
投稿者: karib_sotai
-
私がずっと、植物嫌いだったワケ。 初日
こんにちは。畠山裕美です。1週間宜しくお願い致します。今回も、瀧澤さんと「次回のブログのテーマは何にしよう」と、話をしていて「そうだな、植物?」という感じで、わりとさくっと決まったテーマです。その割には、「私がずっと、植物嫌いだったワケ。」とは、何だかぶっそう?なテーマですが、これについて書いてみたいと思います。今現在ですが、植物は嫌いじゃないですし、仏様に花を供えているし、普通に花や植物と接しています。そして思い起こすと、10歳位から30歳位までの20年は、なぜか花や植物とは疎遠というか、何だか好きじゃない的な気持ちがありました。多分環境のせいもあったのではないでしょうか今では、子供が興味を持っていることや、好きなことは、伸ばそう、という風潮があると思います。ふと思い出したのは、「私は、小学校の低学年の時は、植物が大好きだった」ということなんです。それをずっと忘れていたんですね。なぜ、忘れていたかというと。。2021年の夏は、蓮の写真を撮りに方々に出かけました。 -
テーマ「植物」より・・・7
おはようございます。
葉っぱを触ってみる。薄くて、やわらかくて、触れ方によってはポロリとこぼれてしまうような葉っぱを触ってみる。
これは触診の練習になるだけではなく、第3分析である皮膚へのアプローチ、つまり渦状波®にもつうじる事だと思う。
渦状波®は皮膚を刺激するのではなく接触であり、接触であるから効果的なのである。
しかし、渦状波®を症状、疾患に対するアプローチと混同してしまうと、刺激になりやすい。
被験者の不快症状を何とかしたい気持ちは解るが、バランスを崩している被験者のからだを無視してはいけない。
からだを無視して、その症状、疾患を治そうと一方通行的にアプローチすれば、必然的に刺激になりやすい。
刺激をしてしまうと効果が薄いばかりか、良からぬ反応を招く事もある。
皮膚を侮ってはいけない。
バランスを崩しているからだに対していたわりの気持ちを持ち、そのからだが今、どうしてほしいのかという観点が必要。
そうでなければ、一方通行的となってしまう。
バランスを崩しているからだが、高額な金品を要求するだろうか?
内臓ストレスにつながるような高級な食べ物を要求するだろうか?そうではない。
天地の空間から生命活動の素を「息」によって充分にとり入れ、空間と調和する「動」でバランス制御に向きたいのではないだろうか。
それを踏まえ、からだが今、どこに、どう接触してほしいのかを感じられるようにしていく。
その為の学びが操体にはあるが、私たちの師である三浦寛先生によって診断法が第3分析から第5分析まで進化した今、治癒に向くからだの要求という事に関しても、理解しやすくなっていると思う。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。友松 誠。
-
テーマ「植物」より・・・6
おはようございます。
もう、20年近く経つだろうか、本格的に操体を学び始めて何か月か経った頃の事。
触診についての講義を受けていて、師は「時間のある時、植物の葉っぱを触って触れ合ってみるといい」というような事を仰っていた。
師の視診、触診は本当に見事であり、ヒカガミの圧痛硬結、脊柱配列の異常は勿論、米粒よりも小さな圧痛硬結も的確に捉え、被験者から瞬時に悲鳴があがるという具合だった。
その見事さに少しでも肖りたくて、私も自室の観葉植物は勿論、外出先でも葉っぱを見ると触ってみる習慣がついたように思う。
葉っぱを触ってみる。薄くて、やわらかくて、触れ方によってはポロリとこぼれてしまうような葉っぱを触ってみる。
気を配り、やさしく接しなければ、触れる事さえままならぬものもある。
接するとか、触れるという行為は、こちら側からだけの一方通行ではいけない。
あちら様の都合もある。
