投稿者: karib_sotai

  • 感覚=表現~あらわれてくる「からだ」~④

     

     

     

    手順を追って、正確に操っても、

     

     

    手本を真似て、上手に操っても、

     

     

    「感覚=表現」にはならない。

     

     

     

    「感覚=表現」は

     

     

    意識関与とは、もっとも遠いところにあるから。

     

     

     

    習慣的に身につけた無意識と、

     

     

    「からだ」の無意識は違うってコトも、

     

     

    「感覚=表現」であらわれてくる「からだ」は教えてくれる。

     

     

     

     

    (からだ主語)

     

     

     

     

    その意識関与を手放したとき、

     

     

    あらわれた「からだ」は吸気をとおして教えてくれる。

     

     

     

    ここに、

     

     

     

    ここに、

     

     

     

    ここに立つ。

     

     

     

  • 感覚=表現~あらわれてくる「からだ」~③

     

     

     

    意識するから、感じられる。

     

     

    感じているから、意識になる。

     

     

    あべこべのようなことも、

     

     

    「からだ」がききわけているから、「からだ」にききわけられる。

     

     

     

     

    (からだ主語)

     

     

     

     

    感じようとしていないのに、

     

     

    意識しようとしていないのに、

     

     

    気づいたら表現している「からだ」はあって、

     

     

    そんなときは、

     

     

    「からだ」がききわけている、ということだけになって、

     

     

    「わたし」はおいてけぼり。

     

     

     

     

    なんてことはなく、

     

     

    ちゃんと「うごき」と「ながれ」にのっかっている。

     

     

    「からだ」と重なって、消えているだけだから。

     

     

     

  • 感覚=表現~あらわれてくる「からだ」~②

     

     

     

    呼吸は「感覚=表現」。

     

     

     

    吸気は表現そのもの。

     

     

     

     

    (からだ主語)

     

     

     

     

    吸気が「からだ」に入り、吸気が「からだ」から抜ける。

     

     

     

    吸気が空間から抜けて、吸気が空間に入る。

     

     

     

    空間と「からだ」。

     

     

    あっちとこっち。

     

     

    吸気で一致。

     

     

     

    そこにないもの。

     

     

    それは、私。

     

     

     

    もし、「わたし」が入る余地があるのなら、

     

     

    それは、「吸気をいただいている」と、

     

     

    感覚意識で感謝が生まれたとき。

     

     

     

  • 感覚=表現~あらわれてくる「からだ」~①

     

     

     

    岡村さん、「からだ」は届きました。

     

     

    感謝の「からだ」と(瀧澤)です。

     

     

    ひきつづき「からだ」とのお付き合いよろしくお願い致します。

     

     

     

    テーマ「うらおもて」

     

     

     

    ウソかホントかやってみて

     

     

    やってみたからいただいた

     

     

    うらもおもても「からだ」でひとつ

     

     

     

     

    (からだ主語)

     

     

     

     

    解放されて、自由なのが「からだ」だから、

     

     

    私(人間)の支配下にはおいておけない。

     

     

    「からだ」は生命そのものだから。

     

     

     

    どんなに意識関与でコントロールしても、

     

     

    コントロールするだけではヒズミが生じてくる。

     

     

    コントロールすることはヒズミそのものだから。

     

     

     

    それだと、「からだ」はあらわれてこない。

     

     

     

    「感覚=表現」

     

     

     

    「からだ」は、感じることであらわれてくる。

     

     

     

    コントロールしようとしている私(人間)に、

     

     

    感覚をとおして、何が自然で、何が不自然かを教えてくれるのが、

     

     

    生命そのものの「からだ」なんだから。

     

     

     

  • 表裏は、一体「=からだ」⑦

    裏と表。

    デザインをどちらにするかで全くイメージが違う。

     

    入る部位と出る部位。

     

    密な部位と疎な部位。

    鍛えられる部位とそのままの部位。

    薄い部位と厚い部位。

     

    ところどころ、裏と表は協力し、繋がって拮抗し、バランスする。

     

     

    表地と裏地。

     

    若い時は「見た目」、外見が気にして、気にする。

    齢いを重ねると「心」、内面が気になり、気になる。

     

    ホントは、生まれつき、表裏一体。

     

     

    皮膚を診る。

    接している皮膚。

     

    面とするか、軸とするか.

    一点とするか、空間とするか。

     

     

    目的があれば、どの考え方でもいいことはない。

    何故なら、理に適う生き方も、間に合う目的だから。

     

     

    「おもて」はわかりやすく、深い。

    「うら」はわかりにくく、シンプル。

     

    いままでも、いまも、これからも、繋がって味わえる。

    操体哲学を検証して実践し、表裏一体「環」を感じたい。

     

     

    ということで、一週間のお付き合いを感謝いたします。

    明日からは岩手より、瀧澤副実行委員長の登場です!

    お愉しみに!

