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  • 時空と瞑想(4日目)

    昨日の続き
    瞑想は思考に取り組むことから始まる。思考を人間のからだに例えて言うと、根源的な二元性、感覚、衝動、概念はからだの骨格にあたる。感情は筋肉にあたり、意識化の無駄話やその他のとるに足らない思考活動は循環系であり、それが筋肉を養い支えている。したがって肉体を完璧に機能させるために必要なものは、筋肉組織と循環組織、そしてそれを支える骨格である。
    瞑想という行為は一つの開いていこうとするプロセスに見立てることができる。思考の肉体を解剖してみると、まず皮膚に切れ目を入れ、次に循環系である思考活動の動脈を断ち切る。瞑想するということは、この動脈のなかの小さな切れ目だ。坐る瞑想は極度に退屈だとか、達成困難だとか言われたことがあるかも知れない。だがやってみればそんなに難しくはなく、逆にかなりやさしく思えるだろう。ただ坐ることだけなのだから。動脈、つまり心に意識下の無駄話は、呼吸に取り組むことで容易に断ち切れる。ただ坐って自分の呼吸の出入りをただ受け入れるだけ。特殊な呼吸法は何もいらない。ただ坐って呼吸に気を配ることを続けてゆく、ただの自然な呼吸。これは呼吸に精神を集中するのとはまったく違う。集中は何かに執着するとか何かにしがみつこうとする面があるが、集中よりむしろ、心を隅々までゆきわたらせるのである。目標思考の集中よりも、そこで何が起きつつあるのかを見てゆくことが必要になってくる。
    心をゆきわたらせるというのは目標も到達点もない。そこでは愛と光、天国と地獄、あるいは天使も悪魔もいない。また、どんな種類の幻覚も約束されていない。まったく何も起こらない、まったくの退屈。ときには自分が馬鹿らしくさえなるかも知れない。瞑想の空間では、ただ坐って自分の呼吸を感じ、それとともに在るスペースなのである。そうするうちに動脈の切れ目は、実際には切れ目ではなかったことがわかってくる。実際に切れ目が入るのは、瞑想の退屈であって、本当の意味での退屈を感じ始めることになるからだ。だがこの退屈はとても重要である。何故ならこの退屈は「証明癖」と対極にあるからだ。うすっぺらなプライドであるアイデンティティーがあれば楽しいし、何か新しくて生き生きしていて素敵なものをもたらしてくれるし、あらゆる解決法にもなるだろう。このような自己存在証明の考えを除外すれば、そこには退屈が待っている。この退屈な空間は瞑想者においてとても重要だ。退屈は瞑想者の心の洗練度を向上させてくれる。瞑想者は退屈を味わい始め、それがクールな退屈になるまで心の洗練度を高めてゆく。そこには何かがあるが、時間は存在しない。そんな空間にあり、坐して、坐して、坐し続けることは、思考の動脈を断ち切り、退屈を並はずれた強さになるまでこの心理的孤独とともにある。こうした孤独こそが本当の自由というものだ。孤独とは「ひとり」という意味ではない。孤独とひとりはまったく違う。孤独は全体の一部であり、全体ととともにあるということ、すなわち全一的であるということだ。
    操体の動診でもからだの感覚に気を配って、快があればそれに身を委ね、からだの動きをただ受け入れるだけ。瞑想と同じように目標も到達点もない、ある意味において動診もまた全一的だ。
    明日に続く

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 時空と瞑想(3日目)

    昨日の続き
    瞑想によって真理を探究しようとする人がいるが、そんなことはできっこない。真理は捜し求められ得ないものだからだ。我々に探究できるのは、もはやすでに知っているものだけに限られるのである。探求するというのは欲するということであり、未だ知り得ないものは探求などできようはずがない。探求しようとする衝動そのものが、すでに何かを味わい、何かを知った後に湧き起こるものであるからだ。真理というのは探求することはできないが、見いだすことならできるのである。
    探求するということは、時間の中で求めるという意味であり、深い意味で延期するということなのだ。何故なら、探求は必ず未来の中にあって決して現在の中にはないからである。たった今この瞬間に探求しようと思っても、探求などできるはずがないし、そんな余地もない。本当のことを言うと、探求心そのものが「時間」というものを創り出しているのだ。探求するためにはどうしても時間が必要であり、その時間を創り出すことによってはじめて探求することができるのである。だから東洋思想の探究者たちは、「輪廻転生」という概念を生みださなければならなかった。「魂」の絶対の解放にはもっともっと時間が必要だ! 一生ではとても足りない。何生もの生が必要になってくる。そのように何生もの生があってはじめて、時間の広がりと、時間のつくり出すその空間のなかで我々は動くことができるのである。時間というのは実を言うと欲望の副産物であり、欲すれば欲するほど、ますますもって時間が必要になる。だから東洋では生につぐ生、永遠に終わることのない時間を考えつくことになったのである。
    一方、西洋的な思想では時間に対してより意識的になって限られた時間の範囲内で合理主義精神のもと、たくさんのことをやらなければならない。人生は一回きりのものであり、来生なんかありえない。今生がすべてなのであるから多くのことを、あらゆることをしなければならなくなる。割り当てられた時間という期限内で、たくさんの欲望をうまくさばかなければならない。こういったことから西洋では強く時間を意識することになった。この「時間意識」というのは西洋的精神の最も共通する面のひとつだと言える。
    我々が欲望するときには必ず時間を創り出しており、その時間とは空間の第四の次元であり、また時間とは一種の空間でもある。時間がなければ欲望は身動きできない。それゆえ、どんな欲望も時間や未来を創り出すのである。そうなったら、現在の時間を後回しにできる。しかし、現在の時間というのは実のところ時間などではなく「実存」である。時間とは保留できないもの、さえぎることのできないもの、後戻りさせることのできないものだ。そして究極的には、時間の過程そのものが「死」だ。時間を失うがゆえに、我々は死んでゆく。いつかある日、もうどんな時間も残されていない空っぽの自己になる瞬間がやってくる。生命砂時計の砂はすべて下に落ちてしまった。そうして我々は確実に「死」を迎える。
    操体も時間、空間を超えた実存の次元である。快適感覚は時間に依存しない空間において感じることができる。「永遠なる時間」にも、「限定された時間」にも拠りどころとはしない。何故なら「からだの無意識」に依存しているからだ。
    明日に続く

