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  • 楽−Study

    操体に興味があるので、教えて貰えますか?」時々、この様なことを言って来る人がいます。私は間髪入れず満面の笑みで「え?本気ですか?」と言うと、大概「はい、真剣に学ぼうと思っています!」と答えが返ってきます。
    まぁ此処までは誰しも答えますが、次に「師匠が東京に居ますので、紹介しますから、本物を学んで下さい!」と気持ちよく言うと、急に微妙な顔付きになって「と・・東京ですか・・」と困惑した顔になります。最後は爽やかに「今から師匠に電話入れてみましょうか?」と言うと、ほぼ8割が「あ・・ありがとうございます、ちょっと考えてからお返事します」と言われ二度と連絡はありません。
    気の利いた人なら「福田さんに直接教えて貰うわけには出来ませんか?」などと言われるので、こちらも更に「どーせなら、最高のものを学びたくないですか?」と聞き返すと、もはや撃沈です。

    そもそも真剣に学ぶ気があれば、その世界でトップの人を紹介すると言われれば、何処であろうと、迷わず行くと思います。これは別に意地悪でやっている訳ではなく、「学ぶ」姿勢がどうかを試しているのです。この様なことを言ってくる人達の共通項は「楽に学びたい」と言う安易な姿勢です。
    大概“楽”に学びたい人達の共通点は「覚悟」が無いのです。真剣に学ぶと口では言うのですが、東京に行くほどの金銭面での自己投資と覚悟も無く、楽に教えてくれそうな人から教えて貰うといった感じでしょうか。言ってみれば“お試し品”的感覚でちょっとかじってみて、美味しかったら食べるといったお気軽動機なのです。
    今は学び方も様々にあり、学校、カルチャーセンター、講習などその気になれば幾らでもあるのです。しかし、逆に選択肢が多いとは選択する側の感性が問われることにもなります。世の中には口に入れて直ぐに美味しさが分かる食べ物もあれば、スルメの様に噛めば噛むほど味が出て来るモノもあります。

    何でもそうですが、直ぐに良さが分かる!などと言われるものほど薄っぺらいモノはありません。我々の業界の中にも、ホームページや業界誌などで「僅か二週間で開業OK!あなたも簡単に独立開業!」などと謳った広告を出しているところがよくあります。内容的に間違いでは無いのですが、開業は自由ですし、その人が成功しようが失敗しようが広告主に責任は無いのですから。
    最近では社会情勢を反映して、この様な安易な広告や業者に引っかかるのは、若い人よりも定年前の50代から60代の方が圧倒的に多いのです。再就職の可能性が低いのと、独立開業の四文字に惹かれるものがあるようです。業者にしてみれば、まさに“鴨ネギ”状態で、年齢と共にどうしても若い人に比べ、覚えることが困難な年代は補習、補習で気が付けば楽に開業予定の筈が、高額な受講料の支払いと中途半端な技術で不安開業することとなるのです。
    私に言わせれば、そんな安易な広告に引っかかる方が悪いですし、開業すればイコール成功だなんて、夢物語も良いところだからです。旨い話には裏があると相場は決まっているのです。安易な学びは安易な結果しか生まないことを理解すべきなのです。楽に学んで素晴らしい結果を生もう、なんて考えがそもそも甘いのです。学びに近道無し、やはり生涯勉強なのです。

    今はお金に糸目を付けなければ、大概のモノは手に入る時代です。学びも同じで、昔の様に師匠の鞄持ちをしたり寝食を共にするなどといったやり方は今は少なくなりました。丁稚奉公する位ならもっと楽に、もっと早く学べるモノが良いと、学ぶもの自体の価値観よりも、自己都合が優先する学びとなっているのです。一つのモノをとことん掘り下げて学ぶのでは無く、ちょっとかじって又、目新しいものをかじるの繰り返し。看板には「整体治療院」-カイロ、マッサージ、操体リフレクソロジー-って何屋か分からない店舗になってしまいます。
    そもそも、操体と整体を一緒にすること自体が無理であり、他力と自力の共有は節操もありませんが、理屈にも合わないのです。

    この様な中途半端な学びは自分の中の確信を失い、何を深く学べば良いのかが分からなくなってしまうのです。
    欲張ってたくさんのモノを学ぼうとしなくても、一芸に秀でる者は万芸に通じるのです。一つのモノを真剣に学び掘り続けて行けば、結果として横が拡がり様々な物事の真実
    が見えてくるのです。楽に学んでいては手に入らないモノが一つを真剣に学んでいくことで見えてくるのです。白鳥が優雅に水面を泳ぐ姿は非常に素敵です。ですが、水面下の白鳥の脚は沈まないために凄い勢いで水を掻いています、見た目涼やかでキレイなものほど、見えない部分では大きな努力が必要なのです。
    楽に学ぶか厳しく学ぶかは自分の心の中にあり、誰も楽に学ばそうと勧めたりもしませんし、厳しく学ぶ様に仕向けるわけでも無いのです。自分の心構え一つで結果は大きく変わり、生き方も人生も変わるのです。どちらを選ぶかは当人次第ですが・・・

