投稿者: karib_sotai

  • 「私のズッコケ操体クロニクル2 ~操体の臨床家としての壁~」

    昨日の続きになりますが、臨床家としてというよりも「自分の生き方を変えたい」という動機でこの学びの門を叩いた私にとってまず何を身に付ければ良いのかが当時全く分かりませんでした。

     

    操体に関する書籍はもちろん、医学書や他の手技療法の本も色々読みましたが、当時の私はこれから操体を学ぶことにおいて自分の武器になるものを必死で探していたように思います。

     

    動診の介助、補助のやり方、操体の哲学、般若身経。

     

    学ばなければならないことは沢山ありましたが、いずれもよく理解が出来ていない状態が続き学んでいても収まりが悪い日々が続いたのです。

     

    そんな手探りの状況の中、一番手応えを感じたのが足趾の操法でした。

     

    なぜ手応えがあったのかを今になって振り返り思うことは、足趾の操法の上達は般若身経と操体の哲学、世界感の理解度と比例していたからなのだと思います。

     

    最初は受講者の中でもぶっちぎりに下手な自分も、この反復の中で少しずつ上達し、そして夢中で取り組んでいる中で、動診の介助、補助も自然に身に付いていったのでした。

     

    自身の中ではそんな良い感じの流れの中で着々とステップアップしていった感じがしていたのですが、そこで今となっては失敗だったと思うことがあります。

     

    それはいざ実際の臨床の現場に立った時に被験者に対しやれることが足趾の操法ばかりになってしまい、操体の一番の旨味である「動き」からのアプローチが全く出来なかったことでした。

     

    これは割とほとんどの人が頭を悩ますことかもしれませんが、この問題は当時の私にとってかなり深刻な問題でした。

     

    操体の臨床家という看板を背負って患者を診ることにおいて、動きの診断、操法が出来ないことに不甲斐なさを感じる日々が続くのでした。

  • 「私のズッコケ操体クロニクル1 ~いつも誰かのせいにしていた自分~」

    三浦先生、一週間ありがとうございました。

     

    本日から三浦寛幸が担当致しますので、よろしくお願い致します。

     

     

    今回のテーマは「私のズッコケ操体クロニクル」です。

     

     

    操体を学び始めて12年の月日が経ちましたが、私にもこれまで幾多のズッコケストーリーがありました。

     今回のブログでは私の操体クロニクルを振り返りながら、その時々に感じたこと、今になって思っている事などと並行して書いていきたいと思います。

     

     

    操体を学ぶ前の私は学生時代はスポーツに打ち込み、社会に出てからは販売という仕事を生業にし、それになりの年数を掛けてやってきました。

     

    昔から勉強は嫌いでしたが、からだを動かすことや人と接することだけは好きなことだったので、選んだものに関しては愉しみながら取り組んできました。

     

    しかしある程度の所までやりこむと飽きてしまいなかなか続かず、次第にやっていることが苦に感じることが多くなり、やっていることへのモチベーションが保てずにいる日々が続いたのです。

     

    そんな生活を繰り返していたある日、橋本敬三先生と三浦先生の著書に出会いました。

     

    「きっとこれを学べば自分を変えられる」

     

    根拠は何もありませんでしたが、何か今まで感じたことのない世界観に惹かれ、そんな自信を手にこの世界に足を踏み入れたのです。

     

     

    そんな動機ときっかけから始まり、ここまで12年間の間、有難いことに継続し学び続けられていますが、失敗も数多く繰り返してきたように思います。

     

    その都度、叱られ落ち込んだことも数えきれない程ありましたが、その失敗も受け入れられる自分自身になったことがこの学びで得られたことです。

     

    失敗ばかり繰り返す自分に対し、いつしか臨床家としての行き届かなさが招いたものだと理解出来るようになった時に初めて操体は自分の人生で初めて投げ出してはいけないものとして捉えることが出来、そこからは真摯にこの学問と向き合うことが出来たのでした。

     

    今になって思うと失敗することに対し、今までの自分は心のどこかで自分以外のもののせいにし、自分の非を認められなかったのだと思います。

  • 二つの観

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    情動の呼吸、随意の呼吸、代謝の呼吸は、重心の設定状況によって変化し安定する

