投稿者: karib_sotai

  • ひだりで次第に光りだす⑤

    どちらの足から踏み出そうか。

    そんなことを考えずとも、日々繰り返される動き。

    たったそれだけの動きの中に、雄弁に語りかけてくれるからだのひびきがあります。それは、からだが何かに導かれることで自然とうごきが生じるという感覚にもつながってくる。

    自ら(みずから)動くのか、それとも自ず(おのず)と動くのか。「自動」の意味も改めて考えてみると、「運動」と「うごき」の違いにまた一歩近づける。

    ただ、そんなことを認識しながら歩いているわけではなく、言葉になる前の感覚が瞬間的に「あっ」とやってきたとき、感覚と言葉の回路がつながり出す。感覚はいつも言葉の未来からやってくる。

    「ひだり」を感じていると、時間の流れは過去から未来の一直線では無くなるときがあります。直線ではなく循環のように感じられるときがある。それはまるで、空間と一つながりのからだのようです。

    その瞬間までからだの外にあった空間が吸気と共にからだの中にやってくる。心臓を介した体循環の流れと肺循環の流れの中で、からだの中の空間は呼気としてからだの外に抜けていく。

    この繰り返しの中で繊細にからだがききわけてくれている感覚は、先に進むというよりもその場にいながら循環し上昇していく螺旋のような時間感覚を生んでくれる。

    新鮮に感じられる感覚はわたくしが記憶していないだけで、もしかしたら「はじめまして」なのではなく「おかえりなさい」なのかもしれない。

    一つひとつの「うごき」を通してこんなことを考えてしまうのも「ひだり」のせい(性)なのかもしれません。

  • ひだりで次第に光りだす④

    できる限り左右差をなくすことでパフォーマンスを上げる「運動」成果を得る前に感じられていた素直な感覚とそこから生まれる感情。

    違和感を違和感として素直に受け取り、不自然なことは不自然と納得できずにいた頃のはなし。

    小学校低学年の頃に父親が買ってくれた野球のグローブはなぜか右利き用のグローブでした。後から聞いた理由はもう覚えていませんので、対した理由ではなかったのかもしれません。

    右手で投げるという慣れない行為を続けた結果、愉しくはないもののある程度はキャッチボールもできるようになりましたが、ある日、友達同士で草野球をしていたときに、その中に左利きの子がいてその子から左利き用のグローブを借りて驚きました。

    あののびのびと左手で投げられたときの解放感。何かセーブしたようにグローブからそれないように、コントロールすることばかりに意識がいってしまっていた今までの右投げとは全然違う感触。

    左手を大きく振って、左側がのびながら投げられる遠慮の無いうごきの解放感は、コントロールすることから解放される意味もあったのでしょう。

    後天的に学習する「運動」において、素直に感じられていた違和感も納得できずにいた不自然さも、獲得した運動能力と引き換えに陰を潜めてしまうこともあるでしょう。

    そうであると感じられる素直さと、そのようになっていることが自然であると感じられることは、愉しさにも悦びにもつながってくるという体験をわたくしはかつてしていたのです。

    わたくしはたまたま左利きとしての体験となりましたが、ここに「運動」と「うごき」の違い、そして、「ひだり」ということが大きく関与しているように思えてくるのです。

  • ひだりで次第に光りだす③

    言葉以前の感覚を受け取り、誰かに伝えるために言葉にしていくとき、言語化するために左脳は回転し出す。

    言語を習得する以前の幼児は、まず初めに右脳が活発に働き、言語の習得と共に左脳も働き出す。胎児の頃の記憶は右脳に納められている。そのような可能性を示唆するような話もあります。

    感覚をインプットし、言語をアウトプットしていく。右脳をつかい、左脳をつかう。なんという自然な流れなのでしょう。

    後天的に身に付けていく学習の前に、先天的にもともと備わっているものや順序、道筋、がいかに大切かということも「ひだり」は教えてくれます。

    わたくしは子供の頃から左利きでもあり右利きでもあるいわゆる両利きでした。自身の感覚としては左七割、右三割といったところです。

    「左利きだ」と自覚するのは大抵からだを動かしているときでした。野球では左投げ、左打ち、サッカーではボールを遠くまで蹴り飛ばせるのも、ボールをコントロールするのも左足。バスケットボールにおいてもメインで使うのは左手でした。

    「右利きだ」と自覚するときは字を書くときと箸を使うときです。

    今振り返ってみると、全身で動き、かつ、周囲の空間の状況を把握しながら力を発揮するときは「左」をつかい、局所的に同じような動作を繰り返す動きの中で力を発揮するときは「右」をつかっていたのかな、なんて思ったりもします。

