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  • 「目」とか「みる」とか その3

    「目は心の窓」と言われているように、

    目の状態はその人の心の状態を表していると考えられているみたいです。

    ということは目は心にもっとも近いところにある器官なのかもしれませんネ。

    そうなるとゲゲゲの鬼太郎のオヤジさんは、

    いつでも心まるだしってことになりますナ。

    まぁ鬼太郎のオヤジさんの目は1つなんですが、

    人間様の目は左目と右目とで2つありますのでより複雑なのかもしれません。

    宗教家の浅見宗平氏によると、

    自分より年上の人を目上と言い、自分より年下の人を目下と言い、

    目上、目下と言うのは、自分の目を基準にして言うのだから、

    自分の位置は目ということになるのだそうです。

    そう考えるとやっぱり目は自分自身を映すのかもしれませんネ。

    そして、自分の位置が目である事がわかると、

    目より上の方で形のある眉毛は親の位置になるので

    左眉毛は父親となり、右眉毛は母親となるそうです。

    さらに、左眉毛は父親であり、種であるので、目の下の方は男の子となる。

    右眉毛は母親であり、畑であるので、目の下の方は女の子となる。

    ふむふむ、なかなか面白いです。

    こういったいろいろな角度からからだをみていくと、

    ゆがみというものを単なる形だけではない部分から

    みていくこともできるかもしれません。

    背骨や骨盤だってそうですよネ。

    ゆがんでる、ズレてる、曲がってるって言われても、

    「では、どうしてそうなったの?」っていう真因となると

    なかなかムズカシイもんです。

    病気だってそうです。

    お医者さんは病名をつけてくれますが、

    「では、どうしてそうなったの?」っていう真因となると

    なかなかムズカシイもんです。

    生活習慣やストレス、

    操体的に言えば「息」「食」「動」「想」「環」のバランスなど、

    考えるべきところはいろいろありますが、治療所などやってるとホントに

    「???」という患者さんも少なからず来院されます。

    そういうときに「どこのゆがみをみるのか?」という意識の違いによって、

    みるべきところも変わってくるのかもしれません。

    目にみえるゆがみから、目にはみえないゆがみまで、

    答えはきっと自然法則だけが知っているってことなんですナ。

    中谷之美

  • 「目」とか「みる」とか その2

    佐助実行委員のブログに興味深い動画が載ってました(視覚その4)。

    全盲の男性が散らかった廊下を歩く動画なんですが、

    目がみえないはずの男性が見事に障害物をよけていくんです。

    ビックリですよねぇ。

    「ブラインドサイト」と呼ばれる特異な能力らしいのですが、

    ヒヨコちゃんには詳しいところはよくわかりませんので、

    視覚についての詳細は佐助殿のブログを1週間分読んでみて下さい。

    それよりワタシがこの動画をみてまず思ったのは

    「むむ!これは座頭市ですか!」ってことですヨ(ヒヨコの思考回路はこんなもんです)。

    座頭市とは皆さんご存知のとおり、盲目ながら居合の達人。

    仕込み杖を抜いてはバッタバッタと斬りまくり、それはもう鬼のように強いわけです。

    う〜む、ホントにそういうヒトがいたかどうかは別にしてスゴイもんです。

    周りの状況が全て気配でわかっちゃうんでしょうか?

    以前に気配は聴覚に関係しているといったようなことをみた記憶がありますが、

    ワタシ的には気配を「聴覚で感じる」よりも「肌(皮膚)で感じる」ほうが何となくシックリきます。

    目でみなくても皮膚で感(み)ている。あるいは皮膚が感ている。

    もしかしたらこのほうが操体的にも?何となくシックリくるかもしれません。

    ところで座頭というのは江戸期における盲人の階級の1つで、

    按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられていたものだそうですが(Wikipediaより)、

    そうした市さんは鍼灸按摩をやっても相当上手なんじゃないでしょうか。

    まさに三浦先生のいわれる「感る」っていう診断と治療をするんではないかと思います。

    実際に目の悪い臨床家の方の「触診」などには目を見張るものがありますからネ。

    やっぱり人間のからだってやつは、なかなかのスグレモノですぜ。

    というワタシも以前に、あるマンガのマネをして修行?を試みたことあるんです。

    それは目をつぶって道を歩き、壁や電柱にぶつかる寸前で止まるというもの。

    まぁ動画の男性と同じようなことをしようと思ったわけです。

    結果は ・・・ 頭突きの稽古にはモッテコイでした。

    中谷之美

  • 「目」とか「みる」とか その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願い致します。

    「やられたら、やり返す。倍返しだ!」。

    ただいま絶好調のドラマ『半沢直樹』の決めゼリフでございます。

    いやいや、倍返しってなかなかイカシてますよねぇ。

    ハムラビ法典ですら「目には目を・・・」って等倍返しですからネ。

    でもまぁ、娑婆世界で生きている以上、

    倍返ししたいような相手は誰にでもいるのかもしれません。

    あいつと、こいつと、そいつと ・・・ ウヒヒ ・・・ なんて、

    つい妄想モードに入っちゃうこともあったりして。

    しかし、スポーツの世界では「リベンジ」って形でカッコイイかもしれませんが、

    (2020東京五輪が決定しましたね!)

