投稿者: karib_sotai

  • 言葉をもたない生き物に重ねて5

    「食べる」ということを考える時も、最近思い浮かんでくるイメージは「植物」である。

    以前にもここで吐露したことがあるが、食べることが好きな私は油断するとついつい食べ過ぎ状態になることがある。

     

    「土と内臓」という本の中で「ヒトの消化管をひっくり返すと植物の根と同じ働き」という非常に興味深い眼差しの紹介されている章がある。

     

     

    ともに微生物の織り成す豊かな生態圏あっての環境である。

    同時に、外側からしたら見えない、隠れている空間でのこと、という点も似ていると思う。

     

    人間には手があり、足がある。

    食べたい時に食べたいものを手に入れようとすれば、それが口の中に納まるのは時間の問題だろう。

    芽吹いて、その場所に根付きながら、与えられているものをいただいている生き物とはだいぶ違う。一日に3度食事をとっている人間はそう考えるとよく食べる生き物だなと思う。

     

    食べ過ぎるということを、植物に置き換えてみる。

    土の中に水をガバガバ投入し、肥料をたっぷりと与えて栄養過多で過密な状態になっているというところだろうか。植物の根にとって、こういう環境は健やかな生育に逆効果に働くこともあるし、何より土着の微生物たちは困ってしまうだろう。

     

    肥料も水もたっぷりある。

    わたしが与えたいのか、ハラワタが必要としているのか。

    そして、どのくらいの与え方が適切なのか。

    食欲の為だけではなく、オナカのなかの見えない世界の為に、手と足を使う。

    食べることが、ある側面から見れば植物の栽培のようにも思えてくるので、

    からだを育てることをもう少し考えてみようと思う。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて4

    操体を学んでいると新鮮な「からだ」の感覚に遭遇する。

    最近では、自分が植物的な生き物になっていくような感覚を味わうこともある。

     

    普段の人間ver.が「動物」であるならば、学んでいることをからだとともに学習するときは動物のからだから、植物のからだに変化しているような気持ちになる。

     

    以前はこんなことを感じることはなかった。「皮膚」の面白さを学び始めて、「アメーバみたいなうごきだな」と思うことはあった。操体の学びは「動き」の学びでもある。

    そういう想いで学んでいた頃の「からだ」は、今思えば動物のからだだったのではないかと思う。

     

    最近の日課は、道端の樹木を前に、操体で学んでいることを実践すること。

    何をいっているか分からないかもしれないけれど、いま学んでいることを実践しているときのからだは、日の光を浴びて天を仰いでいる樹木のそれと、なんだかとっても似ているなぁという気がしてくるのだ。

     

    巨木とかそういうものが好物でもある私は、その樹皮に触れてみたり、目の前でぼーっとしてみたり、対話できたらいいのになぁ、なんて思い描いていたりしていた頃もあった。

    気が付いてみたら、また違った方向から対話をたのしんでいるのかもしれない。

    こういう関わりあいも、なかなかいいなぁと、動物のからだと植物のからだを行き来しながらあじわっている。

     

     

  • 言葉をもたない生き物に重ねて3

    我が家の小さな庭には誰が植えたのか、はたまた勝手に生えてきたのか、由来知らずの柑橘類が一草、ひっそりと暮らしている。

     

    不勉強な私には本当の名前すらわからないこの生き物は、時期になるとあおむしたちの一時の住処となる。今年もアゲハの幼虫が3匹ムシャムシャとその葉っぱを食んでいた。

     

    与えるのはお水くらいなもので、それ程大きく育っているわけでもない、この植物に今年は3匹のあおむしが同居しているのを見て、「はたして葉っぱは持つだろうか」と心配しながら毎朝観察していた。アゲハの幼虫は一日で予想以上に成長する。朝会うたびに大きく、また姿も変化していく。そして、葉っぱはどんどん食べられて減っていく。

     

    小さな草丈の残りの葉っぱがほんの数枚になった頃、気が付いたら幼虫がいなくなっていた。いや、よく見ると、いなくなっていたわけじゃなくて、その茎や根本や葉っぱの陰に、同じ色をしたさなぎになってつかまっていた。