     
    吸気は、生死観、呼気は死生観。いのちある中で、二つの観はくりかえされる。
     
     
  • 甘瞑の医学

    甘瞑の医学(甘瞑:euthanasia)甘瞑とは「甘く安らかに眠るが如く死を迎える」
    意味は、甘く眠るような、甘くとろけるような死を迎えること。人間学の中核は自分史である。
     

     

     

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  • 熊楠マンダラ

    熊楠のことばより

     

    ” data-en-clipboard=”true”>人がこの世にあるは、安心を好む。安心は愉快の極(きょく)なり。安心には、等差あり。9.9の安心、9.99の安心あり、9.999+の安心あり、いまだ10に至らずといえども、安心深きものほど、10の安心に近し。この世の安心と身後の安心は、種類度数に多少の差あることながら、この世に安心をきらうものなきは、身後に大安心あるによる。
    (熊楠マンダラ)

     

     

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    南方マンダラ (河出文庫)

    南方マンダラ (河出文庫)

    • 作者:南方 熊楠
    • 発売日: 2015/04/28
    • メディア: 文庫
     

     

  • いやし、くすしの呼吸法

    いやし、くすしの呼吸法(息の学び)
    吸気を耕す。からだにには最吸の門がある
    長寿、長生とは吸気の質量により(長生吸の門)
    左背部体側の吸気、左肋間体側(拡張)の吸気、左横隔膜拡張の吸気
     

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  • 同じ師につき

    道元のことばより

     

    同じ師につき、同じことを同じだけ学んでも、なほ同じ道を行くことはない。同じ道を共にしたとて同じ場所に立つことはない。たとえ同じ場所に立ったとしても、得るものが同じということはない

     

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  • ことはじめ

    道元の言葉から

     

     
    その時、おまえは驚くだろう。自分という輪郭が無くなり、この世の一切のものが自分であり、自分が一切のものと溶けあっていることをはっきりと知るであろう。その時すべてが完全であると知る。すべてが一つだと知る。ことはじめ(ことのはじまり)より、そうであったことを知る。
     
     

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  • 呼吸の重要性

    全身体性の吸気と全身体性の呼気。最吸と最呼 意識的な息のとおし方
     
    ただ、そこに在れ ただ存在しろ 自分という人を捨て、命のために呼吸しているだけの存在になれ・・・・・・
     
     

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  • 私のズッコケ操体体験(7)

    これも印象に残っていることです。
     
    ある操体関係の先生がいらっしゃいます。
     
    この方、古谷三敏先生の代表作の主人公に似ており、私が陰で「○○○○○」というと、岡村さんにいつも「ハタケヤマ先生、ダメですよ!」と怒られます(笑)
     
    その先生、
     
    私は「気持ちいい」という言葉はあんまり使いたくないんですよ、というので
     
    「なんでまた?」と聞いてみたら
     
    「ほら、気持ちいいっていうと、アレでしょ、ヘッヘッヘェ」
     
    「なので『心地いい』って言うんですよ」
     
    「アンタのほうがよっぽど×××だよ」と思った記憶があります。
     
     
    誰かが「最初は『気持ちいい』というのが恥ずかしかったと書いていましたが、実際の臨床では、被験者が快適感覚を表現しやすいように工夫しています。
     
    つまり
    「きもちいいですか」とは聞きません。
    (聞きにくいし答えにくいですよね)
     
    「(この動き、あるいは状態に)きもちのよさが、(からだに)ききわけられますか?」と聞くのです。
     
    からだを主語として、問いかけるのです。
     
    「(あなたは)きもちいいですか?」ではないのです。
     
    ということを考えてみると「心地いいヘッヘッヘェ」先生は、
     
    「きもちいいですか?」って「本人」に聞くのが恥ずかしかったのかもしれません。
    そりゃ恥ずかしいのはごもっともです!
     
    私だってそんな聞き方しないもん(笑)
     
    1週間、失礼しました。
     
    明日からは三浦寛先生の担当です。三浦先生は「ズッコケ」ではなく「呼吸について」の執筆ということで、よろしくお願い致します。
     

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