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 時空と瞑想(2日目)

    昨日の続き
    瞑想とは、我々の焦燥感や落ち着きのなさ、それに絶え間のないせわしなさに取り組むということである。この瞑想によって「空間」という空いたスペースが生まれる。この空間の中では、焦燥感や落ち着きのなさが存分に発揮できるかも知れないし、そわそわできるスペースもあって、落ち着かない気持ちのままにリラックスできるかも知れない。もしその落ち着きのなさの邪魔をしなければ、それは「空間」の一部になることもできる。
    瞑想というのは、心の催眠状態を生み出そうとすることや、落ち着いた感覚をつくろうとするようなことでは決してない。心の落ち着きを得ようと努力するのは、実のところ貧しい心理状態を反映しているからだ。心の落ち着きを求めようとすれば、落ち着きのなさに対して防衛的になってしまい、そこには絶えず妄想と限定性の感じがつきまとうことになる。自分を圧倒しコントロール感覚を失わせてしまうような熱情や攻撃性の突然の発作から身を守る必要を感じてしまうのである。この防衛プロセスは、来るものすべてを受け入れることができないために、精神の視野をきわめて狭く限定することになる。
    瞑想は心の中に生起するすべてを使いこなすという意味において、豊かな精神性を反映するものでなければならない。落ち着きのなさにも、それが空間内で自由に動きまわることができるような充分な空間が与えられるならば、そのエネルギーは自分に対して根本的な信頼感を持つようになり、落ち着きを取り戻すことができる。そのためには問題多い状況やいらだたしい状況に単純に交わり関わることが必要だ。そこには無知があり、落ち着きのなさもあり、熱情があり、攻撃性もある。それらをほめてみるとか、非難することなく、ただ発作として見ることが必要なのである。それらはある条件下の状況であるが、何の条件づけもなしに心をゆきわたらせることによって正確に精密に見ることができる。これが「自覚」というものだ。心の中身を捨てたり、とっておいたりする必要はまったくない。それ自身の環境や空間があるのだから、心をゆきわたらせることの精密さはあるがままに放っておくことができる。ただ心をゆきわたらせるということができれば、攻撃性や熱情等を認めうる土台になる空間が生じてくる。ゆえに自覚とは執着しないという意志であり、意識はしているが焦点はあわせていない「心」を意味する。
    瞑想にはどんな方法も原因とはならない。だからいろんな方法が可能なのである。どんな方法もただの方便にすぎない。瞑想は因果的ではないのでどんな方法も可能になる。すべての方便というものは嘘であり、単なる方便なのだ。それはただある空間を生み出しているだけなのである。因果的なものではない。そのある空間とは居場所のことであり、それを超える手段が瞑想なのである。
    操体法においても同じことが言える。動診におよぶ空間内でも自由にからだを操れる空間が与えられなければならない。そのためには、やはり心をゆきわたらせることが必要になってくる。
    明日に続く

