投稿者: karib_sotai

  • テーマ、健康と寿命・・・7

    おはようございます。

     

    先月お亡くなりになった松本零士氏の作品の中に「銀河鉄道999」,という漫画がある。

    この漫画は、主人公の鉄郎という少年が機械の身体をもらうために、メーテルという謎の女性と共に銀河鉄道の999号に乗って、銀河を旅する物語となっている。

     

    鉄郎は永遠の命を得る為に、機械の身体がほしいと望んでいた。

    しかし、機械の身体を提供してくれる星に到着し、実際に機械の身体となった人間を見て、愕然としてしまう。

     

    そこには、機械の身体を手に入れ、永遠の命をもったが為に、生きる目的や意義を失い、自堕落した生活に陥った人々や、時間を持て余す事に悲観して自殺してしまう人の姿があった。

    それを目の当たりにした鉄郎は、機械の身体で永遠の命となるより、限りある命を精一杯生きる方が幸せなのではないか、と考え方を改めるようになる。

     

    このシーンを、テレビアニメで観ていたのは、小学生の頃だったが凄く心に突き刺さるような感じがしたのを覚えている。

    このテレビ放送は、1970年代だったが何か令和の今の時代への問いかけのようなものを感じる。

     

    1970年代に比べて、今は平均寿命が随分と伸びている。

    また再生医療も進歩し、将来は機械の身体などではなく生身の身体で、永遠の命を手にする事も可能となるかもしれない。

    しかし、それが幸福な事かといったら、一概にはそう決めつけられないと思う。

    肉体が永遠となれば、生命も永遠であり幸福というものでもあるまい。
    心というものがあるのだから。

    この肉体を、自分のものとしている自我だけが心なのではない。

     

    自我を取っ払ってしまえば、この肉体は大自然から、有難くお借りしているものなのである。

    十分に生きて、いつか大自然にお返しするものなのである。

    そして、此の世を十分に生きたなら、彼の世に帰っていくのであり永遠のいのちなのである。

    だから、十分に生きるために、生かされし自然の理から学び、健康で愉、快に、少しでも長持ちさせて生きていく必要があるのだと思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

  • テーマ、健康と寿命・・・6

    おはようございます。

     先月、テレビのニュース番組を見ていて漫画家の松本零士氏の訃報を知った。

    番組では10分くらいの特集を組んでいて、松本氏の作品である「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の紹介や、生前のトークショーの時の模様などが放映されていた。

    番組の最後では、後世に何を残していくべきなのかとして、以下のような直筆の色紙のメッセージが添えられていた。

    人は死ぬために生まれてくるのではない、生きるために生まれてくるのだ

    松本氏の子供時代には戦争があり、父は戦闘機のパイロットをしていたので、戦争の悲惨さをよく聞かされていたという。

    だから、この言葉には命の大切さや平和の尊さ、平和への願いが込められているという。

     

    そうした平和への願いの他にも、この言葉には、どう生きるかという問いかけが、含まれているようにも感じる。

    人は生まれてきたからには、いつかは死なねばならない。

    これは変えようもない事実である。

    この変えようもない事実から、どうせ死ぬのに何で毎日毎日生きなければならないのか?と疑問を持つ人も少なからずいるという。

     

    それだけ生きるのを辛く感じているのかもしれないが、あまりにも短略的すぎる感はある。

    生きていれば辛い事、悲しい事、不満、不公平感、自分を苦悩させる様々な事がある。

    それでも、現に生きて自分自身が存在している。

    苦悩していても、現に生きているという事は、それだけ生かされているという事でもある。

     

    自分で生きているという想いばかりでは、理想と現実のギャップに苛まれる。

    その苛まれる理由は、人為社会的環境に於いての自分を主体として想うからであろう。

    しかし、空間に在る自然環境の構成要素と自分のからだは、自分の想いがどんなでも全肯定して生かしてくれている。

    心の目を向けるべきは、そちらであり、これほど生きる自信につながるものはないのではないだろうか。

     

