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  •  表は裏の支えあってこそ。

    おはようございます。

    早いもので春季東京操体フォーラム分科会の開催まで、あと一週間となりました。
    今回のテーマは「快適生活のススメ 今よりワンランク上の生活を目指す方法」です。
    会場である千駄ヶ谷、津田ホールの前のイチョウ並木も、いっせいに芽吹いている頃と思います。
    イチョウは木では珍しく、オスの木とメスの木とに完全に分かれているといいます。またイチョウの仲間は恐竜時代に繁栄し、恐竜とともに姿を消したものが多いなか、こうして太古から脈々と生を受け継いでいる姿を見られるというのは、有り難いことなのだと思います。

    今週は性、SEXをテーマに書かせていただきました。

    男がいる、女がいる。
    (+)がある、(−)がある。
    陰がある、陽がある。
    静がある、動がある。
    表がある、裏がある。
    人々に夢や希望、感動を与える、きらびやかな表の世界も、裏で支えてくれている人達のお陰で成り立っている。そして、それぞれの立場の人が喜びと感動を持って、公益性を循環させている。
    今回の分科会では、特別セミナーの講師として、(株)ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサーで元日本レコード協会副会長の新田和長氏をお招きします。
    Musicman−NETのRELAYインタビューを読ませていただきましたが、その半生は、黒の人を白にするようなやり方ではなく、本人の持っている力を思いっきり後押しするというやり方で、自分自身も喜びと感動を味わいつつ、音楽を作ること、スターを作ることに夢中になり、表舞台で活躍する数多くのスターを世に送り出したのだと感じました。その顔ぶれはそうそうたるものです。
    そして、現在もプロデューサーとして平原綾香さんなどを手がけ第一線でご活躍されております。
    詳しくは東京操体フォーラム分科会発表者プロフィールのMUSICMAN’S RELAYインタビューをクリックしてみて下さい。
    分科会では、どんなお話が出てくるのか、今から楽しみです。

    白衣観音、慈悲の御手(上毛かるた)。 横の姿のラインも良いですね。
    今週は群馬県高崎市白衣観音像にお付き合い頂きました。
    高さ41.8m、 重さ5,985t、 井上保三郎氏建立。
    像の原型は、鋳金工芸家森村酉三氏が制作し、完成した原型を池袋にあったアトリエから、日本橋井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、当時井上工業に入社して間もない、田中角栄元首相であったという逸話も残っています。
    最後に、被災地の復興と、皆様の健康を心からお祈りいたします。

    一週間お付き合いいただき有り難う御座いました。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  • 男も女も・・人間は物ではない。(2)

    真のエクスタシーとはどんなものなのでしょうか。
    性行為による肉体的なものからくる、エクスタシーは男と女で違うでしょうが、精神的なものからくるエクスタシーは、人間として共通したものがあるのではないでしょうか。
    橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時に、『「想う」ってのは、気持ちのいいことを想えばいい。厭なことは想いたくないですよ。だから一番気持ちのいいことを考えればいいんで、一番気持ちのいいことは、やっぱり有り難いって思ったときじゃないですか。有り難いってことがわかんない人は、いつでも不平不満でいるから気持ちがわるいですよ。』と言っています。
    精神性を高め、真のエクスタシーを感じるには、肉体をお借りし「生かされて生きている」という事を自覚し、「有り難い」と思う心をどれだけ育てていけるかという自己生成、自己発展に関係してくるのではないでしょうか。

