登山家、冒険家の植村直巳さんは、五大陸の最高峰を制覇し、後進の登山家達に影響を与えました。
「やったことの大きい、小さいではなく
自分の夢に向かって
どれだけ”心”を賭けることができたかが大切である。」
という言葉を残しています。
これは、全ての人々に向けた、生きることへの応援歌です。
登山家、冒険家の植村直巳さんは、五大陸の最高峰を制覇し、後進の登山家達に影響を与えました。
「やったことの大きい、小さいではなく
自分の夢に向かって
どれだけ”心”を賭けることができたかが大切である。」
という言葉を残しています。
これは、全ての人々に向けた、生きることへの応援歌です。
リヒャルト シュトラウスに「アルプス交響曲」という作品があります。アルプスを眺望する小高い山に登ってから降りるまでを音楽にした秀作です。
この曲もいいのですが、私はどちらかというと、この作曲家の「オーボエ協奏曲」が好きです。
第二次世界大戦が終わった1945年、スイスの山荘に隠棲していたR.シュトラウスの所へアメリカ軍の兵士が慰問に訪れた。その中の一人に、当時ピッツバーグ交響楽団(後に、フィラデルフィア管弦楽団)の首席オーボエ奏者のジョン・デ・ランシーがいた。
彼は、シュトラウスのオペラのオーボエ・パートの書法を絶賛し「この楽器のために協奏曲を書く気はありませんか?」と尋ねた。シュトラウスは気の無い返事をしたが、その後、気が変わり、今日我々が聴く、あの美しい曲が書かれた。
作曲家は、初演のソリストにデ・ランシーを望んだが、1946年当時、まだ従軍中であったために叶わなかった。 残念
人生には、山坂がある。
野球人 野村克也さんは、
人生には、3つの坂がある
登り坂、下り坂、まさか
「まさか」に備えよ
と警鐘を鳴らしています。
野球の名手であるとともに、常に山場(話題)を作ったセルフプロデュースの達人でした。
サッチーさんのお蔭だったのでしょう。
今秋も、森林公園の紅葉を見に行った。
緑・黄・赤のグラデーションが、とても美しかった。
春は花見と称して桜をめでる。
では、秋は・・・・・万葉集に
秋風は 涼しくなりぬ 馬並めて いざ野に行かな 萩の花見に
という歌があった。
そうか、秋は萩か。じゃあ春は牡丹じゃないか。
桜は、日本人にとって特別なものだから、そうなんだろうな。
そして、ふと思った。
ハロウィンも、ブラック・フライデーもいいけれど、萩(おはぎ)と牡丹(ぼたもち)も、もう少しキャンペーンをやったらどうか、と。
※テーマは引き続き「山」です。
腰痛の治療に来られている50代の女性が待合室で「ヤマケイ」のバックナンバーを楽しそうに読んでいた。
登山雑誌『山と渓谷』のことである。
若い頃、数々の名山に登って来られたそうだが、「今は、低山歩きを目指しています。」とのことだった。
『岳人』も、よく読まれていたそうである。
コロナ禍による運動不足で、ご自分が思っているより足腰が弱っている現実を、最近気付かされたという。
早く良くなって、またtryしてください。
本日で最終日になりますが、私がこれまで操体の学びの中で掴んできたことは「学び方」であったのだと現在強く実感している。
その学び方とは積み重ねていくことではなく、これまでの自身の思考や癖を削ぎ落していくことでもあった。
その中で変わってきたのは視点の切り替わりであり、意識の転換なのだと感じている。
昨日の山の見方にしても、何を基準に表と裏を見るのか。
自分から見た世界(景色)とからだから見た世界(景色)は異なるということ。
そのからだから見える景色を感覚というフィルターを通して意識に落とし込み言葉にしていくことがこの学問の本質であると実感している。
一週間お付き合い頂きありがとうございました。
明日からは半蔵さんが担当致します。
子供の時、年に何回か学校から富士山が見ていたのを覚えている。
その景色の美しさに心を奪われていたのは昨日ことのように覚えているが、その時にいつも不思議に思うことがあった。
山はどこから見るのが正面で、どこから見るのが背面なのかということ。
当然ながらそれは山に限らず現象物体は人間の決め事の中での正面と背面はあるのだが、自然から見た表と裏は違ってくるように思える。
人のからだも構造から見た表と裏、動きから見た表と裏があるように最近は感じている。
何事も今までの捉え方から少し角度を変えて新たな視点から捉え直して見ていくことも学びにおいては大切なことである。
からだには幾つかの山と呼べる部位があります。
例えば肩甲骨、胸椎12、母指球。
これらの山はからだの動きにおいてとても大事な役割を果たしています。
それらを上手く使えないと谷となる部位には圧通・膏血が生じる。
つまりからだそのものは自然と同様に流れがあり、その流れが滞るとからだの歪み(ひずみ)に繋がる。
大切なことは自身では目にすることの出来ないからだの部位を意識していくこと。
そこにちょっと意識を向けることでからだ(うつわ)には循環に必要な風(吸気)が自ずと入ってくる。
自分が意識しなくても自ずと呼吸がからだが必要としている分だけ自然に入ってくる。
自分が意識しなくてもからだが調子のよくない部位を教えてくれる。
自分が意識しなくてもからだが必要な食事を教えてくれる。
自分が意識しなくてもからだが物事の判断をしてくれる。
自分が意識しなくても環境との向き合い方を教えてくれる。
自分が意識しなくてもからだがからだの真理を教えてくれる。
これが私の捉える自然体です。
2022年秋季東京操体フォーラムは11月23日ハイブリッド開催致します。
よく「自然体」という言葉を使いますがこれは一体どういうことなのかを考察していきたい。
一般的には
とありますが、いまいちピンとこない人も多いようです。
以前によく聞かれた「ありのまま」という言葉がありますが、一般的にはメンタル面から捉える人とからだから捉える人と分かれるようですね。
では構造力学的に見てみて左右均等に歪みのない状態が「自然体」なのかと言われるとそうでもないように感じます。
ここで自然体について調べていると面白い捉え方をしている記事がありました。
振付家・ダンサーの鈴木ユキオさんのインタビューでこのようなことを言っています。
「自然体は社会や他者などの外側の枠組みに合わせながら作っていく」
「誰からも影響を受けない脱力しきった状態は、人間の身体にとってはすごく『不自然体』とも言えるんです」
「『周囲に対してどう見せるか』を考えるのではなく、自分がこうありたいと思う身体の状態を決めて、そこに自分を近づけていくんです」
※振付家の鈴木ユキオさんと一緒に、自分らしい「居方」を考えるより」
私が操体の学びの中で掴んできたことを踏まえ、この言葉から思うのは人の自然体とは私達を生かしてくれている環境との関わり合いの中で自分とからだの意思で生まれてくるものだということです。
それは決して目に見える姿・形でなく、感覚を通じて実感していくもので全てからだが教えてくれるものなのです。
2022年秋季東京操体フォーラムは11月23日ハイブリッド開催致します。