投稿者: karib_sotai

  • ひだり・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松が担当いたします。

    今回のテーマは「ひだり」ということでリレーしています。

     

    「ひだり」と聞いて、ふと漢字の「左」はなぜ「工」がはいるのか?と今更ながら思ってしまった。

     

    「工」の意味合いは、道具を使って物を造り出すことや、色々と工夫することを指すという。

    また、ノミやサシガネなどの工具の象形であり、匠にも通ずるという。

     

    興味深いのは由来である。

    「工」の由来は、上と下の2本の線の間に縦線を描き、上下の面に穴をとおす事を示しているという。

    私的には、2本の横線に一本の縦線をとおして、つくり出すとか匠という意味合いの文字になっている事に非常に興味をそそられる。

     

    この上下2本の横線を、天と地としたならどうだろうか?

    誰しも天の恩恵を受け、地べたの上で生かされて生きている。

    観方によっては、一本の縦線は自分自身の生き方のようにも感じる。

     

    自分自身が、どう天と地を結び、ぶれない軸を立て、正しくたくみな生き方をしていくか。

    工という字を含む「左」に、何かヒントがあるように思う。

  • からだ は しっている ひだり の せかい 7

    (きのうのつづき)

     

    『数学の歴史は測量に大きく関わっていますけれど、古代に測量学が発展したのは、領土を正確に測ることを通して、人間の争いを減らすことにもつながっていたんです。』

     

    『宇宙は長い年月をかけて膨張していますけれど、誕生する瞬間に、一旦クシャクシャに折りたたまれてしまったらしいんです。その折りたたまれた部分がどうなっているのかは、誰にもわからない。その折りたたまれた部分を説明(表現)するために、芸術が生まれたんです。』

     

    なんで勉強をしているのか。目的不明の状態で受験勉強に埋没していたその当時のわたしにとって、某予備校の数学と物理学のアシスタント講師のこのモノガタリは、どんな丁寧な公式の説明よりも深く、生き方にも貫通する「学ぶこと」や「表現すること」の土台にある世界を伝えてくれたように感じたものだった。

     

    宇宙が拡がる前の、折りたたまれて重なり合って、隠されている何か。
    認識されなければ、誰からも気づかれることのないままの未開の世界。
    それでも、宇宙の一部であるわたしたちは、その何かと無関係ではいられない。

     

    目に見えないことがあって、認識されていないこともあって、
    からだはききわけていて、それをことばにすることは、各々の「わたし(たち)」にはできること。

     

     必要なものはあった 手を伸ばさずともすぐ傍に
     枕のその裏側に 圧縮された記憶の重なりに

     使っていなかった道具を手に取る
     錆びてはいないけれど、使っていなかったことは伝わった

     手に取ればわかるし、手にも取らなかったのだ
     手には取れなかったのだ
     でもいまは、たしかに触れている 

     あとは使ってみればわかること
     それでも使ってみなければわからないこと

     

    というわけで、最近あまり使っていなかったことばと向かい合う一週間。

    お付き合いいただきありがとうございました。

    明日からは友松実行委員の登場です。明日からのブログどうぞおたのしみに!

  • からだ は しっている ひだり の せかい 6

    (きのうのつづき)

     

    誰かの言葉で理解することから離れて、自分のことばでからだがききわけている世界を表現してみたい。

    操体を学ぶ師や同志の紡ぎだすことばを聞いていると、なんだか「詩」のようだ、と感じることが増えた。詩人が二人で物語を紡いでいるときは、即興演奏を味わっているようにも観えてくる。

     

    こういう場面に遭遇すると、これでいい、というか、これがいい、と強く感じてしまう。
    からだ、細胞、生命、宇宙、人間、日常、空間、呼吸・・・。
    そういうものを学問するなかで、生まれることばの表現が、自然と花開いている様子にいたく感銘を受ける。

     

    誰にでも分かりやすく伝えること、その努力はあきらめたくはない。
    そしてその前段階には、まだ認識されていない世界、ことばになっていないことを言語化する流れが存在していることは無視できない。その充実のための時間をいま過ごしているように感じている。

     

    そんなことを感じていると、もう10年以上も前の話になるけれど、わたしが通っていた某予備校でのエピソードを思い出す。人生で何度か人のことばに助けてもらった経験があるけれど、これもその一つ。
    なんで勉強しなくてはいけないのか。そういうことに焦点も当たることもなく、誰からそういわれたわけでもないけれど、「やらされている」受験勉強のなかで、学習意欲を失いかけていた。そんなわたしを見かねてか、数学と物理学の質問に個別で応えてくれていたアシスタント講師の先生がこんな物語をしてくれたのだった。