    動画です。

    この歌の歌詞はとても抽象的であり、和訳する人によっては随分と違ってきますが、私はこの和訳が好きです。特に2分40秒頃からはじまる、2番目の歌詞は「夢の王国」を「太極の意志」や「大生命の理」とし、「つらぬく光」を「救い」とすれば操体の臨床に重なる気がして、歌詞を見ながら歌のヒビキを感じていると、なぜか涙が溢れてきます。この涙は悲しくて溢れているのではありません。これは共感、共振による歓喜の涙であり、これもエクスタシーだと思います。しかし、その下地がなければ共感、共振もないでしょうし、感動も少ないと思います。操体の臨床の中で、共に快を味わい法悦にひたり、自然と両手を合わせたくなってしまう。そして「ありがとうございます」という言葉のヒビキと共に呼吸を両手の親指にとおしながら天にこうべを垂れる。そんな感動の下地があるからエクスタシーに通じるのだと思います。
    この下地づくりというのは自己生成であり、操体の臨床の場だけに限らず、他の仕事でも、また家庭を支える主婦(夫)業の中でも、生きて活動する中にエクスタシーの下地は存在しており、ほんの些細な出来事でも有り難いと感謝し、そしてそれを言葉にしていくこと。そういった小さな積み重ねが、感動できる自分を生成していくことなのだと思います。
    まずは与える、有り難いと感謝して自分自身に気持ちのよさがとおる言葉を与える。それが豊かな自己生成、そして自己発展につながるのではないでしょうか。そしてそれが「大生命の理」の中で生かされて、「自由」に生きていくということにつながると思います。

    「生命の暗号」(村上和雄氏著)という本によれば、人間は1キロあたり1兆として、60キロの人なら60兆という数の細胞から成り立っているという。その一つ一つの細胞の核には遺伝子があり、その中には30億の暗号文字で書かれた情報があるそうです。この遺伝子の良い情報をONにするのもOFFにするのも、また悪い情報をOFFにするのもONにするのも、自分自身の心の持ちようにあるようです。ですから元々「救い」が完成されているイノチであり、元々「自由」が与えられているのです。ですが「自由」には責任が伴います。「大生命の理」に順応すれば、「大安心」が得られるが、順応しなければ、消耗と消滅の不安から逃れることができない。こちらのほうは「報い」になってきます。
    「気持ちよさ」「感動」「感謝」「発する言葉」というのが、こういう面から考えても重要だと思います。

    頑張る必要はないのです。そのかわり、「気持ちよさ」「感動」「感謝」「ハッスル言葉」を通じ、行動に生命(イノチ)を吹き込むことの繰り返しだと思います。

    東京操体フォーラム理事長でもあります三浦寛先生から、フォーラムの時にいただいた色紙の「言葉」も「感動」の下地となり、「感謝」しながら、今「気持ちよく」書かせていただいております。これらの循環が大切ですが、何かを創りだすとか、自己生成の場面では、やはり最初に正しい「言」ありなのでしょうね。

    友松 誠。

  • 男も女も・・人間は物ではない。(1)

    おはようございます。
    東北地方からも、ようやく桜の便りが届くようになりました。
    桜の花を愛で、少しでも心を癒していただければと思います。

    橋本敬三先生は終戦後、ロシアで捕虜生活を送っていた時期があり、その時一番辛かったのが、唯物論をはじめとする当時の共産主義思想を強要されたことだったと聞きます。捕虜生活は肉体的にも過酷で辛かったと思いますが、それよりも人間の尊厳を踏みにじるような思想教育(はじめの共産主義思想とは違うスターリン主義)の徹底による、精神的苦痛のほうがはるかに辛かったのだと思います。
    唯物論では、物質が本来的で根源的な存在であるとしたうえで、心や精神も物質(脳髄)の所産と考えるそうですが、そうであるならば人間も物体であり、男は凸の特徴の物体、女は凹の特徴の物体となってしまいます。SEXも凸と凹が合体して新たな物体を産生し、その快感は脳髄の所産とするならば、なんとも味気ない。極端なたとえかも知れませんが、これでは人間の尊厳につながってこない。

