投稿者: karib_sotai

  • 環境・・・2

    おはようございます。

     

    私たちをとり巻き、一人一人に影響を与えている環境。

    この環境には、自然環境、社会環境、人為的環境があります。

     

    昔と違って今は、ほとんどの人が病院で産まれ、病院で亡くなります。

    その亡くなり方も、まだ生きようと動いている臓器があっても、ある一定基準のもとに人為的に死亡の判断が下され、火葬されて遺骨になり、住民票も除票となる。

    その様な人為的、社会的環境が優先された環境に生まれ、そして亡くなっていく。

     

    その為か、生き方も社会環境への適応が優先されるようになってしまっているように思える。

    また、そのように子供の頃から教育されてしまっているようにも思える。

     

    日本には、かつて優生保護法という法律も存在していた。

    社会環境への適応能力が不良とみなされれば、子孫を持つ事は許されない。

    そのような法律が平成8年まで存在していた。

    それで民主主義といえるのだろうか。

     

    私たちは、単に社会環境の固定的なシステム構成要素の一員として、生まれてきているのではない。

    私たちは自然から生まれ、一人一人が大きな可能性を秘め、影響を与え合う。

    その影響の与え方は、縛りの無い無限の可能性を持つ自然からしたら、良いも悪いも、良も不良もない。

    すべて良し。生まれてきた、ただそれだけで既に良し。
    後は、その良しを、より良く、より良くする為に生きていくだけ。

    呼吸の仕方が良くなり、感じ方が変わる。それだけで表情や表現が変わり、まわりへの影響は変わる。
    そして、その良さは、より良く伝播するものなのだから。

    無駄なもの、不良なものなど元々ない。
    全てを肯定しているのが自然であり、その自然環境への適応こそが第一義であらねばならない。

    その為に、自然から学ぶ。
    高度に発展した今の文明社会も、元々は自然から学んで、その仕組みや法則性を応用したものなのだから。

     

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  • 環境・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。どうぞ、宜しくお願いいたします。

    今回のテーマは「環境」ということでリレーしています。

     

    春を迎え4月になり、目まぐるしく環境が変化した人もいると思います。

    会社勤めをしている人であれば、本人が望む望まないに関わらず転勤、転属がある。

    今までやって来た仕事ではなく、新たな仕事を命じられる。

    今まで一緒にやって来た仲間ではなく、新たな人間関係も構築しなければならない。

    職場の社会環境の変化は勿論、転勤により引っ越しが伴えば、衣食住に伴う暮らしの社会環境も変化する。

    こうした変化は、色々と不安もあり大変だと思うが、それと同時に何か期待と希望、わくわく感もあると思う。

     

    そんななかで、何とかまわりから取り残されないようにと、必要以上に気を張り、気を使い、必要以上に頑張ってしまう。

    その為か5月に入る頃には、心とからだのバランスを崩してしまう人も多い。

    しかし、私たちは社会環境の影響だけを受けて生活しているわけではない。

    社会環境というのは、人間がつくり出したものであり、その元には人間が自然環境に適応して、より良く快適に共存共栄が成り立つよう生きていく、という目標があった筈。

    高度に文明化された社会に居るとそれが解りづらいが、自覚するしないに関わらず元には自然環境への適応がある。

     

    本人が自覚していなくとも、からだは自然環境に適応するよう働きかけている。

    その御蔭で、社会環境への適応が可能なものとなり、社会生活も営めている。

    その有難さに心を向ける事で、社会環境のなかで生じた精神的、肉体的ストレスも緩和、解消に向かわせる事が出来る。

    自分のからだが、自然環境とどのように調和をはかろうとしているのか。

    自分は、どのように自分のからだと自然によって生かされているのか。

    それを解明しながら、生かされている有難さを感じ、有難いという想いを基に様々な環境に適応できるよう呼吸や動きをはじめとする生活(生命活動)を少しづつ変えていく。

    これは操体の学びの根本でもありますが、そこで掴んだものというのは様々な面で応用可能なのです。

    臨床もその応用ですし、個人個人の生き方にも生かしてほしいのです。

    そうすることで、とかくストレスを抱えがちな今の社会環境のなかでも、健康で調和のとれた社会生活が送れると思うのです。

     

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  • 感境7

    昨日の続き

     

    人間の可能性について想う。

    からだを経由して、いただいたことのなかから学ぶ操体という学問は、

    ある意味で、この生命の本来持っている可能性に触れ、

    人間の可能性を発掘しているようなものだと思う。

     

    それは、人間にとって、より本来の人間らしく、また生命らしく生きることにつながるのではないだろうか。

     

    そんななかで、「感じる」ということの大部分を、からだを経由せずに機械に委ねる生活に慣れてしまっているということを、ハッと気が付かせてくれる機会が先日あった。

     

    師匠と兄弟子にご一緒して、当フォーラム相談役の川崎隆章氏のご紹介で、落語家の立川生志師匠と桃月庵白酒師匠の二人会(「生酒の会」)に伺った時の事だ。

     

