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  • 雪山より

     今日から一週間ブログを担当します佐助です。一週間お付き合いよろしくお願いします。

     今日の3月31日は、最終営業日とするスキー場が多いのではないでしょうか。僕の家は、車移動で1時間以内の場所に5か所ほどありますが、この5か所すべてで3月31日が最終営業日となります。今年の僕は仕事で行けませんが・・・。
     桜の開花もまだまだのような、この山のような所に住んでいますので、小学校からスキーをはじめ、22歳からはスノーボードを現在に至るまで楽しんでいます。

     大好きなスノーボードですから、毎年冬が楽しみなのです。しかし!今シーズンは4日間しかスキー場に行くことができませんでした。(>_<)
     
     今シーズンからは、4歳の長女がスキーデビューし、2歳の次女はソリデビューしました。


     スキーデビューした子は2日目で、ボーゲンをマスターしたようで、スキーを楽しんでいました。

     指導してくれたインストラクターの方々と話しをしていると、「小さいお子さんは、怖さがないので覚えるのがとても早い」とのこと。

     怖さの問題もあるかもしれませんが、自我による動きが少なく、スキーの重心移動の状態に合わせて、からだの使い方・動かし方が理に適った自然体として行われているからこそ、子供は覚えるのが早いのではないかと思います。

     雪山が大好きな佐助でした。一週間よろしくお願いします。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • おわりに

    村上先生は、とても素敵な人です。
    随所に、A・アインシュタインの珠玉の言葉を引用されております。
    慎んで、書き写させて頂きます。

    「宗教抜きの科学は足が不自由も同然であり、
    科学抜きの宗教は目が不自由も同然である」
    (56p)

    「簡単な解決策が見つかったならば、それは神の答えだ。」
    (118p)

    「基本的な法則を発見するのに論理的なやり方など存在しない、ただ直感あるのみで、それを助けるのが、見かけの裏に隠れている秩序を感じ取れる力である」
    (143p)

    こうして読み終えてみると、改めて、橋本敬三先生は偉大な人だと思います。

    半蔵

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホールにて
    春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 5. 人間はどこに向かうのか?

    『命は「生命」と漢字で書く場合と、ひらがなで「いのち」と書く場合があります。生命と書くと、生命科学とか生命維持装置など、何となく物理的なイメージですが、それらを「いのち科学」「いのち維持装置」とは表現しません。
    いのちは、物理的なイメージではなく、何か見えないものを含んでいるイメージです。命という表現には、エレガントさを感じますね。
    命、つまりいのちはなくなりませんが、生命はなくなります。この言葉は、今まできわめて宗教的な、宗教者による論争というか命題のようなイメージが強いですが、ひとつの大きなテーマとして科学的に研究することが重要だと思います。すでに、科学者以上に一般市民が興味を持っています。』
    村上(184p)

    『今、関心を持っているのが「合気」です。その究極は、相手と魂がつながることであり、熟達するとできてしまいます。「気を合わせる」と書きますが、それはそういうことだそうです。』
    矢作(188p)

    3・11以降、専門家の言葉は、「権威」から「参考」に変わったのだと思います。
    多くの人々は、市民、一般人、生活人としての日常の視点から「実用」を求めています。
    村上先生の提唱されている「健康院」に期待します。

    『科学ではまだわからないことでも、現時点での自分たちの理解力で証明できないから否定するのではなく、少なくとも効果が上がっているのであればそれを認めようというのが科学本来の精神ですから、健康院ではそれを大いに研究してもらえばいいのです。解析は。あとでついてきます。』
    村上(152p)

