
相手の動きに没入することがある。

相手の動きに没入することがある。



おはようございます。
私の住む地方は車社会の為、毎日運転する機会がある。
最近感じているのは、車を運転する時も、左から空間認識をした方が視野も広がり、危険予知能力も高まるように感じる。
そして、それが気持ちにも余裕を持たせ、空間をたのしみながらの運転につながると感じている。
しかし、そのたのしさを知っていれば故に、ちょっとイライラする時もある。
例えば、コンビニに入る時。
コンビニの立地は、大抵は交差点と隣接している。
前に信号待ちの車があった時「もうちょっと気を使って動いてくれれば」と思う時が最近多い。
以前はこのような時、後方でウィンカーを出していれば「コンビニに入りたいのだな」と察して、車間が空いていれば詰めてくれるものだった。
勿論、自分も前の車の立場だったら、そうしている。
しかし、最近は車間が空いているにも係わらず、他の車の行動を予測して気を使ってくれるドライバーが少なくなったように感じる。
これは、自己中心的なドライバーが増えたという捉え方だけでなく、空間の認識の仕方の違いが表れているようにも思える。
空間を認識する能力が狭められた状態であるならば、視界にも入れようとしないだろうし、他の車の行動予測も立てづらいと思う。
昨今は、新しい車であればカーナビが標準装備されており、画面ばかり見てしまうというのも一因と思うが、空間認識能力は視覚だけに限られず、空間の変化に応じて何かしら感じ、その感じ方によって見るところは変化している筈。
だから、空間認識能力を高める事は大事であり、この能力が隅に置かれるようになれば、気がきかないドライバーというだけでは済まなくなり、本人が事故を起こす可能性も高まる事となってしまう。
空間認識能力は、視覚、聴覚をはじめ複数の感覚器の協力で成立し、右脳によってコントロールされるという。
この事を踏まえ、生体の仕組みを考えても左から空間認識した方が、その能力は高まると思うが、それには「ひだり」に重きをおいたからだの使い方を学んでいく必要があると思う。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。
友松 誠。
おはようございます。
よく買い物をしていた近くのコンビニが、場所を移して新装開店したというので行ってみた。
成程、以前の店舗と比べて駐車場も随分と広くなっている。
地方は車社会の為、左にハンドルをきって、そのまま店の前に駐車できるというのは強みであると思う。何回もハンドルを切りかえしてやっと駐車できるというのは、どうしても敬遠されてしまう。
玄関の自動ドアが開いて、入ってみると今までとの違いにすぐ気がついた。
今までは左側にレジがあり、右側に陳列棚が右方向に横長に並んでいた。
しかし、新しい店舗では全く逆になり、左側に陳列棚が左方向に並んでいる。
この方が、パッと店内の様子が見渡せるように感じる。
私の自宅周囲1キロメートルの範囲では、コンビニが4軒あるが、この新しい店も陳列の仕方を変えた為、全部がこのようなレイアウトになった事になる。
マーケティングの世界では「人間左回りの法則」というのがあるそうだが、店名や系列は違えど同じようなレイアウトに変えていっている事を踏まえれば、それだけ業績の結果にも表れているからなのだと思う。
「人間左回りの法則」についての理由付けは様々あり、それぞれ一理あると思う。
あえてつけ加えるならば、人間の意識した動きは様々あるが、特段意識しなくとも生じている動きもあり、このからだの動きそのものは環境適応をはじめバランス制御に向く動きである。
そのからだの動きと相性が良いという事。
このバランス制御に向くからだの動きについて、操体では長年にわたり研究がされてきた。
師は「誰だって振り向く時は、左の方がやり易い」ときっぱりと仰る。
これは、傍から見れば何てことないような事でも真摯に向き合い、長年からだの真意を問いかけてこられたからこそ、言い切れる言葉なのだと思う。
私も実際やって感覚をききわけてみて、そう感じる。
また、意識してない場面、例えば後ろから誰かに声をかけられた時などは左から振り向くし、逆に自分が後ろから呼びかけた時も相手は左から振り向く事が多い。
こうした事も踏まえれば、コンビニやスーパーなど日用品を手早く買って帰りたい時は、左側に商品が陳列してあった方が便利だと思う。
おはようございます。
そろそろお盆です。