  • 楽-温故知新

    もう、今クールのブログでは数多くの実行委員のメンバーが書いているので今更な感じもしますが、私達、東京操体フォーラムでは臨床に対しては、操体黎明期の楽な動きへの問いかけでは無く、気持ちよさ・心地よさ、快適感覚を指針とした感覚のききわけを中心において臨床にあたっています。
    この話をすると妙な勘違いをする方達がよくいらっしゃって、「そうですよねぇ、楽への問いかけでは駄目ですよねぇ!」「やっぱり快適感覚ですよね!」と鬼の首を取ったように「第一分析」を全否定する方がいるのですが、決して我々は第一分析が必要ない!いらない!何て一言も言っていないのです。
    寧ろ、第一分析を知っているからこそ、第二・第三分析の凄さ、必要性が分かるのです。

    このことを改めて思い知らされたのが、今年二回目の開催となった「SOTAI Forum in MADRID」でした。昨年の第一回目は初の海外開催であったので、レベルの確認をしつつお互い手探り状態での開催でした。殆ど指導と言うよりはエキシビション的要素の強い大会でした。
    それが、今年は昨年参加されたヨーロッパ各地の指導者クラスの方達をはじめとして、初参加の方達が一つでも多く身に付けたい!本物を学びたいという、良い意味での緊張感があり、昨年とは全く違う雰囲気でした。

    今年は昨年とは違って、操体の基礎を身に付けてもらうためのプログラムとなっていて、臨床家として、操体を学ぶ者として最低限身に付けていて欲しいものが組まれました。「般若身経」「足趾の操法」「ひかがみの触診」などです。
    この時に感じたのが、日本でも同じですが、第一分析を行っているのに、第二分析を教えてくれとか、第三分析はどうするのかと、基本を飛び越して次を教えてくれと要求されるのです。国は違っても考えることは同じなんだなぁとつくずく思うのと同時に、基本の大切さをどう伝えていくかという重要性も改めて感じました。
    これはどの世界でも同じなのですが、基本の上澄みに応用があり、基礎がない人間に応用はあり得ないのです。
    野球をやったことのない人間に、いきなり150Kmのボールを投げることは出来ないのです。

    「楽」をききわける第一分析を知っているから、次のステップもスムーズに移行出来、その良さも実感出来るのです。楽の限界、快の可能性は現場で実際にクライアントと向き合っていなければ実感は出来ないでしょう。机上の空論は所詮、机上でしかなく、現場は想像以上に厳しいのです。
    私は今、プロとして操体を行っているわけですが、私の持っている武器が「第一分析」のみであったなら、とっくの昔に玉砕していたと思います。
    逆に今はどの様な症状、状態であっても対応出来る武器を戴いた操体には本当に感謝しています。

    知っててあえて使わないのと、知らないで使えないのとでは、同じ使わないでも天地の差があるのです。表面だけを見れば使わないから同じじゃないかと思いがちですが、見えない部分でも人として感じられる部分の厚みとなって必ず醸し出されて来るのです。それが、プロとアマチュア、弟子と師匠の違いだと思います。自信とは口で伝えるものでは無く、雰囲気としてその人から発せられる無言のオーラの様なものだからです。

    だから、来年の4月の東京操体フォーラムでのイベントは初心に返り、あえて「第一分析」操体の基礎とでも言うべき部分をクローズアップし、行おうと思っています。
    我々、東京操体フォーラムは真の「温故知新」を考えています。故きを温ねて新しきを知るとは、古きを捨てるわけでもなく、古きにしがみつくわけでもない、土台にしっかりとした下地を作りつつ、次代へ繋ぐものを作り上げていく、それこそが、我々の目指す誠の「温故知新」なのです。
    4月を是非、お楽しみに。

  • 楽Life

    「敵を知り己を知れば百戦危うからず」有名な孫子の一説ですが、未だにビジネス雑誌でも取り上げられる位、人間の本質を突いた言葉の様な気がします。
    別に敵ではないのですが、を知るには“楽”を知らねば本質が見えてこないので、私は敢えて“楽”に潜む真理を言葉の中から、一週間探っていきたいと思います。

    ♪たったひとりの おふくろさんに 楽な暮らしを させたくて 兄弟船はぁ♪といきなり鳥羽ってしまいましたが、皆さん考える「楽な暮らし」って何ですか?私もふと、“楽な暮らし”って何だろう?と考えてみました。学校出たての右も左も分からない頃は漠然と“ビッグに成ってやる”とか“成り上がってやる”など自分のレベルはさておいて、海に向かって叫んでいた時代もありました。殆ど大映テレビのノリですが、当時は真剣にそんなことを夢想していた時期がありました。ビッグって何だろう?成り上がる?今考えると、当時、浜田省吾の「Money」を聞きながらメインストリートに映画館もない所に住んでいた私は何に対してか日々悶々としていました。

    自分の可能性も分からず、何が出来て何が出来ないのかそれすら分からない中で、やりきれない思いを色々なモノにぶつけていました。まぁ、結局そのどれもが中途半端であり、自分という人間の現実をイヤと言うほど知らされることとなるのです。
    で、結局は取りあえず自分に出来ることをやって、気付けば日々同じことの繰り返し、判で押した様な生活をしている自分に気が付いたのです。ってドンドン話し逸れそうなので、元に戻しますと、ビッグに成って成り上がると待っているのが、ビバ“楽な生活?”なのでしょうねぇ。

