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  • 痛みとのおつきあい

    おはようございます。
    フォーラムの6日前に左拇指の腹を包丁でスライスした森田です。

    朝から何を書いとんのじゃい!という感じですが(すみません)。

    状況はと言いますと、ポン酢醤油を作ろう!と鼻息荒く、狭い台所で半分に切ってあったかぼすの断面を薄くスライスしようとして手がすべり、
    自分の指をスライスした、ということです。

    爪にぶつかったおかげで皮1枚でつながっており、指先の肉は分断されなくてすみました。
    本当ならば商売道具である指を怪我するなんて仕事人失格の恥であり、公に曝すのははばかられるのですが、やってしまったものは仕方がない。
    仕事仲間と患者様、家族に迷惑をかけるのは申し訳ないけれど、この状況を生かして何ができるか考えてました。
    まずは、ブログのネタができた!この時期でラッキー。…なんてことを考えた、意外に余裕のある私(おこられますね)。
    「小指側の指じゃなくて良かった。操体はできる」と思ったものの、拇指が使えないと足趾の操法や足底の触診、色々できないんですけどね。

    以下、当日の様子を記します。

    まずは近所の総合病院の緊急外来に電話し歩いて行きました。出血部位から指を離すと大量の血が出るので、ぎゅっと左示指で抑えて待ち合い室で腰掛ける。
    熱く、ズキズキと鼓動のリズムで痛みを感じ、う〜ん、と小声を出してこらえる。
    名前を呼ばれるのを待つ間、自力自動の操体をする。椅子で座位にて右足関節の外転。
    右上半身に心地よさがふわ〜っと感じられる。快適感覚と同時にズキズキはちょっと軽減する。

    相方には膝に手をのせてもらい、面の渦状波をお願いする。

    自力自動の操体とはまた違った快適な流れがからだの中を巡る。夫とからだに感謝しつつ、しばらく味わう。
    痛みも全くなくなるわけではないが、しかし確実に軽く感じる。そして、痛みと心地よさは同居できるものだな〜と感心する。

    10分ほどで呼ばれ、診察室に入る。
    ここからは夫は廊下で待機。

    ネラトン(導尿、体液排出用のゴム製チューブ)で母趾の根元を止血しながら拇指腹に2カ所ほど局所麻酔をする(これが一番痛かった)。
    感覚の麻痺を確認したら縫う、という治療でした。
    この処置の間ベッドで仰向けに寝かされるのですが、目立たないように動診をする。

    膝1/2屈曲位で右足関節の内外転と背屈、右手関節の示指を使っての動きの動診など。寝ている右側に壁があったので、膝の傾倒時には使いました。
    今思えば足関節の内反もありでしたね。

    目線や呼吸も使いましたが、ドクターの動きや看護士とのやり取りに気を取られて集中できず。
    ただ、自分自身が作り出す恐怖心からは気をそらすことができ、「自分の意識が作り出す痛みの増強」から逃れることができました。結構大きいです。

    調子に乗って「さあ、操体でどこまで痛みを軽減できるのか何針でも縫われてみよう!」と思うもつかの間、
    局麻の注射をブッスーとされた時には、立てていた膝はもちあがり、「いって〜っ」と声を上げてしまう。
    廊下の夫もこの声に縮み上がったそうだ。さすがにこういう時は痛みの軽減は無理か。

    この時は思わず、
    「出産時はこれより痛いのだろうか」
    「時代劇で医者が傷口に酒を消毒だといってプーッと吹き付けるシーン」
    「ちょっと古いが24で拷問を受けるシーン」
    等が頭をよぎりました。松田優作の殉死シーンは、さすがにおこがましいな、とか。

    ネラトンで止血をしているので、拇指だけが白く蝋人形の色になっていく。死体ってこんな色になるんだろうか。って、私の指か。
    それにしても麻酔はすごい。ものの2、3分で痛みは薄れてゆく。
    私は初体験なので、「麻酔ってすごいですね」とアホな感想をのべると、
    ドクターは「そうじゃないと処置できませんから」と一言おっしゃってJの字の針で淡々と縫い上げて行く。

    痛みがなくなると同時に余裕がでて縫合の様子を覗き込む。見たくてしょうがない。
    できることなら携帯で撮影したいくらい。不謹慎な私である。
    顔色と機嫌もちょっと悪そうな(←理由があるのです)ドクターの手腕にとにかくふむふむと見入る。
    「すばらしい、見事です!」口に出すのは失礼と思い、心の中で賞賛。

    フォーラムが近く、打ち上げは飲みたいと思い、「お酒飲んでいいですか?」と聞いてみると、
    「飲むのは自由ですが、痛むのは自分です。でも、その前に気を失う程飲めば別ですけど」
    なるほど。普通の表情でおっしゃるドクター。なんかちょっとツボ。

    この日は患部をガーゼで包んで、その上に包帯をして、抗生物質、抗炎症剤を3日分と強めの鎮痛剤(頓服)を処方されて終了。
    「痛くなったら心臓より指を高くあげて、それでもいたかったら鎮痛剤を飲んでください」。判断しやすくていい。

    今は麻酔が効いているが、切れたらどんな痛さなんだろう、不安な気持ちで帰宅。
    禁止されるとやりたくなるもので、一体何日酒を飲まないでいられるのか、それも気になる所。せっかく今日おいしいワインを買ったのに。