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  • 時空と瞑想

    今週は日下が担当します。
    テーマは時空。時空といえば「瞑想」を外すことはできない。今回はこの瞑想から時空へと展開していこうと思う。 その前に「空間」と「時間」の概念について西洋と東洋を比較検証してみる。「空間」と「時間」はまわりの事象を整理する上で大いに貢献もするし、科学や哲学をとおして自然を理解していく上できわめて重要でもある。数学的な公式を立てるのに、「空間」と「時間」を必要としない物理法則はないと言っていい。古典物理学は「絶対的な三次元空間」と「独立した次元としての時間」という「空間」と「時間」の概念を基盤としていたのである。
    このことは「空間」とは、そこに含まれている物体に影響されず、幾何学の法則に従うものであるということだ。そして「時間」は絶対的でしかも等速度で流れ、物質の世界から完全に独立しているという。西洋ではこのような空間、時間の概念が哲学者、科学者の心に深く根をはり、疑う余地のない自然の性質だと受け止められていたのである。幾何学は自然の本質そのものだという信念は、古代ギリシャの思想にその起源がある。しかし、あのアインシュタイン幾何学が自然の本質ではなく、人間の押しつけであることを西洋の科学者や哲学者に認識させたのだった。相対性理論の認識の中心にあるのは、幾何学は知性がつくりあげたものだということにつきるのである。
    一方、東洋の哲学はギリシャ哲学と違い、常に、空間、時間は人間がつくりあげたものだという立場をとってきた。他のすべての知的概念と同じように、空間、時間の概念も、相対的であり、限界のあるものであって、幻であると見るのだ。ある仏教経典でブッダは言う、「過去も未来も、空間も、個体も、ただの名前であり、思考の形態であり、慣用語であり、表面的なリアリティーにすぎない」と。このように東洋哲学は、ギリシャ幾何学としては成立しなかったが、それはただ、抽象的、永久的な真理を規定するのに幾何学を用いたりはしなかったということだ。東洋の科学では、自然を直線や円の内にあてはめる必要性をまったく感じていなかったということである。
    東洋では空間と時間の両概念を特殊な意識状態と結びつけて考える。東洋は瞑想によってふつうの状態を超越し、空間、時間の概念が究極的な真理ではないことを悟る。この神秘的体験から生まれる新たな空間、時間の概念は、多くの点で相対性理論の空間、時間の概念と酷似しているのである。相対性理論から生まれた新しい空間、時間の概念は「空間と時間の測定はすべて相対的だ」という発見に基づいている。空間を相対的に捉えること自体は、何も新しいことではなく空間内の物体の位置は他の物体との相対位置で定義できるが、このことはアインシュタイン以前から東洋ではよく知られていたことだ。東洋の神秘思想にあるこの考え方を西洋幾何学に既成概念の修正、放棄をさせるにはアインシュタインという偉大なる天才がどうしても必要だった。そして現代物理学はきわめて劇的に生まれ変わることができたのである。
    操体の時間と空間についても「快適感覚を味わう」ということにつきる。また快適空間と時間も相対的であり、最快適点である「たわめのマ」に至っては、時空を超えた意識状態であると私は理解している。
    明日に続く

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

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  • 本当に時間は進んでいるのか

    万波は水を離れず

    唐突ですが、これは仏教の言葉で『大乗起信論』にあります。
    簡単にすれば、「いろいろな水があるけれども、それでも同じ水でしょう。だから信じましょう」という意味です。

    そもそも、私たちは自分の背中を見ることができません。
    「心」とは相手に繋がっているのでしょうか?いつからかワタシにそんな疑問が浮かんでいました。
    見えていない(不可視)私たちの後ろには、いったい何があるのでしょうか。
    そこで時間の進み方、空間の関係性、そして時空の超え方について思考してみたのです。

    操体を通じて学びながらのここ十数年間には、ワタシの知らなかった自分の背中を見る機会を何回も頂いています。
    東京操体フォーラムの活動はモチロン、その後の懇親会や、第二日曜日に行われている実行委員勉強会もそうです。

    言葉とは黙読という方法もありますし、読み方は自由なんですけれど、一説によれば、
    昔の人間は読む=音読することが当たり前だったようで、声を出して読んでいた方も多かったようです。

    その際、単なる符号としている言葉もあれば、その意図と目的がある言葉もあります。
    それは息を通して、言葉にしてみたら理解できます。
    感じることが先、と言うことになります。

    それは、橋本敬三正師と繋がっている、三浦理事長の継承・更新している操体を学ぶこと。
    そして実際に、操体の学びを通して『快』をききわけて味わえること。
    ここに無限の可能性として、不可視にも繋がって・・・まさに自由になっていけるのです。

    自由とは、”繋がっている”からこそ!の学びにあるものなんですよネ。

    個人レッスンの時三浦理事長は、相手の生活意識にも繋がる”自由”について、こんな話をしてくれました。

    「相手に『勝手にしろ』とは言わないよ。それでは(私が)色々と立ち入る”余地”はないからネ」

    「ただ、『自由にしろ』とは言うよ。相手のやってきたことは(私も)認める。 

     そしてこれから、相手のやろうとしていることに対しても、何かあれば、腹を括って全面的に後押しするヨ、と言う意味でネ」

    「『自由にしなさい』といっても、どこまで(相手は)わかってくれたのかナ・・・」

    なるほど然り。ワタシも含めて相手もどれくらいわかっているのか。
    どの程度でわかったつもりになってしまうのか・・・わかったつもりになっていないことは、かなり大切な意識なのです。

    さて話を変えまして最終日のテーマは、本題の『時間の進み方』について書かせて頂きます。

    すっかり夜更かし習慣のある方も、早寝早起きがモットーの方も、昼夜交代制で勤務している方も、バブル期の某実行委員のような夜間に勤務している方も、
    様々な方がそれぞれのスタイルで睡眠をとっています。
    よく「睡眠時間をとる」ともいいますが、その時間を”どこ”から”とって”いるのでしょう。

    そもそも人間は、どのくらい眠ればいいのでしょうか?
    生まれたばかりは長く、加齢と共に短くなるという説、7〜8時間がいいという説、
    日中に眠さを感じなければ個人差があって良いという説もあります。
    それで有名なのは、ナポレオンの3時間睡眠とか、アインシュタインの10時間睡眠です。