     

    (あしたへつづく)

  • からだ は しっている ひだり の せかい 5

    (昨日のつづき)

     

    年に2回、春と秋にわたしたちは東京操体フォーラムというイベントを開催している。
    以前から、その内容はマニアックな会ではあったけれど、特に最近参加していて感じるのは、そこで語られることばが変化してきているということだ。

     

    誰かから借りてきた言葉ではなく、その人が語ることばとして何かが物語られている。
    アタマで考えただけの言葉とはちょっと違う。
    からだという生命体がききわけている世界が、ことばによって表されてる。

     

    ことばによってここまで表現できるのか、と。
    その内容も、もちろん身(み)がつまっているけれど、師や同志のことばでの表現力に関しての感動を参加していて随所で味わっている。

     

    この経験、体験をしているからこそ、わたしのなかでも、ことばの可能性が開かれたのだと思う。
    今は、誰かの言葉や知識を吸収したいのではないのだろう。
    わたしのことばと出会いたいのだ。
    そしてそれは、からだがききわけている世界、からだのことばのなかにある、と感じているのだと思う。

     

    (もう少しつづく)

  • からだ は しっている ひだり の せかい 4

    あたらしいこころもちで、操体を学問する。
    その過程で、矛盾したふたつの感触に出会っている。

     

    ひとつ目は、この新しい捉え方について、何かを調べようとしたときに感じること。
    色々な本を読んだり、調べたりしようとしても、なかなか以前のように本が読めない自分がいることだ。

     

    今年の春の東京操体フォーラムの前くらいからか。
    いや、もしかしたらそれ以前から、本を通して知りたいことを知るということがうまくいかない状態が続いていた。
    知りたいこと、その内容は求めてもそこにはない、そんな感じがあった。

     

    でも、本は好きな方なので(笑)、懲りずに手にはとってみるだけとってみる、ということは続けていて、最近ある著作と出会うことができた。
    若松英輔氏の「本を読めなくなった人のための読書論」という本だ。

     

     

     

     

    この本に描かれていることばは、しみ込むようにいまのわたしになじんだ。
    「読書論」というタイトルがついているけれど、その表題以上の手引きを受けているような気持ちになった。

     

    自分は「ことばに出会う」ことについて、いま改めて対峙しているという状態なのかもしれない。そのことに本書はスーッと光を当ててくれた。

     

    ことばとの出会い方を変えたいと思っている自分がいて、
    そして、それが学び方が変わることにもとても繋がっている。

     

    なんで本を読めない日々がつづいていたのか、なんとなく腑に落ちた感じがあった。

    (つづく)

  • からだ は しっている ひだり の せかい 3

    「ひだり」について操体を通して学んでいると、改めて「睡眠」について興味が沸いてくる。

     

    学んでいることを試していると、気が付くとスーッと眠りの世界に入り込んでいることが多い。以前から、臨床中に瞬間的な眠りに入ったり、「意識飛び」と呼ばれているようなことが起こることはあったけれど、味わってみるとまた眠りの「質」が変化しているような感じがある。

     

    眠りの間の中で、からだにどんなことが起こっているのか。
    わからないけれど、わからないなりに何かが変化していることは伝わってくるから面白い。

     

    ただ眠りについたときと、呼吸やからだのうごきを介して眠りに入るとき。
    それはまた違うんだと、そういう風に感じられる。

     

    睡眠そのものが、からだにとっては、究極の癒しの時間。
    それは誰しもに備わっている日々の臨床の間。

     

    毎日訪れ、営まれているこの無意識の過ごし方についても
    「ひだり」は、「からだ」は、多くのヒントを教えてくれるのではないかと思う。

  • からだ は しっている ひだり の せかい 2

     「からだ」は、わたしの知りたいことを、しっている。

    そういう実感のなかにいて、では、どんなことから

    その情報にアクセスできるのか。

    これが最近の操体を通して学んでいる大きなテーマとなっています。

     

    未だ手探り状態ですが、からだと向かい合う時間には

    何かを「予測すること」や「想像すること」のプロセスを

    事前に持ち込まないように、気に掛けるようにしています。

     

    まず左脳のエンジンを噴かせるような学習の仕方はひと休み。

    前もって「頭」が働いてしまうのを、

    できれば、できるだけひかえてみるところを大切にして。

     

    これから触れていく情報は、未だ言葉になっていないこと、

    まだ「認識」の外にあること。

     

    感じることで、初めてあらわれる。

    何かを感じている、のかもしれない。

    なんとなく、でもいい。

    無理に、いそいで、ことばにしてしまう必要はない。

     