     

    幼虫たちのおなかを、今年もうちの一草はなんとか満たしたらしい。

    でも、残る葉だけで、己のいのちをつなぐことができるだろうか。

     

    そんな勝手な想いを抱きながらも、やる事と言えば気が付いたときに水を与えるくらいなもので、そのまま様子をみていた。それから数か月、葉っぱは見事に復活した。

     

    あの小さな深緑に、3匹のいのちが間借りをすることとなり、そして、絶妙な食べ残しをしてくれて、トゲトゲのからだはまだいのちをつないでいる。

     

    これが偶然なのか、それとも目に見えない生き物たちのバランスなのか。

    今年お世話になったアゲハの親類が、来年訪ねてきたら、また観察してみようと思う。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて2

    公園の樹木など眺めていると、この木は一度種子が発芽してからは(またはこの場に人の手で植えられてからは)、一所に根をおろしてここまで成長してきたんだなとしみじみと感じます。

     

    目に見えているところでは、雨が降っても風が吹いても、葉っぱを食べる虫が近づいてきても次世代の種子を生み出す以外は、その場に居続けながら環境に依存して生命活動を続けているように見えます。植物にも多種多様な生存戦略を身につけている種類がいるようですが、一般的な植物は、この地上部では「受」の姿勢が色濃く表れているような感じがします。

     

    人間だったら、のどが渇いて、お腹が空いたら、自分の足で動いて必要なものを手にすることが容易にできます。植物も目にみえない地下の領域で「根」のうごきで、対応しているのかもしれませんが、人間や動物のようなスピード感とは随分と異なる動きです。

     

    植物を見ていると、既に環境のなかにあるもののなかで、それをいただいている様子が感じられてきます。

     

    生活環境のなかで、身の回りにないものを自然と求めることの多い日々を送っている人間からすると、この樹木の生き様は素直な生命の循環を思い出させてくれるような気がしてきます。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて

    おはようございます。

     

    Mr.植物の瀧澤さん、一週間の「ことのは」の数々ありがとうございました。

    テーマは「植物」のバトンとタスキを受け取って、本日から一週間、寺本が担当します。よろしくお願い致します。

     

    私事からのスタートとなりますが、今年は特に「言葉」のことについて考える一年でした。

    現在、学んでいる操体を消化、反芻する過程で、今までの考え方や感じ方、そしてそれを表現する方法のことを思うにつけ、間に合っていない感触を感じるようになりました。

     

    そこを埋めるために、ヒントを探そうと「本を読んでみようかな」と思っても、なかなか本が読めない時期が続くなかで、同志の学ぶ姿から、やはり ”からだ” からいただいているもののなかで、時間をかけてでもいいから、自分のことばというものと今一度出会いなおしていくしかない、という心境のなかにいます。

     

    すると、次第にまた本と向き合えるようにもなってきて、特にいまは詩人のことばにヒビクものを感じたりしていますが、ちょっとゆっくりと「ことば」を紡ぐきもちになっている私にとっては、今回ブログのテーマとなっている「植物」という生き物はいまとても居心地のいい存在となっています。

     

    人間のような「言葉」をもたない植物ですが、

    それは私が感じられていないだけ、のことだったらいいなと思います。

    植物を前にすると、何かを受け取っているスガタの前にいるようなきもちになりますが、その沈黙のなかには目に見えないなにかが満ちているような気がして、それをききわけているスガタが、わたしのからだとヒビキあっているように感じられるのです。

  • 「からだ」で植物を感じること⑦

    その日の空を見上げること。

     

    空気を介して、皮膚で感じられる変化を味わうこと。

     

    太陽の光や雲、風や水、ときには虹など、とても惹かれる自然現象との出会いがある。

     

    なぜそのような現象が起こるのだろうかという理由は、「からだ」の植物的感覚をとおして触れられる「からだ」の記憶へとつながってくる。

     