    また、一般常識の壁を、大きく越えている方もいます。
    例えば、睡眠時間のようには決めないように、
    夜は眠るもの朝は起きるもの、というキメゴトを外しているような生活をしています。
    思うに無理がないというのは、からだに適い、自然の法則の範囲内にあるということで、
    自身の生産性の高い”意識”にあってこそ可能になる、というところでしょうか。
    その上で、本当に必要なのかは、信頼できる”からだ”にききわけていればいいのですから。

    考えてきめていたことから、瞬間で意識していくことに変わってから気付くことは多いのです。

    時間の過ごし方と言えば、時代が変わってきた19世紀から20世紀、そして21世紀現代では、
    ひとりひとりの毎日があり、戦争のような集団行動で拘束されることも少なくなり、
    それぞれに、生活のゆとりは違ってきています。

    それにしても”人間”である以上、共通するルール、最低限の法則はあるのです。

    「毎日、おなじことの繰り返しで1日なんてあっという間だよ」という方もいます。
    「いい歳になったけれど、歳を重ねても未だに子供の頃とあまり変わっていない」という方もいます。

    そして、人に言われるがままに行動し、そこに自分の生活時間を重ねている方もいれば、
    できる限り、自分の意識で時間をコントロールできている、そのようにしている方もいます。

    集中していれば1日が過ぎるのがとても速く感じても、充実感を味わっていますから、
    後味がいい気持ちよさを感じています。

    集中できずに時間の経過がとても遅く感じて苦痛を味わっている方もいます。
    入眠障害中途覚醒などの睡眠障害などは典型的ですね)

    ワタシも少し前まで、時間の進むのが速く感じるのは、
    きっと年のせいなんだろうな・・・と人事のように思っていたのです。
    しかし、どうもそれでは説明できないようです。

    時間というのは、非常に個人的ななかで起こっている現象に過ぎないのではないか・・・と。
    なぜなら、どうしても自分がやり遂げたいこと。
    ここにある意識として、意識できている瞬間、また次に訪れてくる瞬間の意識は、
    それを時間内に、ほぼ可能にしているのですから。

    つまり、忙しくてもこれだけはやっておくぞ!と、意識してみると、
    後になってみればちゃんとできていることが圧倒的なのです。

    なので、たった15分が倍以上のくらいの速さで進んで(遅れて)、
    その必要な要求を満たしてくれるのですね。

    ということは、生活時間の外にそのような何かが働いている可能性を否定できません。
    結果として、そのように時間が進む(遅れる)ことこそ、自然の法則に適っている、と感じています。

    ですからそんな時には、『サイボーグ009』の島村ジョーの「加速装置」とか、
    ジョジョの奇妙な冒険』のディオ・ブランドーのスタンド「ザ・ワールド」のように時間を止めて動いたり、
    あの東北リンゴ農家の木村さんのように「時が止まっているときに竜がいた」と、そんな次元を垣間見ているんじゃないかとさえ思うのですが・・・(笑)

    つまり、時間というのは絶対的なのではなく相対的なものであって、私達の意識が大きく関わっているように感じるのです。

    自然法則のなかで、何かの理由があって意識は更新されてるのは『時間』、イノチからすれば自然な流れとなる。

    「快」は、私達を”時間に拘束されているトラワレ”から解き放ってくれる「道」に繋がっているに違いありません。

    〜『平常心是道』〜ある禅師の言葉より〜

      「道は考えてわかるものではないが、しかし、わからないと言ってしまうこともできない。
       考えてわかるならそれは妄想であり、わからないとすれば、無自覚というものだ

    誰にでももともと生まれながらにして備わっているなんて、素晴らしいことです。

    ワタシも記憶も飛び飛びになりながら『』をつないだ一週間でした。
    みなさまにはお付き合い頂きまして、本当に感謝しています。ありがとうございます。

    明日からは、東京フォーラムin京都での発表を待ち望まれる、日下実行委員の登場です。

    よろしくお願いいたします。   
                                         岡村郁生

      

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 境界線と意識

    篠宮龍三氏は、現在国内で唯一人のプロのフリーダイバーです。
    映画「グランブルー」で、人類初の潜水100メートルを記録したその人、ジャック・マイヨールの記録をアジア人で初めてクリアしています。

    比べるのもおこがましいのですが、
    少し荒れている海に潜れば、私の場合、自分の身長の2〜3倍で苦しくなりますね。
    湘南に住んで始めたばかりの頃のサーフィンでは、ワイプアウト(ボードから転落)して波に巻かれてると、
    1分も経たないうちに、「死んでなるか、なるものか」と必死に本気でもがきますから、
    この記録に挑戦すること自体、どれほど大変な記録なのか想像はできます(関係ナイって?)