    まぁ、そう考えると楽な生活の第一条件は殆どの人が、「お金」と答えるでしょう。実際、お金があれば今の悩みの7割は解消されるとモノの本で読んだことがあります。確かに、人間の三つの不安要素と言われる「健康、経済、人間関係」の殆どはある程度のお金があれば悩まずに済みそうです。
    昔の日本人はこの三つを“節度”を持って暮らしていました。
    健康にしたって今の様にサプリメントも無ければ情報番組も無い中で、四季に応じた食事の中で健康管理を促したりしました。風邪をひいたらネギを喉に巻くとか、生姜湯を飲んで血行を良くするなど、あくまでも生活の中で出来ることを行っていました。今の日本は“過剰健康主義”と言いますか、テレビや雑誌で○○が良いと聞けば、過剰に反応し企業の策略だとも気付かずに安易に乗ってしまう姿勢は如何なものかと思います。酒も飲まず、タバコも吸わず、適度な運動を行っている知人が先日亡くなりました。健康に気を遣い、色々なサプリメントを摂取していた方だったのですが、こんな事例は幾らでもあります。逆にNHKの戦争特番で100歳近い爺さんが灰皿にタバコの山を築きながら豪快に話している姿を見ると、人の寿命は生まれた時に決まっていると言うのも頷ける気がします。経済に関しても人間欲をかけばキリが無く、欲とは満足を知らないブラックホールの様なものです。人間関係にしても遠くの親戚より近くの他人と言われていた様に、人間関係は良くも悪くも今より濃密であり、お節介おじさんやおばさんが多数生息していました。今では見て見ぬふり、薄く関わらないお付き合いが当たり前になっています。

    橋本敬三先生は「バルの戒め」の中で“欲張るな”と仰っています。欲を張るとは物事への過剰な執着であり、同時に橋本先生は「間に合っていれば良い」とも仰っています。人類がここまで便利に生活できるようになったのはある意味、便利に生活したいと考える“欲”からです。人間の生きるための原動力は適度な欲でもあり、欲が無いと言う人は今を生きていないか、偽善者のどちらかだと思います。但し、過ぎると溺れてしまい見境がつかない状況になってしまうので、「間に合う」状態が一番良いと、橋本先生は諭しています。

    手が届きそうで手が届かない、買えそうで未だ買えない、この一見、中途半端な状態こそが実は人間にとって一番モチベーションが高い状態だとも言えます。
    有り余る金が手元にあり、誰かに盗られるんじゃないか、人を見ると騙されるんじゃないかと疑心暗鬼になり、誰も信用出来ない精神状態って幸せでしょうか?
    「楽は苦の種苦は楽の種」と言う言葉がありますが、楽の先にあるのは何でしょう?分かるのは楽を求めて行くと、安易な罠に陥りやすいということでしょうか。濡れ手に粟で得た金は知らないうちに無くなるモノです。保険金然り、宝くじ然り。
    お金は得た結果よりも、得られるプロセスにこそ、生き甲斐や幸せがあり、自分の目指す人生の目標なり、仕事のゴールを追求し、その対価としてあるからこそ、大事にも使いますし、明日への活力にもなるのです。

    楽を目指す生活よりも、今日一日を気持ちよく過ごすことを目標とした方が、よっぽど幸せです。人生は一日の積み重ねですし、今日が不幸な人に明日の幸せは実感しにくいモノです。
    人間、気持ちよさは身体で覚えます。楽な生活は頭の中での妄想にしか過ぎません。妄想でしか得られない満足より、今日の心地よさがよっぽど心身共に幸せに近づけます。間に合ってればいいんです・・・

  • プロローグ楽と快

    「楽と快の違いについて」このテーマは操体を追求しているものにとってはまさに最初にぶつかるファーストコンタクト案件です。今回のブログのテーマとして様々なアプローチから各実行委員が思いの丈をぶつけたので、簿学な私としてはこれ以上のことは書けないので、相変わらずの飛び道具的内容で一週間を乗り切りたいと思います・・・

    現在、東京操体フォーラムにおいては「快」のききわけを診断の指針とし、臨床を行っている訳ですが、先週の畠山先生のブログにもあった様に、我々は「楽」が悪いと言っている訳では無く、言葉のニュアンス的問題であると考えます。
    表現は違いますが、この「楽」に近い言葉が「癒やし」ではないかと思っています。と言いますのも私は元々、この業界に飛び込む切っ掛けになったのが、まさにこの「癒やし」を提供する側になりたかったからなのです。

    多分、我々と同じ業界に居る方でも、最初は人を癒やしてあげたい!などとラブリーな理由が就業動機になり、現在に至っている方もいらっしゃると思います。ご多分に漏れず私も約10年前に最初は“整体施術院”として開業しました。開業動機は「人を癒やしてあげて尚且つ直接的に喜びを味わえる仕事」がしたい!と言う純粋な気持ちであり、理想を掲げる夢子ちゃん状態でした。

    しかし残念ながら現実は理想と大きく違っていました。癒やしてあげたいと言う私の思いとは裏腹にクライアントは「何年も痛みが消えないんだけど!」とか「今すぐ痛みをとって!」など苦悶の表情を浮かべながら、自らの愁訴を訴えます。とてもじゃないですが、呑気に癒やしてあげたいLOVE★⌒ヾ( ̄〓 ̄ヾ)
    などと言える状況では無く、現場は常に緊張感に溢れているのです。
    それを知った時、人を癒すなどと軽々と自らが口にするのはとんでもないことだと気付きました。
    癒やしって、本人が「感じる」ものであって、決してこちらが与えようと思って与えられるものでは無いんですよねぇ・・・それを勘違いすると私は癒やしを与えてるのよ的オーラ満点の「なんちゃってヒーラー」が出来上がってしまうのです。