接触できて有難いという気持ちも必要。
やさしく接するから、みせてもらえるものがある。
やさしく接するから、鎧を脱いでもらえる。
やさしく接するから、弱いところも含め、ありのままをみせてもらえる。
これは、触診はじめ臨床に限ったことではないだろう。
師は、そこまで口で仰らなかったが、その気配り、所作、作法がそう語っていたように思えた。
-
テーマ「植物」より・・・5
おはようございます。
「食」は、他の生物の生命をいただくものである。
博愛精神と優しい心を持つ人ならば、どんな生物の生命も奪う事なく、自分自身も元気で長生きする事を理想とするだろう。
個としての生命を奪うのではなく、共に生きながら、その一部を有難くいただく。
そう考えれば、植物食は倫理的観点からも最適なのではと思える。
葉っぱを分けてもらい、果樹からは実をいただき、穀類からは種をいただく。
他の生命を奪う事なく、共存、共栄をはかる。
しかし、言うは易く行うは難し。
こうあるべきだ、という理想を持っていても、生身を持ち、その動物的本能からの欲求が頭を持ち上げてくれば、それに抗う事はなかなかできない。
それを精神的な面だけに焦点を当て、精神的に弱いとか、罪悪に感じたりとか、自分を責めても仕方のない事。
精神だけで生きているわけではないのだから、からだの都合も考えてみる。
環境に適応しながら生存を保とうとするからだにききわけてみて、動物食を求めているのならば、それも現時点で生存を保つバランスだと思う。
「食」の営みのバランスも、他の「息」「動」「想」の営みとのバランスによって変化する。
その中でも「動」の営みは「食」と密接なつながりがある。
例えば、重労働でエネルギーを消費し、肉体も消耗している時は、肉食主体の「食」を求めたくなるのは、誰しも経験があると思う。
しかし、同じ重労働でも「動」を、肉体を消耗させない身体の動かし方に変えていければどうだろうか?
「息」もそれに合わせた、天地からエネルギーの素を充分にいただけるものにしていけばどうだろうか?
お腹の内部環境は当然変わってくる。
そうしたバランスの上で「想」の優しい心持を活かせば、「食」の営みもその優しい心持を映し出すようなものへと、ストレスなく変わっていくと思う。
優しい心の持ち主が、その優しさゆえにストレスを抱えるというのでは忍びない。
バランスが大切。これは、メタボや生活習慣病対策にも当てはまる事。
-
テーマ「植物」より・・・4
おはようございます。
操体の創始者、橋本敬三先生の一般向けの文献には、人間の「食」について植物食が適当なのではないかと書かれている。
その理由として、よく知られているのが歯の種類と数に注目した捉え方。
前歯8本は野菜を、犬歯4本は肉類を、臼歯16本は雑穀堅果類を噛む歯なので、その割合で食物を摂れば肉食は七分の一で良く、動物食過剰は不自然であり、植物食を主体とした方が自然だという捉え方。
しかし、植物食しか、してはいけないというのではない。
また、単にこの割合で食物を摂れば良いとしているわけでもない。
「食」の営みは自分自身で責任をもって営んでいくしかないのだから。
その為に、よく噛んで自分自身の唾液をはじめとする分泌液とよく混ぜ合わせながら、お腹の後味も含め、からだにききわける事が大切。
体調によっては、上記の歯の種類と数に合わせた割合が良いという訳でもなく、場合によっては食べないという選択肢もあって然るべき。
橋本先生の主張が間違っているというのではない。
結果とプロセスの問題であり、からだにききわけるというプロセスをとおし「食」の営みだけでなく、他の「息」「動」「想」の営みと「環境」とのバランスが良くなっていけば、分泌液はじめ内臓バランスも変わり、結果的に植物食主体の食生活の方が、色々な意味で満たされるようになるのではないかという事。特に日本人は。