    きっと苦しさとの戦いなのかな?とも思ったのですが、
    篠宮氏の言葉は、私の想像を超えた言葉でした。

    例えば、海に深く潜ることについての質問で”宇宙”という言葉にまで言及するのです。

    「(フリーダイビングは)自分にとてもフィットしていた。人生を賭けて追究したいテーマに出会えた瞬間」「地上を離れ、海の中へ、地球の中心へ潜っていくというのは、
     光もなくなって、音もなくなって、しかも重力も感じなくなっていくので、宇宙に近づいていく感覚に近い。

    「かなりの水圧も加わって、圧倒的に感じるのが、水の質感。
     すると、急激に時間が濃くなっていく」

    「例えるならば、5秒に感じていたのが実際には20秒も経過しているような、
     つまり、それだけ気持ちがいい空間」

    ・・・というのですね。
    つまり、ある環境に置かれた『からだ』にとって、快適な空間は時空を超えているのでは?

    さらに驚いたことに、水深100メートルを超えると酸素が必要と感じないのだそうです。
    勿論、体内では酸素を消費してガス交換をしているのですけれど、
    数分にいたる”マ”では、酸素を吸えない状態を”からだ”が一時的であったにせよ、実際に受けいれているのです。

    「(その時間)人間の能力は有限なのですが、その壁が取り払われたように感じて、
     (本当は)人間の能力は無限なんじゃないか、と実感する瞬間です」

    ・・・と話しています。
    この話を聞いたとき、私はピンと来ました。

    操体の臨床とは、このようなことも大いに含んでいる。
    見えている現象はモチロンですし、目には見えないなことを通じて、ことの成り立ちを学ばせて頂くのですからネ。

    臨床の場でも、向かい合っているのは相手なのに、自分にも向かっている。
    感じることは、意識として受け入れる。受け入れるのは相手だけではなくて、自分にもあるのです。

    このようなことは、操体法の創始者橋本敬三正師から、直弟子三浦寛理事長へと大事に受け継がれていて、
    東京操体法研究快での学び、塾操体の学び、東京操体フォーラムの「快」に繋がっているのです。

    有り難いことです。ありがとうございます。

                                             岡村郁生

    追伸:龍のつぶやき⑥
    「ほんとうにみえないものは、”かたち”ではなくて、意識として在る。
     じつはみえているものも、”かたち”なのではなくて、意識が薄くなれば消えていく。
     皮膚のはたらきは、”ながれ”を生じているものを感じることにあり、
     それは、振動によって生まれている感覚でもある。
     皮膚にとっていえば、振動を感じとること。生じていくものもあり、消えていくものもある」
     

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 時を超える言葉〜操体〜

    操体は死んでも生きている“  

    ムォ〜格好イイ!!この台詞を聞いたのは、昨年の京都での操体フォーラム。
    今年も京都で行われるフォーラム発表して頂く講師、奈良の北村翰男先生から頂いた言葉です。
    昨年は北村先生に地元を案内して頂いて、あの奈良の大仏様や、大人気のイケメン阿修羅様を、
    生で拝ませて頂き、お陰様で次の日から充実した東京フォーラムin京都第一回を開催して大成功でした。

    そこで、『操体』・『操体法』って言葉なのです。
    今更ながら、操体法と名付けたのは橋本敬三正師ですよネ。
    されど正師も、「天然自然の法則に“橋本式”なんてないからね」と北村先生に話されていたらしいのです。

    とはいえ(しつこい?)ワタシが考えるに、正師の残されている言葉の多くは、
    時空を超えている言葉なのですから、や・は・り、意味あることではないでしょうか?

    ですから、今日は「操体」という言葉に迫ってみましょう。

    まず、語源から意味を調べてみると・・・(語源由来辞典より)、
    『体』は、、
    「体(からだ)」は、殻(から)に、接続語として「だ」がつながっていて、
    大昔は「魂(たましい)」に対して、それを宿しているのは「身(み)」といっていたようで、
    「身(み)」の外である肉体を、「体(からだ)」と区分けしていたらしいですネ。

    また平安時代まで、抜け殻(ぬけがら)・死体・亡骸(なきがら)とする意味もあったらしく、
    それが室町時代に入ってからは、一般的に「魂」と「体」を区別しなくなってきたこともあって、
    徐々に変化して、次第に頭から足先まで全てをあらわす意味となって、
    「生きていること」を前提として使用する言葉となってきたようです。

    そして問題は「操」の意味ですよね〜。
    ある辞書によれば、
    ひとつに、自分の意志・主義・主張を貫いていくことや、誘惑や困難に負けないこと。
    ふたつめに、上品で、雅(みやび)やかなこと、そのようなさま。
    みっつめには、常に変わらないこと、またそのようなさま。
    と、ありました。
    ウ〜ン・・・ちょっともう少し調べてみましょう。ワタシ的に納得できないので(笑)

    すると、橋本敬三正師とも交流された野口三千三先生の言葉で、なかなかイイのを見つけちゃいました。
    野口先生も真摯に「からだ」について言葉を選び、その見解を記されています。
    その中で、羽鳥操氏というお弟子さんの名前でもあり、『操』そのものの意味を、
    丹念に調べてお弟子さんにこのような意味があるんだよ、と伝えたそうです。