    発展し続ける現代科学でも、この3次元空間に生かされて生きているかぎり、どうしても物理的には解明できないことというのはあると思います。いや、解明できないことの方が多いと感じます。特に身近で当たり前と思っていること程、実証が難しいと思います。例えば、宇宙の果てがどうなっているとか。時間はいつ始まっていつ終わるのかとか。物理的に証明できる人はこの世にはいないと思います。
    ミクロの内の内を探る分野でも、最小単位は素粒子と言われていましたが、その内にはクォークレプトンがある事が解りました。そしてその内も研究がされていますが、もし本当の最小単位が解ったとしても、それがどのように生じたのかといったら、物を見るという見識からでは、それは解らないと思います。
    現代科学の最高の指導原理といわれる 唯物弁証法でも、物質やその運動、質の転換の根源に(+)(−)があることまでは認めているが、そこから先、つまりなぜそうなのか、(+)(−)が何故あるのかとまでは至らない。物を根源的とするからそこから先には進めなくなってしまう。だから、この現象界の起源については、感ずいてはいるが頬被りするしかなくなってくるのだと思います。
     別にそれが悪いというのではありませんが、自分の目に見える物だけが真実とするような考え方ではなく、目に見えないものによって自分も生かされているという心の持ち方も必要だと思います。

    再度「生体の歪みを正す」の26ページより引用しますが
    異性が互いに接近し、語り合い、見つめ合い、触れ合っただけで充電する。
    これをいかに清潔に優雅に高尚に行なうかは、その人の知彗による。
    性の充電のないのは気枯れ(けがれ)となる。

    別に肉体的(物的)関係だけが性の充電ではないのだと思います。この文章を読むと、むしろ精神的なものを高めていくことが性の充電につながる感じがます。快楽には精神的なものが重要で、肉体的快楽ばかり求めていると消耗につながるのだと思います。
     心も精神も物質(脳髄)の所産と考えてしまえば、目には見えないけれども確実に自在している大いなる存在もわからないし、自分がどうしてこの世に存在しているのかということもわからなくなってしまう。自分を生かしてくれている空気や水、光、大地さえも、単に生まれた時からある物だから、あるのが当然と思ってしまうのではないだろうか。
    それでは肉体的快楽の尺度でしか、生きていけないということになってしまわないだろうか。それで真のエクスタシーを感じることが出来るようになってくるのだろうか。

    つづく。

    友松 誠。

  • 根源的なもの。(3) 〜精子考〜

     性行為によって膣の中に億という数の精子が射精される。
    しかし、この時点ではまだ精子に受精能力はなく、卵子の待つ卵管膨大部までの過酷なサバイバルの中で受精能獲得が成されていくそうです。そして、その中のたった1つが卵子と結ばれる。
    ここで気になるのは、精子がはじめから受精能力を持ち一目散に卵子に向かって競争するのではなく、競争の中で受精能力を獲得していくという点です。
    私は今まで、億という数の精子それぞれが受精能力を持ち、サバイバル競争をして勝ち残った一匹の勝者だけが卵子と結びつくと解釈していましたが、改めて考えてみると、それだと弱肉強食の競争原理を人間はこの世に産声を上げる前から、強いられているというふうにも感じるし、全知全能な神様がわざわざ振るいにかける様なことをするのだろうかとも思えてきました。
     受精能獲得や超活性化の過程はまだまだ未知の部分ばかりだそうで、神秘的ですらあるのですが、「自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものである」という橋本先生の言葉をもとに考えていくと、自分勝手な思い込みですが、精子精子として発生する前から、聖別され祝福されているのではないかと思うのです。つまり、起源より脈々と受け継がれてきた親のからだの中から、新しい生命の元となりなさいと聖別され、祝福されて遺伝子という贈り物を賜り、精子の基となる精原細胞となったのだと思うのです。同じ尿道口から出て行くものでも、一方は何十兆という細胞の老廃物、不要物として排泄されるものと、新しい生命の元となって旅立って行くものとでは随分と違います。