    欲深く、飲み意地のはっている私である。

    次の朝、包交外来で見てもらった後は、
    縫ったその上からバンドエイド1枚で帰されました。あんなに大騒ぎしたのにちょっと拍子抜け。


    縫った所も撮影しましたが、さすがに自粛しました…。

    明日は、操体以外には何をしたかを書きます。
    では、お仕事行ってきます。

    森田珠水

  • フォーラム撮影班の立場から

    こんにちは。
    フォーラムも終わって1週間が経ちましたが、まだまだ興奮が冷めない森田が1週間担当させていただきます。

    22、23日と二日間家を空けただけのはずなのに、懇親会や打ち上げという名のナイトセミナーでは
    島津兼治先生、田中稲翠先生の講義が熱く続いたこともあって、その内容の濃さ、深みはとても48時間を過ごしたとは思えません。
    まるで1週間の旅から戻ってきたような、そんな気分です。

    三浦先生がブログ最終日におっしゃったように、実行委員、役員一人一人のハートの中で、新しい気づき、疑問、熟成がなされ、
    その課題を追い続けているという意味では実はフォーラムは終わってないような気がします。
    二日間にあったこと、参加されなかった方にも伝わるように本当は言葉にしたいのですが、
    まだまだ未消化な部分もあり、内容に関しては東洋医学系の雑誌に掲載されると思われるレポートに譲ることにいたします。

    というわけで、今日は動画撮影担当の立場からの感想を書きます。
    フォーラムも18回目になり、会を重ねるごとに発表の中身も発展し、空気の濃さが変わってきまして、
    ぜひともそれを映像におさめておきたいという欲が出て参ります。
    初め私は操体法という「治療」を学ぼうとして三浦先生の所に学びにきたはずなのに、
    今では息食動想の哲学、呼吸法、宗教、脳、神経系をはじめとする生理学…学びの範囲に限りがないことにふと気づきます。
    操体は何でも入る大きな器」という三浦先生の言葉が浮かびます。
    今回も、武術と芸術、参加された方はそれがどのように操体と結びついたのかを感じられたと思います。

    これを、映像班として、ぜひとも画像に残したいのです。
    フォーラムに参加したかったがやむなく欠席した友人や、操体を学ぶ方々に操体の最前線(身内が言うのもなんですが本当です!)を見てもらいたいと強く感じており、
    今回のフォーラムはそのまま学校の授業や操体の勉強会が開催できる内容でしたよ。

    なんだか自画自賛?の嵐ですが(今回発表していない私が言うのも変ですが)、
    本当を言うと、私自身が一番撮影したものを見たかったりします。何度も見て、見落としたモノを拾いたい。

    ところで雀鬼桜井章一さんは、著書で「集団の成熟度をスタッフの動きがきびきびしているかどうかで決まる」という話を書かれていたと記憶しています。
    先月、平さんと成瀬ヨーガグループの成瀬雅春先生の対談の場に参加させていただきました。
    この時、お弟子さん達(20〜40代7,8人)は一つの目標に向かってきびきびと動きに無駄がなく、参加者側は大変気持ちがよかったです。
    参加する側は、ただ発表内容が良いだけではスタッフの動きに無駄があっては全体の流れがぶつ切れになり、
    なんとなく不快に感じられることでしょう。

    今回は島津先生の奥様にお褒めの言葉をいただき、大変ありがたいと感じたものの、
    自分自身の動きは今ひとつだったこと、全体的な改善点はちらほら見えております。
    今日は三軒茶屋にて塾操体と秋季フォーラムの反省会が行われます。

    次回の開催に向けて、実行委員全員で良いものを作れるよう語り合ってきます。

    年末までに、まだゴールドジムでの活動もあります。
    「これからも、東京操体フォーラムの動向は見逃せない!!」

    そういわれるようになりますよ!
    楽しみにしていてください。

    森田珠水

  • ブログ最終日

    一週間のおつき合い、どうも有難うございました。どのような形で、締めくくったらよいのか、思いだけが大きくふくらんで、まとまりのつかない今の心境です。きっとブログ担当の期間に重なったフォーラムの影響でしょう。

    今こうしていても、あの二日間の一コマ一コマがふっとわいてきては、次々に重なり、とりとめもなく思いだされてくるからです。この二日間のできごと、その一コマ一コマの感動はどのような言葉で表現しても語り尽くすことはできないであろうと思います。実行委員、役員一人一人が胸(ハート)におさめておくのが最もふさわしいように思います。なにか、言葉にするとあの感動が消えていくような気もします。なんと表現したらいいのか、私達が企画したこととはいえ、我々も含めて一人一人が名指しで招待状を受け取って参加させてもらった、ディナーショーのような、そんな気分を味わったのです。ただ声をかけられて参加したのではなく、一人一人選ばれて、招待状を受け取った者だけが、参加を許されたような思いがします。それだけに、あの二日間のあのハーモニーのすばらしことといったら、招待状を受け取った参加者のみが味わった、夢のような感動と興奮のひとときをだったと思います。

    僕は君達に、あえて厳しさを求めて接してきました。しかし、君達の姿に接した島津先生、そして奥様が私に直接言われた言葉が印象に残ります。「なんて、すばらしいお弟子さん達なのでしょう。よくここまで行きとどき、育てられましたね。ありがとうございます。」と・・・・・これが人さまの評価なのです。この評価がなくして東京操体フォーラムも成り立っていくことはありません。