    ただ、繰り返し学習していけば、その努力に見合った分だけの成果を上げられることも事実であり、それは「運動」を通してわたくし自身も体験してきたこと。

    「左右同じように使えた方がいい」という考えの下、「運動」においては苦手な「右」をいかに得意な「左」に近づけるかという学習を行っていました。

    まだ「ひだり」にひかりが灯っていなかった頃のはなしです。

  • ひだりで次第に光りだす②

    操体の学問の中で「ひだり」というものを感覚していると、次第に「からだ」というものの範囲はどこからどこまでをいうのだろうかと考えずにはいられません。

    あえてひらがなで「からだ」と表記する意味、あえて「ひだり」とひらがなで表記する意味がここにあるのではないかと思われて仕方が無いのです。

    足を踏み出すという行為も、利き手、利き足ということでなしに、どちらの足から踏み出すのか。

     自身のからだをとおして、また、臨床後のクライアントの歩き方、靴の履き方をとおして、ああ、確かに変化しているなと納得できるのは、からだに共通した感覚であるが故です。

    今この瞬間も感じられる「からだ」や「ひだり」は今までもずっと存在していたにもかかわらず、わたくしが認識できていなかっただけのことではないか。

    それを具体的な「うごき」の中で感じられることは、認識(大脳皮質による理解)の前に、言葉になる前のフィーリングを「からだ」から受け取っているということでもあります。

    それに気づくまでには、その感じられたことをどのように表現するかには個人差はありましょうが、自身が認識する前に「からだ」がそのように変化しているという点においては本人が気づくよりも速く「からだ」に現れる。

    「からだ」が先行してわたくしに感覚をききわけさせてくれていると感じられると、「からだ」はボディ(体)という存在を越えて、関係性の中で主語が変わっていく。

     日々「からだ」と謙虚に向かい合っていると、この「からだ」の(反応する)時間と本人の(気づく)時間の差がどんどん埋まってくる。

    それは取り決めを設けなくともからだの要求とわたくしの要求が一致してくるということでもあります。

    そのとき「ひだり」にひかりが満ちているように感じられるのです。

  • ひだりで次第に光りだす①

    香さん
    一週間ありがとうございます。

    今日から担当の瀧澤です。
    一週間よろしくお願いします。

    テーマは引き続き「ひだり」です。

    操体という学問をとおして頂いている「ひだり」とは感覚そのものです。

    それはからだがききわけさせてくれる感覚そのものです。

    繊細なものを繊細なままに、繊細なことを繊細なままに教えてくれます。

    ここだと感じられる「ひだり」は既存の「左右」から解き放たれて、ただそこが「ひだり」という感覚を与えてくれます。

    そのようなことを感じられる瞬間にわたくしは感謝せずにはいられません。

    それは、自分の意思を遙かに超えたからだという存在の認識を更新していく作業でもあります。

    常に新鮮に感じられることにより、もともとただ感じられなかった存在が目には見えなくともそこに存在していると感じられることにより、息、食、動、想はより鮮明に味わい深いものへと移行していく。

    そのときわたくしが接している環境はそれまでの環境と同一のものであるかどうか、頂ける感覚が変われば世界も変わっていくということも「ひだり」は教えてくれるのです。

  • ひだり6

    「からだが表している状態は、理由があってそうなっている」と操体を学び始めたころに、三浦先生から教えていただきました。

     

    操体法で学ぶからだの使い方、動かし方を実践していくと、からだの状態も変化していきます。

    左足を右足より半歩前に出すことにより、変化していくからだを観察していると動きのなかであるべき状態は、教科書で学ぶ解剖学や生理学には修まらないのだと、痛感します。

    左右対称で比べながら見る見方が時には邪魔になり、見るべきポイントを見逃してしまっている可能性があります。

     

    一週間、ありがとうございました。

    明日からは瀧澤さんです。お楽しみに。

     

     

  • ひだり5

    からだの観察において、どのように見立てていくべきなのかは常に考えさせられます。

    どのような基準でからだを見ているのかで、その後の判断は当然ながら変わってきます。

    使っているからだをいかにみていくのか?

    動いているからだをどうみていくのか?

     

    左右差をどう捉えるかはからだとの付き合い方にかなりの変化をうみだします。

     

     

  • ひだり4

    からだを実際に観察する機会が増えて感じたことは、からだの個人差は実に千差万別だということでした。

    仕事、日常の習慣もからだの観察にはとても重要な情報源であるため、問診を通して、事前に情報収集することも重要になります。

    技術職や職人といわれる方達のからだをみせていただくと、長年取り組んでいる仕事の勲章ともいえるからだをしていると感じます。

     

  • ひだり3

    からだを勉強すると解剖学を学びますが、教科書で学んだ解剖学は、ほぼ左右対称になっていました。

    実際のからだを観察する様になって感じたことは、左右の違いでした。

    少し考えれば当たり前のことにも感じますが、教科書を目の前にしている時は、対称に描かれている解剖図に全く疑問もありませんでした。

     

    利き手、利き足があるので、まったく同じ様に使っていることはないのです。

    その点を踏まえて、からだと向き合うことの大切さを感じます。

     

  • ひだり2

    左足を右足より半歩前に出し、からだを動かす様になった人を観察していると、

    膝や腰に痛みを感じていた人が痛みが軽減していきます。

    さらに、日常の作業により筋肉のつき方にも変化が起こります。

    その効果で作業後の疲労感も軽減されるようです。

     

    この様な状況を観察していると、からだを好き勝手につかってはいけないと実感します。農業に触れる様になり、その感覚が強くなりました。

    長く農業をするためにも、からだのことについて一人一人が学ぶ必要があると感じています。