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  • コンチクショウ!

    コンチクショウ!

    一方で、最初は好きでもない事だったが、それしかなくて必死で生きて、一所懸命となって一代を築かれた人がいる。
    すきやばし次郎」の小野二郎さんである。

    「コンチクショウって気持ちなんでしょうねえ。割烹旅館へ奉公に入った時から周りは大人ばっかりで、自分はずっと下っ端だったでしょう。学校ではガキ大将でも仕事ではやられっぱなしで、理不尽なこともそりゃあたくさんありました。だからいつか上から見るヤツを見返してやるって、それはずっと思っていたから。」
    宇佐美伸「すきやばし次郎鮨を語る」より

    このエネルギーに貫かれた人生は「快」だろうな。
    孔子は、「之を知る者は之を好むものに如かず、之を好むものは之を楽しむものに如かず」という言葉を遺した。
    きっかけは何であろうが、一人の人間が肚を据えて一芸に専心すると、深さにきりがなくなる。そして、品がある。

    山野真二

  • 好きこそものの上手なれ

    好きこそものの上手なれ

    『人の一生はみじかいのだ。おのれの好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ。』
    司馬遼太郎 「峠・上」より

    自分の好きな事を見つけられて(それも人生の早い時期に)、それに邁進することができれば「快」だろうな。

    『幸村は、男はたれでも、自分の才能を世に問うてみたい本能をもっている、といった。男が世に生まれて生きる目的は、衣食をかせぐためではなく、その欲を満たしたいがためだ、ともいった。
    「むろん、煎じつめれば、それも屁のようなものさ。しかし、その屁のようなものも当人にとってみれば、たいそうなことだ。ひらずに死ぬのかと思うと気が狂いそうになる。」』
    司馬遼太郎 「風神の門・上」より

    健康のため、程良いお通じを!

    山野真二

  • ああ人生に涙あり

    ああ人生に涙あり

    TVドラマ「水戸黄門」の主題歌

    人生楽ありゃ苦もあるさ
    くじけりゃ誰かが先に行く
    後から来たのに追い越され
    泣くのがいやならさあ歩け

    楽は苦に対する相対的なものである。
    この詩は、山あり谷ありの人生をコンパクトにまとめた秀逸な作品であると、私は思う。
    山も谷も、俯瞰すると平坦となるが、果たして、その様な視座を持てるか。

    「非日常」
    日常に」あらず、と読めば、旅、祭、有事
    日に常ならず、と読めば、日々是好日
    となる。
    両者の間には、相対から絶対への超越がある。

    山野真二

  • 「快」が教えてくれた事〜その2〜

    今までの総括になるのだが、人間は楽な生活よりも快適な生活を送る方が良いと思うので(もしかすると中には楽が良いという人がいるかもしれませんが‥)意識を楽ではなく気持ち良くという快に意識を向ける必要がある。
    私自身は普段から快適な生活を送る為に意識しているのが欲のコントロールである。私は昔から「あれも欲しい、これもしたい」と欲が凄く、上手くコントロール出来ずにいた。今になって思うのだが「欲」に執着した生活を送ると罰があたる。体が歪み疲れやすくなり、そして怒りやすくなる。そうなると負の連鎖は歯止めがつかなくなり最終的には何事にも無関心になる。しかし少し意識を変えていくだけで生活習慣は変わるもので、「楽」を求めた意識から「快」を求める意識に変えただけで自分と身の回りの環境も180°変わった。

    何が変わってきたかというと、水回りを毎日きれいに掃除するようになった。一日の習慣として毎日行うようにしているだが、月日の経過と共に毎日やらないと落ち着かなくなるので欠かさずに行っている。これを毎日継続していく事により不平不満を言わなくなったのだ。そうすると生き方が正されていくのが実感出来るようになった。やはり、こういった身近な生活習慣を正していくことが快適な生活を送る為の大切な要素になる。
    このように私の命の波動が変わった事で家族、友達、仕事仲間等の身近にいる人達との関係が良くなり、本当に大切な人達といれるようになったのだ。そして何より私自身が自分の命を大切にするようになったのである。
    「快」との出会いが私の人生を変えてくれたといっても過言ではない。この出会いこそが私の一番の財産である。