    たヾ単に、自分と私達がたのしい、おもしろい、うれしい、それだけの学びだけでは一個人、一集団のみの評価であって、それは人さまがくだす評価とは違います。君達の無心にとり組む、心を一つに励んできたすばらしさの中に、人さまは心を打たれ絶賛して下さるのです。この無心さも、厳しく取り組む学びのなかから育ってくるものです。フォーラムは私達の学びの場でもありますが、人さまに公開し、ご披露しているわけですから、人さまの評価も「すばらしい」といふ言葉として返ってくるように努めることです。その為にも、学ぶことの豊かさ、妥協なき自己への厳しさが求められてくるのです。その自分に求められてくる生ける真心が鏡のごとく人の心(鏡)に写し出されてくるのです。それが品性となって人様の心を打つのではないですか。人に対するやさしさ、いたわり、思いやり、いつくしみに顕現するのです。それが「楽しい」「愉楽しい」の違いです。それは自己に対する誠意であり、隣人に向けたマナーです。愛する心です。私が君達に求めている、学ぶということの厳しさとはそういうことだったのです。人さまの評価を得ていく、ということは、そう簡単なことではないですね。私達は学びのなかで、人さまの心を解(と)かしていくことです。真理であることが学びです。それは一人一人が真理の化身であることに目覚めることです。真理が真理の力で立てる、それが自己の目覚めであって、人さまと共感し、調和してまざりあっていくことだと思います。

    ブログを終えるにあたって、最後の一言

    愛するものの弱さとは
    ひとりきりでは
    生きていけないってことです

    神さまもそうでした

    神は愛なり といいます
    神さまも愛に生きている
    生きる為に
    我が息子が、我が娘が必要だったのです
    神のその存在こそ、共に生きている姿であって
    ひとりっきりでは なかったのです

    実行委員の皆さん、ご苦労もあったでしょうが、君達はスゴすぎる、なんてたまげた存在なんだと思いました。本当に大きく大きく成長して実ってくれましたね。私への招待状、ありがとうございます。心から・・

    理事長

    前列左より
    橋本敬三先生(写真で参加)、三浦寛、島津兼治先生、畠山裕美、森田珠水
    二列目左より 鵜原増満、小代田綾、佐伯惟弘、秋穂一雄、平直行、友松誠
    三列目左より 三浦寛幸、日下和夫、小松広明、辻知喜、岡村郁生、山野真二、山本明、福田勇治
    四列目左より 西田尚史、中谷之美、横森昌裕、甲斐田泰平

  •  特別寄稿

    来年秋のフォーラムでの講義をお願いしている、平田紀子先生、川崎隆章氏からフォーラムの感想を頂きました。ありがとうございます。

    ご招待頂きありがとうございます。都合で少しのコマしか受講できず残念でしたが、新鮮な体験でした。

    稲翠先生との対談は、音大で教鞭をとりまた寄席芸人だった夫のお弟子たちと関る自分にとっても興味深いものでした。もっとお話を伺いたかったです。

    「触れない臨床」は初めて拝見しましたが、体験してみたくなりました。

    三浦先生始め臨床家の方々の姿勢やたたずまいから、凛とした美しさがピシッと感じられ、改めて操体に興味を持ちました。

    ありがとうございました。

    平田紀子

    「快と楽・・・天が与えた二つの存在への考察」 川崎隆章

     このたびは、東京操体フォーラムへご招待頂き、深くその内容に触れさせていただくことができ、大変に嬉しく思っています。ほんとうにありがとうございます。

     今回の最大の収穫は「快と楽」についての問題が綺麗に解けたことです。
     フォーラムでは、多くの講演者が快と楽の違いについて説明し、多くの参加者が共感を表明し、休憩時間中もその話題がよく出ていました。以下、フォーラム参加の二日間、頭の中をめぐっていたことを書きだします。

     ごく簡略にいえば「楽」は客体的な心地よさ、「快」は主体的な心地よさである、と、私は理解しました。三浦先生がもっと直接的に「魂の喜びそのものだ」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。
     南画家の田中稲翠先生は、「快」と「楽」の違いを甲骨文字にさかのぼって鮮やかに解いて下さいました。操体の世界で発せられた問題が文字学の世界で解かれるというのは、実に愉快なことです。「楽」は人が両手で神事で鈴を振る姿、「快」は利き手で刀を勢いよく振り下ろす時の心持ち・・・何千年も前の人が、現代のわれわれに答えを与えてくれたのであるとすれば、その媒介者である稲翠先生は古代からのメッセンジャーだということになります。東京操体フォーラムではこんな飛躍的な出来事が、次々と起きてきました。これぞまさに本物のフォーラム(広場)ですね。

     また、快と楽の使い分けについても、答えを発見することができました。
     武術家の島津先生が見せてくださったいくつかの実技が、まさにそれでした。痛みを取る、あるいは筋肉の緊張を取るという技を目の前で見せてくださったが、実に1分とかからない妙技で、実際、目の前で明らかに結果が出るというものでした。
     先生のお話を伺った限りでは、これらの作用は(的確な場所に痛烈な痛みを与える、などの)刺激によって身体が表現するさまざまな「反応」を、刺激によって積極的に引き出すものであり、これは「楽」の世界ではありませんか。
     先生は「われわれ武術家はは気が短いから」とおっしゃいますが、戦時において短期解決で治療行為をすることが、そもそも求められているのですから、これは理にかなっている。いかにも戦いの現場を居思わせる「徹した楽」だと思いました。
     一方、施術をしている島津先生のほうには「快」がありました。冗談まじりのように「術をかけて、相手が痛がるのを見るのが面白くて」とおっしゃっていましたが、実はこれは稲翠先生が見せてくださった「快」という字の本質ではありませんか(道具こそ刀ではありませんが)。つまり、相手が楽になることを喜ぶ・・・なんてセンチメンタルな感情が快を生みだしているのではなく、その姿勢をとり、その動きで「究めた動作(=術)」を行うこと「自体」が快なのです。