    精子戦争〜性行動の謎を解く」などの著者であるロビン・ベイカーという生物学者は、精子にはそれぞれ役割分担があると提唱していますが、やはり遺伝子という至高の贈り物を賜って成長して精子となっている訳ですから、億という数の精子の集団は、ただ闇雲に競争を繰り返し、一番を決めているというのではないという気がします。
    遺伝子を携えた精原細胞は70日間かけて精子となり射精の瞬間を待ちますが、この間に生体内での環境、射精までの時間により、あるいは精子の気持ちにより遺伝子の働きがONになったり、OFFになったりと、様々な要因で精子自身の能力と意志が決まってきて、億という数の集団の中の役割分担が出来てくるではないでしょうか。
    そして膣の中に放出された大集団は、一握りの新たな生命への快を求める集団と、それを応援することに快を求める集団とになっていく。後者の集団は酸性な膣の環境の中で、また白血球や他の人間の精子との戦いの生じる子宮という環境の中で、前者の集団の為につくすことを喜びとし、そこに快を感じながら最後はエールを送って帰一していく。また前者は後者のその献身的な愛を受け止め、感動のなかで使命感を高ぶらせ、自らの遺伝子を活性化させる。こうして困難に出会うたび、集団の数は減少するが、新たな生への快を求める集団の中の精子は、自らを活性化させ次第に受精能獲得が成されていくのではないでしょうか。
    そして母体とも調和が成されていく。母体という環境は初めこそ精子にとっては過酷な環境で、多くの仲間も失いましたが、自分達がその環境に合わせていく能力の元となるものを、始めから持ち合わせていることに気づき、環境の中で生かされて生きるということも学んでいく。
    このあたりは地球に植物が発生し、酸素が増えていき、本来は有害である筈の酸素を営養源とする動物(人間)が出てきたこととも重なるような気がします。
    母体と調和が成され、母体からもエネルギーをもらい、更に受精能力が高められ、太極の意志を受け継いでいることを自覚し、自らの快の方向性へ進む精子達。
    その快の方向性と卵子の快の方向性が合致した一匹が、めでたく卵子と結ばれる歓喜を迎え、すべてのものに「有り難う御座いました」と感謝する。
    そして受精卵が出来るのではないでしょうか。
    勝手な思いつきですが、そんなことを想いました。

    この巻物の中に何が書かれているかはわかりませんが、人がより快適に、気持ちよく、生かされて生きていく為の情報が詰まっているような気がします。根源的な情報に問いかける時は、この様な指のかたちになるのかもしれません。

