投稿者: karib_sotai

  • 便利な世の中

    「便利な世の中」とはどんな世の中だろうか。

    ここ数日そんなことを考えている。

     

    今まで自分でやっていたことを、別の存在に変わってやってもらえる。

    それは昔からそのように分業化され、専門家されてきたことではあるが、

    その「存在」の比重がヒトから機械にシフトしているのは感じる。

     

    その結果ヒトにはできなかったことができるようになった。

    同時にヒトが当たり前のようにできていたことが、できなくもなった。

     

    便利な世の中で、利器に頼ることと自分でやることのそのいい塩梅は、正直なところ個々人のセンス次第という感じだと思う。できれば自分なりの納得のいくやり方を工夫していけたらと思う。

     

    今回テーマになっている「般若身経」は「自分でやる」ということの第一歩だと思う。

    自分のからだのことに関して、誰かに頼ることもできるし、自分でできることもある。

    その自分でできることのひとつとして、うってつけのものだ。

     

    このテーマについての執筆はまだバトンを渡しながら続きますが、「般若身経」に興味を抱いた方は、是非門を叩いてみて下さい。初学の人向けに歴史をたどりながら、学習できる基礎講習なども始まっています。

     

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    それでは一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員にバトンタッチします。どうぞおたのしみに。

  • 「すること」と「しないこと」のバランス

    からだという現象物体には、その構造(つくり)を動かすにあたっての原理原則がある。その法則を身体運動の法則と呼び、この理を自分事として、また自身のからだを通して学習していく。その時に足掛かりになるのが、操体でいうところの「般若身経」である。

     

    般若身経を体感・学習することで、それまで、意識してこなかったからだの使い方、動かし方にスポットがあたり、敢えてからだにとってその理に適った使い方、動かし方をするという習慣が生まれる。

     

    「敢えて、する」という事を繰り返すことは、その裏側で「敢えて、しない」ということの素養が育まれることではないかと思う。

     

    意識的にしなくなることもあれば、学習の過程でほとんど無意識に選択肢のなかから消えていたということもある。

     

    敢えて「すること」と「しないこと」。

    この両面について、からだを通してのバランスとして体感していくことができることも「般若身経」の大切な副産物だと思う。

  • 雑巾の絞り方

    からだの使い方を指導する上で、「手は小指、足は親指」という考え方がある。

     

    これは橋本敬三先生の時代の般若身経の根幹にあった基本原則で、創始者の言葉をそのまま引用させてもらえば、「運動の根本は体の中心(腰)に重心を安定させてやることである。そのためには、上肢では手の小指側に、下肢では足の親指側に、力を入れるように動くとよい。」となる。

     

    腰を要としたからだの使い方のコツのひとつであり、「手は小指、足は親指」は「~道」や「~術」、「芸」に関わる日本の文化の中には、ほぼ暗黙の了解事とされている、一種の秘伝のようなものだと思う。

     

    般若身経にももちろんこの基本原則が浸透しているが、このことを日常動作のなかで分かりやすく理解してもらうときによく出て来るのが、「雑巾の絞り方」だ。

    絞り方ひとつで、そのひとのからだの使い方が理に適っているか、否かをおおまかに判定することができる。「手は親指」になっている人の絞り方は一目瞭然である。

     

    からだの使い方を学習する前、雑巾の絞り方を無意識に手の親指側に力が入るように絞っている方は結構多い。

    先日、般若身経を学習し始めて数ヶ月の方に、再び雑巾を絞る型をみせてもらうことがあった。この方も一番最初は「手は親指」の絞り方に当てはまるタイプだった。

     

    本人も指導を受けてから色々試行錯誤されている様子が、絞り方から伝わってくるし、細かいところではなく、もっと全体的な何かが変化しているようなものを感じた。それまで、手だけで絞ろうとしていたものが、からだ全体の出来事に変わりつつある感じ、とでも言ったらいいだろうか。

    般若身経が雑巾の絞り方にも宿りはじめているような、そういうことを感じさせてくれる、大変興味深い経験となった。

     

     

  • 手入れをして、感じられること

    以前から不思議に思っていることがある。

    この場をお借りしても度々言葉にしてみていることでもあるが、例えば身近なもの、何でもいい。

     

    その対象に対して、「手をかける(手間をかける)」ということをしたとする。

    すると、その前と後とで、感じられるものが変化していることに気が付かないだろうか。そんなことは当たり前でしょ、と思う人も多いだろうけれど、これが不思議で仕方がない。

    僅かかもしれないけれども、何とも言葉にならない変化が起こることが、自分にとっては無性に興味深く面白い。

     