    人為、社会的環境というのは、どうしても比較対象を生み、その比較対象から自信をなくしたり、不平不満に苛まれたり、生きるのが辛くなったりする事もあるだろう。

    しかし、それでも有難く生かされている。

    橋本敬三先生の言葉をお借りすれば、元々救いの完成されている生命なのだから。

    そちらに目を向け、感じてみる。

    これは、健康、長寿の大敵である心的なからだへのストレス、息(生き)苦しさを無くしていくことにもつうじると思う。

  • テーマ健康と寿命・・・5

    おはようございます。

     

    来院していただいている被験者の方たちのなかに、健康の為に様々なエクササイズをしている人もいる。

    健康になりたくて取り組んでいる○○というエクササイズなのに、なかなか身心の不調が解消されないという。

    なぜ身心の不調が解消されないか。

    それは、生命エネルギー収支のバランスに適った事をやっていないからであろう。

     

    運動は健康に良いと昔から言われていて、運動そのものについての研究は各分野で細かくされている。

    しかし、その「動」が、この「環境」のなかで「息」にどう影響し、「動」と「息」によって生じる動きの流れが、感覚をとおして「想」にどう影響し、心とからだの関係に影響を与えるか。

    また、「動」と「息」によって生じる動きの流れの循環が、「食」からの消化、吸収、排泄にどう影響し、身体のつくりに影響していくか。

    そうような、からだの生命活動への影響まで考えているのだろうか。

     

    上記のからだへの影響は一例に過ぎないが、「息」「食」「動」「想」は同時相関相補性になっているので、「動」が自然環境に適応したものとなっていけば、他の「息」「動」「想」も、より良く変わっていき、生命エネルギーの収支バランスはとれてくる。

    すなわち健康につながるという事であり、健康が回復していく過程に於いて様々な不調は解消されてくる。

     

    バランスが大事なのであり、自然環境への適応抜きに「動」だけ自分本位に特出させようとすれば、バランスは崩れやすくなってしまう。

    「動」も、絶えず自然環境の間で行われている「息」との相関性が希薄になってしまい、動きの流れにも滞りが出来て、スムースにいかなくなり、身体を窮屈に使うようになってしまう。

    身体を正当に使えなくなってしまうという事であり、無理をすれば怪我もしやすくなる。

    運動や体操が健康に良いと言われるようになって久しいが、からだの動きと呼吸の相関性だけでも念頭に置いておく必要があると思う。

  • テーマ健康と寿命・・・4

    おはようございます。

     

    生命エネルギー収支のバランスをとり、いかに良く環境に適応するかが、健康の鍵となる。

     

    そこで橋本敬三先生は、自分自身で責任もって営まねばならぬ最小限の生命活動の営みである「息」「食」「動」「想」に注目し、それぞれの自然法則を究明し、その自然法則に合わせていくことで、誰もが健康で満足した人生が送れると説いた。

     

    究明した自然法則は『般若身経(健康の自然法則)』と銘打ち、ビラを刷って一般の人に配っていたこともあったという。

    その想いは「動」の身体の使い方、動かし方にしても、名人達人の域にならなくてもいいから、せめて間に合うように及第点を会得してほしいというものだった。

     

    「動」の身体の使い方、動かし方にしても、これをすれば○○病に効果があるといった一時期話題になるだけの○○病体操のようなものではない。

    重要なのは、「息」「食」「動」「想」のバランスと「環境」とが調和して、本来の健康体としての自分自身を取り戻していく事。

    そのバランス制御をするのは、自分のからだであり、自分の目論みだけでどうにかなるものではない。

    しかし、からだのバランス制御のサポートは、自分で出来る。

     

    そして、からだのバランス制御が十分に成されれば、自然環境に自在する生命エネルギーの素と生命活動の調和は密になり、生命エネルギー収支のバランスがとれ、本来の健康体を取り戻していく。

    ○○病への効果というのも、健康を取り戻す過程に於いて成されてくるものである。

     