    友松 誠。

  • 根源的なもの。(2) 〜すけべ考〜

    「すけべ」と言う言葉があります。
      これは異性に対して異常な好奇心を示す人のことをいうそうですが、「すけべ」も浅い処ばかりで好奇心を働かせていると、「のぞき」とか「痴漢」といった人に迷惑をかけるような行動となりかねませんが、「性」のもっと深い根源的な成り立ちを追求しようとする好奇心は、昨日書いたように、どのようにして人間が創造され、生かされて生きている中で、どう生きなければならないのか、という悟りに通じてくると思います。
     昨日書いたことの中で「気持ちいいか悪いかがわかるから有り難い」「イノチある存在は、快を求め、快に従い、快の方向をむく」と書いていますが、誤解してほしくないのは、「気持ちよければなにをやっても良い」というようなこととはちょっと違うのです。人間には欲があります。その欲求には食欲や性欲、睡眠欲、排泄欲などの生理的はもの以外にも、好奇欲求、達成欲求、金銭欲、支配欲その他諸々の欲求を、様々な環境と係わる中で生じさせます。欲求が行動力を生み、その欲求が満たされれば快感が生じることも確かです。しかし、快感には質があり、その時は快と感じてもすぐに飽きてしまう快や後味の悪さから二度と味わいたくない快もあるし、味わうたびに質の高まる快もあります。ですから快の質をどう判断するか、どこがどういう基準のもとに快、不快を判断するかということが問題になってきます。もし欲望が自分の損得を基準に快、不快を判断しているとしたらどうでしょうか。これはゆくゆくは自分やまわりの環境(人為的、社会的、自然)を破滅に向かわせかねません。性欲であれば相手にも、支配欲の類であればイノチの母体である地球さえも破壊しかねないと思います。ではどこがどのような基準の基に判断した快に、従うのが人間やその母体である地球にも良いのかといったら、欲の生じる前から自分の内に自在してある「救い」の貫かれたイノチの要求感覚(原始感覚)の快に従うことです。このイノチの要求感覚には、自然法則(太極の意志)が貫通しており、ここを基準に快を求め、快に従い、快の方向を向くようにすれば、神仏(太極)と共に悦びを称え合うということにつながってくると思います。
     人間の「理性」や「品性」といったものは成長に伴い高めていくものですから、生きる時代やその環境によって歪められてしまう面もあると思います。ですがこの自然法則(太極の意志)というのは永久不滅ですから、迷いが生じたならばこの実相と向き合いその快の方向へ進んでいくようにすれば良いのではないでしょうか。
     「すけべ」も人間の本能あっての欲求ですから、生長に伴い「理性」や「品性」と供にその質を高めていかなくてはならないと思います。幼児期、少年期、青年期、中年期、高年期と肉体の状態に伴いそれぞれ違うと思いますが、欲の基準の枠の中に安住し、もっともっとと刺激の閾値を高めなければ興奮せず、快感も得られなくなり、人がどうだろうとその欲望を満たそうというのであれば、それは「すけべ」ではなくエッチ(H=Hentai )になってしまうのではと思います。ほとんどの人が「エッチ」の方が小さい時からよく使っている言葉な為か、言うのも聞くのもそれほど抵抗はなくとも、「変態」と言われれば、人間性を否定されたような気分になると思います。ですから「すけべ」というのは、小さい時は「あのコのパンツは何色なのだろうか」といったレベルで良いでしょうが、生長するにしたがい、お互いのからだの仕組みや機能、それに伴う感情の違いを理解し、供にいたわり、思いやる為にそれらを学ぶというもとに好奇心を働かせる。それが人間のからだの神秘さと、すべてのものに生かされて生きているという現実の最認知につながり、大いなる存在は「すべてのものが気持ちよく天寿を全うできるように」と愛とその法則により、その元々を創り、その意志は悠久の時間を経ても朽ちることなく、受け継がれるようにして今生きる自分たちにも貫通していることを自覚する。そして、その意志を少しでも理解し、すべてのイノチに貢献できるよう学ぶという念頭のもとに、好奇心を働かせるようになってくる。そしてそれが生きがいであり悦びとなってくる。それが本物の「すけべ」なのではないでしょうか。

    つづく。

    友松 誠。

  •  根源的なもの(1)

    おはようございます。
    4月も中盤をすぎ、暖かくなってきました。
    春季東京操体フォーラム分科会も、もうすぐですね。
    いつもは土曜、日曜の開催が多いのですが、今回は29日の金曜日です。
    まだ若干、席の余裕があるようなので、詳しくはこちらからご覧下さい。
                           東京操体フォーラム