    私がなんちゃってヒーラーにならずに済んだのは、急性腰痛いわゆるギックリ腰のクライアントのお陰でした。ギックリ腰って、なった経験がある人なら分かると思うのですが、まさに魔女の一撃!動くことも、呼吸をすることさえもしんどくて、何をすることも出来ないのです。これは我々臨床家にとっても同じで、苦しむクライアントを前に何も出来ず、無力な自分に打ちひしがれる経験を臨床家であれば一度は経験したことがあると思います。
    癒しを与えようなどと浮ついた気持ちで開業した私の自信は見事に打ち砕かれ、鬱々とした気持ちでこれからのことを考えていました。

    そんな時に整体時代の兄弟子から操体法の話しを聞き、どうせなら本物を学びたいと思っている時に、師匠である畠山先生との出会いがありました。
    早速、畠山先生に連絡させて戴き、受講することとなりました。
    本を見てそれなりに予習はしていたのですが、実際に畠山先生の講習を受講し、如何にちゃんと学ぶことが大事かと分かり、それから真剣に操体を学ぶこととなり、現在に至っております。

    私にとって「楽と快」は対比の象徴であり、学びの入り口となった、「癒しと操体」だったのかもしれません。癒しの言葉の響きだけをを求めて入った道ですが、癒しの本質は「快をききわける」本人の感覚の中にだけ存在し、決してヒーラー(臨床家)の決めつけや、押しつけではなく、身体という大宇宙の中にあるのです。
    元々、楽に人生を歩いて来た私ですが、今週一週間は楽と快について私なりに考えてみたいと思います。

  • 春のフォーラムで第1分析をやる理由

    来春のフォーラムは「研究会」という形で実技指導をすることになった。それも指導内容は第1分析である。なぜそのような過程になったのか、少し書いておこうと思う。

    私が最初に習った操体は、第1分析そのものであった。その次に習ったのは、根本良一氏(連動操体)、(故)滝津弥一郎氏(癒動操体)の流れを組む、カイロあるいは均整法に近いものだった。これはこれで十分効果があり、ある筋肉を狙い撃ちしてゆるめるとか、圧痛硬結を即時に取り去るという事に関しては即効性があった。
    三浦先生に師事する以前から気がついていたのは、筋肉を操作すると骨(骨格)へのアプローチになり、皮膚を操作すると、筋肉へのアプローチになるということだった。つまり、知らず知らずのうちに、第1分析を用いながら皮膚を使っていたのである。これが今の私の介助方、補助法の原点にあたるのだと思う。

    その後、それまでやっていたものを全て捨てて、三浦先生に師事したわけだが、捨ててもそれが全部パアになったわけではない。それらの第1分析は、第2分析として再利用可能ということが分かってきたのである。また、第1分析も第2分析もできるということは、クライアントによって微妙に使い分けたりすることもできる。

    第1分析が悪い、とか、否定しているわけではないのだ。何が良くないかと言えば、第1分析と第2分析の区別がつかないのに、それをそのままやっているということなのだ。

    操体実践者の悩みナンバーワンは「どちらがきもちいいですか、と聞いても患者さんがわからないという」ということだ。非常に比較対照しにくいことを聞いているので、答えにくいのは当然であえる。

    第1分析と第2分析の区別(楽と快の違い)の啓蒙が、現在の操体における重要課題だと思われる。

    第1分析の指導も必要だと思った理由はもう一つある。第1分析で有名な動診操法と言えば、膝の左右傾倒だろう。これも操体法東京研究会定例講習会で習うものである。やるのは当然ながら第2分析だ。

    ある時、非常にショッキングなことがあった。二年間操体法東京研究会で勉強した臨床家が、二年目の最終日にその集大成として三浦先生の前で実技を行ったのである。彼が被験者に対して発した言葉は
    「膝を右に倒すのと、左に倒すのと、どちらが心地いいですか?」だったのである。「どちらがきもちいいですか」ではないが、「ここちよさ」を比較対照しているのである。更に「抜きたくなったら抜いて下さい」第1分析の脱力法を指導しているのである。
    二年間ここで勉強していてこれかい??と、私は衝撃を隠しきれなかった。しかし冷静になって考えてみると、

    1.第1分析と第2分析の違いが本当にわかっていない
    2.患者が快適感覚をききわけられるような、介助と言葉の誘導ができていない
    3. 「きもちよさ」という言葉に照れがあり、「心地よさ」という言葉を使っている
    4.三浦先生も第1分析の時は「抜きたくなったら抜いて」という誘導をされるが、この講習ではやっていない。今先生のDVDでそういう指導をされているので、多分今先生のDVDを参考にしているのだろう。

    ちなみに、今先生のやり方は、高等な技を用いた、限りなく第2分析に近い第1分析と言える。「きもちよさが比較的ききわけやすく、表現しやすい動き」を知っているのと、「きもちよく動ける動き」をセッティング済みなのである。これは橋本先生も同様だ。だから「きもちよく動いてよぉ〜」と、もっていけるのである。普通の人が真似して「きもちよく動いてよぉ〜」と言っても「きもちよく動けない」のは当然なのだ。簡単にホイホイやっているように見えるかもしれないが、高度な技術と長年のカンと巧みな言葉の誘導で操法を行っているのだ。

    ★要するに彼は、第2分析を学び、第1分析の断片的な知識を得たために、それらをミックスした。それが先程のような膝の左右傾倒になったのだ。

    この時「第1分析は第1分析でしっかり指導したほうがいいのでは」と思った。ヘンな第2分析もどきをされるのだったら、マトモな第1分析をみっちり指導したほうがいいのではと気づいたのである。