御先祖様を迎え入れる準備に忙しくしている人も多いと思います。
お盆飾りで欠かせないのが、まこ縄です。この縄は正月によく見かけるしめ縄と同じように左綯いとなっているようです。
綯い(ない)とは、複数の糸や縄などに撚りをかけながら螺旋状に合わせて、より太い一本の縄にする事である。
まこ縄やしめ縄は左綯いであり、左綯いとは時計回りに綯う事であり、右回りの綯い方である。
対して、日常的に目にする縄やロープは反時計回りの左回りの綯い方であり、近くにあった梱包用のロープは、左回りの右綯いとなっていた。
ここまでは、日常で使うものと神聖な場で用いるものとでは違うというだけなのだが、それだけでないところに面白さがある。
しめ縄と聞いて思い浮かぶのが、出雲大社のあの大きなしめ縄だが、あのしめ縄は一般的な神社の反対で、左回りの右綯いとなっているという。
出雲大社のホームページの、よくあるご質問を見ると、こう書かれている。
『一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方綯い終わりとする張り方となっております。
しかし出雲大社では古来、他の神社とは反対に神様に向かって左方を上位、右方を下位としていました。
それを示す事例を挙げますと、御本殿内には、客座五神として「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣立日神(たかみむすびのかみ)・神産巣立日神(かみむすびのかみ)・宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)・天之常立神(あめのとこたちのかみ)」の五柱の神が祀られておりますが、尊貴第一の神たる「天之御中主神」が上位となる一番左に祀られております。
また、江戸時代の祭事の記録では、神様へお供え物を進める際、上位のお供え物を向かって左へ、下位のお供え物を向かって右へ進める作法となっております。 このように、古く出雲大社では一般的な神社とは反対に、向かって左方を上位、右方を下位とする習わしがあり、よって注連縄を張る際には上位である左方が綯い始めで、右方を綯い終りとする張り方となっています。』とある。
文中の客座五神の中でも、天之御中主神、高御産巣立日神、神産巣立日神は橋本敬三先生の著書のなかでも度々でてくる神様でもある。
この世をつくった原初の神様であり、天之御中主神の「愛と調和」という意志によって、高御産巣立日神、神産巣立日神という(+)(-)の神様が設定され、全ての物事が始まった。
天津神、国津神はじめ、○○の神様と称される様々な神の祖先でもある。
そうした原初の神々の順を尊重し、あの大きなしめ縄も、左方を綯いはじめとして左回りに右綯いしていくところに何か意味を感じる。
そして、私たちが一般的に使う縄と原初の神々を祀るしめ縄の綯い方が同じという事にも意義を感じる。
私たちは、○○の神様と称される神々や御先祖様を、神聖な世界に居られるものとして崇める必要がある。
それはそうとして、その神々にも生みの親が居り、その大元の生みの親の原初の神様の意志や理念といったものは、私たちの世界にも貫通しており、姿は見えなくとも一緒におられる、という捉え方も出来ると思う。
そうなると、私たちにも天地創造の神様と同じように、此の世で愛と調和という意志の基に、幸福につながるあらゆる物事を具現化していく能力がある、という事なのだと思う。
おはようございます。
右と左の漢字、由来を探ればどちらにも神を尋ねる意味合いがあるように、古の時代には神を畏敬しつつ、身近に感じていた文化があったと思う。
今、神とか人智を超えたモノを語れば、訝しがられたり何か怪しいと思われると思う。
そうした目に見えないモノを金儲けに利用する輩がいるのも事実だし、時代を遡れば宗教が権力と結びついて侵略や弾圧に利用されたのも事実。
しかし、それは人間の自我がつくりだしてきた報いを求める神であり、本来の生命、この世の創造主であり、生命が求める神とは違うように思う。
一人一人、一つ一つの生命と生命源である神とは常につながっているのではないだろうか。
橋本敬三先生は、著書の中でこう書かれている。
「釈迦も基督も、この生命は天地創造よりも前から生命そのものであると宣言されておる。