    そんなときは、ほんとうに「植物」になっているかのような感覚を味わえるとき。

     

    些細な変化に悦びを感じられることは、好きだからという理由よりも、もっと深いところでつながっている感覚なのだという気がしています。

     

     

    宇宙にある地球という大循環そのものの中で、他の生物と共に、人間が大地環境の場に生かされているということ。

     

    自らの意思で動く前に、その環境には何があって、その環境から何をいただいているのか、を感じ取れる「からだの表現」がある。

     

    「息」をいただき、「からだ」によって表現される「からだのうごき」があり、継続的な「からだの学習」をとおして感覚を共有していける。

     

    「からだ」がききわけてくれている感覚には根っこでつながっている感覚の素がある。

     

    植物の在り方と「からだ」の中の「植物」は共鳴しながら、そのようなことも伝えてくれるのです。

     

     

    「植物」というテーマをとおして、操体を語ることは真理を語ることだと、「からだ」は語りかけてくれます。

     

    継続進化中の操体において、点と点が線になって貫通したとき、真理が真理の力で立っている、と感じられるように学んでいきたい。

     

    新鮮な感覚を「からだ」で共有することは、共に生きることにつながっているのだ、と「今の自分」は想うのです。

     

     

    一週間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

     

    岡村実行委員からのバトン(とタスキ)を寺本実行委員に委ねます。

     

    よろしくお願い致します。

     

    明日からも、どうぞお愉しみに!

  • 「からだ」で植物を感じること⑥

    人間として思考し、判断していくこともできる。

     

    動物のように、好ましいものに近づいて嫌なものから逃げることもできる。

     

    植物のように、動けなくても変化をありのままに受け入れることもできる。

     

    「からだ」の中にあるものは、それぞれに機能していてどれも大切。

     

    もっと大切なことは、変化に適応しながらそれらが最適なバランスになっていること。

     

    そのバランスをどのようにとるか、ということを操体をとおして学んでいる最中です。

     

     

    学問として進化し続けている操体は今、植物的な在り方を学習させてくれています。

     

    それまで常識だったことが覆るということは、操体も例外ではありません。

     

    継続した「からだの学習」の中で、変化に対応し続けるということ自体がすでに植物的なのです。

     

    呼吸もうごきも意識も感覚も、「からだ」に委ねて植物的に表現されてきたとき、まったく新しいありのままの「今の自分」を感じられるようになる。

     

    「あゝ何もかもみんな透明だ

    雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに

    風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され

    じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で

    それをわたくしが感ずることは

    水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」

    (宮澤賢治)

     

     

    植物的な「からだの学習」は、今まで感じられなかったことが感じられるようになってくる、今まで意識できなかったことが意識できるようになってくる、という変化もギブしてくれる。

     

    原始感覚でギブをいただくと、真理があるところに「今の自分」は存在しているんだ、もう存在していたんだ、ということも「からだ」は気づかせてくれるのです。

     

  • 「からだ」で植物を感じること⑤

    頭で理解したり、きもちで共感したりすることもできる。

     

    その前に、「からだ」で共振、共鳴することもできる。

     

    思考や感性でキャッチする前に、原始感覚で振動をキャッチすること。

     

    先日の岡村実行委員のブログの中で紹介されていた、「なぜ植物は緑色をしているのか」という真実。

     

     

    blog.tokyo-sotai.com

     

     

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    このことを初めて耳にしたとき、猛烈に感動しました。

     

    折しも植物的な「食」を営んでいた時期です。

     

    継続的な「からだの学習」の中でひびきあうことはあります。

     

     

    人間も生命体である以上、代謝活動は必須です。

     

    むしろ、代謝活動をしているということが生命体の一条件、と捉えることも出来ます。

     

    「生きている」ということは、繋がりの中でエネルギーや物質をいただいて、それを熱エネルギーとして宇宙に放出し続けること。

     

    息、食、動、想は自らの意思で営むことができるけれど、まず環境から有難くありのままをいただいて、無駄に摩擦を生じさせない生き方も可能だよ、ということも「からだ」の中の「植物」は感じさせてくれるのです。