    実際に行動を起こす前に、そのような結果を想像しようとしてみても、毎回たどり着くことはできない。感覚は本来、想像するものではないのではないかと思う。

    私は昔から根が面倒くさがりなので、操体から教えてもらっている「実際にやってみなければ、味わえない」ということを毎度のこと思い知らされている。

     

    「手」というのは、良い関わり方も、良くない関わり方も担うことができる魔法のツールだ。

    手間をかける、手入れをするという時の「手」は、その行為を通じて何かを宿らせるような気がする。宿った何かは、説明しようとすると、「何となく」としか言いようのないものが多い。けれど、確かに何かが変化したと思える類のものでもあると思う。

     

    今回のテーマ「般若身経」は、からだにとって「手入れ」のようなものでもある。

    色々な側面が在って、自身のからだに対して、手間をかける営みにも繋がっているというのは面白い。

    からだから感じられる「何となく」の変化が、無性にいとおしく感じられてくることがあったりする。そんなことも、やってみて初めて感じられることである。

  • 型として身につけなおす

    「般若身経」は操体の臨床家、または実践者にとってみると、一種の「型」のようなものでもある。

     

    シンプルかつ効果的な内容であるがゆえに、身につけるより早く、学んでいる事を「応用」してみたくなることも多いけれど、「般若身経」を「型」として学習している間はこれはご法度である。

     

    理由はいくつかあるけれど、まず挙げるとすれば、自分で「できた」と思っていても、実際は「できていない」ことが多いからだろう。わかる人の目に晒されながら、本当に身につくまでの我慢は必要だ。

     

    しかし、「般若身経」を説明する時に、この「身につける」という言葉を使うのも、よく考えてみると不思議な言いようのようにも思えて来る。

     

    「からだの使い方、動かし方のルール」を学ぶということは、そもそもからだに備わっているものに目を向けるということでもある。からだにとってみれば「身につける」までもなく、「身についていた」はずのもの。

     

    誰が身につけなおしているのか、よくよく感じながら学習を味わうことも大事だと思う。

  • 宿題

    今はもう懐かしささえ感じられるわら半紙1枚に「般若身経」とタイトルのついた図入りの資料を私も1枚持っている。

     

    橋本敬三先生は当時自身の学問してきたことのエキスをこのビラ1枚に集約させ、配布していたのだと聞く。そこには、身体運動のことのみならず、「生き方の自然法則」として呼吸、飲食、精神活動のことに及ぶことまで要点が描かれている。

     

    (興味のある方は、「生体の歪みを正す」の「般若身経(健康の自然法則)」をご参照ください) 

    生体の歪みを正す 橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す 橋本敬三論想集

    • 作者:橋本敬三
    • 発売日: 2015/03/26
    • メディア: Kindle版
     

     

    運動系の歪みを正すという「治療」行為だけにとどまらず、歪みの起こる原因、

    そこに橋本先生が目を向けている様子が浮んで来る。

     

    このビラを通して、目の前にいない人の生き方にも何かを投げかける事をしていたのかと、橋本先生の壮大な臨床観を感じさせてくれる。

     

    「般若身経」は橋本先生から渡された提出無期限の宿題のようだ。

    でも、「やるやらねえはテメエの勝手」という委ね方であることが、猶の事、響くものが在る。

  • 「からだ」が「動く」にあたっての取扱説明書

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間のメッセージありがとうございました。

    本日からバトンを受け取って寺本が担当します。

    今期ブログのテーマは「般若身経を解説」です。

    宜しくお願い致します。

     

    操体に興味のある方や橋本敬三先生の著作に触れたことのある方ならば

    どこかで一度は目にしたことがあると思います、この「般若身経」というキーワード。

     

    4つの「息(呼吸)」・「食(飲食)」・「動(身体運動)」・「想(精神活動)」という基本的に自分以外の誰かに変わってもらうことのできない営み。そのなかの特に「動(身体運動)」に関わる事柄に関して、橋本先生が長年かけて学問し、解き明かしてきた「からだ」が「動く」ことにまつわる基本的なルール。これをできるだけシンプルにまとめあげたものからスタートしています。

     

    前述のブログでも触れられていますが、創始者の編んだ内容をベースにして、この「般若身経」は練り上げられ、必要があれば変化を続けています。過去の遺物として大事にされているわけではなく、現在に至るまで、からだという生命存在に照らしあわせながら大切にされてきました。

     

    私はこの「般若身経」を想う時、「からだ」が「動く」ということに関するとてもシンプルな「取扱説明書」のようなものを連想します。私自身、操体を通してからだについて学習するまでは、からだの使い方や動かし方にルールがあるなんて思いもよりませんでした。そのルールの基盤の存在に、橋本先生は目を向けた先駆者だったのではないかと思います。