此の世(現象界)において五官に映る肉体的人間を生命と思い込み、自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは、放蕩息子のようなもので、無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだという譬話を釈迦も基督も説かれている」
一人一人、一つ一つの生命と生命源である神とは同格でもある。
しかし、此の世で生きる自分(自我)には、絶えず自己防衛の恐怖心が付きまとい、怒り、悲しみ、恨みといった感情や劣等感を生じさせ、その心の在り方でお借りしている身体までも消耗させ、十分に気持ちよく快適に生きているとは言えない状態となっている。
しかし、此の世でのその恐怖心や劣等感は、生命としては本来無いのだ。
生命としては神と同等、同格の永遠の生命そのものであり、そこに目を向けて自信をもって生きていけ、まだまだ無限の可能性があるぞ、という事なのだと思う。
その生命としての可能性を感じられるのも「ひだり」だと思う。
おはようございます。
右と左の漢字は、どちらも手に由来し、それぞれ役割は違うが、どちらも神を尋ねる意味合いがあるという。
姿を隠している神に対し、右手に祈りの文を入れた器を持ち、左手にはおまじないの道具を持ち、呼び寄せたり、いるところを尋ねていき、出会い、たすけてもらう。
神に祈るという言葉はよく聞くが、これほど積極的に問いかけていく様子を意味しているとは驚きだ。
それだけ、古の時代には神を畏敬しながらも、身近に感じていた文化があったのだと思う。
たすけてもらうとは、神に何かやってもらうとか、与えてもらうという事ではないと思う。
真理を尋ねるという姿勢に対して、何らかの方向性を示すといった事のように感じる。
何年か前に、師は神という字は本来は神であり、示すという字に申なのだと仰っていたが、正にそうなのだと思う。
あらゆる生命体は偶然生じたのではなく、創造主(神仏)があって生じたのであり、その創造主の理念の指示性というのは、いつの時代にもどんな世界にも貫通しているのだと思う。
だから、生きていられる。
自我優先の自分の心には、そういった実感は湧かないかもしれないが、からだはしっかりその指示性を感じて受け取っている。
だから、自分の意識の及ばないところでも、からだは自律している。
それによって、自分も生きていられるのだから有難い事だと思う。
そのからだのききわけている感覚を、自分も共有する事ができれば、これほど確実に健康の維持、増進に役立つことはないだろう。
そのカギは従来の既成概念を覆す「ひだり」にある。
おはようございます。
左と右。
左という字には工が入り、右という字には口が入る。
違いはそれだけではなく、工と口の上の横線とはらいの長さも本来は違う。
そして、書き順も違う。
左にあるのは、ナ(サ)であり、短めの横線を書いてから、長めのはらいを書く。
右にあるのは、又(ユウ)という文字がナとなったのであり、短めのはらいを書いてから、長めの横線を書く。
この横線とはらいは、手腕を意味するのだという。
左の場合は、長めのはらいが腕で、横線とそこから先が手のひらを表す。そして、右の場合は長めの横線が腕で、はらいとそこから先が手のひらを表すという。
漢字の由来や成り立ちについては諸説あるが、どれも手に由来して、その特性は元々違うのだと主張していることには興味を惹かれる。
手腕の動きも一つ一つ突き詰めていけば、牽引、圧迫、背屈、掌屈、外旋、内旋、尺屈、撓屈となり、これは右手にも左手にも当てはまる。
しかし、元々の特性は違うという事を考慮する必要がある。
右手も左手も同じに考え、同じように動かせるのが良いという訳ではない。
それぞれの特性を尊重したうえで、全体との調和をはかっていく事が大切。
全体との調和をはかっていくには、手腕の一つ一つの動きの特性も身をもって識っておく必要がある。
一つ一つの動きは、遠心性と求心性の動きに大別されるが、それを身をもって識り、右手と左手の特性とをつなぎ合わせ、全体のバランスを良くしていく。
同じようなものという先入観から平均化を求めるよりも、それぞれの特性を理解したうえで、その能力を十分に発揮できるようにする。
そうなると、手に限らず左右の軸というのは平均化に合わせたものではなく、特性に合わせてより身体全体が合目的に動く為のものに変えていく必要があると思う。
言い変えれば、元々非対称性の特性を持つ人体なのだから、不確実な先入観からの決めつけ(妄想)よりも、元々の決まりごとに合わせていく必要があるのだと思う。