    「生体の歪みを正す」橋本敬三論想集の26ページの文章からですが
    性 ― 性には消費の性と蓄積の性がある。
    異性が互いに接近し、語り合い、見つめ合い、触れ合っただけで充電される。これをいかに清潔に優雅に高尚に行うかは、その人の知彗による。性の充電のないのは気枯(けがれ)となる。
    消費の性は節約の一語につきる。コントロールは呼吸法による。餓鬼意識を捨てること。
    思いやりとサービス精神が天国を開く鍵となる。
    という文面が載っています。
    これは、「日常生活の手入れ」の項目のなかの文面ですが、自己最小限責任生活必須条件である「息、食、動、想」と同じ様に、「性」も日常生活の中でこのようにしなければ、歪みが出来てきますよ、というかたちで書かれています。
    「性」となると個人の男と女が営むものですから、個人の「息、食、動、想」と人為的環境の関連として「性」と捉えても良いと思うのですが、そうしないで自己最小限責任生活必須条件と同じように取り上げているところに、「性」の生命に直結する重要性があるのだと思います。その理由については様々なことが考えられますが、一つには「息、食、動、想」については個人がこの世に生まれ落ちてからのことですが、「性」はそれ以前の事柄も含むからなのだと思います。
    これは橋本先生が70歳の頃に書いた、「遺言」と題して日本医事新報に載せた文面からも窺い知ることができます。
    生命現象のギリギリのファクターを整理してみてはどうですか。
     まず七つのことが残るようです。
    (一)生かす力の環境、
    (二)生かされている生命体の過去から未来に流転しつづけているこのナマミの身心、
    (三)これは(+)(−)の性によって引き継がれている。
    (四)このナマミはオギャーの一声から息を引きとる瞬間まで絶え間なく呼吸しつづけ、
    (五)飲食して行かねばならず、
    (六)心をはたらかせ、
    (七)そのために動くことの連続です。
    と書いてあります。
     (四)から(七)はこの世に誕生してから、自分自身で必要最小限、責任をもって営まなければならない「息、食、動、想」ですが、その前の段階に「性」がきています。ですから、「性」というのは自分がどのようにして、この世に存在しているのか、その意義を学び、生きて活動している自分たちは、どう生きなければならないかを考えさせられるという面も持っていると思います。
     なぜ男と女という性別が元々の元から存在し、結ばれる時には快感が生じるのかとか、色々辿っていくと、(+)と(−)の元となる起源、つまり陰と陽という異なる性相(本体と現象)を誰が設定し創造したのかということに行き着いてきます。その誰かとは「一にして二、二にして一」の無極無限の太極の存在であり、その太極の意志により、男も女も万物すべての現象が創造されたということにつながる。そうなると太極の意志、すなわち「どうしたいのか」「どうしたくないのか」を陰(−)と陽(+)を設定する時点で通じさせておかなくてはならなくなるが、それがなんなのか、それを知る為にはどうしたらいいのか、を学んでいかなくてはならなくなってくる。学んでいく中で陰陽を結びつけ万象を具現化させているのは「愛とその法則」であり、その法則は具現化された万象すべてに貫通されており、その法則を知るのは原始感覚であり「気持ちいいか悪いかがわかるから有り難い」「イノチある存在は、快を求め、快に従い、快の方向をむく」ということにつながってくる。この原始感覚を生かされて生きて活動する中で、より高度で敏覚なものとさせ、そうして知り得た「太極がすべてのものを愛するがゆえに決めた決まりごと(法則)」を人々の健康の為、気持ちよく快適に生きるために役立てたいと考えるようになってくる。
     橋本敬三先生は医専の学生時代にセックスを生涯のテーマにしようと決心したそうですが、その時からすでに異性への好奇心という域を脱して、すべての人が生かされて生きる中で気持ちよく快適に生きていけるようにと達観されており、その生涯の中で自分の生前の身分と向き合い、その実相の中から自然法則を悟っていったのではないでしょうか。

    つづく。


    光は人間の解釈の仕方で、粒子にも波動にもなる。
    その本質は解釈を超えた存在だが、恩恵を受けていることは誰でも知っている。
    いつだって希望の光は降り注いでいる。
    必ず夜明けは来る。

    友松 誠。

  • Give and give

     はじめに、先月発生した大地震により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。そして、被害を受けられた皆さま、そのご家族に、心からお見舞い申し上げます。
     私の住む地域でも、生活物資の流通は先月より安定してきたものの、原発放射能漏れによる様々な心配、風評被害、落ち着いてきたものの計画停電による仕事の停滞、治まることのない余震、などで社会生活への不透明感は増すばかりとなっております。こんな時だからこそ、今回のブログのテーマである、性、SEXについて真摯に取り組みたいと思います。

