大きな海を見に行くだけでも
何か心が洗われます
音や匂いや風がそうしてるのかもしれませんね
人は何かを背負って、この世に生まれて来る。
「癒す」とは、その人の人生の課題である。
「癒える」とは、生の苦しみから解放されることである(多くの人は、死の時を待たねばならない。希に、人生の途上でそれに至る人がいる。その人を、悟った人、覚者と言うのだろう。)。
「癒し」とは、心の方向を変えること、自分の人生に納得すること、生を全うすること、そういう生き方をすること、であろう。
「治し」は、「癒し」という広大な裾野に支えられた、山の頂にすぎないのではないか、という気がしてくる。
解剖学者 三木成夫先生は、
「「内臓不快」-これが人間苦の究極の“引き金”だ」(「内臓とこころ」23p)
と語っておられます。
「これはものの本質をついていると思います。なにもむずかしいことをいう必要はない。
お腹がすいたと時に、ほんとうにお腹がすいた。そして、なにがどれくらい不足しているかがわかって、それにふさわしいものを食べることができたらそれでいいんですから・・・。
私ども凡俗は、仏の教によりますとけっしてこうはゆかない。空腹が「縁」となって、それこそ百八煩悩が、夏雲のように湧き上がってくるという。まったくもってどうしようもないですね。(中略)
私どもの人生というのは、いってしまえば、この煩悩、妄想との明日なき闘い、といっても言い過ぎではない。」(同23~24p)
それを適正化すること、あたりまえをあたりまえにすること、が「癒し」ではないか。
人は、どんな時に治るのか?
という問いに対して、
アンドリュー・ワイルは、
・治療者が、その治療法を信じていること
・患者が、その治療法を信じていること
・お互いが信頼し合っていること
を挙げている。
Placebo効果という言葉があるが、治療が、技術を施すだけではない事を物語っている。
からだが治ろうとする状態を導くことが「癒し」なのだろう。
東洋医学では、「未病」と「已病」という言葉を使う。
未病とは、病気になる前の不調を訴える時期である。この段階で治す医者を「上工」と呼んでいる。
これは、予防医学や健康医学と言われるものに相当する。
已病とは、病気になった状態である。この段階では、疾病医学が必要となる。
未病に対するアプローチが「癒し」であり、已病に対するアプローチが「治し」である。
実際の治療では、この両方が必要となる。
だから、「治療」と言うのであろう。