    というわけで、プログラム作成中である。お楽しみに。開催は2012年4月22日(日)津田ホールにて

    明日からは島根の福田画伯です。お楽しみに

  • 直感力を磨く

    直感力というのは、「原始感覚」(快か不快かききわける能力)と密接に関わっている。

    最近、女性のクライアントや、周囲の話を聞くと「直感力」のバランスがとれていないのではないかと思う事が多い。
    これは女性のみばかりの問題ではなく、男性も「考えすぎ」で直感力が鈍っているのか(元々オトコのほうがニブチンなのが普通だ)「考えすぎニブチン」が増えているような気もする。いずれにせよ男女とも「直感力」が鈍っているのだろう。

    しあわせ脳練習帖

    しあわせ脳練習帖

    黒川伊保子氏の「しあわせ脳練習帳」に、なるほど、ということが書かれていた。脳の働きは「感じる」「考える」「直感力」の3つらしい。男性脳は「考える力」、女性脳は「直感力」を磨くことがカギらしい。男性脳は「考える力」が突出している。男性が時に理屈っぽいのはこのためだ。
    一方女性脳は「直感力」も大事だが、「感じる」「考える」「直感力」のバランスが大切なのだそうだ。最近「直感力」が鈍ってい女性が多いような気がするが、これは男性並に「考える力」が優位になり、本来のバランスを失っているかららしい。
    確かに最近女性のストレスは「情報過多」と「考えすぎ」から来ているようなところがある。例えばメールの深読みとか。
    彼からメールがこない→嫌われた?→太ったから?→よーしダイエットだ→挫折→自己嫌悪→甘い物と恋愛小説、というような「考えすぎスパイラル」にはまっていくのだろう。

    さてしあわせとは何か。しあわせ度チェックテストがついている

    ロスイーツが大好き
    口情報はなにより大事。定期購続しているファッション誌が2誌以上ある。
    ロ週末は、寝坊できるのが賀沢。昼まで眠って、家でまったり過ごしたい。
    口会社や学校など自分の周りには、いい男がいない.
    口電車で移動しているときも、携帯電話のメールが気に怠る。
    口一流のブランド品を身につけるのが大人の女だと甲山う.
    口彼氏からの連絡は毎日が当たり前。電話やメールがないと不安になる。
    口本棚には恋愛小説が多い。
    ロメイクは女の命。コスメグッズに目がない.
    口恋がしたい。
    ロ友還に自慢できるような部屋に住んでみたい。
    口目標体重まで痩せてスタイルのいい女になりたい.
    口とにかく、お金持ちになりたい
    ロみんなが慣れる人気職業にキャリアアップしたい。
    口もっと、しあわせになりたい

    8個以上印がついたら、立派なしあわせハンターだそうで。

    しかしこれらはイベントによって脳に生じる〈一時的高揚感〉をしあわせとカン遣いした
    もの。残念忽がら、これらは、アナタを一生満足させる〈絶対的しあわせ〉とはまったく異なるものです。つまりチェックが多ければおおいほど脳科学的には〈ふしあわせ〉な状態だということなのです

    ということらしい。そして世の中にはしあわせをおいかける女としあわせを呼び込む女がいて、この2つの脳は対極にあるらしい。どうせだったら「しあわせを呼び込む」ほうがいいに決まってる。

    さて本当のしあわせ脳をつくるには「直感力をみがくこと」が一番。どうすればいいかといえば

    • 早寝・早起き・あさごはん(朝日を浴びてセロトニンを出す!)
    • 時間を重ねて女性脳を満足させる(何か作る→五感で十分味わう→他人の喜ぶ顔をみる)
    • 言葉を失う(瞑想する、音楽特にクラシックを聴く、美術館に行く、入浴できもちよさを味わう、陶芸、プチプチつぶし、草むしりなど)
    • 情動をうまく使う(笑いと泣きのバランスをとる。情緒不安定ということではない)
    • イライラを活用する(物わかりのいいオンナにならない)

    経験から言えば「八方美人」と「前盛り上がりのしすぎ」は絶対ストレスがたまるし、あれこれ色々考えるので「考える」力が優位になる。

    最近「いい人をやめる」という話をよく聞くが、これは決して「ワガママを通せ」ということではない。若くてキレイなうちはワガママが聞くこともあるだろうが、そんな人生バブル期はほんの一時だ。「いい人をやめる」というのは「No」と言えることでもある。

    http://d.hatena.ne.jp/lovecats/20111122
    http://d.hatena.ne.jp/lovecats/20111123

    上記リンクは私の「操体医科学研究書@書庫」に貼ってあるものだ。「直感力」を養うヒントと「快」について書かれている書籍(夏目祭子氏)を紹介している。女性の目から「性エネルギー」について書かれたものだが、男性にも是非読んでいただきたいと思う。
    人間の中には「アニマ」「アニムス」が存在しており、誰でも女性性、男性性を持っている。それを上手く使いこなすのが「快」とともに幸せに生きる方法なのかもしれない。

  • 快は、探すものではなく出会うものである

    「快は、探すものではなく出会うものである」ある時こんな言葉がアタマに浮かんできた。または「快は探すものではなく、そこにあるものである」かもしれない。後者は何だか「青い鳥」みたいだが、どこだろう、どこにあるんだろうと色々探してみても見つかるものではない。これが、面白い事に「楽なところ」「痛くないところ」は、探すと見つかるのである。

