミッタPrajñā‐pāramitā:プラジュナー・パーラミーター)は大乗仏教の菩薩(bōdhi‐sattva:ボーディ・サットヴァ)の修行に六種(布施・戒・忍辱・精進・定・慧)ある中で一番大事な 「慧」 の行法であり、ここでいう般若波密多(ハンニャ・ハラミッタPrajñā‐pāramitā:プラジュナー・パーラミーター)は智慧の極限ということになる。 しかし、般若(智慧)の内容が 「心経」 の書かれたそもそものねらいではない。 一般に般若心経の内容である 「空」 の理論を展開するのは本来、「金剛般若経」 あたりの役目であり、今さら般若心経がこんなちっぽけな 「空」 を説く必要はまったくないのである。
般若(ハンニャprajñā:プラジュナー)は智慧という意味で、波羅蜜多(ハラミッタ)は六つの行法に共通して付けられており、 「極限」 を意味する。 そして極限的な智慧だけが仏陀を生みだすことができることから、般若波羅密多(ハンニャ・ハラミッタ)は女性の菩薩の名称となったものである。 また、別名をターラー(Tārā)菩薩とも呼ばれている。
般若菩薩の信仰はインド教(ヒンズー教)の中の密教に刺激されて起こった仏教系の密教(Tantrism:タントリズム)であり、「金剛乗」 と呼ばれる宗教運動の中で支持されてきたものである。 この密教は女性神であるシャクティ(Śakti)信仰と真言(マントラ、明呪、またはダラニともいう)信仰に結びついている。 すなわち、般若心経は 「密教経典」 であり、顕教たる大般若経系統の経典でないことがわかる。
操体の 「般若身経」 もからだの使い方、動かし方という身体運動の自然法則を説いた智慧の経典であり、仏教経典の 「般若心経」 と同じ密教である。 その般若身経から派生した操体臨床もまた密教であり、操者の意識の向け方が重要になってくる。
それは患者 「本人」 に意識を向けるのではなく、患者の 「からだ」 に意識を向けるようにする。 何故なら、本人に意識を向けてしまうと、限られた知識、経験、情報から発信してしまうことになり、からだの声を阻害することになる。 そうではなく、からだへ意識を向けることで素直に診ることができるのである。
般若身経では言葉や知性で経典を解読するのではなく、身体生命そのものの智慧によって解読するメソッドである。 これは頭脳や知性の優劣は問われない。 仏典では言葉の方便としての経典が、操体では身体の方便としての実践法なる身体運動が智慧として存在しているのである。
般若心経を日本語に訳すと、般若波密多(ハンニャ・ハラミッタPrajñā‐pāramitā:プラジュナー・パーラミーター)という女体の菩薩の心臓を解きあかした経典ということになる。 施護(Dānapāla:ダーナパーラ)の訳に 「聖仏母」 とあるのは、この女性の菩薩が、仏母(Bhagavati:ヴァガバティ)、すなわち、仏陀を生んだ母親だからだ。
また鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の訳に 「心」 の字がなくて、「大明呪経」 となっているのは、この経典のねらいが明呪(マントラ、真言)を提示しているからである。 故に仏母である般若波密多菩薩の心臓とは、この経典の最後に書かれている 「明呪(マントラ、真言)」 のことにほかならない。
この 「般若心経」 の経題を 「身経」 に置き換えてみると、操体経典ともいえる 「般若身経」 というものが誕生する。 この経典は自然法則に基づいた身体運動の法則であり、からだの使い方と動かし方を説いたものである。 それはからだ全体に動きを連動させて、そのからだに 「心経」 でいうところの 「明呪」 を唱えてもらうことにある。
「般若身経」 は操体における臨床やからだの動きを理解する上で最も重要なものである。 操体操者は患者の動きについていけるように、自分のポジションや患者の心理状態である 「管理されたい! 指導されたい!」 という心の欲求から、動きの誘導を会得するのにとても役立つ経典と言えるものである。
今回のリレーブログのテーマは操体経典とも言える 「般若身経を解説」 である。
仏教経典の 「般若心経」 と 操体経典の 「般若身経」 は 「心」 と 「身」 のひと文字に違いがある。 操体の 「般若身経」 を解説する前にその元になっている仏典の 「般若心経」 についてまずその意味を探っていきたい。 元にある般若心経を知らずして操体の般若身経を語るのは、心経に対していささか失礼であると思う。 そこでこの珍重すべき、珠玉のような僅か二百六十二文字からなる経典をあらためて考察してみる。
はじめにお断りしておくが、私は古今東西におけるすべての宗教に関わる 「信仰」 というものには、まったくもって興味がない。 しかし、仏教にまつわる哲学的、心理学的なドグマについては、「仏伝文学(サンスクリット文学)」 という学問体系において、非常に興味がある。 これから述べる仏典の考察は、無宗教ではなく非宗教者としての個人的見解である。
世に般若心経を解釈、講義した書物は、仏教伝来以前の昔から山ほど書かれている。 なぜなら、仏教経典の中でもこの般若心経がきわめて短い上に、大きなご利益のある経典として、現在まで永く尊ばれているためである。 しかし、それらの書物を読みあさってみると、まるで見当違いの評価や解釈が多いことに気がつく。 仏教学者の偉い先生方の中には、経典文字の正確な意味さえつかめずに、縦横無尽にあてずっぽう的な理解に基づいて、拉致もない放談をやっている方も少なくない。