    一週間お付き合いして頂き、どうもありがとうございました。
    まだまだ勉強も経験も足りないですが、このブログを通して成長していきたいと思っています。
    明日からは私よりも今回のテーマを熟知している山野さんです。
    楽しみにしています。

  • 「快」が教えてくれた事〜その1〜

    7,8年位前に三浦先生から「水は答えを知っている」(著者 江本勝 サンマーク出版)という一冊の本を頂いた。
    この本では「愛」や「バカヤロウ」といった言葉、文字を水に見せてそれを結晶にし、そのデータを基に言葉の波動を説くという内容なのだが、私は臨床や日々の学びで迷いが生じた時に、この本に目を通すようにしている。
    何故かと言うとこの本で説いていることは操体の臨床の本質と繋がっているからである。
    ここで1つ紹介したい文がある。
    「どんなにおいしそうな自然水を手に入れたところであなたの心がよくなければおいしい水にはならない」(P124)
    自分がその水に対して否定的な意識を持つか、肯定的な意識を持つかでどんなにおいしい水でもまずくもなり、更においしくもなる。
    つまり心の在り方次第で現象はいくらでも変わるのである。
    これは「気持ちの良さ」でも同じ事が言える。
    それは「体が快を知っても己が認めなければ快にはならない」
    と言い換えられるでしょう。
    つまり体が気持ちの良さを聞き分けられても、操者・患者自身の意識が否定的な意識を持っていれば体の治癒力も半減してしまう。結果的に否定的な心・意識こそが命を傷つけていくのである。なので気持ちの良さを知るには「素直に受け入れる」という肯定的な心を持たなければならない。

    そしてあとひとつ「無関心」であることが命を傷つける一番の要因であるということである。
    よく子供達の間でいじめの1つに「シカト」というのがある。
    「シカト」という行為は子供の心だけでなく命を傷つけるのである。
    この本においても「無視をする」事が命をいかに傷つけるかを説いている。
    その内容は「ありがとう」と「ばかやろう」と声を掛けたご飯とラベルを全く何もせずに無視をしたご飯を置いて、どれが一番早く腐るかという実験を試みた所、一番早く腐ったのが無視をしたご飯だったという内容である。
    この事からも「無視」をする事が心と体をいかに傷つけるかが分かる。
    気持ちの良さでも同じ事が言える。「楽」という感覚にしか目を向けず「快」に無関心でいることは人の心と体、そして命を傷つけている。
    人間の悲願が「健康に生きる事」ならば、快を無視してはならないのである。

  • 「原始感覚は快を求めている」

    今日は『原始感覚』について触れていきたい。

    あるサイトで「原始感覚とはなんだ?」とあり、そこには「縄文や原始の感性を今一度、現代生活に取り込むことで自然と共に生きていく術を取り返す」と書いていた。これは言い換えれば「物が豊かになった現代から何もなかった生活に戻り、自然と共に生きる事で原始感覚を取り戻す」とも言える。
    よく「現代人は原始感覚が鈍っている」というフレーズを聞いた事がある。確かにそれは当たっている。
    操体では「感覚を聞きわける」を重要視しているのだが、どうしても感覚のなかに自我が関与してしまうのである。そうすることで感覚の聞き分けを自我の意識で答えてしまうので「体に聞き分ける」という言葉を使うのである。
    この自我の意識が現代の豊かな生活から生じてしまうのなら、物がなかった時代の人達の原始感覚は本来人間の持つものに限りなく近かったと言える。つまり昔の人達は欲のコントロールに長けていたのではないだろうか?「現代の楽な生活から昔の快適な生活に戻す」事に原始感覚のヒントがあると思うので追っていきたい。

    縄文時代には「衣・食・住」すべてにおいて自然との繋がりが生を支えた。自然の知恵と恵みを存分に活かす事で自然法則を身につけていったのだろう。そして人間の繋がりに身分の高低はなくお互いに協力して生きていたそうです。これは「欲」が現代より自由だったことで葛藤して苦しんだりしていなかったのだと思う。つまり縄文時代の人々は自然と調和することで気持ち良く生きる事が出来たのではないだろうか。
    このように縄文時代の生活は自然と共にとても理に適った快適な生活を送っていたのに対し、現代人は文明の発達と共に楽な生活を送るようになった。物で溢れ、必要以上に食する事が出来るようになった事で「欲」のコントロールが難しくなった事で原始感覚も鈍ってしまったのだと思う。
    もし本当に縄文時代の人達が現代人より原始感覚が優れているならば、この感覚が要求しているのは気持ちの良さではないだろうか?そして人間の悲願である「健康に生きる」ヒントは自然法則にあると言える。
    「楽」と「快」を区別する事が自然法則を知っていく第一歩なのである。