    一般的な社会人にはなかなかムズカシイもんでございます。

    上司にたてついてドラマの主人公になったつもりが、

    さらにイタイ目にあって、目を覆うような展開になって、

    目も当てられない結果になっちまうってこともあるかもしれませんから。

    たまったうっぷんは、ドラマの中で晴らしてもらったほうが無難なのかもしれません。

    ドラマといえば以前に『古畑任三郎』っていう刑事ドラマをやってました。

    ワタシはこのドラマが好きで、よくみてたんです。

    ひょうひょうとして、ネチネチと犯人を追いつめるスタイルがまたいいんですねぇ。

    それに古畑さん、目ざといというか、目のつけどころが違うというか、

    とにかくいろんなところをよくみてるんです。

    確か空の弁当箱を結んだ紐の結び目をみただけで、

    「アナタ外科医でしょ」なんて見抜いちゃうような場面もありました。

    観察力、洞察力、直感力みたいなものが、きっとスゴイんですネ。

    そして、こういった力ってワタシらのような仕事にも絶対に欲しい要素だと思いますヨ。

    ワタシらはお医者さんじゃありませんので病気の診断はできませんが、

    一応からだを「診る」仕事なわけですから。

    そして、からだを「診る」には、まずは「見(視)る」ということが必要であり、

    それはそのまま「観る」ということにも繋がります。

    いわゆる観察ですネ。相手のからだから何からよ〜く観る。

    おっと、でもイヤラシイ目で観ちゃいけませんぜ。

    スマートに観るのがオシャレな臨床家ってもんです。

    (え?オマエに言われたくないですって?ごもっとも!)

    そして、そこからさらに踏み込んで、

    三浦先生が「感(み)る」という言葉をササッと紙に書いてくれたことがあります。

    もちろん当て字みたいなものですが、

    これがまた何となくシックリきちゃうから不思議なんですねぇ。

    からだを「診る」ときによく言われるのが「自身の五感を駆使して」ということですが、

    そう考えれば目で感たって、鼻で感たって、耳で感たって、皮膚で感たって ・・・

    それは立派な診立てになるわけです。

    一言に「みる」と言っても人によってそれは結構違ってくるものですが、

    古畑さんのようにスルドイ目が養えるように ・・・ やっぱり日々精進ですナ。

    中谷之美

  • 般若身経と心の調和。

    おはようございます。

     昨日は、般若身経と他の健康体操的なものとの、違いについて書きましたが、昨日書いた事以外にも、般若身経には大きな特色があります。

     それは、からだに感覚をききわけるという事。自然法則に則り、からだを使い、動かすという意識をもって取り組んでも、この感覚のききわけがなければ、意味を成さなくなってしまう。
     例えば、一つの動きをゆっくりと、とおしてみて、どこかに痛みや不快感が生じたならば、その動きは一旦中止する事。「こうしなければいけない」という固定観念で、そのまま続けてしまうというのが一番良くない。
     何故なら、痛みや不快を感じるという事は、からだは「それ以上やってほしくない」という、サインを送ってくれているからだ。このサインに耳を傾けないと、かえってバランスを崩してしまう。

     これは不快に従う必要はないという事を、からだが示してくれているのだと思う。不快に従えば、不快な方向にバランスが傾き、バランスを崩すという事。逆に、快に従えば、快の方向にバランスが向き、より良いバランスとなる。
     「そんなこと言ったって、不快な事もしなければ生きていけないだろう」と言う人もいると思う。しかし、その不快な事というのは、心の表面の部分だけで、判断している場合が多いのではないだろうか。そして、心は移ろい易い。だから、からだにききわけるという事が重要になってくる。

     心の持ち方も重要だ。心の営み、つまり「想」も、「環境」と「息」「食」「動」の調和のうえに成り立っている。
     現代人は、「環境」との係わりに於いて、人為的環境、社会的環境との係わりの比重が、とても多くなってしまっている。その分、暮らしも豊かで便利なものと、なっていると言える。しかし、その反面、精神的ストレスを、生じさせやすくもなっている。
     心の問題を心の持ち方だけで解消できれば、それに越したことはないが、なかなか上手くいかないのが実情だと思う。
     しかし、心は単独ではなく、他の「息」「食」「動」とつながっているのだから、感覚をとおして快に向けた調和をはかっていけば良いのではないだろうか。
     心を一人ぼっちにさせておく必要はない。