    橋本先生が一般の人にビラを刷って渡したのも、からだのバランス制御のサポートをする為に、日々の生活の中で出来る範囲で構わないから、行ってみてくれという願いが込められていたと思う。

    「息」「食」「動」「想」は同時相関相補性になっているので、「動」が自然環境への適応に向いて変わってくれば、他の「息」「食」「想」も変わりながらバランスがとれてくる。

    「動」の身体の使い方、動かし方にしても、奥は深く追求していけばその効果の程は果てしないが、ビラに書いた事柄をやってみるだけでも、効果こそあれ損はないのだから、とにかくやじ馬根性を出してやってみてくれという想いだったと思う。

  • テーマ健康と寿命・・・3

    おはようございます。

     

    病気をしない事、イコール健康という考え方の人もいるだろう。

    しかし、実際はそんな二者択一的なものではない。

     

    健康な状態から病気に至るまでには、「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランスが乱れ、歪み(ヒズミ)が生じ、なんだか気持ちが悪い状態が続き、内臓含めからだの働きが悪くなる。
    そして、目に見えるかたちで器質的異常が確認されれば、病気の診断が下される。

     

    いきなり病気になるのではなく、病気にならない為にからだが感覚をとおして『生命エネルギーのバランス収支が「間」に合わなくなっているよ』とサインを送ってくれている間がある。

    そのサインに気づけないと、感覚的に気持ち悪くなり、気持ち悪さは次第に痛みを伴う警告へと変わってくる。

    この警告は、バランス収支が間に合わなくなるほど強くなっていく。

    こうした、からだからの感覚的な警告警報期を経て、病気に至る。

     

    だから、病気になってから、その病気に対しての治療行為を行うよりも、からだの発する感覚に早い段階から対応して、バランス制御に向くからだの求めに応じた事を行っていくのが、健康を保つうえで重要となってくる。

     

  • テーマ健康と寿命・・・2

    おはようございます。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生の著書の中に「健康とは、個体の生命エネルギー収支のバランスがとれていて環境に適応する状態を言う」との一文がある。

     

    健康について、生命エネルギー収支のバランスの大事さは理解できても、環境に適応する事が健康につながると言われても、ピンとこない人もいると思う。

    それだけ自然環境と自分のからだとが、自分を生かしてくれているという事に、関心が向いていないのだと思う。

     

    この自然環境が在るから、自分が意識していなくとも、からだが息をつけてくれる。

    この事実一つとっても、有難く生かされていると言えるのではないだろうか。

    しかし、自分の頭の回路は、そんなの当然の事と処理して、社会コミュニティや暮らしの状況、経済状況といった社会的な環境の方に、関心が向いてしまうのが実情といった感がある。

     

    社会的環境に合わせるようにするのも必要な事だが、そればかりが先行するとストレスにつながってしまう。

    大抵は、そのストレスで生命エネルギー収支のバランスを崩し、健康を害しているのではないだろうか。

    元々の生命体の設計にミスはなく、からだは自然環境に適応するように有難く出来ている。

    有難く出来ている事を当然とせずに、有難く出来ている事を更により良く、無駄のないエネルギー循環のバランスに更新させていく。

    そこに、健康で充実した日々を送れる道筋があり、その上で寿命も長くなる。

     

    自然の理というのは、人間がどうこう出来るものではない。

    対して、人間がつくった人為、社会的環境というのは変えられるし、より良く変えていく必要がある。

    健康の為により良く変えていくのであれば、自然環境とからだの関係性からの学びを基に変えていくのが良いと思う。

    また、人為、社会的環境がどうしても自分自身に合わずにストレスであるならば、間をはかって距離を置いてみる、場合によったら逃げてもいい。

    生きているという事は、生かされている事でもあるのだから、それを忘れずにいるならば何とかなると思うし、もっと良くなっているかもしれない。

    自然環境と自然の理だけは、どこに行ってもそこに在るのだから。

  • テーマ健康と寿命・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願いいたします。

    今回のテーマは「健康と寿命」ということでリレーしております。

     

    そもそも健康とは、どのような状態なのでしょうか?