    野口体操 感覚こそ力

    野口体操 感覚こそ力

    *参考文献*『野口体操 感覚こそ力』羽鳥操著〜春秋社〜

    原初宗教の生きている甲骨文の造字感覚からみると、、
    (*注:白川 静(しらかわ しずか)氏〜漢文学者・古代漢字学で著名な東洋学者)
    (*白川静)氏曰く『操』の右側にある部分は、
    生命の象徴である”若木の枝”に、
    ”祈り”や”願い”、”問いかけ”の言葉を、
    いくつも結びつけていることを示していて、それを手に持って振り、戴いているという、
    その繰り返し懸命に祈るさま、その行為を表しているのだそうです。

    つまり、「操」の本当の意味は、
    神(カミ)に対する問聴(占い・ト)の行為を示す、ことでもあって、
    「貞」(=神器・祭器・宝器のような象徴)と似ているとも言えるようです。
    ある特殊な状態において、”カミとつながっている”状態とも言えないでしょうか?

    ここで懸命なブログ読者?ならピンと来たでしょう。

    東京操体フォーラム三浦寛理事長の臨床、「不可視」とつながっている臨床の問いかけ。

    いや、みなまでいうな!・・・って、ええわかってますがなァ。
    それならぜひ、『東京フォーラムin京都』におこしやすゥ〜、ということで・・・。

    その前に!(かなり)お得でいいことを教えましょう。

    「足趾の操法」を体験してみませんか?
    とろけるようなきもちよさ。操体の秘技、「足趾の操法」。深い癒しの体験が、この日だけ2000円!
    日時: 2011年7月18日(月)海の日 9時〜12時 13時〜17時(予定)
    場所: 三軒茶屋ターミナルビル(ご予約の方には場所をご案内致します)
    金額: 2000円

    気になっているそう、そこのあなた!完全予約制ですからネ。
    この後すぐ、詳細をメインページから、「check it out」

    いや〜ホントにいい時代に生まれ、この肉体を頂いてよかったですね、ご同輩!!

    有り難いことです。ありがとうございます。
                                
                                   岡村郁生
    *追伸:龍の愛⑤
    「人は愛によって成長し、愛によって輝く。愛は宇宙である。
     振動の細やかなものに触れると、それだけで癒されていくもの。
     それは自分の姿を取り戻すからだ。慈しみの波動、支えていく意識。
     求められる我であろうと努める意識。
     みてみなさい。どんなにあなたのまわりに存在している環境が美しいかを。
     きいてごらんなさい。どんなにあなたのまわりに存在しているバイブレーションが美しいのかを。
     あじわってごらんなさい。いつでもその準備はできているのだから。
     たったいまからできることがあります。それは認めていくことです。認めるんですね。
     あなたという存在自体が、その全てとつながっていたんだと気づくことを」 

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。               

  • 地球46億年の時空への旅

    ワタシが操体を学び始めてからというもの、ビックリしたことがあります。

    橋本敬三正師曰く「治すことまで関与するな」ですね。

    正直な話、ワタシは東京操体フォーラムの実行委員に任命されるまで、
    ”症状疾患の対応”や”様々な治療法”以外の勉強は、あまり興味ありませんでしたから。

    だからこそ、この言葉には、深い意味を感じてしまうのです。
    つまり、治療法として操体を学んでいるだけではないのです。
    操体を学んでいるということは、
    まさに総合的な知識をもって繋がっていける、愉しみながら一生学んでいけるということなのですネ。

    そして、ワタシも少しずつ「治療なんか下の下だ」という橋本敬三正師の言葉にあるような、
    意味を知るべくして、興味の範囲も、改めて、物理学・生物学・解剖学・生理学・哲学・猫学?と様々に広がっています。

    そして出会ったのが、”ルドルフ・シェーンハイマー”。
    この方は、「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と言っています。

    これをワタシ、「食」と「息」の相関性における”空間の超えかた”じゃないか!!と感じたんです。

    この説に至った彼の実験を簡単に説明すると・・・、
    大人のネズミに同位元素(=アイソトープ)で色分けした餌を食べさせて体重や色の移動を観察した。
    すると、消化吸収されて変化して細胞に取り込まれていくものと、
    エネルギーになるものであろうという予測は崩れ去り、ネズミが餌を食べるやいなや一瞬にして色が散った。

    要するに、ワタシ達が学校で習った消化吸収と異なった、吸収と排泄のルートがあるということなのです。
    混乱してしまわないように付け足しておきますが、細胞レベルでの消化吸収はそれでいいんですが、

    もっと微細な分子レベルでは、まるで風の流れになびく植物のように、海岸に打ち寄せる波のように、
    降りしきる雨粒のように、”動的=ダイナミックに生命は変化をしている”ということなんですネ。

    初めて知ったとき、こ・これは!と、たまげました。

    そしてワタシ的に、東京操体フォーラムの三浦理事長の臨床『渦状波』を、皮膚との接触の意味を通して、
    「からだに任せる」ことに抵抗がなくなって、介助しやすくなったのです。

    (*説明しよう!*『渦状波』とは、”刺激”には決してならない皮膚の接触のことです)

    ・なぜ操体において、『刺激』ではないのか?

    ・なぜ橋本敬三正師は、皮膚を運動系に入れているのか?(橋本敬三著『万病を治す妙療法』農文協(p105)参照のこと)

    ・なぜ三浦理事長は、『快』と『皮膚』に『不可視』とますます更新されていくのか?

