私が高校生の時「ジュンコちゃん」という子が「ジュンコって、平凡だから『ニャンコ』って呼んでくれない?」と頼まれたことがありますが、どうにもかけ離れていたので、やはり「ジュンコちゃん」と呼んだような。あとは「由紀ちゃん」と言う子が「未久(みく)ちゃん、って呼んで」と言ってきて、手紙にも「未久ちゃんより」とか書いてありましたが「自分で未久って書くなよ(笑)」というような。

私が高校生の時「ジュンコちゃん」という子が「ジュンコって、平凡だから『ニャンコ』って呼んでくれない?」と頼まれたことがありますが、どうにもかけ離れていたので、やはり「ジュンコちゃん」と呼んだような。あとは「由紀ちゃん」と言う子が「未久(みく)ちゃん、って呼んで」と言ってきて、手紙にも「未久ちゃんより」とか書いてありましたが「自分で未久って書くなよ(笑)」というような。


これについては、今でもやりますが、かなり難易度が高いのと、初心者が見よう見まねでやると危ないので、伝授する人は選んでいます。自分から「やってもいいですか」「やりたいから教えて欲しい」という人には、敢えて待って貰っています。「教えて欲しい」という時点で、まだ早いのです。私から「この人には教えてもいい」と思う人に伝えています。これは出し渋りでも何でもなく、その人の「操体度」を見ているのです。
というのは、以前「プログラム通り」に教えていて、ある受講生に危ない目にあったからです。自分で首を保護しなければ、頸椎損傷とか、ヘタすれば、C1骨折で死んでたかもしれないのです。回転させるべきところを、思い切り引っ張られたのです。



