真理は、真理に合致するものにのみ合致する。
あれは曲がってはおるが骨折っていて可愛そうだからなどといって、真理の方から合致してくれることはない。
合掌
半蔵
子供たちに色紙を書いてやるのに今まで「つよくただしく」と書いてきたが、このごろ「なかよく」と書き足すことにした。強く正しい信念を通そうとしたら、周囲と仲好くすることを考えねば、実現できんからな。
厳寒、鷹は森の小鳥を掴んで爪をあたため、夜をすごす。これを「ぬくめ鳥」という。
明け方小鳥を放すが、それが飛び去った方角の獲物を、鷹はその日いちにち捉えぬという。
合掌
半蔵
自己に問題の無いものが、あちらの講演会、こちらの禅会と聞いてまわっても駄目だ。
耳の垢がたまるばかりだ。解決すべき問題があって、はじめて聞いたり教えられたものが肥になって自己が成長する。焦穀敗種では芽は出ぬ。生きた問題をもて。
合掌
半蔵
今回のブログは、臨済宗円覚寺派管長を務められた昭和の名僧 朝比奈宗源老師の「一転語」を謹んで筆写し、玩味する事をお許し頂きたいと思います。
『人はみな仏である』朝比奈宗源著
(春秋社)より
※一語よく迷を転じて悟に至らしむるを「一転語」といいます。
仏心には生死の沙汰はない
永遠に安らかな永遠に清らかな永遠に静かな光明に照らされている仏心には罪やけがれも届かないから
仏心はいつも清らかであり
いつも静かであり
いつも安らかである
これがわたしたちの心の大本である仏心の中には行き死にはない
いつも生き通しである
人は仏心の中に生れ
仏心の中に生き
仏心の中に息をひきとる
生れる前も仏心
生きている間も仏心
死んでからも仏心
仏心とは一秒時も離れてはいない。
合掌
半蔵
本日で最終日となるが最後に「病気」は一体何から産まれてくるのかをまとめていきたい。
今回のブログで書いたような自分の経験、または病気になった人達の語っていたこと等を考えていく中で私は病とは人間の生活からくる「矛盾」が原因のように思う。
人間は健康でありたいと望む反面、それに適った生き方をしていてない。「おいしいものをたらふく食べたい」「もっと楽をしたい」等と生活の豊かさばかりを追い求めてきた結果、生活は豊かになったが比例するように病の数もなる人も格段に増えた。
その「矛盾」こそが病の起源であり、改めて私達が見つめ直さねばならない所だと思う。その矛盾を無くす為には人間一人一人が自分の生き方を見つめ直し、己の命が求めている生き方を全うしていかなければならない。
そういった人間の生き方の元を正していくことこそが私達操体の臨床家の使命であり、本来の医療の在り方だと私は思っている。
一週間どうもありがとうございました。来週からは半蔵さんにバトンを渡します。
お楽しみに。
人と病との相関性を紐解く上で大切なキーワードとなるのが「欲」である。
私が担当する時には毎回書いていることなのだが、人間界だけに存在するこの「欲」こそが病を生み出している一つの要因となっている。
自然界に自在する法則にはあって人間界には存在しないものは「命のつつしみ」である。
自然界はある環境のもとで自ずと適正な規模の数量というのが決められている。動物の数や植物の数は「生と死」によってそれぞれの命の営みに応じた数だけの命が存在する。そういった自然界のルールは命の慎みによってバランスを保ち調和がされてきた。
しかし人間界では「死」という存在に対し背を向け、遠ざけていく事で「生と死」のバランス制御が出来ない状況になってしまっている。それは人間の「生」に対する執着がそうさせたのであり、現在人間が悩まされている病はもしかすると人間の戒めなのかもしれない。
これは「遺伝子」にも証明されている。一部の研究者によると遺伝子には「利己的遺伝子」と「利他的遺伝子」が存在しているという。「利己的遺伝子」とは自分が得をしようという振る舞いを行うもので、「利他的遺伝子」とは死へと誘う遺伝子だと言われている(生命の暗号 村上和雄署)
つまり私達の遺伝子には「生きたい」という意思が存在する一方で「死」というものを必然的に受け入れられる遺伝子も存在するのである。これを踏まえて病気を見ていくと「病とは人間の生命のバランスを維持するために存在するもの」という捉え方も出来る。こういった捉え方をすれば「死」というのは必然的な現象であり決して恐れるものではないと言える。そして病死も人間界が生命の維持バランスを計る人間の生き方の一つの報いになるのではないだろうか?