    「楽」と「快」の違いは、ここにもあった。
    「きもちよさ」は探しても見つからない
    「楽(なところ)」は探すと見つかる

    「楽」は比較対照できる(相対的)だが、
    「快」は絶対的である。つまり比較するものではない。

    未だに「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている人がいる。長年操体をやっている人の中にもいる。きもちいいですか、ではなく「どちらが心地いいですか」と聞いている人もいるが、同じ事だ。

    どちらがきもちいいかと聞かれると、大抵の被験者は「?」という顔になる。ちょこちょこう動いてみても、きもちよさは見つからないからだ。そうすると、今までの人生経験とか運動経験をもとに、くねくね動いたりするので、操者は「きもちよさを探して」という表現に移行する場合が多い。

    私は全国大会で、あるベテランの先生が「きもちよさを探して」という誘導をした時はさすがに驚いた。30年以上のキャリアを持つ先生だが、楽と気持ちよさの違いが分かっていないのだ。師匠が「探す、じゃないでしょう」と言ったところ、他のベテランの先生が立ち上がり「探すでもなんでもいいじゃないか!」と怒鳴った。これは「楽と快は違う」と明言された橋本敬三先生の意志に従っていないんじゃないかと思った。
    知らないこと、よく分からないこと、間違っていることを指摘されると怒る人がいる(または見ないフリをする)が、多分間違いを指摘されたから怒鳴ったのだろう。というのは、「きもちよさを探して」と言った先生と、怒鳴った先生は仲良しだからである。2人とも同じ事をやっている可能性は高い。

    ベテランと言えば、あるベテラン(師匠の昔の受講生)の先生が、現在教えている操体のテキストを送ってくれた。手紙や電話では「私の講習は60時間やっている」とあった。私も以前プロ向けの個人レッスン(60時間)をやっていた。私がそれをやっていたのは10年前までで、それ以降は「快適感覚をききわける」という指導にシフトした。これは60時間程度では伝授できないと思ったので、プロ向けの個人レッスンを一時やめた。
    そのテキストを見てびっくりしたのは、私が10数年前に教えていた内容と全く同じだったのである。つまり私が小林完治先生から習った、故滝津弥一郎氏と根本良一氏の連動操体の流れを汲むものだ。ページをめくると「楽な方に、きもちよく」と書かれていた。やってみるとわかるのだが、楽な方がきもちいいとは限らない。可動範囲が狭くてもきもちよさがある場合もあるのだ。

    ★これは、最近分かってきたのだが私達のように、第2分析、第3分析できもちよさがからだに通るようになっていると、第1分析をやっても「快」を享受できる。これは間違いない。しかし、それに不慣れなビギナーに「楽な方にきもちよく」と言うと「快と楽」の違いがますますわからなくなる。つまり「楽な方にきもちよく」という指導法は、ビギナーに対して不親切だということがわかる。

    私がこのやり方をやめた理由は幾つかあるが、一番のきっかけは「楽でスムースな動きが果たして快なのか」という疑問からだった。そうすると、何でもかんでも比較対照して、楽でスムースな方に動かして脱力させるというのが何だか虚しくなってくるのである。
    あるクライアントに第2分析の動診を行った時「これが、きもちよさっていうことなんですね」と涙を流した女性がいた。彼女自身「どちらがきもちいいですか」という呪縛にとらえられていて、自分で操体を試しても「どちらがきもちいいのかわからない」ということに悩んでいたのだ。
    この時、私は彼女と「快」の共有体験を持った。快の共有の有無は操者にとっても非常に大きなインパクトがある。
    確かに痛みを瞬時に取り去るとか、圧痛硬結を瞬時に解消するには効果があったのだが、私は「痛み取り屋」よりも「快の共有者」になることを選んだのである。

    某先生は「きもちいい」というと『何だかアレだから、私はここちよさ、と言っている」とのことだった。このほうが余程いやらしいと思うのだが。要は「きもちいい」という言葉から、性的なものを連想しているわけだ。

    「きもちよさを探してぇ」という操体の指導をしている人は、本当は「楽(なところ)」を探してぇ」と言っているのだ。探し当てるのは当然「楽なところ」なのだが被験者は「きもちいいわけじゃないよなぁ」と感じ、「操体ってきもちいいっていうけど、よくわかんないや」ということになる。

    この「操体ってよくわかんないや」というのをどうにかするカギが「楽と快の違いを伝える」ということだ。


    この世で一番「快と楽の違い」が分かっている創造物。

  • 快の表現

    勤労感謝の日。日に日に冬に近づいているが、それもまたいい感じ。
    11月第3木曜は、ぶどうの収穫を祝う日。今年は例年よりも一ヶ月ぶどうの収穫が早く、その分仕込みに時間をかけたとか。

    何年も前、もう時効になっているからいいと思うが、私はある受講生の女性に難癖をつけられた。講習で彼女と組んだ時「あんたのはちっともきもちよくないわ!」と言われたのである。要は彼女にとっての最高の罵倒の言葉だったのである。非常に「女性的」な反応である。
    一方私は「なにをとんちんかんな事を言ってるんだろう」と逆に可笑しくなってしまった。講習の場で「きもちいい・きもちよくない」という評価をするのがどれだけ的外れなのか分かっていないのだ。

    臨床の場では、クライアントに対して「きもちいいかどうか(快適感覚の有無)」という問いかけは当然のことである。私達は診断をしているからだ。

    一方講習の場では「きもちよかった」という感想ではなく、「介助がしっかり決まっていた」とか「フィット感がよかった」というようなアドバイスを互いにすべきなのだ。ここでは、診断方法の勉強をしているのだ。