     これは、戦場において戦いを自発的に鼓舞することにもつながるのではないでしょうか。
     島津先生が「活殺」という言葉をお使いになっていましたが、活かすも殺すも、その「行為自体の快(=鮮やかさ、正確さ、繊細さ)」においては共通だということです。殺すほどの正確さと繊細さを持って命を活かす(逆もまた真なり)。「殺す技術」と「活かす技術」に区別をもたない「人間の究極の動作哲学」・・・これが武術の本質なのではないかと考えました。

     ところで、休憩時間の会話を聞いていて「楽」を「快」より下位のものとして考えている人がいた事に小さな違和感を覚えました。森羅万象に存在の必然性・必要性があるとするならば、「楽」は楽の必要性があり、「快」と同じほどの崇高な価値があるはずだからです。
     私が「楽」の存在価値をはっきり名言するのには理由があります。
     三浦先生の二日目の実技で、ついに「触れない操体」が公開されました。究極の「命の喜び(=快)」を示現する技術であり、操体の究極の目的に迫るものだと思いました。しかし、私はこれを、一日目の実技で見せてくださった「第一・第二分析」とセットで理解しなければならないと思うのです。単に「第一分析、第二分析」が発展して最新の形になっただけではなく、第一分析、第二分析の存在や役割が変わり、かつては「操体」そのものをあらわしていたものが、「操体の真髄へ導く手段」として再定義されたのではないかと理解しました。なかには(いろんな事情から)自発的になることを拒絶する人もいるわけで、そういう人にとって、自発性を求めない第一分析は、重要かつ不可欠な「入口」となると思うのです。これもまた「快」を示現するための「楽」なのでしょう。

     私は6月から月1〜2回のペースで三浦先生・畠山先生の講座のモデルケースをさせて頂いているのですが、いままで数回「触らない操体」を施術して頂いたことがあります。その感激と、体内・意識上で起きる劇的な世界は別途感想文として書いたとおりです。二日目の実技のあと、受術された三人が語っていた言葉はまさに私にも起きたことで、共感を覚えました。
     ところが「触らない操体」は、極限まで主体的に快を得る事が求められるだけあって、深さを求めると、それ相応の自発力と体力を要します。実際に深く受療すると軽い疲れが残るほどです(軽いスポーツの跡のような疲れです)。また、一度その深さを味わうと、次に受療する時には相応の覚悟をしてしまいます。試合や歌うの前の気構えに似た、ちょっとしたモチベーションを要する小さなハードルです。

     あれは7月下旬のこと。無理な仕事で体がボロボロになった状態で三浦先生の施術を受ける事がありました。正直いって大変疲れており、足取りもおぼつかないほどでした。「触らない施術」に対する期待はあったが、そこまで自発的になれる気力もありませんでした。
     三浦先生は、私のそんな状態を一瞥で見抜いてくださったようで、その時は横になって背中の一点に指をおいてくださいました。この時の「触ってもらった」という安心感。私はその指の感覚を確認するや否や深い眠りについてしまったのです。数十分後、目覚めたとき先生はすでに室内にはおらず、すべての施術は私が深い眠りについている間に行われたようです。畠山先生によれば、その間、背中に指を置いた以外は何も目立ったことはされていなかったそうですが、この時は私の呼吸器系にアクセスされたようで、ある瞬間から呼吸音やいびきの質が変わった、とのこと。この日、私は生まれ変わったように元気に帰ることができました。
     フォーラムで「快」と「楽」の話が繰り返し出るにつけ、私はこのときの印象深い体験を思い出すのです。
     何かを対象とした客体的な心地よさを「楽」、自発的な魂のエネルギーが生み出す主体的な心地よさを「快」とするならば、三浦先生は私が自発的な体になるよう、指を使って「楽」を与えて、補ってくださったのだと思います。
     この後も、いろんな体調、いろんな状態で三浦先生の施術を受けましたが、私がピンピンしている時はまさに「触らず」の極致で術に臨み、疲れやケガで心が弱っていれば、触って下さいます。

     操体の本質は、自発的なエネルギー(=魂の喜び)で自ら「快」を生み、味わうことにあるのだと思うのですが、人間が社会的動物である以上、肉体や精神にはさまざまな「都合」が生じます(本当はそこまで自発的であるべきなのでしょうが)。そこを補う時にこそ、必要最小限の「楽」が活かされるべきなのだと思います。
     島津先生のお話が思い出されます。道場で子供が「歯が痛い」というので、術を使って痛みを止めてやり「よーし、医者に行ってこーい!」と送り出してやった、というエピソードです。まさにこれこそ「楽」を上手に活かした方法だと思いました。その子は痛みを我慢せず、前向きに治療に臨むことができたのです。これは、私が感じた三浦先生の「指」と相違ないと思います。私は先生の指で一時的な苦痛から逃れることができ(眠ってしまうことで)落ち着いて「体にゆだねる」ことができたのです。