     

    私たちがこの世に生まれたときに、一緒に「取扱説明書」が送られてくればいいのですが、誰もそのようなものは与えられません。操体では「般若身経」を通して、操体に出会った人に「からだ」と「動き」に関する取扱説明書のようなものを伝授しているのだと思います。

     

     

  • 般若身経を解説~有難くお借りして~

    「『般若身経』は身体運動の法則に基づいたからだの使い方、動かし方をまとめたもの」として教わり、学んできましたが、その底はまだまだ見えません。

    操体そのものにも治療医学の側面、未病(予防)医学の側面があるように、「般若身経」にもいろいろな側面があり、

    日常動作の改善など、実用的に用いるのも良いと思いますし、「般若身経」を入り口に改めて自身のからだと向き合うきっかけにしても良いと思います。

    「般若身経」をどのように生かすかは、向き合うひとり一人に委ねられているような気もします。

    僕が今感じていることは、「般若身経」はこの身を通して感覚できる操体の世界観そのものなんじゃないか、ということです。

    そのように感じるのは、僕のからだに対するイメージが変わってきたということもありますけど、「般若身経」そのものが変わってきているということでもあります。

    初めに、橋本先生が「般若身経」という言葉を用いられ、「生き方の自然法則」と「身体運動の法則-その基本運動」として紹介されました。

    そこから、「般若身経」は「身体運動の法則に基づいたからだの使い方、動かし方をまとめたもの」になり、僕らが現在学んでいる「般若身経」は、直弟子の三浦先生によって、さらに進化してきたものです。

    その継承のプロセスが「般若身経」に宿り、感覚を通して操体の世界観を垣間見せてくれるのかもしれません。

    「般若身経」は橋本先生、三浦先生、ひいては「からだ」から有難くお借りしているものである、と思っています。

    一週間ありがとうございます。

    明日からは寺本さんに「般若身経」を解説して頂きます。

    よろしくお願い致します。

  • 般若身経を解説~想念の変化~

    実用的な面から「般若身経」をみれば、安定した動作を獲得できる、ケガをしにくくなるなど、動(身体運動)の営みとしてのメリットがあります。

    ただ、そのような実用的なメリットだけではなく、学習していくうちに想(精神活動)の営みにも変化が見られるようになりました。

    筋トレやストレッチが大好きだった頃、僕はからだに対して、自分の意識下にあってコントロールできる存在というイメージを抱いており、まさか感謝の対象になるなんて思ってもいませんでした。

    それが「般若身経」を通して、必要以上の負荷をかけずに動作できること、からだの動きを理屈ではなく感覚で身につけていくこと、からだとともに一つ一つの動きを表現できることを教わるうちに、

    今まで自分が抱いていたからだのイメージは、からだのほんの一部であり、構造も機能も、そして動きも、僕の意識できる範囲を超えてからだは存在しており、むしろ、有難くからだを使わせて頂いているというきもちが湧いてくるようになりました。

    それは形式的な感謝ではなく、感覚を伴った実感としての感謝です。

    息(呼吸)、食(飲食)、動(身体運動)、想(精神活動)の四つの営みと「環境」を加えた五つは同時相関相補性といって、すべて関連しあっているとされていますけど、

    動(身体運動)と想(精神活動)のつながりは「般若身経」によって、確かに感じられます(もちろん全部の営みはつながっています)。

  • 般若身経を解説~作法と癖~

    「般若身経」を学習する際は型や作法として身につけていきます。

    そのような学習を通して感じたことは、今まで随分と偏ったからだの使い方をしてきたんだなということ。

    それは、作法のおかげで、今まで気づかなかった癖に気づけるようになってくるということでもありあす。

    昨日書いたように、「般若身経」を教わるまでは、僕にとっての前屈動作は準備体操やストレッチとしての前屈動作でした。それは、日常生活においても変わらず、ももの裏が突っ張っていようが、腰に違和感を覚えていようが、膝の裏筋を伸ばしてからだを前に倒していました。

    たとえ違和感があっても、子供の頃から繰り返し行ってきたそのやり方だけが僕にとっての前屈動作だったのです。

    それは、「前屈はこういうもの」という思い込みによる動きの癖でもありました。

    しかし、作法を通して、膝をゆるめながら行う前屈動作に出会えたことは、それまでの動きの癖から解放されたと同時に、新たなからだとの出会いでもありました。

    「般若身経」は実用的な面からいえば、動作の際の負担を減らして、無理なくからだを使えるようにするツールと捉えることもできますけど、自身のからだに対する理解を深める入り口にもなるようです。