    この人は「きもちいいかよくないか」というのを指針にしていた。つまり「きもちいい=良い」「きもちわるい=悪い」という、短絡的な思考だ。「きもちよさ」は感覚であるから、その人が好きであるとか尊敬しているであろう操体指導者の介助補助を受けても「ききわけられないこともある」。

    ある一時期、講習中に「今のは気持ちよかった」という評価が流行った時があった。これは注意しても直しても年が変わると必ず派生する。これは、操体の勉強に来ているんだか臨床を受けに来ているんだかわからない。

    ヘタすると、フォーラムの実行委員でも使っている事がある。流石に実行委員は使わないだろうと思っているので、注意はしないが。実行委員勉強会とか、お互いに分かっている間柄ならいいのだが、初学者と一緒に学ぶ時などは、気をつけるのは先輩として当然の心配りだと思う。

    また、ある人は「私はこう動きたい」とか「私はこのほうがもっときもちいい」と、練習中に相手に訴えていた。
    操者は「ある動きを示し、やっていただき、その中で快不快の有無をききわける」のだが、これでは「からだの要求に委ねる」どころか「エゴが自分の要求を示している」ようである。
    こういう場合すぐわかるのは、操者が「足底を押し込んで下さい」と言っているのに上半身を動かすとか、操者の指示とは違う動きをするのですぐわかる。これが、操体ははじめてとか、何かパフォーマンス系の事、あるいは特定のスポーツをしているのなら、起こりうることだが、いずれにせよ最初の「動診(診断)」は、まず操者の指示に沿って表現していただくのがベストだと思われる。

    一方やっかいなのは、操体を勉強している、やっているにも関わらず「エゴ」で表現したがる場合は要注意だこれ「動診(診断)」と「操法(治療)」の区別がついていない典型例である。もっと下世話な言い方をすれば、「ああしろこうしろ」「他人の手を借りてマスターベーションをしているような感じでもある。え?言い過ぎだって?でも、操体を勉強している人間がそんなことをやるっていうのは、それだけみっともないということなのだ。素人だったら仕方ないけど。
    「快」の受け止め方を取り違えてしまうとこうなってしまうのだろう。自分が「快」を知っているので「もっともっと」と、欲脳が立ち上がるのだ。

    これも時効だからいいと思うが、ある人がモデルとして操体を受けていて、きもちのよさに委ね、恍惚の表情を浮かべていた。それはそれでいいのだが、ちょっとばかり問題があった。
    動き方といい、表情といい、誇張ではなくもろに「性的な恍惚の表情」だったのである。鼻の下が伸びて、オランウータンみたいに見えた。それを人様の前で公開してしまうというのはすごいなと思った(本当にすごいことなのかもしれない)。その後、同席していた人に聞いてみたところ「私もあれには驚きました。ちょっと目のやり場に困りましたね〜。」とのことだった。「目のやり場に困った」と思ったのは私だけじゃなかったのだ。

    からだが素直なのかもしれないが、人が見ると少し恥ずかしくなるくらいの「快」を味わえるのは逆に何だかすごいと思った。というか、操者に委ねきっているという状態だったのだ。う〜む(笑)

    いずれにせよ、勤労感謝の日に仕事をしている同志(私も含めて)ご苦労様です!

  • もっともな正論はなぜ嘘くさくなるのか?

    「胡散臭い」というのは、面白い胡散臭さとつまらない胡散臭さがある。

    偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル

    偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル

    小池龍之介氏の「偽善入門」。何故人間は「偽善くさい」のをいやがるのか?結論としては、口先だけでも「キレイなことを言っていたほうがいい」ということらしい。例えば会社のモットーが「清く正しく美しく」というのと「もうけ第一主義、キタナいことでもどんどんやれ」というのでは、やはりモチベーションに差が出てくるということ。ウソっぽくても後者より前者のほうが、気分的にはいい。

    いつも思う事がある。正論をさも「正論」というと、ウソ臭くなるのは何故だろう。
    その昔太極拳を習っていた会の会長は在家の坊さんだった。私が太極拳を習っていた先生は、太極拳の日本チャンピオンで、O先生(多分今でも茨城で活躍されれていると思う)という素敵な女性だった。この会長の在家の坊さんは、私が操体を勉強すると言った時
    操体は難しいから女には無理だ」とか
    「所詮女は温泉かホテルでマッサージするのが関の山だ」と言ったヒトである。

    少なからず「操体は難しいから女には無理だ」というハードルは越えたと思っているが、その人は「自分は秩父の山で座禅して悟った」と言っているのである。悟った人間がそういう事を言うかどうかは謎だが(すっごい謎)、女性は不浄のものであるからという理由で長らく禅寺は女人禁制になっていたりしたので、男尊女卑っぽいのはわからないでもない。
    また、このオヤジは「悟った」と言っていた割には人の話を聞かず(爆)、何か用事があって電話をした際、こちらが用事があるにもかかわらず、一時間位ずっと喋っていたことがある。これには参ったが、散々喋った挙げ句「操体は難しいから女には無理だ」と言われたので、本当にトホホである。それも15秒で済ませようと思い、人から借りた電話だったので、電話を借りた人にも申し訳ないことしきりであった。

    こういう人が「明るく大らかに生きましょう」という看板を掲げているわけだが、私にしてみれば「明るく大らかに生きましょう」という人程そうではないような気がする。というか、正論をさも正論で言われると、何だか本当に怪しい。