     また、稲翠先生のお話の中、手慣れてしまった創作に飽きてきた時、御自分の毛髪を用いて、まったく考え方の違う筆を作られたというエピソードが紹介されましたが、これだって、下り坂のモチベーションに活力を与えるため、道具を通じて一種の「楽」を求められたと解釈することができます。あらゆる創作家が「方法の冒険」を求めるのは、すべからく「自らの魂を、より大きく震えさせる」ためではないでしょうか。
     三浦先生は操術の世界で、島津先生は武道の世界で、稲翠先生は芸術の世界で、皆「楽」を「快へのいざないの道具」として「活かして」いる・・・私はそんなことを発見しました。会場で、会場の外で「快」と「楽」についての話題が出るたびに、私はこんなことを確信したのでした。

     畠山先生から幾度となく、ずいぶん長い間「またフォーラムやるから是非見に来てよ」と言われていたのですが、今回参加させていただき、とてもうれしく思っています。そして、こんな凄い知の現場を今まで見逃していたことに、ちょっぴり悔悟を感じたのでありました。
     以上、未整理ながら、熱のさめぬうちに、感じたまま書いてみました。

  • 「人間関係」

    私は23歳の時から臨床という場のなかで、自分を育ててきた人間であるから、どうしても診る側、診られる側、つまり「先生」と「患者」の立場のなかでの人間関係が多くなる。又操体を学びに来る人達との間柄も「先生と生徒」という場の中での人間関係、交わりである。相手は必ず目的を持っており、私との接触がある。私の立場は相手のその目的に適う助言者であり、仲介者としての存在である。

    私は相手のその目的に適う場の存在に徹する。それなくして人との関係、その基を構築することは出来ない。つまり信頼関係を産み構築しうる土台、基を試され続けるなかで、その関係が熟してくる。相手がその目的を手中にした後の私と相手の関係、継続しうる関係を持ち得るかどうか、それは互いの意志によるものだ。継続しうる関係が成り立つにしても、それは静かなる存在意識のなかで、必要ありし時に存在し、冷湿布のようなかかかわりのなかで関係が成り立つ。静かなる心のゆとりのなかで、はぐくまれるものである。それは、とびきり熱くはならない関係である。域(イキ)を保てる関係である。域(イキ)とは、立ち入らない、干渉しないという域(イキ)である。求め必要とする時に存在しあえる関係であって、常に求めあう存在ではない。人間関係とは自分ありきの関係である。

    今私は30名以上が集ふ組織をかヽえている。寺子屋、塾から育っていった仲間、同志、塾生である。志を一つにする、一人一人のイノチの集団、生命の集団である。それは橋本敬三の意志を継承する卵の集団であった。そしてその卵が孵化して自立するまでに育ってきた。彼らは実際に橋本敬三を知らない世代である。彼らにはその像しか知りえない。私という化身をとおして、又師の書籍をとおしてその姿を写し描くしかない。しかし、師が成し成そうとしてきた業績を己(おの)れの生に描写し、己れの生き方に写し出そうとしている、それは自分を知るために、自分の生の目的を知りえるゆえに写し出そうとしている。光のごとく写し出したいと思う意識に従っている。自分の生-人生に光をあてるゆえに、光を当て自分が成したいことをみたいのである。

     この集団は己れの意志に従っている。真理を学ぶ一人一人の集団である。静かな汗を流している、そのなかで自分に己れの歓びを与えている。又、共に一人一人がその歓びを共有しあっている、その長に立つ私は、彼らの親の目でみている。橋本敬三先生の化身の目で彼らを見ている私自身は、親の目と兄弟姉妹の目で彼らに親しんでいる。まざっている。橋本敬三の魂、その霊的分身として彼らを見ている。
    この分身を介して、私の姉の息子が、そして私の息子が橋本敬三の意志(太極の意志)を継承している。私はすでに私個人ではない。私は自分自身を機動しなければならない。生かされしこの命を機動すること、それが私自身であることを知る。私が機動することは、彼らが機動することである。新たな意識、次元を超えた意識の元で機動していることを意味する。私はその波動を送りつづけ、機動する力である。私は彼らのエネルギーである。互いが学びつづけていることが大切だ。何かを感じとることが大切だ。何かを感じとる役割を担う、それが私自身である。そして今、彼らとの距離が「師匠とその弟子」という関係(きづな)で結ばれるように成った。これは一人一人の生涯にわたる関係(きづな)である。永遠、永久につづく関係である。それは血縁なき霊的関係にあって、慈しみあえるもの、ことの成り立ちである。しかし血縁なきとは云ふものの、元を正せば元の起源から生じたこの命であるからして、私を生んでくれた親が違うとういだけのことであり、その親も一からなる存在から生まれてきているのだ。

     人間関係とは信頼関係である。この信頼関係とは、自己との信頼関係でもある。つまり自分自身といい関係なのか、ということが重要な問題(テーマ)なのだ。人間関係とは自己との信頼関係の上に成り立っている。ベターな関係の原則はまづ自己とのベターな関係をつくることにある。なぜなら、信頼関係には責任がある。自己に責任がともなう。それは自分を信頼しているか、愛し許している存在か、好きか、そうした自己肯定で自分といい関係にあるかという責任である。そして人間関係の構築は、謙虚に学び成長しつづけていこうとする自分の姿にある。又その関係とは、自分あってのかかわりごとである。そこから人間関係が生まれる。それは人とのかかわり以上に、己れ自身とどうかかわっていくのがか重要なことだ。己れとのかかわりを良くすることは、とても大切なことである。