こんにちは。畠山裕美です。

左 三浦先生、真ん中 橋本敬三先生 右 今昭宏先生
おはようございます。
一部が分かったところで、勝手に全部をわかったとしてしまう早とちり。
誰でもそういうところはあるものだし、それでズッコケても自分の間違いに気付けるのだから、まだいいと思う。
しかし、自分の思い込みが強すぎて、固定観念で凝り固まってしまっていると、なかなか自分の間違いに気づけず、自分自身を変えていく事が出来なくなってしまう。
こちらの方が問題だと思う。
黒いものだって、光の当たり方次第で、白く見えたりもする。
メッキを施した綺麗な装飾品も、手入れせずに放っておけば、時間の経過とともにメッキは剥がれ、中身の金属も錆びついてくるだろう。
存在には、必ず時間、空間の関わりがある。
固定されたものなんてない。常に動いて状況に応じて何かしら変化している。
だから、その変化に対応して自分自身も、より良く変わっていく必要がある。
その過程では、ズッコケる事もあるだろうが、様々な関わりによって有難く生かされて生きているという想いがあれば、そんなに大きな失敗にはつながらないのではと思う。
話は変わりますが、年末から大型の寒気が襲来するようです。
雪が降ってなくても、朝方は路面が凍っていることもあります。
慌てていて、ツルッと滑ってズッコケないようにしたいものです。
寒いと布団から出るのも億劫になりますが、時間に余裕をもって生活空間の変化に対応していきましょう。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
明日からも、おたのしみに。
おはようございます。
今回のテーマは「私のズッコケ操体クロニコル」ですが、ズッコケと聞いてからブログの執筆にあたっていると、子供の頃によく口ずさんだオバケのQ太郎のテーマ曲が、度々浮かんくる。
♪あのねQ太郎はネ~、から始まるこの曲の2番目の歌詞の中。
♪ズッコケなんだ あわてん坊なのさ
いつも 失敗ばっかりしてるんだよ~
だけど カッコいいつもりなんだってさ~♪
私などは、何か親近感を憶えてしまうが、あわてん坊や早とちりだと、ズッコケやすくなったり、失敗しやすくなるのは確かだろう。
ズッコケや失敗も周囲の許容範囲であれば、ご愛敬とも成り得る。
しかし、同じようなミスを繰り返してばかりでは呆れられるし、許容範囲を越えた失敗は時に周囲に迷惑をかける事となってしまう。
特に注意しなければならないのが早とちりだ。
早とちりとは、一部が分かったところで、勝手に全部がわかったと思い込むことをいうようだ。
これは、相手の言わんとしている事を理解しようともせず、自分の知識や考え方のみで相手の言っていることを勝手に決めつけて、行動してしまう事にもつうじる。
これでは失敗や間違いにつながりやすいし、からだとの関わりも含めれば勘違いにもつうじる。
まずは、相手やからだの事を尊重する気持ちが大切と思う。これは、操体の学びにもつうじる事でもある。
橋本敬三先生は、よく「野次馬でなければダメだ、嘘か本当かまずやってみよ」と言われていたと聞く。
しかし、野次馬見物も己の経験や知識からの上から目線で見てしまうと、その人の行っている事の真意は解りづらくなってしまう。
まずは、己の知ったかぶりを捨て去り、尊敬する気持ちが大切と思う。その上でやってみる。
オバケのQ太郎の歌は3番で、こう締めくくっている。
♪わんぱくなんだ かわいいやつさ
いつも とぼけちゃっているんだよ
だけど とっても立派なオバケなんだってさ~♪
おはようございます。
先日行われた秋季東京操体フォーラムでは、橋本敬三先生の現役時代のビデオの後に、三浦寛先生の20年以上前のビデオも上映されていました。
その中の「操体臨床の要妙」のビデオの一部を見ていて、思い返されたことがある。
操体臨床の要妙のビデオには、名医と名高かった耆婆や扁鵲の如くに先生が竹竿を持ち、視聴者に分りやすいように被験者の軸を診断するシーンがある。
その竹竿が、私がはじめて講習を受けていた時には、まだ講習所の隅に置かれてあった。
そして、その竹竿は違うシーンで活躍することとなる。
はじめて参加した講習会も、何か月か過ぎた頃だったろうか。
私たち感覚分析診断操法士の受講メンバーも、教えを受けるだけでなく、内容のチェックを受けながら修練を重ねる段階に進んでいた。
その時、活躍したのが件の竹竿だった。
介助、補助の練習の時に、座禅の警策の如くに竹竿で打っていただく。
「ふん」という声とともに「ピシィー」と大きな音がするものだから、傍から見ていると凄く痛そうにみえる。
しかし、実際に打たれてみると痛みは感じられない。そのかわり気持ちはシャキッとなる。
「ふん」「ピシィー」…「早い、もっとゆっくりと」
「ハイッ」…返事も濁りのない素直な返事が自然と出来、落ち着いて励めるようになる。
これも不思議な感じを受けたが、それだけ全身全霊を込めて真剣に指導にあたっているという事なのだろう。
中途半端な気持ちでやっても、あれほど大きな音は出ないだろうし、からだに痛みを与えることにもなると思う。
からだの事を大事に想い、上達を後押しする気持ちがしっかり篭るから、からだに痛みやダメージを与える事なく精神をシャンとさせる事ができるのだと思う。
はじめの頃は、どうしても技術的な面にばかり目がいきがちとなってしまうが、それ以上に大切な事を色々教えていただいていたのだと、今更ながら感じる。
おはようございます。
はじめて講習に参加した頃は、それまでの日常では体験した事がないような事が多く感じられました。
その当時、講習が始まる前に一分間の瞑想が必ず行われていた。
私は、一人で瞑想するのは苦手だったが、三浦寛先生の「はい、それでは一分間瞑想」という号令の下、みんなで静かに目を閉じている時間は、何だか自分でカサカサさせてしまっている自分自身をリセットさせ、潤いを与えているような感じがして、好きな時間だった。
週一で通っていて2か月くらい経った頃だったろうか。
その日は講習が終わった後に、何年かぶりに整体の専門学校で同期だった人たちとの飲み会の約束があった。
講習前の瞑想に集中できず、いろいろ考えを巡らせている自分が居た。
「今日の飲み会は7時からだったよなぁ・・・
久しぶりだけどみんな元気かなぁ・・・
まずは生ビールで乾杯して・・・
今の時期うまいんだよなぁ、へっへっへっ・・・」
そのうち、先生の細く長い独特の呼気の音が聞こえてくる。
正座して目を閉じていた私は、背スジにビクビクッと衝撃が走った。
そして「瞑想やめ」の声が聞こえてくる。
今のは、何だったのだろう?とキョロキョロしていると、先生と目が合う。
こちらを見据えている。
私は、何もかも見透かされているような気持ちになり「すみませんでした」と頭を下げる。
先生は「ゥン」と一言だけ頷かれた。
私は、ただただ恐縮するばかりだった。