また、環境問題や他の生物との共存、共栄を考えれば、人間の生命バランスは植物食主体の粗食でも生命エネルギーの素を充分に活かし、満足感と幸福が味わえるものにしていく必要があるのだと思う。
-
テーマ「植物」より・・・3
おはようございます。
昨日は最後に動画を紹介しましたが、10年近く前の国連持続可能な開発会議での、当時のウルグアイ国の大統領ホセ・ムヒカ氏のスピーチでした。
ホセ・ムヒカ氏は、字幕スーパーにあったように「世界一貧しい大統領」としてメディアから紹介されている。
しかし、スピーチを聞く限り、貧しいという意味がまるで当てはまらないように感じる。
貧しいとは、財産や金銭が乏しく生活が苦しいという意味の他に、量・質ともに劣っている、満たされていないなどの意味があるという。
ムヒカ氏は大統領の時、給料の9割を寄付していたというから、個人の財産の金銭額としては他の国の長よりも少ないだろうが、そんな比較の仕方が馬鹿らしくなるほどの豊かさを持ち、満ち足りた上で質素な生活を送っているように思える。
もの事の観点が変われば、感じ方、考え方、心の持ちようが変わってくる。
心の持ちようが変われば、言葉が変わる。
言葉が変われば、まわりの現象が変わってくる。
これは言葉の波動にも依り、変化の仕方、大きさは違うだろうが、現象は確かに変わる。
欲張りの魂胆が強いと、それが感じられなくなる。
言葉の波動に素直なのが、植物のように思える。
植物は天地の運行に素直であり、人間の言葉の意味は解らないかもしれないが、素直な心からの言葉の波動に反応し、生長もする。
素直な心とは、天地を創造した創造主の理念につうじる心であり、そこには絶対的肯定がある。
絶対的肯定とは、此の世に存在している限り全て良しであり、良しだから存在できているといった肯定観。
「芽が出てくれて有難う」「育ってくれてありがとう」そこから花が咲いたなら、どんな花でも綺麗だし、思わず「綺麗だよ」と言葉が出てしまうだろう。
たった5文字の言葉でも、その波動は生長の素でもある。
それは質の高い快適感覚として受け止められ、その快適感覚で美しいものはより美しく変化していく。そして、快適感覚は伝搬するので自分自身も、それを感じて癒され、満たされる。
質素な時空ではあるが、リッチな時空。
-
テーマ「植物」より・・・2
おはようございます。
今年は、木々の紅葉から落葉がいつもの年より遅かったように感じます。
これも、地球の温暖化が進んでいる為なのでしょうか。
温暖化対策の為に植物を植えていこうという主張は何年も前からある。
確かに身近に植物があれば、空気が変わると感じられるし、癒しにもつながる。
しかし、たくさん植樹をして植物を増やせば、温暖化がくい止められるものでもないと思う。
人間の都合で数を増やしても、それがそのまま元気に育つとは限らないように思える。
そして、枯れてしまえば、枯れ木からはまた炭素が出てくるようになる。
なにより、自然界は人間の都合に合わせて運行しているわけではない。
現代の物質主義からの消費欲求優先の考え方、社会システムが招いた弊害を、植物をはじめとする他の生物に押し付ける。
そういうやり方は、いつか地球はじめ自然の恕限度を超えてしまう事が予測できる。しかし、予測はできても、今の社会システムを直ぐに放棄することはできないだろう。
今を生きる人の大半は、子供の頃より現代の社会システムに適合できるようにと教育されている。
しかし、人間は社会の子である前に自然界の子として生まれている。
天地、自然の恩恵に感謝しながら、どう生きるのが幸福につながるのか改めて考えてみる必要があるのだと思う。
今日は動画を紹介しておきます。
-
テーマ「植物」より・・・1
おはようございます。
実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。
どうぞ、よろしくお願い致します。
今回のテーマは「植物」ということでリレーしています。