     人との関係や、つながりにおいて、まづ自分を語れる人になることだ。それは、自分との関係をより密に大切にすること、自分との対話、自分とのかかわりの時間を常に持つことだ。生活を追いかけてもこの貴重な時間を手に入れることはできないのである。生活時間のなかから少しでも、自分との心の対話、生命時間を意識的に取り込むことが必要なのだ。作り出さなければ入ってこない時間である。人と向かい合う前にまづ自分自身とより親しみをもって向かい合うことで、少しづつ本質的な自分を知ること、それは相手のことを理解する一つの手あてになっていく。

     人との人間関係において、確かなことは良しに悪しきにつけ、そういう人間関係を自ら引き寄せていることである。相手に求めれば求めるほど自由にならない。求める相手は自分自身である。そして相手には与えることである。相手に適うことを与える歓びを得ること、あなたはすばらしい人だ、と認めてあげることだ。それが豊かな人間関係である。なぜ求めれば求めるほど自由にならぬのか、自分の心さえ自由にならないのに、相手の心を自由に操つることはできないのだ。操つるのは自分自身で他人ではない。サギ師は、人をだます前に自分をだますし、偽るのだ。それがまんまと人をだますプロの手口である。それが人をだます秘訣なのだ。

    三浦寛

  • 「そこが知りたいのが本音」

    操体法の考えではこうである。
    症状、疾患とは、からだの異常を示す警告=サイレンとみなしている。このサイレンそのものに放水しても延焼しつづける。この警告は火元であるボディの歪みそのものが火元になっている。その火元に放水しなければ鎮火しない。なぜ火元がボディーの歪みなのかというと、どのような症状・疾患たるにおいても、その全期にわたって、ボディーの歪みが発症以前から発生しているのだ。症状・疾患のレベルが上がるほど、局所の歪みが全身に波及し、より歪みを歪体化する。しかし、ボディーの歪みを正すと言えども、その歪みがどこから手をつけていったらよいのかが、わかりにくいのだ。又、必要あって存在している歪みもある。
    そうしてみると、それらの症状や疾患と直接関与している歪みが知りたい、確認できないものかと考えるのが臨床家である。この火元で言えば、火元のどの火種が、その症状・疾患と関与しているのかが知りたいのである。多くの臨床家は、それが知りたくて、長い臨床経験を積むのである。そこが知りたいのである。それでも、つかみきれずに現役から身を引いていくのである。この火種が理解できれば、臨床に無駄がない。なぜ無駄がないのか、それは、からだの治し方、治り方が見えるからである。この火種の歪みが修復されてくると、全身形態の歪みまでもが正体化されてくるのである。
    火元に放水しても火種そのものを直接放水する必要がある。そうすれば、くすぶり続けることなく鎮火する。現在まで、火元の存在を認めても火元の中の火種までは理解できなかったのである。
    どの臨床家も、この火元のなかの火種が知りたくて、四苦八苦しているのだ。

    三浦寛

  • 御礼 2009年秋季東京操体フォーラム  

    11月22日、23日の二日間にわたって、千駄ヶ谷津田ホールにて2009年秋季東京操体フォーラムを開催致しました。ご参加の皆様、ありがとうございました。
    今回は22日に柳生心眼流の島津兼治先生、23日に南画家の田中稲翠先生を特別講師に迎え、操体と武術、操体とアートという視点から学びを得ることができました。

    一流の先生方は、ジャンルが違っても深いところで通じるところがある、そんな二日間でした。春の分科会でまたお会いしましょう。

    集合写真。

    島津先生の実技指導

    ◆2009年12月以降の行事予定◆

    12月13日 ゴールドジム行徳 アスレチックセンターにて

    臨床家による操体セミナー〜歪み、腰痛、現状の壁を突き破る、達人ボディ製造法〜こちらのお申し込みは直接行徳ゴールドジムにどうぞ

    2010年4月26日  東京操体フォーラム 分科会(第1回)
    2010年春季から、「分科会」としての活動を始めます。詳細は追ってお知らせ致します。

  • 「色紙」

    今週に入って、朝の目覚めが一段と早くなる。そして平均化している。その日を待ち望んでいる目覚めですネ。
    昨日、今日と外は雨まじり、よっぽど寒いのかなと思い、防寒着をまとい、闇の外に出たものも、かなり外気は暖かい。とてもホッとする。

    昨夜からフォーラムで配布する色紙に書き込みを入れる。今回はふとした思いつきで、趣向をかえてみる。一つは、クジラの尾ビレを数十本抜き取って筆(ふで)にして書き添えたものと、紅葉して舞い落ちた落ち葉をモチーフに、それをカラーコピーに複写して色紙に貼りつけ、その上から想いの言葉を添えてみた。ふとした思いつきで急遽やってみたことなので、どうかなと思うのだが、・・・・参加者が多いのはうれしいことだけど、その分色紙の枚数が増えることまで考えになかった。まだ人数が確定できないので、おおよその見当で一枚一枚仕上げている。
    まだその三分の一もできていないのだから、皮算用してもはじまらないか・・・・。