    前編、後編ともに、豊かな空間を味わう機会をいただいたが、特に最後の生志師匠の「百年目」が響いた。この落語は初めて聴かせていただいたが、六代目三遊亭圓生の「淀五郎」を一時ききまくっていた私にとっては、途端に大好きな演目におさまった。

    帰り道に知ったことだが、この「百年目」が圓生の得意な演目であったことも嬉しかった。

     

    噺の内容も、生志師匠の芸から伝わる空気感にも完全に引き込まれて、ジーンと響きをいただいていたが、味わっていて驚いたのは、この演目の中に登場する人々の感受性豊かな生活の姿だった。

    携帯電話もない、インターネットもない、電気の通っているインフラも乏しい生活環境の中で、人間の有している感受性をフルに使って人間同士が情報コミュニケーション豊かな生活を送って生きていることが伝わってきた。

     

    そんな姿を味わっていると、いまの便利な生活のなかで、大切な人間の可能性を機械の可能性に委ねきってしまっているような気持ちがしてきた。

    SDGsもいいのだろうが、人間側の感受性に目を向けることなしに、自然とのいい関係を考えるのは少し遠いように思う。

     

    日本の古典と呼ばれている世界には日本人が感受性をフル動員して生きていた姿が残っている。それを味わうには、舞台から生まれる空間の生の空気に触れ、皮膚感覚を介して言外の体験をするのが一番だ。

    気持ちが動いたら、古典を味わいに足を運んでみることをおすすめする。

    時空をこえた人間の姿に、きっと皮膚感覚も悦んで、何か遠い記憶に触れているような気持ちが味わえるはずだ。

    わからなければ、ただただ味わうことから始めればいい。

    それはすでにアウトプットの始まりなのだ。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の登場です。

    どうぞ、おたのしみに。

     

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  • 感境6

    からだには、まだ人間の方で理解できていないだけで、可能性が満ちている。

     

    それは生命の可能性であり、人間の可能性につながる。

    操体を通して学んでいる最中にそのような生命現象に遭遇し、

    生命感覚に貫通している真理と呼べるようなものに触れているようなきもちになる。

     

    改めて考えてみると、そういった微細な出来事に気付くきっかけとなっているのは、

    普段意識することのなかったことに意識を向ける機会が増えること、そして感覚というものに対してあらゆる角度から向き合う機会が「からだ」からの学びのなかで必然的に増えたからではないかと思う。

     

    この向き合い方、あるいは受け取り方というものにも恐らく作法があって、

    生命感覚情報の大きなインプットのサイクルにスイッチが入るようなことを、特に最近の操体では学んでいるのではないだろうか、と感じる。

    それが今までの「感覚」を重視する操体のスタンスとも、また一味違うのだ。

     

    「アウトプット」はひとまず置いておくことにして、

    「からだ」から、また環境から、いただいていることがある。

    いただいているから自然と生まれている表現活動がある。

     

    そのあたりのことを息(呼吸)を介して学んでいるように感じる。

     

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  • 感境5

    からだと、からだの外の環境。

    目を開けると視覚情報として入ってくる世界があり、

    また目を閉じたとしても、この外部環境に常に皮膚を介して触れている事実がある。

    本人の意識の有無に関わらず、からだの方で、情報のやりとりは更新され続けている。

     

    それは、何かを求めることをあえてしなくても、常に何らかの情報をいただいているということに他ならない。

     

    これはからだの内の環境にとっても同様に言える事だと思う。

    からだの内部感覚情報も常時情報のやりとりが行われ続けている。

     

    それは、普段はほんとうに微細な変化としてしかとらえられないものかもしれない。

    でも、私たちには感覚というからだとのコミュニケーションを結ぶ上で大切なことばのようなものが与えられている。

     

    環境やからだがいただいている情報を受け取る。

    そのときに、感覚は大事な接点となる。

     

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  • 感境4

    昨日の続き

     

    何か知りたいことがあるときに、真っ先に頼りにするのが、スマホからの情報アクセスになって数年経つ。

     

    もしこのデバイスを充電できない環境になったら、どんなことが起こるのか、

    生活観もかなり変化しそうな予感がある。

     

    携帯電話、スマートフォンだけじゃない。

    電力の恩恵によって動くさまざまなインフラに支えられて今の人間は生きている。

    人間自体に充電は必要ないけれど、機械に機能拡張を支えられている面においては、

    見えないコンセントが人間に出現しているのと変わらないとも思う。

     

    わからないことを機械に相談して回答を得られる場合と、本を読んで調べたり、あるいは人に相談してみて何かを得るときとでは、情報授受のプロセスが変化する。

     

    改めて考えてみると、後者では無意識に作動しているわたしたちの皮膚感覚が、前者の情報授受の道中には乏しい。ストレートに求めている回答を得られるし、頭に働きかける刺激的な情報はあふれているように見えるけれど、からだを介した予期せぬ感覚情報からは少々分断されているプロセスのように思える。