  • 「楽と快の違い 〜その4〜」

    昨日書いたように「楽」と「快」では操者と患者の「意識」のベクトルが大きく変わってくるのだが、今日もその違いについて図を交えながら書いていきたい。

    横の図は第二分析における操法(気持ちの良さを体に聞き分けられた時からが操法)に入ってからの患者の快の流れを図にしてみたのだが、この図でポイントとなるのは見ての通り8の字になっているところである。
    操法は快の聞き分け→最快適点→脱力→脱力後の爽快感を味わうといった流れになるのだが、体の要求があればこの流れをまた繰り返す事が出来る。このようなサイクルによって「快」に流れが出来て、継続する。つまり動診1つ1つに繋がりが生まれ、快感度が上がるのである。
    ここでまたポイントとなるのがこの流れの中には操者・患者の自我が関与していないことである。昨日も書いたがすべて「体に聞き分ける」事で気持ちの良さが継続する。これが患者の意識に問いかけ                           た第一分析との大きな違いとなる。
    このように「快」への問いかけの流れは第一分析にはなかったものであり、「楽」への問いかけではどうしても単発で終わってしまい、流れを『循環』させることはなかなか出来ないのである。『感覚』を重要視する操体の臨床ではいかに患者の意識、感覚を継続させていくかが重要なポイントになってくる。第二分析では第一分析に比べ、より患者の『感覚』を重視しているので、その感覚が循環しなければならない。その流れを円滑にする為には般若身経や基本となる介助法がとても重要になってくる。そして何より操者は自我意識(欲)を持って臨床に臨んではいけないのである。

  • 「楽と快の違い その3」

    私は楽と快を次のように表現する。
    「楽」=自我(欲)
    「快」=(心と体の)調和

    では、何故このような表現をしたのかを説明していくと操体法には知っている方も多いと思いますが、第一分析、第二分析、第三分析‥‥といったように数々の分析法がある。有名なのが最初の第一分析で「どちらの動きが楽ですか?辛いですか?」といった比較対象とした分析法で辛い方から楽な方に動きを通し、2〜3秒のたわめの後、瞬間脱力し、それを2,3回繰り返すのが「楽」への問いかけである。それに対し第二分析からは「1つ1つの動きに気持ちの良さがあるか、無いかを体に聞き分けて、その気持ちの良さを味わう」という「快」へのアプローチになったのだがこの2つの分析法はそれ以外に大きな違いが出てくる。
    それは施術者と患者の『意識』の方向性が大きく異なってくるという事である。
    第一分析は操者が「決めつけ」で施術を行っていてその意識は「自我」である。操者の意識が「自我」なら、もちろん患者の意識にも欲が生じ「まだ足りない」、「もっとやって欲しい」となるのも仕方が無いことである。
    それが第二分析になるとそういった操者の「決めつけ」はなく、患者の体の要求感覚に意識のベクトルが向くのでそこには自我は存在しない。この分析法は「体に聞き分ける」というのがポイントとなり患者の意識は関与せず、体に聞き分けた気持ちの良さによって己の心と体が調和し、症状が改善されていくのである。

    このように考えると「楽」と「快」の違いは明白である。操者がその違いをしっかり理解しなければ患者は楽と快が混合してしまい気持ちの良さを探してしまい、どう動いて良いのか分からなくなる。
    しかし、ここではっきり言っておきたいのが「楽」への問いかけを否定している訳ではないということである。今の分析法があるのも「楽」への問いかけがあったからであり、逆に「楽」の分析法を知らなければ「快」の分析法も理解が出来ない。第一分析にも臨床の効果はもちろんあるし、時には臨床で使う時もある。だからこそ「楽」と「快」を両方理解する必要がある。その違いを認識することが操体の臨床の行う上でとても重要になってくる。