私も今までは病気に対しては敵対心を持っていたのだが、現在では素直に受け入れるようになった。なぜならば病とは命に対しての「つつしみ」の欠如によって起こることが分かってきたからだ。人間は命は他の命によって「生かされている」のである。それを肝に銘じておかなければ病という形で自分の身に降り掛かってくる。
近頃よく友人や知人から「肩が痛いんだけど何が原因なの?」と聞かれる。
こういった類いの質問は今に始まったことではないのだが、正直いつも返答に困る。大抵は曖昧にしてその場をしのいでいる。なぜならこういった事を聞く人ほど本気で健康になりたいと思っていないからだ。もし本当に自分のカラダと向き合い健康を望んでいるのならば私と「臨床」という場で向き合ってくるはずだが、ほとんどの人達は交遊の場で聞いてくる。そして結果に対しての本当の原因を知りたがっているのに手っ取り早く治したいという気持ちでいる。こういった人のほとんどが共通しているのが自分のカラダに無関心すぎるということである。
人間は痛かったり病んだりすると他力的に治してもらおうという意識が働く。もちろん治し方を知っていれば自力で治すだろうが、現代人はあまりにも医者頼みになりすぎていて治し方を自分で学ぼうとしない。自分のカラダの事なのにどこか他人事のように捉えているように思えてならない。使わせて頂いているカラダなのにあまりにも無知すぎはしないだろうか?その代償の一つが原始感覚の鈍りだと思う。
本来、私達臨床家よりも患者のカラダの事は患者自身が分かっていなければならないのだが、分かっていない人が多い。それは自分にもカラダにも無関心過ぎるからだ。命ある者全てにおいて命を傷つける一番の行為は無関心な事だと思う。特にカラダというのは本人から意識が向けられなくなると様々な箇所からサイレンを出すようになっている。そのサイレンは時として昨日に書いたような原因不明の病となってカラダに表れる。
こういった事を未然に防ぐ為にも常にカラダの声に耳を傾け、その声に適うケアを自力で行っていく必要があるのだ。このケアも何も治療ではなく自分のカラダに聞き分けた命の営み(息・食・動・想)を行っていけば良いのである。こういった事はカラダを使わせて頂いている以上の最低限の責任であり、自分の健康は自分で勝ち取っていかなければならないのだ。
昨日までは「人間の生活の過ち=病気」という事を書いてきたが、今日は突然原因不明の病気になった人のことについて書いていこうと思う。
「私って生きている意味あるのですかね?」
これは報道特集の「光と音を失って ある女子大生の葛藤と挑戦」で取り上げられた女子大生が言っていたコトバである。
彼女は普通の日常生活を送っていたのだが、急に視覚•聴覚を失った。
彼女のように人間は突然、身に覚えのない病気に襲われることがある。例え命の営みが100点満点だったとして回避出来ない病気が存在する。私も小学四年生の時に原因不明の眼球が動かなくなる眼の病気になったことがあるので彼女達の気持ちが少しだけでも理解出来るのだ。やはり治る確証がない病との戦いは自分の存在の意味さえ問いたくなるのも無理はない。私が病気になった時も「もしかしたらこのままいくと眼が見えなくなるのではないか」とよく考えたりした。
そんな経験があったからこそ現在は五体満足で生活を送れる健康の有難さを持つ事が出来たのかもしれない。
だが私のように完治した人間はこういった事が言えるかもしれないが、彼女のように完治せずに一生その病気と共に生きなければならない人には軽々しくこういった発言は出来ない。しかし以前にも述べたように全てを受け入れなければならない。「なぜ私が‥‥」等と葛藤しても病気は喜ぶだけでなのだ。
私が彼女の本当に凄いと思ったのが病気を素直に受け入れた事である。人間誰もが病に冒されると心に様々な葛藤が生じる。その病の原因、自らの行い、未来、様々な葛藤がある。その葛藤を打ち消し、現実を受け入れるのは誰にでも出来る事ではない。大抵の人は病を否定し、自分を否定し、自分と向かい合えずに生きていく。しかし彼女は生涯付き合わなければならない病気と正面から向かいあい前を向いて生きようとしている。
命の「生きようとする意思」と共に生を全うしようとしている姿勢がある。それだけでも彼女が生きている理由はあるのではないだろうか。この彼女の生きる姿勢こそが五体満足で生活する事が出来ている私達が学ぶべきことだと思う。
私は彼女が病気になる前にどのような生き方をしてきたかは分からないが決して彼女が命の営みの法則が赤点だったとは思えない。この世の中には彼女のように自分以外の第三の要因で病気になった人達が沢山いる。それは私達人類がどこかで自然の法則から外れた歩みを進めてきた以上、もしかすると避けては通れない宿命になっているのかもしれない。