     

    予期せぬ感覚情報こそ、面白いのではないかと最近改めて思う。

    感じることの境界線に存在している、生命に与えられし究極のデバイスである「皮膚」というもの。そのまだ知られていない可能性も含めて、もう少し人間は面白がっていけたらいいなと思う。

     

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  • 感境3

    人類の歴史は縄文時代から考えると1万数先年続いていると言われているが、この百数十年で加速的に変化しているように思う。

     

    文明が発展することで、多くのものごとが個人から他者に「代行」されるようになり、

    近年ではその担い手がどんどん「機械」に委ねられている。

     

    技術を使いこなすことにはスッと順応できているようでいて、肝心な部分は他者(機械)任せになっているようにも思う。

     

    機械のほうで「自動的」に感じ取って、スイッチひとつで物事が進んで行くことはとても便利だし、大いに活用できるといい。

    その背景で、何かを感じ取るという役割の多くを、誰かに任せきりになっていることは人間という生き物にとっては大きなことなのではないかと思う。

     

    ソロキャンプやDIYにふと気持ちが動いて、下手でもなんでもいいからちょっと

    自分でやってみたいという方が増えているのも、

    誰かに何かを委ねる生活から離れて、感じる時間に身をおきたいことの現われなんじゃないかとも感じる。

     

    便利を味わいつつ、感じることからも離れない、いい塩梅の生活というものもあるのではないかと思う。

     

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  • 感境2

    からだの外で起きている出来事を、本人は気が付いていなくても、からだの方ではしっかりキャッチしている。

     

    季節がくると、頭を悩まされる人も多い「花粉症」も、

    いち早くからだの方でその到来を感じ取って、本人に体調変化として伝えてくる。

    花粉症ではないけれど、私も季節の変わり目は体調を崩しやすく、

    恥ずかしながら、体調を崩し始めて、「あ、季節が変わり始めて来たな」と後から気が付くこともある。

     

    先日、兄弟子から教えていただいたが、気候や気圧の変化によって体調を崩す現象を「天気痛・気象病」として、診断治療の対象として診ることもすすんでいるとのこと。

     

    目に見えない変化やからだから物理的に離れている現象を由来にして、それをからだの方でキャッチしていることの確かな証拠。

     

    花粉症や天気痛は現象としては、結構シンドイことに感じられる。

    一方で、ある面においては機械よりもよほど正確に環境情報を受け取る、からだに備わっている感受性の可能性を感じさせてくれているようにも思う。

     

     

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  • 感境

    おはようございます。

    瀧澤実行委員、一週間のブログ投稿ありがとうございました。

    本日からテーマ「環境」のバトンをいただいて、寺本が投稿致します。

    よろしくお願い致します。

     

    「環境」には「からだ」という切り口から眺めてみると、その外側での出来事と、内側での出来事があるように思います。この両環境は見えないところで、連絡を取り合い綿密に影響を受け合っています。

     

    からだを使わせていただいている「本人」は、その環境に、もうひとつ影響を与えている存在です。生活態度の影響が、からだの外側では自然環境につながり、またからだの内部の環境にも様々な影響を与えることになります。自分で書いていて耳が痛いですが、自然のバランスと相容れないような人間の振る舞いは、環境問題につながります。からだの内部環境のバランスに調和の取れないような振る舞いをすれば、同じように内部環境問題に発展します。

     

    どちらの環境に対しても、その情報を適切に「受信」する能力が人間側の方でうまく機能していない状況があり、それが当たり前になりつつあるのではないかと思います。

    これには鈍感だけではなく、受信するためのアンテナが敏感になりすぎていて大変な思いをしている場合もあるでしょう。

     

    適切な受信がなされていないと、それは発信することにも影響します。

    感じるということのバランスについて、からだの外と内の両面から、もう少し向き合ってみることが必要になっているのではないかと思います。

     

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  • からだからいただく環境に重ねて⑦

    からだからいただいて、感じられることがあります。

    からだがききわけていることを素直にいただくと、からだが教えてくれる、ということ。

     

    環境ということも、からだはどんなふうに教えてくれるんだろう。

    そんなふうに向き合っていました。

     

    ほんとうにそうなのか、理屈の前に感じてみることの大切さ。

    そして、感じる前に環境という感覚の素があるという有難み。

     

    生かす力の環境と、生かされている生命体としてのからだをつないでいること。

    それにふれられる学びが橋本先生から三浦先生へと続いている中にあります。

     

    素に直にふれられるように主語が変われば、いただいていることをそのまま感じられる。

    息、食、動、想もわたしの営みからからだの営みに変わってくると感じられるのです。

     

    一週間ありがとうございました。

    次は寺本さんにバトンとタスキを渡します。

    よろしくお願い致します。

     

    明日からもどうぞお愉しみに。

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