  • 表裏「いったい」について⑥

    トイレの話ばかり続けて申し訳ない。

     

    そういえば、三浦理事長の語ったトイレ掃除で思い出した。

    スリッパの表と裏があるだろう、と。

     

    トイレ掃除をしても、スリッパの裏(床につく汚れる面)をきれい

    にする人はいるけれど、人の足を入れる内側の面、それも上下まで

    しっかりきれいにする人は少ないよな、と三浦理事長は語っていた。

     

    「おもて」は、上と下から眺めるだけで見つけられても、「うら」。

     

    つまり、興味を持って「うら」を見出さなければ、全く無視している。

     

    掃除は、一事が万事とも教えてもらったことがある。

    どこを見て、どこまでわかるのか、わかった気になっていないか、と。

     

    それからは、少なくとも集中して人間だけでなく、様々な生命も暮らす

    この「環境」を、間の許す限り意識できるようになった。

     

     

     

     

  • 表裏「いったい」について⑤

    ゆっくり味わうこと、それはトイレの「間」。

    なのでトイレ話を続けてしまうけれど、食事中ならば申し訳ない。

     

     

    以前、三浦理事長からトイレ掃除について、含蓄ある実践語りを聞いた。

     

    自分の使っている便器。

    便器は汚いモノだろうか、と。

    そりゃそうだろう、と考えた後『なぜ汚いって考えるのか』を考察した。

     

    三浦理事長は、自分の中に入っている間は『汚い』なんて思わないのに、

    なんで自分の中から出た瞬間から、汚いって思うんだろうな、と。

     

    たぶん、ほとんどの人達は自分を「おもて」だと考えているんだろう。

    そして「うら」、「からだ」の内臓を全く気にしていないからなのか。

     

    それでも、内臓から外の空間に出た瞬間から『汚い』と考えるのを、

    全く考えずに自分の愛おしい一部である、とするのは若干厳しい。

     

     

    どうしたらいいのだろうか。

     

     

     

    その答え(に近い)実践を、三浦理事長は教えてくれたのである。

     

    ワタシ自身、ウソかホントか、それを愚直にやってみた。

    そうしたら、自分が考えた世界観は「ガラッ」と音を立て崩れた。

     

    やはり「うら」も「おもて」も、やってみないとわからないのだ。

    聞いただけ、知ってるだけ、情報を撫でただけでは、わからない。

     

    皆様も考えてもわからなかったら「からだ」に問い掛けてみては?

     

     

     

     

  • 表裏「いったい」について④

    ゆっくりでないと、トラブルを起こしやすい内臓の働き。

     

    電車を乗り継いで、通路や駅トイレを利用しているとき、

    なぜだろうか、掃除中と書いてある看板によく出くわす。

     

    ある時、物凄く出したかったので、多目的トイレに入った。

    トイレの表からはわからない、中のスペースの広さに驚いた。

    そそくさと用を済ませ外に出ると、やはり次の人が待っていた。

     

    その方も、掃除看板に我慢できなかったようで、間髪入れずに

    多目的トイレにダッシュで入り、ゆっくり快感を得ただろう。

     

     

    閑話休題。

     

    そういえば、三浦理事長はトイレでの重心と重力について語った。

    便意を催すとき、右手でトイレットペーパーを取り、拭き取る所作

    であっても、理に適った「からだ」の使い方は、効率よく美しい。

     

    その後、数人の方にトイレでどのように拭き取っているのか聞いた。

    当たり前の様に、後ろから手を回すと思ったが、前からの人もいた。

     

    最近では、割と良いトイレットペーパーには裏と表もある。

    「うら」か「おもて」かわからないが、エンボス加工になっていて、

    それでデリケートゾーンを触れると、「からだ」は識別できている。

     

    トイレの中で、様々な想いやヒラメキを感じとることが多いので、

    このような進化は(個人的に)大歓迎である。

     

     

  • 表裏「いったい」について③

    トランプに裏と表がある。

     

    「おもて」の絵柄が全て同じでないとトランプは困る。

    見た目が同じでわからないからこそ、動きを活かせる。

     

    「うら」の絵柄は全て違うし、働きや雰囲気も異なるからこそ、

    各々を生かして、繋げたり、意味づけた遊び方も想像できる。

     

     

    訳(ワケ)あって、そんなふうにできている。だから愉しい。

    「からだ」もそうなっているのだろう。

     

    日常習慣の速さでは、あまりに速すぎて味わえないことも多い。

    緩あって、ゆっくり、すーっと、ふわっとに馴染むのも「間」。

     

     

    ついつい時間に向け、忙しくしてしまうのは習慣の癖でもある。

    「はやく!はやく!」は、「からだ」に使わない方が良いのだ。

    この言葉は、十分過ぎるほど刺激的だと感じるのだから。

     

     

    閑話休題。

     

    ゆっくりしていると、つい見てしまうところがある。

    それは、「手のひら」と「手の甲」、爪も伸びていないか。

    足の裏とあしの甲も見てみる、爪が食い込んでいないか。

     

    そういえば、甲にはあり、平と裏にはないもの。

    その心はなんだろう。

     

    様々な答えもある。

    面白い答え方を考えてみる。

     

    はい、ととのいました。

    手を合わせ今日一日、無事平穏に感謝、と解きます。

     

    その心は。

    「欲」もホドホドに手離して怪我(毛が)無し。

     

     

  • 表裏「いったい」について②

    ゆっくりと、ゆっくりと時は過ぎる。

    ゆっくりとした夢のような居心地がここにある。

     

    朝起きると1番初めにやること。

    それは、まず水をいっぱいゴクリゴクリと飲み込むこと。

     

     

    現在は、日本に様々な水が輸入され、また様々な加工された水や、

    地方色豊かな天然を謳った自然水もある。

     

    水そのものは珍しくない。

    水道水、浄水器の水、日本各地や海外の場所で採取した水。

    それは、何かしら味わう感覚も、新鮮味も嬉しかったりする。

     

    その味わいを表現すると、その場の集約された「表」の味わいと、

    飲み込んだ後の「裏」、内臓でも味わっていないわけではない。

     

     

    ほんとうに喉が渇いたとき。

     

    そして、最も「からだ」が欲してしているとき。

     

    表の裏の面に「器」があって、それを実際に色付けていくのも、

    息と供に通していった水なのかもしれない。

     

    そして、「おもて」と「うら」に通していったモノは、

    「からだ」の中で、非常に大きな命をも育んでくれている。

     

    シンプルなことほど、恐ろしいほど奥が深いものだと気付く。