投稿者: karib_sotai

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その6~」

    最近はいつも「からだにとっての健康と不健康」とは何なのかを常に自分とからだに問いかけています。

     

     

    正直、わからないことだらけなのですが、一つだけ確かなことは私達が定めた健康とは明らかに異なる基準でそれを捉えていかなければならないということです。

     

     

    そしてもうひとつ大事なことは「自分がからだにききわけている感覚」と「からだがききわけている感覚」は全く異なることを認識して見ていかなければならないということです。

     

     

    しかしそのふたつは表裏一体の関係性であり、どちらかが変化すれば、もう一方も変化する。

     

     

    例えば私自身も経験があることですが、痛みがあるとそれから逃れようとする自分とそれに捉われてしまう自分がいます。

     

     

    そうすると正常なからだの声と感覚は聞けなくなり、それに応えることが出来なくなってきます。

     

     

    しかしそんな自分とは裏腹にからだは快のベクトルに向くように動きや呼吸を私達の意識の外で行ってくれているのです。

     

     

    そういったからだがしてくれていることへの気付きや意識が向けられなくなった時こそが「からだにとっての不健康」の始まりのように感じています。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その5~」

    今までの臨床の中で患者のからだを健康、不健康という見方でからだと向き合ったことがありませんが、あえてその2つをわけてみるならば何が基準になるのでしょうか?

     

     

    もし健康診断等で定められている基準となる数値が全ての項目で基準値以下の人がいたとします。

     

     

    その人が次の健康診断までにすべてを合格点までに持っていくことが出来、医師に満点をもらうことが出来たとする。果たしてそれが健康なのかと疑問です。

     

     

    操体の臨床の中でも思うことなのですが、痛みや苦痛から逃れるための劇的に治るということは果たして良いことなのかと考える時があります。

     

     

    その理由も「治る」という一つの結果に対し、それを維持、そして増進していくために何が必要なのかを考える機会を失ってしまうからです。

     

     

    そういった点においてはある程度の月日をかけて治るプロセスと向き合ってきた人の方がからだからみれば本当の意味での健康といえる。

     

     

    先程例に挙げたこともそうですが、結果に捉われてしまってはそれを引き起こす原因となるものの改善にはならない。

     

     

    からだとそれを使わせて頂いている自分との間には何らかの隔たりが生じてしまっている。

     

     

    そういったことに気付けることが本当の意味での「健康」のように思っています。

     

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その4~」

    当たり前のことかもしれませんが、最近は健康が不健康に傾斜する過程に意識の使い方の間違いがあるように感じています。

     

     

    私も怪我をしたり、からだに不調を感じたりする人間ですが、こういった時は大抵からだの要求やそのメッセージを無視した時に起こっています。

     

     

    その時のことを振り返ってみても、慌てていたり、自分のこころにゆとりがない時に思わぬ怪我や病気に遭遇したりしています。

     

     

    逆に調子が良い時はからだからのメッセージに対し、それに応えられるだけのゆとりとマがあるようにみえるのです。

     

     

    その違いを突き詰めていくと、からだが要求していることと自分の意識が全く違う方向を向いてしまっていることがよく理解出来ます。

     

     

    意識の使い方というのはかなり壮大なテーマかもしれません。

     

     

    しかしちょっとした時に少しからだに寄り添うなきもちを意識の中に取り入れてみると自分とからだの要求の隔たりもなくなってくるように思います。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その3~」

    身近にいる人達の健康に対する価値観を聞いてみると様々な声が聞けて面白かったです。

     

     

    「自分で決めた基準の体重が増減」を基準にしている人もいれば、

     

     

    「(からだに)痛みがあるか否か」や

     

     

    「おいしくごはんが食べれるかどうか」という人もいる。

     

     

    中には「呼吸が上手く入るかどうか」という声もあった。

     

     

     

    このような様々な声を聞いて思うことは健康の基準としているものが全て快か不快かの原始感覚に繋がっているということです。

     

     

    またもう一つ興味深かったことは一人一人がからだと向き合っていく中で無意識にその基準を定めていることでした。

     

     

    100人いれば100通りの健康に対する基準があり、それはからだとの対話の中で決めているようにも感じます。

     

     

    そういったことからも国や医師が定めた健康に無理に合わせていくことよりも、常にからだとの対話の中で健康と向き合っていくことの方が大事なことなのではないでしょうか?

     

     

    最後に現在の私の健康の基準にしているものは他人が決めた基準や数値ではなく、からだからのメッセージをきけるか否か、そしてそれに応えることが出来るかどうかにしています。

     

     

    その中で重要になってくることは「感覚」と「意識の使い方」です。

     

    明日に続きます。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その2~」

    操体を学んでいると健康とは美味しいとこ取りをする部分食ではなく、常にからだの声に寄り添った全体食にしていくということがよく理解出来ます。

     

     

    大抵の人達は4つの命の営み(呼吸・食・動・想)の中で最もコントロールしやすいものを1,2個を特化し健康に繋げていこうとする。

     

     

    その理由は非常にシンプルでそうした方がコントロールしやすいし、一つ一つを意識して突き詰めて生活することは不可能なことに近いからです。

     

     

    これだけ健康に興味がある人が多く、各部門のプロがいるのにその4つを総括した健康に繋がる理論があまり聞かれないのは少し残念な気もします。

     

     

    そんな私のきもちが通じているのか。

     

     

    はからずも現在の操体の方向性はそこに向かっています。

     

     

    その理由も健康に繋がる4つの命の営みを「自分でコントロール」するものから「からだがコントール」してくれるものへと転換した捉え方とその可能性を見出すことが出来たからです。

     

     

    つまり「自分にとっての健康」と「からだにとっての健康」は違うということです。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その1~」

    三浦先生、一週間ありがとうございました。

     

     

    今週からは三浦寛幸がバトンを引き継いで担当致しますのでお付き合いください。

     

     

    今回のテーマは「健康と寿命」です。

     

     

    いつも健康と聞くと真っ先に思い浮かぶのが青汁です。

     

     

    子供の頃、CMで流れていたあの緑色のマズイ液体を飲めば無敵の健康人になれると本気で思い込んでいました。

     

     

    あのマズさを一瞬我慢すれば、つかの間の健康が約束され、多少羽目を外した生活をしてもある程度の健康が約束される。

     

     

    だから「何をしてもよい。許されるんだ」

     

     

    呪いにも近い思い込みを持ち続け、TVで「からだによい」「健康になれる」と流れると何でも食いつき、そして好き勝手をしていたように思います。

     

     

    そんなあまりにも健康に対して無責任で「からだ任せ」な自分と決別出来たのは操体という学問を通じて「からだの声に従った意識の更新」が出来るようになったからです。

  • 健康と寿命(7)

    宇宙意識には、限界がない。

    無尽蔵であり無限界である。

    宇宙意識とは愛である。

     

  • 健康寿命(6)

    限界という壁は、自己意識がつくり出すものである。

     

  • 健康寿命(5)

    重心の適正にかなうとは、意識の適正にかなうことである。

     

  • 健康寿命(4)

    重心の不正には、ヒズミがともなう。

    痛みがともなう。