12月も半ばとなり、まわりの山々を見渡すと、木々は紅葉を終えて落葉している際中であります。
普通は「植物」をテーマにするのであれば、花の咲く時季や新緑の季節だと思いますが、あえてこの時期にテーマとするのには何か意義深いものを感じます。
煌びやかなものの裏には、質素なものがある。
木々の花も実も瑞々しい葉も、今の時期冷え込んだ空気のなか、飾り気なくむき出しになっている幹や枝、地中に根を張る根っこがあったればこそ。
むき出しになった幹や枝は、落葉前に葉の養分やエネルギーを回収し、最小エネルギーで厳しい冬を乗り越える。
そして、春の訪れとともに素敵な花を咲かせ、陽射しが強くなれば光合成という素晴らしい能力を擁する葉を数多つける。
質素、質の素こそ重要。
植物も人も、性質は違えど素を天と地からいただいて自己を生成し、質を高めていく能力を元々有している。
しかし、人間はいつからか素のいただき方を軽んじるようになってしまった。
呼吸にしても動きにしても、意識しなくともからだが素を有難くいただこうとしてくれているから、何とかなっている。
その、何とかなっている状態というのは本来の状態ではない。
本来の人間は、健康はじめもっと人間の質を高める状態たるべきと思う。
素をそのまま有難くいただく素質は誰にでもある。
煌びやかなものは誤魔化しが利くが、質素は誤魔化しようがない。
誤魔化しようの無いものほど真であろう。
誤魔化しの心の鎧を脱ぎ去り、からだや自然に対して素直になって、感じてみれば良い。
その素質を開花させた時、素敵で素晴らしい生き方が待っていると思う。
-
言葉をもたない生き物に重ねて7
草木を眺めていると、植物のからだには「正面」というものはあるんだろうかと思う。
また、枝葉を伸ばしているあの地上部の拡がりには、右手や左手などの区別が存在するのだろうか、地中に伸び拡がっている根には右足、左足のような区別は、、、などと考える。
植物たちにとってはこんな問いかけはナンセンスなのかもしれないけれど、操体でからだのうごきについて学習していると、こういうことが気になってくることがある。
直立した人間のからだを正面からみれば、ぱっと見の外見は左右対称にみえる。
植物の正面をどこに定めればいいかは分からないけれど、その立ち姿はどの方向から見ても、その左右の関係は非対称にみえてくる。
この植物の姿・かたちにはうごきが宿っているように思う。
ぼーっと眺めていると、長い時間をかけて表現されてきた植物のうごきの軌跡がふわーっとみえてくる。
からだに宿っているうごきや「自然体」というものについて学習するものにとって、この植物の「立位」にはひょっとしたら見逃すことのできない秘密がつまっているのではないだろうか。
言葉にならないことばを介して、生命の記憶の部分に語りかけてくるように。
一週間のお付き合いありがとうございました。
テーマは「植物」のバトンとタスキを明日からの友松さんに渡します。
どうぞお愉しみに。
-
言葉をもたない生き物に重ねて6
植物を見ていて、しみじみすごいなぁと思うことがある。
一所に根を下ろしてから次世代の種子を産出して新天地に旅立つまでは、その環境で起こることにすべてに相対し、適応しながら生きているその姿だ。
動物とはまた違う、植物なりの「逃げ方」はあるのかもしれない。
けれども、基本的にはその場で起こっていることはある種の「全肯定」の姿勢で臨んで適応しているように見える。
いや、植物には肯定という捉え方も否定という捉え方も、そもそもないのかもしれない。
ただただ、起こること、与えられた状況をいただいて、そのことに素直に対応しているだけなのかもしれない。
その積み重ねによって生み出される「からだ」が植物の姿。
身近に植物や樹木を訪ねて、その様子にしばらく目をうばわれる、また様々な想いが湧いてくることもある。
何かがうごいてくる感覚になることがあるのには、こういう植物の生き方も関係しているのかもしれないと思う。