    おっしゃるとおりです。

    半蔵

  • 4. 見えない世界が医療に入る日

    『医学教育では、気功とかハンドヒーリングには全く触れていません。そこも、今の科学の限界と言えそうです。科学は、実証されたものだけを伝えるのをよしとするのが作法で、客観的な計測器で計測できないものは「存在しない」と帰結します。
    「ない」と言わないまでも、作法上、あえて俎上に載せずに無視するわけです。
    その無視されている部分の大半が、先述したナイトサイエンスです。表の論理、あるいは科学的論理とは全く違う、そこで対処できない部分を「夜の部分」と位置づけているわけです。
    直感、霊感、インスピレーションなども、ここに含まれます。今の科学全体が表、つまりデイサイエンスに引っ張られすぎて、ナイトサイエンス=オカルトと勝手に定義づけられたような気がします。』
    村上(142p)

    『医療現場では「理解を超えること」が起きます。この場合の理解とは、現時点で医療スタッフが持つ知識にもとづく理解です。理解の範囲内に押し込めようとする流れが医療現場に強いのは、自分の理解が届かない場所で起きていることが判断できないからです。そして、その判断できないという思考の根底には「そういうものは存在しない、あるわけがない」という思い込みがあります。』
    矢作(146p)

    『外科医というのはEBMを踏まえながらも、いい意味での経験や勘、あるいは勇気を必要とする仕事だと思います。
    ちなみに、神を信じているという医師は意外に多いですよ。こういう泥臭い現場では、理屈から外れるというか、理屈に合わないことを日々経験しますから。』
    (163p)
    とおっしゃる矢作先生、私は、こういうホンネを率直に語ってくださるDr.が大好きです。

    半蔵

  • 3. 「お迎え現象」を科学する

    『霊の世界とか魂とか、そういう世界をなるべく見ないでおこうとする現在の日本人の生活は、とてもいびつな形態です。そういうものは信じないとしている人でも、時には神頼みをするし、初詣にも出かけます。特定宗教に属していなくても、自然に手を合わせます。本当は信じている証拠です。』
    村上(126p)

    『日本人は死を避けたがる傾向が強まっているというお話がありましたが、死は避けては通れません。必ず肉体死します。だからこそ、それをしっかり見すえて毎日を生きるべきだと思います。そうすれば、次第にホスピスが病院診療と違わない親和性のある存在に変わると思います。
    また、お迎え現象はせん妄にすぎないと軽々に断じてしまうのは問題です。しかし、そもそも医師の側に知識がないうえに、それを理解しようとしない医師、医療関係者が圧倒的に多数派ですからしかたがないのですが、そろそろこういう議論をオカルト扱いするのをやめて一般世間でしたほうがいいでしょうね。
    魂やスピリットに関する知識や考え方そのものを受け入れることで、人間は劇的に変わると思います。』
    矢作(132p)

    「自己の究明」なしに生死は語れません。
    「いかに死ぬか」は即ち「いかに生きるか」を考える事だからです。そのためには、あの世とか魂の話が出て来ない訳にはいかないと思うのです。
    私は臨床家なので、なおさらそれを強く感じます。そうでないと、自分も患者さんも癒されないからです。(互いに死すべき宿命を持ちながら、人生の1つのシーンで出逢った者として)

    半蔵

  • 2. 魂と遺伝子をめぐる論争

    『一般の方がDNAという言葉を耳にすると、比較的固定したイメージで考えると思います。「DNAだからしようがない」「父親の遺伝子だから、母親の遺伝子だからしかたがない」という感じです。しかしそうではなく、遺伝子には色々な環境因子(要因)によってダイナミックに変わりうるものなのです。』
    矢作(64p)

    『ゲノムが書き換え可能な設計図だとわかり、遺伝子学や生物学では今後、様々な変化が起きるでしょう。その変化の途上で、科学で証明できない、解決できない、つまり、見えない世界のことを考慮する“余裕”が生まれると、なおいいと思います。』
    村上(66p)