     

    欲で反応すればギブして終わりということも、感謝しながら、いただく、委ねるという姿勢であれば、人間もギブアンドギブでつなげていける。

     

    「ウソかホントかやってみて この味をつかんだら教える責任がある筈」

     

    「からだ」に満ちる「愛」を伝え、共に生きることは植物的である、ということも感じ取れてくるのです。

  • 「からだ」で植物を感じること④

    植物の生命力には、見た目の美しさとは裏腹に、ときにゾッとするものを感じることがあります。

     

    そんなときは、人間のスケールを超えたものに触れている、と感じている瞬間。

     

     

    住んでいる処の勝手口の裏に、ずっと植わっていた蕗(ふき)がありました。

     

    管理人さんらしき人が、年一回ぐらい茎の根本を刈ってくれるのですが、あっという間にドアを塞ぐように伸びてきます。

     

    この間、根っこの方はどうなっているのだろうか、と手入れをしたら、その根っこの張り方と強靱さに舌を巻きました。

     

    しかも、その根っこだと思っていたものは、地中で横に伸びる地下茎だったのです。

     

    蕗は、その地下茎から芽が出るそうですが、芽が縦に伸びていく前に、目に見えない地中で横に伸びていた茎があるということ。

     

    目に見えないところで横に伸びる地下茎が、蕗そのものの生命力のようにも感じられました。

     

     

    「からだ」には、「からだ」を操る動物的な筋骨格系横紋筋系の動きもあれば、「からだ」に委ねる植物的な皮膚体壁内臓系のようなうごきもある。

     

    原始感覚をとおして「からだの表現」に触れていくと、筋肉以外のところが「うごき」の動機になっている、と感じられるようになってくる。

     

    動物的には動かないところにこそ、植物的な生命力が貫通している、なんてことも素直にいただけるようになってくるのです。

     

    目に見えない「からだのうごき」も含めて、「からだの表現」によって現れてくる「からだ」のつくり。

     

    たとえ、それが奇異なつくりに見えたとしても、内臓感覚や皮膚感覚で植物と共振、共鳴している自然なつくりなのだと、「からだのうごき」は教えてくれるのです。

  • 「からだ」で植物を感じること③

    散歩の度に目にしていたスギナの水滴のつき方は日毎に変化していました。

     

    通常水気孔から水蒸気として排出される水分は、大気の温度や湿度の変化に対応して、気体から液体へと状態を変え、その大きさやつき方もその時々で様変わりする。

     

    朝を迎えたときに見せてくれる生命現象の輝きは、大気という環境の変化に対応している輝きでもあったのです。

     

    「その場から動いているから動いている」のではなく、たとえ、その場から動いていなくても、「環境の変化に適応し続けているからうごいている」、と素直に感じられる。

     

    環境と共に表現されていることには理由がある。

     

     

    変わり続ける生命にとっての再現性とはなんだろう。

     

    「からだの学習」をとおして、足下の生命に目をやりながら考えていたこと。

     

    変わり続ける中で、変わらないこと。

     

    継続した「からだの学習」で原始感覚をとおすなら、今感じられることはあります。

     

    生命のベクトルから見れば、環境との関わりに終わりはないし、共生の中で個を維持しながら種を維持することはこれからも連鎖していく。

     

    地に根を張り、天に枝を伸ばし、日光を受けて、大気の変化に対応しているスギナの生命活動からも、目に見えることの背後で再現されていることは感じられるのです。

     

     

    どのような環境に生かされているのか、誰の視点でどこにピントを合わせるかで、目に見えることも、感じられることも変わってくる。

     

    個人の選択を越えて、生命として有難くいただいていること。

     

    「からだ」はそのようなことをいただいているから、それが現れるつくりが表現されてくる。

     

    操体においても、「こう操らなければいけない」という縛りから解放された自由な「うごき」によって「つくり」が表現されてくる。

     

    それは決して自分勝手な「我」の「うごき」ではないのです。