    皮膚からのメッセージ―操体臨床の要妙part 2

    皮膚からのメッセージ―操体臨床の要妙part 2

    (詳しくは三浦寛著『皮膚からのメッセージ』たにぐち書店(巻頭カラー写真参照に感じてください)

    そして、地球上の元素の量は”ほぼ一定”といわれていますから、
    最もミクロなレベルにおいては・・・生物も無生物も、交流して繋がっているのが当然の成り立ちなのかもしれない。

    もう本当にたまげるのは、橋本敬三正師の哲学思想ですね。
    これは、宇宙の哲学であり、天然自然の『道』を説いているんですネ。

    もうこれって、空間を超えていると感じませんか?
    しかも、三浦寛理事長は鍼灸師・按摩マッサージ師・指圧師・柔道整復師・教員養成科も出ているのに、
    学校で教わった知識だけに頼ることなく、
    何よりも迷い無く信じ抜いていける「操体」を橋本敬三正師の意志を継ぎ、
    自らの臨床で「道』を示し、私達に掴んでいることを惜しげもなく指導しています。

    当然ですからはっきり言います。
    操体は更新していいんです!それは「からだが治す」ゆえの学びなのです。

    複雑なストレスの多い現代では、温故だけで「マ」に合わない。
    間(マ)に合っていく、だからこそ知新はあるのです。

    本当に『間にあっていればいい』臨床・学びは確かにあるのです。

    ですから、最前線が売りの東京操体フォーラムは、開催のたび更新しています。

    宣伝のようですが(笑)是非とも東京操体フォーラムin京都に参加してくださいネ〜。

    そうすればウソかホントか、わかります。

    温故だけでは・・・不思議かもしれません。

    温故知新に適っていればこそ、当然、操体だけで臨床は可能なのです。

    有り難いことです。ありがとうございます。

                                        岡村郁生

    *参考書籍:福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書

    生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

    生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

    追伸:龍の叱咤激励④
    「本当の自分を知りたければ、からだを大切に扱うことだ。
     やりたいことがあるのなら、その要求の半分は自分に、もう半分はからだに訊け。
     常識に囚われすぎるな、迷惑がられたとしても大切なことはより通せ。
     人は助けてくれない。もし助けてくれたと感じるのなら、その愛を学ぶことだ。
     あきらめるな。そこから這い上がれ。とどまるな。そこから何かをつかんでいけ」

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。               

  • みんな〜師事してる『快』〜

    東京操体フォーラム三浦寛理事長から頂いた言葉『正師とつながる』。

    一つ一つの言葉は、その後から反芻されて様々な想いと重なりつつ、日々の臨床で導かれていく。

    実際にそれは、操体の創始者橋本敬三正師と繋がっている言葉でもある。

    今回のテーマ『時間』と『空間』について学ぶ意味。

    これは、いまのワタシに必要な言葉なのであろう。

    最近の”*操体個人レッスン”では、「差をつけない」という言葉に響いたのである。

    差をつけないということは、足りないと考えたり減らそうとしないことでもある。

    *説明しよう!個人レッスンとは?
    三浦寛理事長から直接、操体の教えを受けたり、疑問に答えて頂けるという、ディ○ニーラ○ドで例えるなら、ミッ○ーマウスとアトラクションに乗ってもらうような魔法の時空なのである。ヒュ〜ン!!)

    その時に三浦理事長は、空間についてこのような話をされた。

    「人間には”時間”という縛りがあるが、動物には”時間”という縛りがない」

    人間は、”時間”のなかで生きているから”病気”になるのではないか

    これはモチロン、三浦理事長の言葉である。

    すぐにワタシの言葉にはなっていないし、ワタシの言葉となるには『』という営養(営みによって養える)が必要なのだ。

    人はそれぞれの生でありながら、それぞれに元々救われている。

    これは「生まれてくる前の身分を知りたい」と、若い頃に悩んでいた橋本敬三正師の言葉(*注1)である。

    確かに人間であれば必ず、寿命という肉体生命での期限はある(DNA判定ではほぼ120歳)。

    しかし、この世で肉体を維持できる間『マ』とは生きかたでもあり、各人によって異なっている。

    それはそれでイイのだ!

    比較するから間違えてしまうだけだったのだ!

    そういえば・・・関係ないけれど書きたくなったので書いてみる。

    鍼灸学校時代よく語呂合わせで覚えていたのだが、
    おしりの経穴(ツボ)を覚えるとき、督脈と膀胱経脈を、
    長くて強けりゃエーよ(長強穴と会陽穴は横並びなので)と暗記した。

    しかし、人間の人生はどうなんだろうか?長くて太ければそれでイイのだろうか!!
    (本当に単なる楽しみでする”アレ”ならともかく・・・ね)

    ワタシやあなたの人生もそれで良いのか・・・、それが問題なのだ。

    そもそも、しっかりとした”自立した自分を持つ”ことができていなければ、

    ”相手に合わせるなどという”高度なことはできない。

    それを理解する必要な条件の一番。

    それは『正師』から学ぶこと。

    (*注1)詳しくは、橋本敬三著『からだの設計にミスはない』たにぐち書店(p41〜48)で学びましょう。

    万病を治せる妙療法―温古堂先生 (健康双書)