     それには「動」で調和をはかるのが、一番取り組み易いのではないかと感じる。いかんせん「食」では、欲につながりやすく、その時は気分が良くても、後々、心とからだを気持ちの悪い方向に向け、更にバランスを崩す可能性がある。気分が良いという事と、気持ちが良いという事は違うのだ。
     また「息」での心の調和のはかり方は、それなりの修練が必要となると思う。その修練も、からだのツクリと動きを自然体に近づけるよう、バランスを調整してからの方がより効果的だと思う。

     心の動きとからだの動きは、同時相関相補連動性であり、心とからだは中枢神経を介してつながっている。だから、心の調和をはかるにも「動」から入るのが一番手近だと感じる。
     また、手近にする為にも「般若身経」を基に、からだと、感覚のききわけをとおして、向き合うことだと思う。
     感覚をとおして、つながりや係わり方は変わる。つながりや係わり方が変われば、当然、質も変わる。からだの細胞は80兆個あると言われるが、その一つ一つを構成する原子や原子核にも意志と意識があるのだから。
     それを快に導くのか、不快に導くのか。快によって、より良く調和するのか。それとも不快によって不調和を生み、衰退するのか。
     感覚をききわけるという事は、それほど大事なことなのだ。そして大事と思うか、思わないかは、心の在り方にかかっている。
     
     
     般若身経は、からだの使い方、動かし方の基本法則であり、そこから身体運動の法則の究明が成されてきた。その究明は、創始者橋本敬三先生から、高弟である三浦寛先生に引き継がれた。
     橋本先生の時代は身体運動の法則というと3法則1相関性だった。それでも間に合っていたのだと思う。しかし近年では、先日の「操体曼荼羅」で、三浦寛先生から発表があったように、8法則、8相関性となっている。
     それだけ現代社会が高度に複雑化し、身心のバランス、特に心の調和と身体とのバランスを保つのが難しくなっていると言える。何よりも良心や真心といったものがオブラートに包まれ、心の隅に追いやられてしまっている感もある。だから、より自然法則を細かく突き詰めて究明し、満を持して発表されたのだと思う。

     人間は不変で普遍的な自然環境に適応することを根本に、その時々の自然環境、そして人為・社会的環境にも適応していかなければならない。これだけ環境が、以前と変わったものとなってくると、人間もレベルアップする必要があるのではないだろうか。
     例えば、ほとんどの人は、本来の脳の機能を5パーセントぐらいしか生かせていない。それでも、これだけの知性を育み、文化も発展させてきたのは凄い事だ。
     しかし、あとコンマ数パーセントでも生かせれば、もっと様々な環境に適応でき、より快適に生命活動を営むことが、出来るのではないだろうか。
     良心や真心を、より手近で親密なものとし、心の調和と身体のバランスとの調和を、より良くすることで脳の機能も高まる。そんな可能性を8法則、8相関性は秘めていると思う。

    一週間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
    暑い日も多く、パソコンの前で文章を読むだけで、汗が滲んできたと思います。
    また、この一週間は、自然の猛威をまざまざと、見せ付けられた週でもあったと思います。
    集中豪雨、竜巻。被害に遭われた方も、いらっしゃるかもしれませんが、どうか快に向け、舵をきって進んで頂けますよう、お祈り致します。

    明日からは中谷さんが担当されます。
    来週もよろしくお願いいたします。

  • いきなり、「動く」ではなく。

    おはようございます。

     昨日、からだの使い方、動かし方にも、純然たる生かされし自然法則が自在する。と書いていますが、それを表しているのが「般若身経」です。

     般若身経は、健康体操的なものではなく、エクササイズでもない。これらに共通する事は、「動く」という面から、いきなり入ってしまうという事だと思う。
     つまり、からだを使うという事とからだを動かすという事が、識別されずに、いきなり「動く」から入ってしまうという事。
     どの様にからだを使えば良いか、という事をすっとばして、いきなり動きに合わせるという構図だ。

     これは、ある程度の健康状態を保っている人ならば良いだろう。しかし、みんながみんな、ある程度の健康状態を保っているとは限らない。
     また、ある程度の健康状態を保っていても、これではバランスを崩し、異常感覚を伴うからだの歪みを生じさせてしまう人も出てきてしまう。

     操体法の創始者、橋本敬三先生は「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則があるんだ」と言われていたと聞く。つまり、「動」の自然法則は、「動く」だけにあらず、また、からだの動かし方、使い方でもないという事。使い方を基に動かし方がある。

     自然環境には、生命の存在とは切っても切れない、不変で普遍的なものがある。空気、重力、水、など。これらから成る普遍的自然環境に適応すべく、からだは設計されている。からだはツクリがあって動く。その設計にミスはない。
     まずは、そのツクリを普遍的自然環境に適応させるべく使うこと。つまり、からだを使う場合「全身の重力をからだの中心に近づけるということ」が基本となる。

     そうするにはどうしたら良いか。どう使えば、普遍的自然環境と、それに適応すべく設計されている、からだとの合致が見出せるか。
     そこから始まり、自然(からだを含む)から教えを受けながら気づきを得、気づいたものを繰り返し、繰り返し検証し、間違いないものと確信に至ったのが、からだの使い方の自然法則である、重心安定の法則だと思う。
     自然法則というのは、考案するものではない。自在して在るものを知るということだと思う。