     SEXという性行為は、人間が誕生してから脈々と営まれている。
    同じ地球の生命体でも、性交し快感とともに種を残した後、その成長を見届けずに死んでしまう種もいるし、人間やねずみなど数種を除いて、性交、交尾する時期も決まっている。このようなことを考えれば、人間は大いなる存在によって許された存在であり、その性行為には種の保存という側面以外にも、何かしらの意義があると感じます。地球上で文化、文明を創造できるのは人間だけであり、その人間が互いに力を合わせ何か(物質面だけでなく)を創造、生成、発展させる為の活力とさせる為に、人間は種の保存という大前提だけに限らず、その快感を季節に関係なく味わうことを許されているのだと思います。だからお互いに消耗するだけの行為であってはならず、生きることに前向きになれる行為としなければならないのではないでしょうか。
     その前向きな行為とさせる為の根本にあるのは、貪るということでは決してなく、神や仏といわれる大いなる存在が無償の愛を人間に注いでいるということを自覚し、それを手本とするように、人間も人間に見返りを求めない愛を提供するということではないでしょうか。つまりgive and giveであり、SEXは基本的には異性の個人と個人の性交であるので、そのお互いがgive and giveで交わったなら、そのエネルギーは愛と結びの快感を生じさせた後、新たなイノチを授けたり、お互いが生きる為の意欲と自信の活力を与えるようなtake and takeに質が転換されてくるのではないでしょうか。
    その個人と個人のお互いに生じた活力は、集団で互いに力を合わせ何かを創造、生成、発展させる為の活力となってくる。

     このgive and giveの精神は、人間として生まれてきたからには潜在的に誰でも備わっているもので、SEX以外のことでも活きる、また生かしていかなければならない精神だと思います。
     操体の創始者橋本敬三先生は、臨床の場で「治すことまで関与するな」と言われていたと聞きます。病気は医者が治すものだから治してもらいに来たという人にしてみれば、不思議に思うかもしれませんが、治しているのはまぎれもなく「からだ」に備わった治癒系のメカニズムであり、その原動力となるのが快適感覚であるということが理解できれば、操者(施術者)は「治す」「治した」という見返りを求めずに、ただただその快適感覚をききわけ、味わってもらうことだけに集中して奉仕しろという、give and giveの精神を持てといっているように感じます。

     また一ヶ月前の大地震では、随分と物資の不足する事態となり、被災地ではまだまだ困難な生活を強いられている人たちが沢山おります。
    このような時こそ、give and giveの精神を生かす時なのではないでしょうか。不安感から買いだめしてしまうような移ろう心は拭い去り、奥の真心を磨きその光を放たせる時だと思います。
    ちょっとのことからでも良いと思います。こちらも少し前までは物資を送ろうとしてもその物資がなかったり、輸送手段さえなかったのですから。逆にひけめと感じて自分を責めることはしないようにと思います。
    まずは気持ちが大切です。その気持ちを持ち続けることにより、自然とそれが言葉となって現れるでしょう。その言葉の力は巨大な力に増幅されて、かたちを創っていきます。逆に風評被害の加害者なってしまうような言葉は慎むべきです。このような時こそ言葉の持つ偉大さを自覚し、清く、正しい言葉を発していきましょう。
     小さくともひとつひとつのgive and giveの精神は、すべての人達にイノチには無量寿な慈悲が元々貫かれているということを再認識させることとなり、物質中心(優先)の今の世の中を超越した新たな次元の、文化、文明を生成させ、発展していく原動力となっていくのではないかと思います。

    立ち上がれ、光を放て
    日いずる国よ
    そして新たな世界の模範となれ。

    友松 誠。

  • 男らしく?

    男らしく、女らしくという言葉、最近はあまり聞かなくなってきましたね。
    差別を感じさせる可能性のある言葉だから使いづらくなっているらしいです。
    個人的にはそんな悪い言葉とは思わないですけどね。

    もともとは、男の子は女の子より気が小さく、優しいため、強くさせるために男らしくしなさいと子どもの頃から教え、逆に女の子は気が強いので、ちょっと抑えるように女らしくしなさいと言われ続けたとか・・・

    かけっこで順位をつけないために手をつないでゴールするとかのように過剰になって欲しくないものですが、難しい世の中ですね。
    自分たちが小さい頃は、普通に言われてましたが、そういうふうに育って欲しいと願ってのことなのですよね。
    はたして男らしく育っていたかはわかりません。