    人それぞれ健康についての考え方、捉え方は違うと思いますが、操体の創始者である橋本敬三先生は、健康についてこう書いています。

    健康とは、個体の生命エネルギー収支のバランスがとれていて環境に適応する状態を言う。

    生命エネルギー収支のバランスとは、「息」「食」「動」「想」のバランスのことであり、元々の生命体としての設計にミスはなく、様々な環境にも適応していけるのだけれども、「息」「食」「動」「想」の営みのバランスが崩れれば、環境にも上手く適応できなくなり、様々な病気を誘発させる事となってしまう。

     

    生命体としての元々の設計にミスはなく、本来は自然環境に適応して、病気などせずに健康で満足した幸福な人生が送れるようにつくられている。

    しかし、人間の場合は人為的環境をつくり出すすべを得、集団による社会環境を形成して、他の生物には無い快適性や満足を得ようとしてきた歴史が続いている。

    その御蔭で私たちは今、便利な生活を営めているのは確かだが、その反面、自然環境への適応をとおした生命体としてのバランスの気持ちよさ、快適感、幸福感というのがわかりずらくなってしまっている感がある。

     

    社会の一員としての自分も大事だが、健康に関して考えるならば、生命体としてどのように生かされて生きている自分自身なのかという観点も必要。

    そうした観点に立てば「息」「食」「動」「想」のバランスが自然環境に適応する事が、いかに大事かが腑に落ちてくる。

    その上で、様々な環境に適応できるようにしていく。または、そうした観点からより良い人為、社会的環境をつくっていく事も肝要。

    健康で長生きするためには、人任せではなく、自ら創造していく姿勢も大切だと思う。

  • あずかりもののいかしかた7

    操体の創始者、橋本敬三先生の遺した文章のなかに、「人間悲願の達成へ」という味わい深いものがある。立石電気(現在のオムロン)がSINIC理論を基に描き、昭和46年に「プレジデント」に投稿した「社会進歩曲線」が傍らに掲載されているのが印象的だ。

     

    www.omron.com

    (SINIC理論も進化して、当時の曲線よりも立体的な動態として感じられる)

     

    20の項目から成り立つこの言葉の連なりは、操体を学ぶ上でひとつの指針のようなものになる。学んでいることが、今どの段階にあるのか、橋本先生と言葉を交わしながら確認しているような気持ちになる。

     

    書かれたのが昭和52年。今から40年以上前に遺された言葉ではあるけれど、人間の未来を見据えて書かれたであろうこの文章は、色褪せていない。

     

    『1、生きる限り、快適に満足して、充分に生きたい。』

     

    という1文から「人間悲願の達成へ」ははじまる。

    この短いワンセンテンスによって「人間悲願」というものを見事に集約して表現していることに改めて驚く。

     

    人間にとって「平均寿命」がいくら延びても重要な要素が欠けていることをこの頃から見据えているように思う。生きるなら、健康なからだで、寿命を全うしたいという健康寿命の概念が既に文中に内包されている。

     

    そして、最後の20番目に、知っている人は知っている有名な1文がある。

     

    『20、しかし、このメカニズムを可能にも不可能にもする超エネルギーは確かにある。その制御の見通しは未だ立たない。』

     

    19の項目を通じて、ひとつひとつたどってきた人間悲願の達成に向けた軌跡。

    その最後に遺された文章だが、確認してきた足跡をひっくりかえすような可能性と不可能性の存在を暗示して終わっている。

     

    以前は、この最後の文章がだいぶ飛躍した内容のように感じられていた。

    なんで橋本先生はこのような謎かけのような文章を最後に遺したのだろうと。

     

    でも、気が付いたら、現在、操体を通して学んでいること、

    「新重心理論」はこの20番目の文章と無関係ではない、と素直に思える。

    橋本先生が予感していた新しい学問の可能性と新重心理論をこの文章はつないでくれている。

     