    「すべての生命は動的平衡状態にある」というR・シェーンハイマーの言葉は、福岡伸一先生のお陰で、私も知るところとなりました。

    人間のからだは神からの借りものだということです。では、借り主はといえば、魂ということになるんだそうです。
    そう考えるとスッキリするし、救われますね。

    「ご縁」という人知を超えたものが働いているからこそ、「生きてみよう」という希望が湧いてきますね。

    半蔵

  • 1. 神の存在

    『私の考えは、「神」という存在に対する表現方法は国あるいは時代によって違うけれど、たったひとつ人知を超えるものから出ている存在であり、そのために色々な登道があり、時代によって解釈が違うというものです。おそらく、元はひとつだったように思います。神はたったひとつ、私はそれを「サムシング・グレート」と著作で書いて来ました』
    村上(18p)

    『思うに、神は根源的な存在であり、「大いなるすべて」であり、そうした存在を私は自著で「摂理」と呼びました。私の究極的なイメージは「光」です。神に善悪はありません。さまざまな表現方法があるにせよ、私はそれを「すべて」と表現しています。「すべて」を人間の科学で定義することは不可能です。』
    矢作(30p)

    お見事です!

    半蔵

  • はじめに

    既にお読みの方も多いかと思いますが、
    『神(サムシング・グレート)と見えない世界』(祥伝社)という本が上梓されました。
    矢作直樹先生と村上和雄先生による対談本です。
    表紙裏の解説には「見えない世界について、東大大学病院教授である現役医師と遺伝子の世界的権威である科学者が、科学の限界に触れ、宇宙と生命の神秘に迫る」とあります。
    3・11以降、日本人の意識が変わった、と至る処で述べられています。昨年末には、マヤ暦が終わりアセンションが生じると話題になりました。今年は伊勢神宮式年遷宮の年です。しかも出雲大社とダブルで。将に何かが起こりそうです。
    そんな折に、ついに、このような本が出現しました。久しくお待ちしておりました。
    「ありがとうございます」感謝です。

    今回のブログは、この本の章立てに従って、私なりに「肝」になる言葉を選ばせて頂いて味わってみたいと思います。(両先生、そうぞお許し下さい。)

    半蔵

    神(サムシング・グレート)と見えない世界(祥伝社新書308)

    神(サムシング・グレート)と見えない世界(祥伝社新書308)

    2013年春季東京操体フォーラムは4月28日、千駄ヶ谷津田ホールにて開催致します。

  • 「操体と生きる7」

    先日、畠山先生から「ISIS編集学校」の案内のメールを頂いたのだが。そこにとてもおもしろい記事があった。編集人インタビューでの鈴木寛さんの記事である。

    そこには編集工学の観点から観た「メッシ」の在り方について書かれていた。
    なぜメッシはFCバルセロナとアルゼンチン代表での成績が大きく変わってくるのか?どちらも同じメッシがいるのに片方は上手く機能し、もう片方は機能しないのか?その違いについて鈴木寛さんは松岡正剛さんの言葉をお借りして「世界定め」の違いと言われていた。
    FCバルセロナではチーム、オーナー、そしてサポーターが一つの「世界観」を共有している。それはカンテラからの選手の育成であり、ボールポゼッションを高め相手に攻撃をさせないというバルセロナ独自の哲学である。その哲学はバルセロナのファンでなくてもフットボールファンなら誰にでも知られているほど浸透しているのである。これを編集工学の観点から観てみると、まずは「世界(目的)を定め」→「イメージを共有」→「哲学を持つ」→「単語(選手)を動かす」ことが組織を成功させる手順なのだと私は鈴木寛さんのインタビューを観て感じたことだ。アルゼンチン代表はこの手順が上手く出来なかったからW杯で失速したのだと思う。