  • 「楽と快の違い その2」

    昨日の続きになりますが「楽は表現出来て快は表現出来ない」理由を追っていきたい。

    私は中学や高校生の頃、「気持ちが良い」という言葉を口にするのに抵抗があった記憶がある。幼少の時は気持ちが良い事に対して素直に表現出来たのだが、年を重ねるに連れて恥ずかしさが芽生えて来たので言葉にしなくなった。
    それは恐らく「気持ちがよい」という言葉を学校の教育や社会が口にしてはいけないような教育をしているのも1つの要因ではないだろうか?つまり「気持ちの良さ」という意味を性行為等の意味でしか捉えずに卑猥な意味として風潮化しているように思える。それが人の潜在意識の中に「快」を無くし、「楽」を植え付けている気がする。人が楽な生活を送れるように物や技術が発達したことで人間の意識のベクトルも「楽」に向い「欲」の意識が高まってしまったのである。そうなってしまうと「気持ちの良さ」の意味は自ずと間違った方向に向いてしまい、言葉に出来なくなるのも仕方ないように思える。このように考えると楽な動きを表現出来るのは楽な生活にどっぷり浸かってしまっているからだといえる。

    私自身もその一人であったが操体を学び「気持ちが良い」という言葉を自然に発することが出来るようになった。それは気持ちの良さを体感した事で、意識が変わり言葉で表現出来るようになり、心と体が「快」というフィルターを通して調和してきたからである。言葉に出来るか否かが体で表現出来るか出来ないかの差になっているのではないだろうか。

    ここで橋本先生の言葉を紹介させてもらいたい。
    「気持ちの良さで体は治る」
    「言葉は運命のハンドル」

    この言葉からも「気持ちが良い」という言葉を表現する事がいかに大切な事かが理解出来る。それが出来ないという事は気持ちの良さを認められないという事でもあり、自分に対しても自己否定的な気持ちがあるということにも繋がっていくのである。自己否定をすることは自分の生き方、存在を否定する事でもあり、それは体に歪みとなって表れる。現代は心の病気が非常に多いと言われているので「素直になる」ことも1つの治癒力になると私は思う。

  • 「楽と快の違い その1」

    こんにちは。だいぶ寒くなってきましたね。
    昨日までの三浦先生のブログは奥が深くて面白かったです。
    あの写真に「快」の本質があるように思えました。私はまだあのような表現は出来ませんが自分の体を通して学んだ「楽と快の違い」を一週間書いていきたいと思います。

    私は臨床に入る前にまず患者さんに「気持ちの良さだけを味わって下さい」と言うのだが患者さんの中には「気持ちの良さ???」という方がほとんどである。
    なぜ分からないのかというとこの気持ちの良さは日常生活の空間ではなかなか味わう事が出来ない感覚である事と定義が出来ない感覚的な現象である事が要因として挙げられる。「気持ちの良さとはこうだ」とか「〜みたい」と説明出来るものではないので体を通して体感してもらうのが気持ちの良さを知る一番の近道になる。
    しかし、なかには味わってもらった気持ちの良さを「気持ち良い」と言葉で表現出来ない、もしくは認められない人がいる。それは自我意識が関与してしまっているのでそういった時は「からだに聞き分けて」という言葉掛けをする。なぜそういう表現をするのかというと体は気持ちの良さを知っているからである。意識が関与するから気持ちの良さが分からないのである。気持ちの良さを理解するにはその「現象」をありのまま素直に認めることである。

    ある講習で三浦先生が「気持ちの良さを例えるなら何に例えますか?」という質問に対し
    「オレは気持ちの良さを何かに例える事が出来ない」と言われていた。
    この事からも気持ちの良さとは各個人の感覚の世界での現象であり、定義することではないのである。

    それに対し「楽」というのはみんなが表現しやすい言葉で「ラク」「タノシイ」というように様々な意味があるが意識次第によっては波動の荒い言葉にもなり良い波動にもなる。
    「楽しい」「楽をしたい」等の言葉は普段から何の抵抗もなく口にしている人が多い。しかし「気持ち良い」という表現はあまり耳にしない。それは生活感覚の中に「楽」はあって「快」はない証拠になる。「表現出来る、出来ない」この違いに楽と快の違いのヒントがあるのだと思う。

    まあ初日ですので今日はこの辺にして続きは明日していきます。