    日常生活の流れていく流れのなかに、

    そんな「間」の時を少しずつ、育てるようにして

    操体を味わいなおしています。

     

     

  • からだ は しっている ひだり の せかい

    おはようございます。
    瀧澤さん一週間の投稿ありがとうございました。
    本日から、寺本がブログを担当致します。
    テーマは引き続き「ひだり」です。
    よろしくお願い致します。

     

    操体という学問と出会い、学び続けて10年程になりますが、
    この年月の間に操体は学問としての大転換期に突入し、今まさに再編集・再編成の最中にあります。気が付いたら、学びの大海原のなかを進んでいた、ラッキーなタイミングに出くわしたと思っています(笑)。

     

    今回テーマになっている「ひだり」。
    これも私が学び始めた頃には、(少なくとも私には)このような捉え方に移行するとは想像もできていませんでした。

     

    橋本先生が創始した操体・操体法(『からだの設計にミスはない』や『生体の歪みを正す』などの書籍が有名ですね)。
    そしてそこから引き継がれて、さらなる発展を遂げていた操体(三浦先生の『操体法治療室』や『快からのメッセージ』、『皮膚からのメッセージ』などに代表されるように操体は進化してきました)。

     

    操体独自の「からだ」の捉え方に触れ、また実際に体感するだけでも相当感動し、またそのことだけでも充分に面白かったので、まさか更なる変化(深化)が起ころうとは夢にも思わず。

     

    ある意味、操体はいま「ひだり」について学問しているとも言えると思います。
    からだはしっている「こと」。
    いままでことばを与えられていなかった「こと」を見つめ、言葉にしていく作業。

     

    そんな過程に臨み、今までとは学び方も変わってきていることを感じ、
    私も今までに学んだことを、ひとつ、またひとつと手放しながら「ひだり」について学んでいます。

  • ひだりで次第に光りだす⑦

    力が伝わっていくこと。そこにはたらく力が邪魔されることなく伝わっていくこと。無駄なエネルギーを使わずに、その環境に見合った力が伝わって表現されること。そして、その影響を享受しているわたくしがいるということ。

    操体の学問をとおして頂いている「ひだり」という感覚をからだがききわけさせてくれているとき、息、食、動、想の営みを、接している環境を感覚するという点において、そうでないときとの違いははっきり自覚されてきます。

    「からだ」のうごきや呼吸をとおして感じられることは、自然や地球や宇宙やそこに作用する力の中で生かされていることの実感であり、目には見えなくともそこに存在しているものやことの輝きです。目に見えない輝きをキャッチするのは視覚ではなく皮膚感覚も含めた内部感覚。

    「ひだり」が、「からだ」が先にあってわたくしの認識も変わってくる。からだがききわけさてくれる感覚によって、世界がより鮮明に感じられるようになってくる。からだの中も外も「ひだり」で次第に光りだすように感じられてくるのです。

    それが身心の在り方に、健康維持増進にどうつながっているのかということを、自身のからだをとおして、臨床をとおしてこれからも感じていきたいのです。

    ほんとうのほんとうを共有できるように。

    からだの感覚、イメージや言葉、共有してくださったすべてに感謝致します。

    明日からは寺本さんの「ひだり」となります。お愉しみに!

  • ひだりで次第に光りだす⑥

    鉢に植わった二年目のプチトマトはまだ青い実をつけながら、日毎に生長しています。

    植物の上にうえに伸びていこうとする生命力は、仮に言葉を発することができるのならば、どんなふうに語りかけてくれるのでしょうか。

    わたくし自身の中にも縦を感じる感覚がある。からだがそのようにききわけさせてくれる感覚によってからだに備わっている植物性が目覚めてくるかのようです。

    植物にも原始感覚はあると、橋本先生は書籍の中で書かれています。トウモロコシだってその年の風の強弱で根の張り方を変えると。日光や空気、水や地とつながり、風圧といった環境の変化を受け取る。

    ほんとうに必要なものを受け取る力、その中で感じられる微妙な変化、左(然)程と思ってしまうようなそのほんのちょっとでスイッチが入りだす。

    植物性が目覚めるというのは、これもからだから頂いている感覚が言葉になったものですが、ただの比喩表現では終わらない。

    実際に、わたくしが意識することなく日々営まれているからだの無意識的な不随意的な領域である自律神経系。またの名を植物神経系。意識することなく拍動し続ける心臓、眠りの間の呼吸、ハラワタのうねり、等々。

    植物系そのもののバランスと、植物系(無意識)とわたくし(意識)とのバランス、その中に縦を感じる感覚も存在する。存在するからはかられるバランス。ヒトの「性」の中に動物も植物もあって、赤い血も蒼い血もこのからだに流れている。