     手は小指側側を、足は親趾側側を利かせるように使えば「全身の重力をからだの中心に近づけること」という基本条項を満たすことが出来る。そして、腰・骨盤が、文字通り要となるよう、重心を安定させることが出来る。
     この重心安定の法則を基に、からだを動かす。からだが動くとは要が動くことであり、この動かし方にもルールがある。 せっかく、腰・骨盤が要となるよう重心を安定させても、重心のかかり方で、からだのツクリは大きく変化してしまう。これが自然体から遠ざかる(歪む)要因ともなる。

     からだが最も安定した状態(極限安定)となる動きは8つしかない。前屈、後屈、左右側屈、左右捻転、牽引、圧迫。
     この8つの動きそれぞれに、要、つまりからだの中心腰・骨盤の必然的な移動が伴う。この事について究明したものが、からだの動かし方の自然法則である重心移動の法則である。

     橋本敬三先生は「からだがネ、8つきりしか動かないなんて、そんなことに気づいたのは、よっぽど年取ってからですよ、若い時は、わからなかった」と語っていたと聞く。それ程、自然法則を知るという事は、並大抵のことではないのだと思う。

     橋本敬三先生が、この様に語っていたと聞いても、自然という事に対する意識がなければ、なんの事やら意味がわからない、となってしまうと思う。
     しかし、不変で普遍的自然環境と、それに適応すべく設計されている、からだとの係わりを基とすれば、適応すべくからだを使い、動かし、適応できる動き(極限安定)となるのは8つきりしかないという様に感じられる。
     その他の動きは、自然環境とからだの係わりに適応しない、自分本位の動きという事になってくる。

     しかし、それでも間に合うのは、自分の意識の至らない無意識の領域で、からだが自然環境に適応しようと働いてくれているからだ。有難いことだと思う。有難さにつつまれ、生かされて生きている。
     しかし、有難さを無視したり、有難さに胡坐をかいていると、相応の報いがある。それは、異常感覚を伴うからだの歪みという事。これが病気、すなわち健康傾斜の歪体化への第一歩となってしまう。

     だから、からだの使い方、動かし方の自然法則を知る事。知った上で「般若身経」として実践し、健康の基、つまり、からだの歪みを自然環境に適応すべく、正していく事。
     そして、快適感覚のききわけを基に、自然体としてのあるべき姿を問いかけていくこと。それが、より良く身心のバランスをとっていく事や、健康増進につながる事だと思う。

     橋本敬三先生は、健康増進の倫理と題した論文のなかで
    「生命体が自然環境に適応するということ、これは生命の至上命令であるから、この絶対原理は自然の救いになっているのである。」と書いている。
    この事は、深く心に刻み、意識したいと思う。

  • バランスという事を考えてみる。

    おはようございます。

     昨日は、スポーツを土台として、バランスをとるのではなく、バランスをとってからスポーツをやる、という考え方のほうが良いのではないか、と最後に書かせていただきました。

     スポーツに怪我はつきもの、という話は良く聞きます。怪我をしない為に、準備運動をしっかり行う。良い事だと思います。
     ただ、その準備運動が、怪我をしない為だけの目的でなく、怪我は勿論、異常感覚を伴うからだの歪みの予防の為にも、身心のバランスをとる。
     また、好調子を持続させる為、より自然体に近い状態をキープするという事まで高められれば、と思うのです。
      

     その為には、自然環境に適応すべく、自然法則を知り、それに合わせていこうという意識が必要になってくる。
     周囲の環境は、人によってまちまちだ。民族単位で見たら、それこそ大きな違いが出てくる。それはそれで良い事だと思う。自然環境も地域によって少しずつ異なるのだから、その地域に適した文化の発展や習慣があって良い。これは尊重すべき事だと思う。

     しかし、自然環境には、どこの人々にも共通する普遍的なものがある。とりわけ、どこの誰でも、空気で満たされ、重力の作用を受け、生命を育み意識に反応する水がある、という恩恵を受けている。
     それらの恩恵を受けて、「息」「食」「動」「想」の生命活動を営むことが出来ている。これも、誰にでも共通する普遍的なことであり、誰もが生かされて生きている。
     そこに純然たる生かされし自然法則が自在する。これも普遍的なことであり、「生きている」と我を張る前に「生かされている」という事実に想いを馳せる事が必要だと思う。
     
     「動」つまり、からだの使い方、動かし方にも、純然たる生かされし自然法則が自在する。からだは構造があって動く。それも普遍的な自然環境に適応すべく設計されている。
     そしてその設計にミスはない。人は無重力状態のところに行くと、骨は10倍の速さで衰えると聞いたことがある。
     それだけ普遍的な自然環境との結びつきが強いということであり、その様に設計されている、という事だと思う。