    そういえば、幼稚園の頃、スカートを履いてみようとしたことがありした。好奇心からなのですが、幼稚園から帰ってきた後だったか、うちで着替えている時に、ちょうど姉のスカートが置いてあり、どんなもんだろうと手に取りました。試しに履こうとして足を入れた瞬間に幼馴染が入ってきて目があってしまいました。爆笑され未遂には終わりましたが、そっちの道に入らずにすみました。
    現在でも、女性雑誌や少女漫画なども抵抗なく読めますし、特にそいうのは気にはしていません。
    男性には男性のよさがあり、女性には女性のよさがあると思うのですが、時代によって変わってくるものなのでしょうか。

    私は、なぜ男性と女性が全く同じであり、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。神からの賜物はすべて良きものですが、みな同じではありません。

    女性の愛が神の愛の一つのかたちであり、男性の愛も、もう一つの神の愛のかたちであるためです。男性も女性も違った方法で愛を表現するように造られており、男女がそれによってお互いを完成させ、一緒に神の愛を完全に表すのです。これは、どちらか一方だけではできないことです。

    子どもは家族への神の最大の贈り物であり、母親、父親の両方を必要としています。なぜなら、父親は父親らしく、母親は母親らしいやり方で神の愛を体現して見せてくれるからです。ともに祈る家庭はお互いに離れていくことはありません。

    マザー・テレサ

    辻知喜

  • 地図が読めない?

    随分前のことになると思うが、話を聞かない男、地図を読めない女という本が話題になった。
    内容は細かく覚えていないが、男女の脳による違いを解説してあった。

    現在、出張にて操体の施術をさせていただいているが、当初困ったのは、よく迷うという事だった。
    もちろん、何度も行くようなところは大丈夫だが、初めて行く場所では、迷う確率が高い。
    もしかしたら自分は地図が読めない男なのではなかろうか、などと思ったりしたものだ。
    今まで地図で不便を感じたことはないし、方向感覚がないわけではないので特に気にしたことはなかったのだが。

    駅から目的地に行く場合、起点から方角が判明していて、主要道路と目印が豊富にある為に道順なども理解しやすい。
    が、住宅街に入ると途端にわかりづらくなる。

    一方で、「地図を読む能力」に関しては男性も女性も大きな差はないとの話もある。これも慣れなのだろうか。他の方の意見も聞いてみたいところだ。

    辻知喜

  • 触れる

    操体法東京研究会では、毎年、定期講習が行われています。設立から多くの人々が操体を学び、現在操体臨床に携わる方は大抵ここの出身者です。
    いつからか、受講生の間では、修行中は恋人はつくらないというのが暗黙の了解になっています。
    当時より、先輩たちの口から何度も耳にし、実際に九州のとある先生などは今でもネタにされるようです。
    三浦先生から直接言われたことは無かったような気もしますが、ある時それについてひとこと、「勉強より彼女のほうがいいに決まってんだろ」とのことでした。先生自身も、橋本先生の内弟子に入った当時、奥様と約束をしていたと聞いたことがあります。そのあたりの事情からの伝統なのでしょうね。
    余所見をせずに集中して学ぶ期間は貴重です。

    逆に以前の職場では、教育係の立場にいたりした時期もあり、施術を受ける機会が多かったですが、時に、「彼女つくった方がいいよ」とアドバイスをした記憶があります。最初の触れ方で、施術者の力量は相手に伝わってしまうものですよね。
    それが雑だったり、ぎこちなかったりすると、まずいことになります。

    操体を学ぶ前、この業界に入ったばかりの頃は、一緒に住んでいる相手がいたので、毎日練習していたものですが。家族でもいいのかも知れませんが、ちょっと違う気がします。

    初めて東京操体フォーラムに一般で参加した時は、実技体験のあった回でした。
    第二分析の介助をやっていましたが、皮膚を介して触れているんだという事が強く印象に残りました。

    恋人に触れる時のように、あるいは赤ん坊に触れる時のように、丁寧過ぎるくらい丁寧でもいいくらいです。
    根本的には同じなんじゃないかと思います。

    辻知喜