    万病を治せる妙療法―温古堂先生 (健康双書)

    (*注2)更にオススメ!なのは、シリーズ操体111の畠山裕美常任理事の担当した『月刊手技療法3月号
        〜救いと報い1〜』と、『月刊手技療法4月号〜救いと報い2〜』を併せて学んでみること。

    橋本敬三正師』の言葉を通じて学ぶことであり、是非とも読んで、音読して、噛みしめて味わってみること。

    有り難いことであります。ありがとうございます。
     
                                           岡村郁生

    追伸:龍の叱咤激励③
    「退く理由はいくらでもつくることができる。言い訳するならやめた方がいい。
     創っていくこと、退くことは逆になっている。日本のメーカー『HONDA』が世界でも一流になった理由、
     それは創業者の『他にはないものを創れ』であった。
     人々の度肝を抜くには、自分で感動することを創り出すことにある。
     推されたら退く理由を考えるヒマを与えず、チャレンジ精神を発揮して創り出せ。
     成功とは”成し遂げること”であり、終いまで見届ける覚悟で創ることなのだ」
     

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

                  

  • 時間の繋がりを学ぶのは・・・

    操体法の創始者橋本敬三正師の直弟子、三浦寛理事長は重ねて残念そうに話している。

    橋本敬三先生の卒寿の時、操体法を学んでいた多くの人間がそこには参列していたはづなんだ」

    「その席で確かに橋本敬三先生は言っているんだよね」

    「これからは(動きだけではなく)感覚を重視しなさい、と」

    「”快”と”楽”は違うんだ、とね」

    「だけど、その時確かに橋本先生は話されているのに、『いや、知らなかった』という人もいるんだよ」

    「あれから何年、何十年経っているんだと思う?本当に勿体ないことをしているんだよな・・・」

    いやウソ言ってません。ホントのホントですよ。

    ウソかホントか、操体やってみればわかるんです。

    私達、東京操体フォーラムの実行委員をはじめ会員、そして東京操体法研究会の受講生、東京操体フォーラムの参加者は、

    なぜ、ここまで「快」にこだわったり「気持ちのよさ」を重視するのか理解して頂けていることでしょう。

    しかし、モッタイナイことはあります。

    肉体の時間は有限なのです。

    どんなに長くこの世にいたとしてもせいぜい120歳くらいでしょうか。

    「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、

     きわめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。

     光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、

     人間には時間を感じ取るために心(意識)というものがある。

     そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、

     その時間はないもおなじだ。   〜中略〜

     でも悲しいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、
     
     なにも感じとれない心(意識)を持った人がいるのだ」

    そのとお〜り。私も同感ですネ。

    このようなマ(間)を”意識”として、元々あるものと感じとることのできる人間。

    時間とは、もっている”有限であるが故のマ”に合うように、人間は思考しているのです。

    無限と仲良くできる工夫、不可視とほぼ無限に繋がっていける方法を考えていくのです。

    手前味噌ですが・・・、20回を超えて毎年開催されている東京操体フォーラムは勿論ですし、

    昨年からは、操体を学ぶ団体としての活動を通して、これから先の数十年、いや数百年?を見越したうえで、

    三浦監事・畠山代表理事を中心として、「一般社団法人日本操体指導者協会」を昨年の2010年8月18日に設立しました。

    その目的とは、操体を学びながら開業を目指している”次世代への操体指導者”を育成・維持していくことなのです。

    なので、「現在も操体の専門家っているのかしら?」・・・とか(笑)

    操体の専門家って食べていけるのかしら?」という不思議な疑問(汗)に答えられるように、操体の専門家としての地位を確立させ、

    その活動を支援し資質を維持・向上するために・・・、

    国民の健康そのもの(WHO健康の定義に適っているのですヨ)に繋がる操体を提案しています。

    有り難いことに、学んでいる操体で”繋がっていける”感動そのものに繋がっているのですから、

    「道=タオ」を学んでいけるように、”不可視”と繋がっていけるように学んでいけるのです。

    これは、イノチの流れそのものです。

    ですから、肉体が消滅していても繋がっていける方法の一つともいえますね。

    現代の社会にも適っていますし、日本の法律で保証されている法人格なのですから。

    有難いことです。ありがとうございます。

                                        岡村郁生

    *参考文献「モモ」ミヒャエルエンデ作、大島かおり訳、岩波書店

    モモ (岩波少年文庫(127))

    モモ (岩波少年文庫(127))

    追伸:龍のつぶやき?
    「意識をからだに合わせているのか、からだを意識に合わせるか。
     意識は閉鎖することができるが、からだは閉じることはない。
     常に解放している”からだ”だが、閉じた意識にもあってしまう。
     からだは真我を求め、意識は自我の成長を望んでいる。
     同胞よ、導きなさい。意識は鏡、成長とは大きくなることです。
     その欲は大きくなるが、欲(ほっ)すれば満ちる。
     生きているかぎり、欲しなさい」

    東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。