     だから、その設計に基づいた使い方、動かし方がある。準備運動も自然法則を知った上で、それを応用したものでなければならない。
     いや、本来であれば準備運動という概念を捨てて、生活動作全般にわたり、「動」の自然法則を応用し、感覚をききわけながら、日常動作を作法化していくべきものだと思う。そうしなければ、真の自然体(健康体)としての身心のバランスというものにはつながらない。

     上辺だけの身心のバランスだけを言うなら、こんなにまどろっこしく、自然環境との係わりから始まる説明などする必要はない。
     しかし、本来の身心のバランスとは、自然環境と生命活動との係わりを無視しては成立しない。自然法則を知り、想いを馳せ、意識する事。その上で、感覚をききわけながら日常動作を作法化していく事。

     からだの動きは「動」だけで成り立っているわけではなく、他の「息」「食」「想」ともつながって成立している。
     そして、これらは同時相関相補連動性となっている。これは、あるものが悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質を意味する。ここに、自然法則を知り、より良くバランスをとっていく為の鍵がある。そして、その時々の様々な「環境」と係わり合っている。

     その時々の様々な「環境」には、スポーツをしている時の環境も、当てはめる事が出来る。その環境におかれた状況に柔軟に対応し、尚且つ能率的である。そして事が終わった後も、異常感覚を伴うからだの歪みを生じさせることなく、疲労も最小限に収まる。
     そんな身心のバランス状態が理想だと思う。これはスポーツだけに限らず、他の事にも当然当てはまる。その根本にあるのは、普遍的自然環境への適応と自然法則への順応。

     より良く身心のバランスをとるという事は、一朝一夕には行かない。しかし一朝一夕に行かないから、面白いとも言えるし、愉しいとも言える。
     それだけ、より良くなる伸びしろが、あるという事。100点満点の人間などいないのだから。
     感覚をききわけながら、快の方向へ、より良くなる様にバランスをとって行けば良い。誰でも意識行動意欲さえあれば出来ることであり、人間としての本音の部分が求めている事でもあるのだから。
     取り組む中で、相応の成果は感じられると思う。但し、欲張らない事。バランスは間に合っている事こそ最良なのだから。

  • 年頭放談より・・・2

    おはようございます。

     昨日、橋本敬三先生の「年頭放談」より抜粋した文章の中に、トリムという言葉が出てきました。文中で、トリムとは船のバランスをとることを由とする語で、人間身心のトリムをとって行こうという運動である、と書かれています。

     これを読み、私は、生命としての営みが、自然環境に適応して、満足して行われるように、身心のバランスをとって行こうという運動、と想像しました。
     そう、大海原という自然環境の中で、その環境に適応するようバランスをとり、風を受けて進む帆船のように。

     しかし、調べてみると、想像とはちょっと違う印象を受けた。
     トリム運動は、1967年にノルウェーで始まった。そして、同じ60年代にヨーロッパでは、みんなのスポーツ運動というのも起こっている。だから、ヨーロッパ各地、世界各国に普及する過程で、みんなのスポーツ運動を土台としてバランスをとる、という意味に変わっていったような感じを受ける。

     国によっては、トリムの意味は刈り込むとか整えるといった捉え方となるので、尚更、肉体の形を整えるよう体力作りに励む、そうすればストレス解消にもなる、という意味合いになるのではないかと感じられる。

     こうなると、自然環境に適応した身心のバランスという事には、つながらなくなってしまう。何故なら、スポーツは人間が考案した施設や技術、ルールに則って営まれる、遊戯・競争・肉体鍛錬の要素を含む身体や頭脳を使った行為だからだ。(参考・・・wikipedia

     みんなのスポーツ運動が起こった背景には、自動化社会の成熟と、そこから情報化社会に移行する中で、人々の生活と労働全般における省力化、オートメーション化が進み、運動不足による健康と体力の低下が著しかったという事。都市への人口集中、過密化に伴う人間連帯性の喪失、管理労働下での人間疎外などの問題があったという事。
     それらの問題に対してスポーツを奨励し広く普及させ、健康と体力の増進と、人間疎外、人間連帯性の回復を目的として起こったのがみんなのスポーツ運動だという。

     つまり、背景には人為的、社会的につくられた環境と、人間の生命活動とのアンバランスによる、不具合がある。そして、それをスポーツという人為的なもので解消しようというものだ。
     しかし、人間をはじめ、すべての生命は自然環境があって成立している。人為的環境や社会的環境も然り。自然環境がなければ成立しないという事。
     だから人間が係わり、人為的、社会的につくられた環境と人間の生命活動とのアンバランスによる、不具合が生じたならば、自然環境という原点を振り返り、バランスをとるよう対策を講じる必要があったと思う。