まずこの経典の経題(お経の題名)についての誤解を考察してみる。 まず仏伝の流れからいくと、鳩摩羅什(仏典翻訳者:クマーラジーヴァ)の訳では、「摩訶般若波羅蜜大明呪経」 と訳している。 鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の訳には 「大明呪」 という文字があるが、何を意味するのか? とても不可思議な感じがする。
次にその鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の二百年ほど後に、玄奘三蔵(唐三蔵法師)が訳した経題は、「般若波羅蜜多心経」(ハンニャ・ハラミッタ・シンキョウ サンスクリット原語:Prajñā‐pāramitā‐hṛdaya‐sūtram:プラジュナー・パーラミーター・フリダヤ・スートラ)となっている。 この題名ならまさしく梵語(サンスクリット語)の原名に合致している。 ところが、経典を訳す際に 「魔訶般若波密多経六百巻」 という膨大なお経の中心的要部分を要約して説いたものだと、誤解してしまったようだ。
何故そのようになったのか、先達者の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の経題には 「摩訶」(mahā:マハー)という 「大」 の文字が付けられていたために、そのような見当外れの解釈になったものと思われる。 それによってこの経題原著者の願いは裏切られてしまうことになる。
そして、その後、宋代にインド出身の訳経僧で施護(Dānapāla:ダーナパーラ)という人が書いた訳本においては、「聖仏母般若波羅蜜多経」 という経題になっている。 この経題に至っては、「聖仏母」 という文字が頭にあって、「心」 の文字が省かれている。 これも不思議に思えるのではあるが、これらの題名が何か不可解に感じてしまうのは般若心経を 「大般若経」 の略述だと捉えているからであろう。
明日からは、般若心経の考察 ~ 般若身経解説へと話を進めていきたい。
私達は普段、何気なく動作している。
しかしいったい、この動作のキホンとは何であろうか。
この問いに答えていくことは「般若身経」に通じてくる、とワタシ自身
の見解なのである。
そもそも基本と言うのは、何を示しているものか。
調べてみると、「基本とは、基礎の上にあるものであり、物事の軸とな
るもののこと」と記載してあった。
その基礎とは、「客観的に把握できるものであって、源は建築物の基礎
のことで、物事の土台となっている」ところから来ているのだ。
そもそも、どんな素晴らしい建築物を作ろうとしても、この地球上である
限り、無視できない”重力(=万有引力)”に関わるので、土台となる「基礎」
がなければ、何事も上に積み上げていくことをできない。
基本とは、主観的な価値観や、ある程度経験しているスポーツでも、基礎
となる本人の体力のことはやはり、「基礎体力」と言って大切にする。
その前提の上で、それぞれのスポーツによる動作を学びとることになる。
さらに、応用動作で複雑化されていくと言うことであるから、やはり基本
とは、本人の主観的な意識関与は入る、とも考えられるだろう。
ここで仮に、人をうごく建物として、動くことを土台(前提)とした”軸”
そのものを、どこに位置し、そこから創造するか、といった問いも生じる。
このことは、現時点で主流となってきた一般的な物理学から、今後の量子
力学に繋がるうえで注目に値するだろう。
このことを踏まえ、基礎を踏まえ・土台から基本の軸。
基礎上に重ねていく基本の軸から無限の応用へと変化していく螺旋的展開。
ここをしっかりとブレずに捉えておくことは「般若身経」のキホン。
植物が根を張るにも土台は必要であり、動物も同様だろうと考えている。
それでは一週間のお付き合い有難うございました。
明日から、日下さんの登場です!お愉しみに。
「般若身経(その2)」
1から3の次の四つ目に「体の動かし方」とある。
ここで、運動とは体の中心である”腰を中心”として安定させてやる
ことが大切であり、そのために上肢は、小指側(尺骨側)に、そして
下肢は、足の親指側(脛骨側)に力を入れて動くことを勧めている。
これがチャンとできているかチェックする簡単な方法は、靴底を
見ることであり、できていないと外側が減るからわかりやすい。
また家事や仕事等の作業中に、右利きの人は、右足を後ろに引いて
やることを勧めている。
このように「般若身経(その2)」も、1から4と分けてある。
そもそも、「生き方の自然法則、般若心経(その2)」は、操体を多少
なりとも学んだワタシ個人的に語るなら、ある意味、常識となる。
息・食・動・想、これに「環境」を加えたものは、密接に関連しつつ、
常に空間的に補いを伴って”変化する”ことが法則というものである。
「息(呼吸)・食(飲食)・動(うごき)・想(想念)・環(環境)」は同時相関
して相補性であるから、先に述べた「同時相関・相補性」となり、
この法則に気づいた生き方をニュートラルとしてきた、今における
貴方自身の、リアルタイム通信簿というのも過言ではない。
また初日に記した、橋本敬三先生の温古堂に来院した患者さんに、
手渡していたこの「般若身経」のプリント、まぁやはりというか、
いつまでも「般若心経」と誤解されることが多かったようである。
運動生理学を学び、生理運動の物理を集約して、1番短い経典である
「般若心経」になぞらえて、ユーモアで1枚釣りのコピーとして配布
していたのだが、途中から誤解を招くため「般若身経」と言う、名を
を外して手渡すようになったらしい。
ワタシも個人的に体験した、忘れられない経験がある。
操体の創始者、橋本敬三先生の真似をして「般若身経」と書き込み、
ある患者さんに手渡したとき、「私は仏教に触れてはいけない宗派を
やっていますから!」強い口調で拒絶されてしまい、最初から説明も
見てもくれなかったという、今では甘酸っぱくも苦い思い出もある。