    不思議なのは、同じことを言っても、なるほど、と思える人と、何だかうさんくさい人がいるのは何故だろう。これは本当に不思議だ。

    私の体験で一番不気味だったのは、江戸川区で区民向けにセミナーをやった時の事だ。ある女性が私のところにやってきて、満面の張り付くような笑みを浮かべながら「操体って素晴らしいですよね」と言った。何だか気持ち悪かった。その人とは街中のスーパーマーケットでも偶然会ったが、その時も張り付くような笑みを浮かべて「操体って素晴らしいですよね」と言った。何故だかわからないが、果てしない気持ち悪さを感じた。

    橋本先生は「オレが真面目だったらこんなこと(操体)やってねぇ」と言われたそうだが、正論をさも「私は道徳に沿ってますよ」という人よりも橋本先生のほうが魅力的だ。

    橋本先生がタバコを吸われていたということに対して、以前嫌煙家の岡山の操体指導者が「あれは吸わない人にも吸う人にも気を遣っていて、本当は吸っていなかった。ふかしていただけだ」と言っていた。その時、その人は同席していた人の喫煙をなじったのだが、なじられた人が『橋本先生もタバコは吸われていましたよね』という言葉に対しての反論だった。このねじまげブリには恐れ入るが、こういうのが胡散臭いとか気持ち悪いのだ。

    彼は、嫌煙主義者なので、橋本敬三先生がタバコを吸われていたという事実を隠しておきたいのである。こういう都合のいい事実歪曲が行われているわけだが、多分こういう輩は「救いと報いの違いを知ってから道楽や女郎買いをするようになった」という橋本先生の言葉に対して「いや、遊郭に行っても登楼(あがった)だけで、何もしてない」と言うのだろう。

    言葉には「快の波動」がある。
    「ありがとうございます」というのは一番波動が強いと思うのだが、最近、「ありがとうございます」という言葉を聞くと、その中でも「マトモ」なのと「なんだかうさんくさい」というのがあるのだと分かった。まあ、ネガティブワードを怒涛のように聞かされるのはいやなので、こちらのほうがまだマトモなのだろうか。

    何故ポジティブ・ワードを発してもうさんくさい人とそうでない人がいるのかは研究中であるが、それは明らかに「原始感覚」(快か不快かをききわけるちから)だと思う。

    原始感覚を磨く、原始感覚を呼び覚ます。アセンションが来るとともに、私達は原始感覚を磨く必要があるのだ。原始感覚が鈍っていると「快不快」の区別がつかなくなるのだから。

  • Are You Experienced?

    東京操体フォーラムの実行委員は、「楽(な動き)」と「快(適感覚)」の違いを知っている。

    何故知っているかというと、味わったことがあるからだ。知らないことは色々妄想するとか、今までの体験から憶測するしかないのだが、一度体験すれば「それ」が一体どんなものなのかすぐにわかる。当たり前の事なのだが、あまり実行する人はいない。

    何かに興味を持ってその「何か」を体験、あるいは勉強しにいく人は100人に1人だそうである。「何となく面白そうだな」と思っても、実際アクションを起こすのは100人のうち、たった1人なのだ。そして、それを続ける人はその「たった1人」が100名いたら、そのうちの「1人」なのだそうだ。すごいことではないか。というのは、操体法東京研究会の講習に参加して、その上の「臨床講座」にも出ると言う人は、本当に1000人に1人の人なのだ。

    一番残念に思うのは、1年3ヶ月の学びを終えて、それで終わりにしてしまうことだ。受講生のK君が言っていたが、今まではクリームパンの「パンの白いとこ」を食べていて、これからクリーム食べるぞ!という時にやめてしまう。操体もそうだが、何事も(特に芸事系は)そんなに簡単に身にはつかない。これから一番美味しいところなのだけれど。
    パンの白いとことだけ食べて「やっぱりあんまり美味くないや」と、諦めるのは本当に残念だ。あともう一口飲み込めば、クリームが待っているのだから。

    「快」

    操体で言う「快適感覚」を味わってしまう、特に質の高い「快」を体験してしまうと、それは細胞に組み込まれるというか、元々あらゆるイノチに存在しているものが、目ざめる、あるいは「快」の回路が開くような感じでもある。

    イメージとしては、チャクラは「ある」ものだが、それは未開のつぼみのようなものだ。開くには修業が必要で、中には無理に開こうとして気が狂ってしまう人もいるらしい。私達がその「快」の回路を開くのは、やはりある程度の学習が必要なのだ。
    それは「きもちよさを味わう」という体験を重ねることだ。

    私は足趾の操法一般社団法人日本操体指導者協会商標登録済み)を指導している。これは操体の引き出しの中でも、最も「快の勉強」に適したもので、はじめてのクライアントにはこれを体験していただく。面白いのは、どのクライアントも、はじめてより二度目、二度目より三度目のほうがきもちよさを味わうことができるということ。
    最初「不快じゃないけどすごくきもちいいわけでもない」というのが「背骨からアタマに響くくらいきもちいい」に変化していくのだ。私は幾多の臨床で「本当にきもちのよさを味わうという体験を重ねると、からだが学習するのだ」ということを知った。

    最初から「きもちよさを味わうチカラ」というのはイノチに備わっているのだが、それはある日突然目覚めるとかそんなものではなく、
    多分「自分を大切にする」「自分をいとおしむ」ということと、自然や美しいものに触れるという体験を経て育っていくのと、それが花開くきっかけが必要なのではないかと思う。

    jimiが「体験」したものと操体は違うけど(笑)