     どんなに科学技術が発展しようとも、人間は天と地の間で生命活動を営まねば存在が成立しない。天地の間には自然環境があり、その自然環境に適応する為の自然法則が自在する。
     とりわけ、人間の生命活動の中で「息」「食」「動」「想」は他人に変わってもらえぬ自己最小限の営みであり、「息」「食」「動」「想」それぞれに自然法則が自在する。
     そして自然法則に合わせようとしなければ、一つ一つの営みが生体にとってストレッサーになりうる。だから自己責任がある。

     ここまでは自己の問題だが、人間は自然環境に手を加えて、周囲の環境を創りあげる能力も有している。
     それも一人ではなく大勢で協力し合って、大勢がより良く暮らせるよう、環境を整えていく。そこに、自然環境とともに、人為的環境と社会的環境が生じてくる。
     より良い暮らしを求めて生じた人為的・社会的環境も、自然法則から外れる生命活動を強いるようならば、生体にとってストレッサーとなる。

     ストレッサーとはストレスの要因となる事柄だから、生体がストレッサーに反応した時ストレスとなる。
     ストレスが積み重なると、異常感覚を伴うからだの歪みをはじめとして、身心に変調をきたしてしまう。逆をいえば、ストレッサーに反応しなければストレスとはならないという事になる。
     しかし、それではかえって何らかの支障をきたす。だから、ストレッサーに反応しても、ストレスを訴えるような状況にならない、柔軟で適応力のある身心の状態を育んでいく必要がある。この状態こそが健康状態だと思う。

     この柔軟で適応力のある身心の状態というのは、いかにして創られるか。それは、自然環境に適応するべく自在する、自然法則を元とした「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランスで創られる。
     このバランスは100点満点である必要はない。ただし、間に合うようにバランスをとること。

     説明が少々長くなってしまったが、何を言いたかったかというと、人為的、社会的につくられた環境と人間の生命活動とのアンバランスによる、不具合が生じたならば、自然環境の立場からも考え、自然法則を元としたバランスをとるよう対策を講じる必要があるという事。 人為的なもので問題を解決しようとしても根本的な解決にはならないと思う。
     スポーツのことを悪く言うつもりはない。スポーツには良い面も沢山ある。その良い面をより良く引き出すには、スポーツを土台としてバランスをとるという考え方ではなく、バランスをとってからスポーツという考え方の方が良いと思う。

  • 年頭放談より・・・1

    おはようございます。

     昨日は、国の負債が1000兆円を越えたという事から、国の歳出の中で大きなウェートをしめる社会保障関係費について書きましたが、この現状を約40年前に見越し、費用の事はさておき、一人一人が人間としての尊厳をもって生を全うする大切さを説いた人がいました。
     それが操体の創始者、橋本敬三先生です。

     40年前というと、社会保障の大幅な制度拡充が実施され、老人医療費無料制度や高額療養費制度などが導入された頃と重なります。
     卑俗な見方をすれば、橋本先生も医師だったので、これらの制度を受け、患者も引き手あまたとなり、経営も順調で、さぞや裕福な暮らしが出来たのでは、と思うかもしれません。
     しかし、橋本先生はこれらの制度を良しとせず、逆に苦言を呈している。それが約40年前の昭和51年に「年頭放談」として、東北日報に掲載された文面です。これは、物療内科・非保健医・温古堂として載せている。

    「生体の歪みを正す」の418ページにも、載っていますので、一部抜粋します。

    世の中、不満不服で要求要求の声ばかり強く、票につながる議員どもは、先のことなどどうでも、自分の首が可愛ければ、デマンドにペコペコ。やれ高福祉だ何だと御機嫌とりに懸命だ。
     愚老は老人がキライだ。老人といっても人におんぶしたがる老人のこと。体力的に衰えた老人に活動を求めるわけではないが、少なくとも奉仕の念のない老人はきらいだ。
     山崎朋子の書く「サンダカン八番娼館」に出てくる敗残の唐行さんのおさき婆さんの心境、現在己れの悲惨な境涯にあって、なお他人様の幸せのみを神仏に祈る崇高な姿を見れば涙が止まらない。
     せめて他人様のために祈る心をもちたいものだ。地獄に住んでいながら仏様になっている。有難や有難や。
     福祉福祉でただただ経済援助をするのが福祉ではない。せめて老いても、なんとか他に迷惑をかけぬように生の終りを完うできるような態勢を進めて上げるが本当の福祉でなければならない。
     五十年末に元通産次官の佐藤滋氏が音頭を取って、日本医師会と民間健康運動推進団体と経政界のトップが会合して、トリム運動を展開する相談がきまった。
     トリムとはスウェーデン語で船のバランスをとることの由だが、人間身心のトリムをとって行こうという運動である。

     時代背景を思い出しながら、この文章を読むと、老人医療費無料制度が有効だった時は医療機関が高齢者の社交場と揶揄されたりもしていた。病院に行ったら「○○さん、今日は来ていないけど、どこか具合でも悪いのかしら」という会話を聞いたとか、聞かないとか。
     それほど、無料なのだから受診しなければという人も多く、早急に受診しなければならない人が受診できない状況ともなっていた。その事に対する抗議の気持ちもあったと思う。