    「人間悲願の達成へ」もこの20番目の項目を踏まえて、また新しい輝きをもって現代にリロードされる可能性を感じている。

     

    www.sotai-miura.com

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは友松さんの投稿がスタートです。

    どうぞ、おたのしみに。

  • あずかりもののいかしかた6

    このブログを読んでいるみなさんは、今まで大きな怪我や病気をしたことがあるだろうか。

    一度でもそういう経験をすれば、何かしら自身の健康について、

    またこの「からだ」のことについて考えを巡らせるきっかけとなり、

    人によってはがらりと心変わりをして、生活意識も変化する方もいるかもしれない。

    寿命という言葉も、急に身近な語感をもって受け取られるかもしれない。

     

    私について白状するならば、幸いなことに今まで大きな怪我や大病をしたことがないせいか、こんな健康体がいつまでも続くような気持ちがこころのどこかにある。

     

    そんな人生の油断を見透かされてか、はたまた単なる普段の生活のしっぺがえしからか、数年に一度くらいのペースで突発的なからだの不調が現れることがある(からだの不調というものは大抵そのようなものかもしれないが)。

     

    例えば、前日に特別からだを激しく動かしたわけでもないのに、急に膝が痛くなって歩くことすらままならなくなることもある。呼吸法やからだのうごきを通したり、色々とからだに向き合っているうちに気が付くと数日のうちにあれは何だったのかという感じでその痛みはどこかへいってしまう。

     

    また、とあるライブハウスで演奏中、急に頭痛がして貧血みたいな感じでヘロヘロになってしまい、それでもなんとか最後まで演奏しきったということもあった。

    頭のことだったので、念のため検査などしてみたが、特別、脳に異変は見られず、肩こりの薬が処方されて終わった。これも1日2日してケロリとどこかへいってしまった。

     

    こういったいつものリズムとは明らかに異なる体調の変化が、数年に一度、油断した頃にやってくる。前は、この不可解な異変に驚いたり、焦ったりするしかなかったけれど、最近は流れる日常のなかでのある種のきっかけとして、少しありがたいこととして思えるようになってきた。

     

    大抵、こういうときは「わたし」の意識というのはチーンと静かになって、ただただわたし以外の要素に耳を傾け、委ねている時間と空間を送ることとなる。

     

    こういった「いつもと違う感じ」は、当たり前に日々を送れること、流れていくことがどれだけ緻密なバランスによって成り立っているかということを身を通じて痛感させてくれる。

     

    当たり前に流れていくことは、健康という大きな循環のなかに支えられているからはじめて実現できていることで、その大いなるバランスのなかでは、わたしという存在もほんの一部の要素でしかない。

  • あずかりもののいかしかた5

    モノの寿命について想うとき、

    「おさがり」という習慣は以前に比べるとだいぶ減ってきたように感じられる。

    私自身も姉や親戚のおさがりによって幼少期を過ごした経験があるし、

    大人になってからも師や先輩のおさがりの恩恵をいただくこともある。

     

    個人的には「おさがり」という文化は消えてほしくないものと感じている。

    モノに宿りしいのちが継承され、いのちがつながっていく。

    おさがりになるようなモノは、大切に使い込まれてきたものが多い。

    年長者から年少者やモノを介していのちのやりとりがそこに見え隠れしているように思う。

     

    モノを大切に使い込んでいく時代から、モノを消費する時代に移り変わり、

    リサイクルとかSDGsとか叫ばれながらも、生活の根底には、自分の欲しいものを必要な時に自分で買うというスタンスが主流になっている。

     

    便利だったり、安かったり、とても楽だったりする反面、

    現在の生活のなかで触れられているモノのいのちは、

    以前に比べれば短命であるモノが増えているように思う。

     

    大量のモノが日々のなかを通過しているので、

    モノの寿命なんて考えることが少なくなっているだろうと思う。

     

    巡り巡って、その生活意識は自身のからだに対する意識にもつながっている。

    それが自身の健康にとっても、大小なんらかの影響を及ぼしているように感じられる。