    毎年色紙に添えている言葉は、どうしているのかというと、そのネタは一年365日書き込んでいる日記帳の中にしまい込んである。
    それと、色紙に向かっている時に浮かんでくる言葉が三分の二ほどあるんですよ。つまり、「旬の言葉」ですネ。旬のものを添えられるのが一番いいと思っているけれど、色紙の数ほど湧き出てくるわけじゃないから・・・。
    色紙は、人生訓あり、体験や経験の中からつかんだこと、失敗談から得たものもあって、私自身色紙を書いていてたのしい。それに、命、その生命に意識をおいていると、生命そのものから頂ける言葉、感じてくる言葉も拾えるんだネ。この命に意識をむけると、まだ知らない言葉がたくさんあるんだろうなと思う。とにかくネ、四六時中操体のことを考えていると、どうでもいいようなこと、不要なことは滅多に入ってこないものなんです。雑音っていうのでしょうか、雑念がないんですよ。ですから、僕自身、自分の内なる自分にかなり忙しいんです。何か、たくさん意識の中で脳細胞を、頭を使っているんですネ。この生命には私自身が創造(つくり)出した条件なるものは元々無いのですから、つくり出されてあるものを、そのまま有難く頂いているだけなのですから、その気なら、なんでも手に入るようにできている訳です。無条件で無限なる有難きものが生命ですから、いかにこの生命(イノチ)といい関係でいるかですネ。人間関係とて、いかに自分との信頼関係を保っているのかということなんですよ。自分が好ましい状態にあることが一番大切なことなんじゃないかな。自分のことや他人のことで怒りを覚え、爆発させることもあるけど、腹が立つのだから怒りは怒りでいいよ、しかし、後に引きずらないように、私は後で自分に謝る。「ごめんなさい」ってネ。

    その想いが怒りなんだから、謝ってしまえば怒りは消える。怒りを正当化すればするほど怒りはおさまらない。

    三浦寛

  • 医道の日本誌 『新年のことば』

    おはようございます。今週担当になりました三浦です。一週間よろしくお付き合い下さい。

    この時期、私の担当がフォーラムの日に重なってしまいますので、ブログの日付は少々前倒しにして11月11日(水)から書き込み進行させていますので、ご了解下さい。

    ブログに取りかかる前に、毎年恒例になっている「新年のことば」(医道の日本誌 2010年新年号)を字数の範囲に収めてみました。400字以内に収めるのが至難の業ですが、思いのほか、すんなり収まりがついたようです。
    内容については、近々ホームページで公開しますので、チラッと目を通して下されば幸い。
    かなりショッキングで興味をそそる内容です。

    医道の日本 新年のことば 2009年

    なにか、又新たな臨床の世界が展望できそうですネ。このことは、時空感覚を臨床の中でいかに克服していくか、という問題なのでしょう。時間、空間、距離感のとらえ方です。これを克服できれば、視診・触診・動診をとおさなくともそれらの診断が一瞬にして可能になる訳ですね。又、患者が遠方に存在していても、臨床がとおせる、それが当然のこととしてできるように成る。想念(心)は時空を超えて一瞬に伝わる、というのは確かなことでした。私は臨床においてその確信を得た訳です。

    その方法はわかってしまえば、なんだ、こんなことか、となるのです。とてもシンプルな問いかけによって可能なのだということがわかりました。今、そのレクチャーを一つ一つまとめています。この時空感覚をいかに克服していくか、臨床家にとっては、必須のことと思いますが、興味のある方は学んでみてはいかがでしょう。臨床観そのものもそうですが、人生観そのものも大きくかわりますよ。同じ自分でありながら自分自身の内容が、かわってくるのですから、味わってみるのもよろしいのではないでしょうかネ。

    三浦寛

    『医道の日本』2009年8月号 『自慢の一品&コレクションを拝見』より。

  • 気概

    いやぁ。。。いよいよ明日から秋季東京操体フォーラムですねぇ、緊張もピークに成っており、回数重ねてもこのドキドキは変わらないですね、私達実行委員はフォーラムの運営も行っているのと同時に当然の事ながら、勉強にも来ている一参加者でも有るので毎回新鮮な感動、改めて操体の凄さを感じることが出来、私ら地方者にとっては一年の総決算的意味合いもあり、ドキドキワクワクの二日間です明日から宜しくお願い致します!

    気が付けば今回のブログも今日が最終日です、毎度の事ながら頭を痛めつつ、出来る限り新鮮な感覚を内容に反映させたいという私の欲求から、ギリギリの状態で書いているので本当に痺れます・・・そんな新鮮なネタなので今の私の感覚により近いと思います・・・

    ところで最近テレビを見ていると『友愛』って言葉を某総理大臣が連呼しているので気になり、辞書で引いてみると『兄弟、又は友人間の情愛・友情を抱いていること(さま)』う〜ん。。。解りにくい・・『友愛政治』で引いてみました『これからの世界は、人種、宗教、民族、国家、言語の壁を超越し、ともすれば乖離(かいり)し、対立しがちな人間と人間、自然と人間との真の共生を目指す時代のこと』だそうです、これは某総理のオヤジさんが掲げた政治理念だそうで、意味を見れば見るほど益々解りにくいと言いますか、解るんだけど、納得は出来ないって感じでしょうか。。。