     しかしそれよりも、単に「楽」になる事ばかりを先行させると、かえって堕落を招き、人が人として自律した生き方が、出来なくなってしまう事への、憂いの心情が感じられる。

     何よりも、健康とは自らの責任に於いて克ちとるべきもので、自分自身で創造していくものだからだ。その為に、原始感覚が誰にでも備わっている。良くなるように、良くなるように動きたいという本能をもった、からだも有している。そういった天恵を思い起こし、バランスをとっていけば良い、ということだと思う。

     頑張って鍛え直すという事ではない。全然違う。お歳を召されているのなら、尚更無理は禁物だ。介助してもらわなければ、成らない状態であったならば、介助してもらえば良い。無理せず介助してもらうべきだ。
     しかし、自分自身の感覚というものは、自分にしか解らない。ここのところはキチンと自分で感覚をききわけるべきだ。そうでなければ自律につながらない。支えてもらって「楽」をしているだけとなってしまう。

     橋本敬三先生も、晩年は高齢の為、日常生活で動き回るにも、他の人からの介助を必要としていた。その度に「有り難い」「有り難い」と感謝の言葉を口にされていたという。
     そう言われれば、介助する方も迷惑とは感じないだろう。誰でも齢はとるし、お互い様なのだから。感謝の念は勿論、奉仕の念も込めて「有り難い」と口にされていたのだと思う。

     そしてこの「有り難い」は、他の人の優しさに対して言っている事は勿論だが、その優しさが自身のからだに響いて「快」と感じられる事にも「有り難い」と言っていたのだと思う。
     からだの感覚のききわけであり、これも一つの操法だと思う。「快」をききわけ、味わい、心とからだのバランスをとって行く。

     これだけで魔法みたいに10歳も20歳も若返って健康になるということはないだろう。
     しかし、状況に見合った、間に合ったバランスをとることにはなる。それが継続的となれば、結果的に長寿や満足して生を完うする、ということにもつうじると思う。

     今日は最後に、医道の日本誌に掲載されていた「歴史に残る斯界の人々 其の三十五 橋本敬三」という特集記事の中のものを抜粋します。

    橋本は95歳で老衰によりこの世をさる。橋本雄二氏は孫として、主治医として晩年を見守っている。

    「寝たきりになってもベッドの中で動いて最後の最後まで操体をやっていました。驚いたことに褥瘡や関節拘縮も起きなかった。最後まで西洋医学的な治療は何もしませんでしたが、自宅で家族に見守られ、治療家にふさわしい穏やかで人間として自然な最期を見せてくれました」

  • 1000兆円超。

    おはようございます。

    何日か前に、今年の6月末の時点で国の負債総額が1000兆円を越えたと耳にした。
    単純計算すると国民一人当たり792万円の負債を抱えていることになるという。
    負債の大半は国債によるものだが、税収で歳出を賄えないから、国債を発行する。
    国債には利子が付く。その債務と歳出を賄う為に、また国債を発行して借金する。
    繰り返しているうちに、どんどん膨らんでいく。

     この国債を返したり、利子を支払ったりする額が、年間約22兆円。国家予算が約92兆円として、この国債費だけで24パーセントを占めるという。
     その国債費を上回るのが、医療、年金、福祉、介護、生活保護などの社会保障関係費で年間約29兆円。こちらは31パーセントを占め、一番多く使われている。

     一時期、無駄使いが大きく取り上げられていた公共事業関係費は6パーセント弱にすぎず、国債費と社会保障関係費が、いかに膨大かが解る。そして、これから訪れる超高齢化社会の事を考えれば、益々その額は増えていくのは明らかだ。

     今までどおりのやり方では、いつか破綻の時がくる。国債を発行して、景気をはじめ、あらゆる面で「楽」になったとしても、「楽」は長くは続かない。「楽」をした分だけ「苦」は待っている。

     今までの考え方、意識の持ち方を変えていかなければならない。もう社会全体レベルでみても「楽」では通用しない時代になってきているのではないだろうか。

     「楽」をしたい。「楽」をさせたい。とりわけ日本人の場合は、「楽」をさせたいという想い。親、兄弟、子供に「楽」をさせてやりたい、その為に頑張ろう、という想いが強かったと思う。それが、急速な戦後復興を可能としたのかもしれない。
     しかし、復興を遂げ一定の水準まで成長すると、今まで「楽」に向け、ガムシャラに頑張ってきた事による歪みが、あちらこちらに生じてきてしまったようだ。
     そして借金につぐ借金。苦<楽<苦<楽<苦・・・。

     これからは「楽」ではなく、「快」をききわけ、それに従う生き方が主流とならねばならない。そこから、一丸となって「快」に向かうという意識を柱とし、その為に個人がどうするか、ということを考えていく必要があると思う。

     とりわけ、社会保障関連費の医療、福祉、介護。この分野の「楽」から「快」へのシフトチェンジは急務だ。これはサービスを提供する側ではなく、受ける側、特にこれから受けるであろう人達の意識を変革していく事が重要だという事。