    この編集工学の観点は操体にも応用出来ると思う。それは生前橋本先生は三浦先生や他の弟子達に「これからの操体の臨床は楽ではなく快をテーマにしなさい」と言われた。その「快」というテーマを与えられた操体を学んでいる弟子達は本来そのテーマを共有し、橋本先生が説かれた操体の哲学の下に当時確立されていなかった「快」というイメージを共有しなければならなかった。しかしそれを組織として共有出来なかった為に現在の操体の臨床は各地で違うことが行われてしまっている。結果としてこうなってしまったのでこの善し悪しの判断は私自身の心の中にしまっておこうと思うのだが、これからの私達は三浦先生の下で与えられたテーマ(意思)を共有し日々共に進化していかなければならない。私達はこれからFCバルセロナのように橋本先生の哲学を世に、そして後世に伝えていく使命がある。その為にも松岡正剛さんや鈴木寛さんの言われている物の見方•捉え方をしていく必要がおおいにあると私は思っている。私達操体の臨床家は日々臨床だけに明け暮れて良い時代はもう去ったと最近強く思うようになった。

    皆様も興味があったら観てください。
    とても勉強になります。
    http://es.isis.ne.jp/

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。
    明日からは半蔵さんの出番です。
    楽しみにしています。

  • 「操体と生きる6」

    今日は紙面で話題になっている「体罰」について書いていこうと思う。

    柔道の女子ロンドンオリンピック代表や大阪の高校で起こった体罰問題。
    一体どこからが体罰の基準になるのかはよく分からないが、恐らく強い立場の人間が弱い立場の人間に手を挙げた、もしくは手を挙げられた者が心に深い傷を負った時点で体罰として成立するのであろう。

    私も小学校の時に担任の先生に手を挙げられた記憶がある。その原因は「いじめ」であった。
    私からすればほんの軽い気持ちで相手をぶったのだが、私が想像していた以上に相手は傷ついていた。そんな私の悪ふざけが許せなかったのだろう。担任の先生は授業中にも関わらず私を廊下に呼び出し無言で数回顔を殴ったのだ。現在になって考えてみると先生はぶたれた相手よりも私の事を心配して殴ったのだろうと思う。当時は怨んだりもしたが本当にあの体罰がなければ現在の私は人の痛みが分からぬ人間であったと思う。いつか会える日がくれば先生に「ありがとう」と言いたい。
    しかし、こういった愛のある「体罰」でも現在では問答無用に問題とされる時代となった。時代が「心と心のコミュニケーション」を重視するようになったからである。それは「体と体のコミュミケーション」では相手に自分の想いを伝えるのが困難な時代になったとも捉えることが出来る。

    こういった事は「体罰」だけに限らず男女間においても愛でも「SEXよりも心の対話」が重視されるようになった。それは肉体を介した「刺激」よりも心と心の「調和」が人間の欲求を満たす時代になってきている。大げさに言うならば心と心が繋がっていれば、手と手を繋いでいるだけでもSEX以上のエクスタシーを感じることが出来るのである。
    操体の臨床においても「楽」から「快」へ、「刺激」ではなく「接触」を重視しなければ間に合わない時代となっているのである。ここで書いておきたいのが「楽」と「刺激」には最初に己の思考(自我)が存在してしまうという事である。それに対し「快」と「接触」には自我はなく相手との調和によって成り立つものなのだと思う。それは「体罰」でも同じ事が言える。「体罰」を行う者は自分の想いを相手に伝える為の「コミュニケーション」の一つとして行ってしまったのだと思うが、それは己の「エゴ」に過ぎない。必要以上に相手を干渉するから自我が働くのである。「なぜわかってくれないんだ」といった己のエゴよりも相手を成長をありのまま受け入れる器量と必要以上に干渉しない「愛」がこれからの指導者には必要だと思う。

    こういった時代の変化に対応する為には私達は己の思考回路をシフトチェンジしていかなければならない。それは先日も述べたように「動物的な思考」から「植物的な思考」へのチェンジであり、自分にも相手にも干渉し過ぎない自分自身で在るということだと私は思う。それは操体の学びにおいても同じ事が言える。植物のように自分に多くを求めず、ありのままの自分と向き合い学んでいくことが学びと長く、深く付き合っていける大切な心得なのだと思う。