    テレビで某総理が「友愛・友愛」を連呼すればするほど、何か(┐・・┌)ゲッソリ…って感じで、胡散臭い(スイマセン)と言いますか言葉が上滑りで、日本を取り巻く外交事情やら経済状況を考えると余りにも余人離れしているといいますか、言葉に力が無いと言いますか、空念仏の様で耳障りは良いかもしれませんが、喧嘩に弱い奴が喧嘩するのが嫌で理由を美化しているようにしか見えない感じで、他国はそんなに甘くは無いぞ!って思わず言いたくなる今日この頃です・・・

    これって偶然と言いますか、海の向こうアメリカでも何やら同じ様な匂いのする方が大統領に成られて、何とかの一つ覚えのように『Yes We Can!』を連呼し、これ又耳障りの良い言葉を駆使し、ノーベル平和賞などを戴いておられますが、このお二人に共通なのは何か言葉が伝わらないって事なんですよねぇ・・・

    あ・・スイマセンいきなり毒付いていますが、この様に耳障りが良い言葉って信用出来るかどうかはその言葉を吐いている人の『気概』だって思いませんか?
    “子曰(しのたま)わく巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すく)なし仁”かの論語の中の一説を思い出しますが、意味は『先生がおっしゃった、言葉づかいが上手でよどみがなく、表情やしぐさなどの物腰が柔らかくても、そればかりを意識するような人物では、人を思い遣る仁の心が育つことはない』何かそのまんまって感じがします・・・

    でも、悲しいことに今の世の中の全体的な雰囲気としては“巧言令色”の方が喜ばれると言いますか、当たり障りのない、耳に心地よく心に届かない言葉が好まれます・・・
    ですが、この巧言令色を吐く人の共通点は言葉に魂がないので、いざとなったら尻をからげて眼前の障害から逃げて行ったり、あの時はそういう状況だったから、仕方無かったとか言葉に責任を持たないと言いますか、言葉を道具として弄ぶしか知らないので、言葉がその人の内側から絞り出される魂の叫びであったり、訴えであるものだと言うことを知らないのです。
    ですから腹の据わっている人と会ってしまうと直ぐにボロが出てしまい、化けの皮が剥がれてしまうという失態を行ってしまうのです。

    どうやら今は時代が荒んでいるので言葉だけは“美辞麗句”を並べ心の安寧をはかろうとでも思っているのでしょうか?
    この傾向はどうやらどの業界でも共通のようで、ともすれば全国的にも狭い操体の業界に関しても同じ様なことを感じることが有ります。

    橋本敬三“息・食・動・想+環”の教えを説いておられますが、中でも“想”である想念の部分は取り方によっては如何様にも解釈が出来“心の平安を保つには言葉を統制することが大切である”“言葉は運命のハンドル”など様々なキーワードが操体の中でも出てきますが、この中でも想念を統制するには“言葉”の力が重要であると師も説かれており、言葉が使いようによっては諸刃の剣に成るのだと、強い注意喚起をされているような気もします。

    操体は確かに素晴らしい次代に受け継ぐべき“Maid in Japan”『日本医学』です。
    “動診”或いは“快適感覚で治癒”を促すという、他の手技療法には見られない様々な特長を持っており、究極の未病医学であり誇るべきものだと思います。
    但し、余りにも大事に思うが故に、操体の考え方や橋本敬三を必要以上に神格化してしまったり、崇め奉るようなことをしてしまうと、本末転倒であり『世界平和を願う操体の考えに反してる!』などと変化を恐れる故に訳の解らない事を言ってしまう、守るだけの弱体組織に変化してしまう危険性も孕んでしまうからです。

    組織が変化を恐れ守りに入ってしまえば、後は弱体化か崩壊しか道は残っていません。
    風通しの良い組織内部の環境を作り、変化を恐れる事無く、新しい議題にも積極的に取り組んで行く姿勢こそがこの混沌の世にあって生き残っていく組織の姿であろうと考えます。

    耳障りの良いことだけを言う人間を周りに置き、苦言・諫言を言う本来であれば組織になくては成らない大久保彦左衛門的存在の人間を排除するといった“昔の名前で出ています式”過去の栄光にひたすらすがる組織では特に若年・青年層には相手にされない時代に成ってきていると思います。
    唯々、昔はこうだった・・とか・・それは貴方の考えで、受け入れられない・・とか折角、先人が血の小便を流しつつ築き上げてきた素晴らしいものであっても、変化出来ない、受け入れられない組織の器の小ささで無駄にしてしまえば、操体という名前だけの中身の無い、抜け殻自己満足のマスターベーション組織にしか成らないとも言えます。

    少なくとも実践者として操体の看板を掲げ現場で汗をかいている臨床家は美辞麗句では語れない臨床の難しさも知っていますし、日々クライアントの身体と真摯に向き合い、結果を出している自負も持っています。
    その実践者の言葉にこそ真実があり、本物の操体との出会いを待っている方達へのヒントが溢れていると確信しています。

    真の操体を求めるなら私は自信を持って言えます、東京操体フォーラムの門を叩け!と、そこには現状に満足することなく日々変化し続ける仲間と、間違いがあれば指摘し共に成長しようと願っている熱い意志がそこには有ります!
    『求めよ、さらば与えられん 尋ねよ、さらば見出さん 門を叩け、さらば開かれん』新約聖書「マタイによる福音書」より
     
    今週一週間、本当にありがとうございました、来週からはお待ちかね三浦理事長の出番です、今回はどんな話が聞けるか楽しみです、仙人World満載ですので、お楽しみです。

    福田勇治