     サービスを受ける人達が「楽」を求めたままならば、サービスを提供する側も「楽」に留まるしかない。
     専門色が強い分野だけに一般の人達は、専門家に任せたほうが確実と思い丸投げしてしまう。その方が診る方も診られる方も「楽」だろう。
     しかし、自分のからだの事は自分のからだが一番良く知っている。感覚をつうじて自分のからだと向き合うという事が非常に重要なのだ。そして「快」をとおして、心とからだのバランスを調整していくこと。
     つまり未病の段階で病の芽を摘んでしまうという事だ。そうすれば応急処置的な治療は別として、医療、介護などのサービスを受ける頻度は、おのずと減ってくる。

     サービスを受ける側が、器質的異常が認められるまで、自分のからだと向き合おうとしない。サービスを提供する側も器質的異常が認められてからのサービス。
     これでは、元の状態に回復するのに、時間とそれなりの費用がかかる。考え方を変える必要がある。健康診断で異常がないから良し、とする考え方も然り。その前に手を打つ。日々手入れをする。

     面倒くさいから異常が出るまで放っておくのは「楽」だろう。しかし「楽」をした分だけ「苦」は待っている。手入れは難しいものではない。気持ちよさ、つまり「快」をききわければ良いのだから、誰でも出来ることだ。

     大多数の人達がそうするようになれば、社会全体の在り方も変わってくる。「楽」を基準に考えても、もうどうにもならない。「苦」があっても、「快」の立場から物事を判断し、「快」に向かわなくてはならないと感じる。

  • 攻める守備。

    おはようございます。
    今週は友松が担当させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします。

    8月も終わり、今日から9月ですね。
    相変わらずの暑さが続いていますが、夏の終り特有の、何か寂しい感じがするような、そんな感じがします。日が暮れるのも早くなり、近所のプールからの歓声も聞こえなくなり、高校野球も終わってしまいました。
    高校野球といえば、私の地元の県の代表校が大活躍でした。
    とりたてて、早い玉を投げるピッチャーがいるわけでもなく、凄いスラッガーがいるわけでもないチームでしたが、あれよあれよという間に、準決勝、決勝と進み、初出場ながら、最後は優勝してしまいました。

    見ていて感じたのは、試合の流れが傾きかけてきたら、早々に立て直すことが出来るという事。それを可能にしたのがチームのスローガンである「凡事徹底」という事。当たり前のことを、当たり前にやるのではなく徹底して行う事。それを日々行う事で、一つ一つのプレーが堅実なものとなり、「攻める守備」を可能なものとした。

    印象的だったのは、相手チームがスコアリングポジションにしようと、送りバントをした時、通常はバッターを1塁でアウトにすれば良しとする場面でも、2塁に送球して1塁ランナーを刺し、あわよくばダブルプレーにしてしまう。これが非常に多く、文字通り攻める守備だった。

    考え方によっては、守備はいくら良くとも、守備で点が入るわけではなく、最高でも0点だ。しかし、点の入るのを防ぐ、それをもう一歩進めて点の入る状況をつくらないようにするというのは、点を入れるのと同じくらいか、それ以上の価値がある。

    相手チームからしたら、さぞや、やりづらかったと思う。小さなチャンスをものにし、得点に結びつけるのが攻撃のセオリーであるならば、そのチャンスの芽を早々に摘まれてしまう事ほど、嫌な事はない。調子の波に乗り畳みかけるという、攻撃の流れを遮断されてしまい、尚且つ精神的な落胆も生じさせてしまう。

    一方、果敢に攻める守備により、チャンスの芽を摘んだ方は、意気も高揚し、実力以上の力を発揮できるようになる。実際に、大量得点につながる場面を最小限に抑えた後ほど、攻撃に転じた時は、打順に関係なく会心の一打が出て、同点、逆転となった場面が多く見受けられた。

    攻撃は最大の防御という言葉は、よく耳にするが「攻める守備」というのは、あまり聞いたことがなかった。しかし、何だか未病医学という事や、からだとの向き合い方にも、つうじるものがあると感じた。からだの守備、つまり手入れを徹底し、病の芽を早々に摘んでしまおうという事。操体の真髄もここにある。起死回生のホームランを打つことも出来るが、それだけを良しとせず、起死回生などという状況をつくらぬ事こそ最良とする。

    病の芽とは、不快感を伴うからだの歪みであり、これを早々に正していく事。不快感は、感じられているのだから、「快」つまり「気持ちよさ」がききわけられないことはない。自然法則を意識して、積極的に「快」をききわけていく事。不快と手を組み落胆してしまうと、病は調子の波に乗ってしまう。そうさせない為にも、日々手入れをして、流れを「快」に引き戻すこと。それが未病医学からみた「攻めの守備」だと思う。

    凡時徹底を意識して、未病を治す < 未病を実す。