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  • 「体感して掴んでいく真理」

    現在は新たな同志と共にとても豊かな学びの時間を私自身、心底愉しめている。
    去年から加わった新たな同志からは沢山のことを学ばせて頂いているのだが、それは臨床の技術や知識だけではない。
    今までの自分にはなかった「感性」を各々が持っていて、私だけではなく東京操体フォーラムという組織全体に新たな血を注入し、学びの場をとても豊かな空間にしてくれているように思う。

    こういった豊かな時間の中で私自身の学び方も大きく変わってきた。

    教えて頂いたこと、与えられたテーマに対し鵜呑みにはせず、それに至った理由とその先にあることを考えるようになった。
    その中で「仮説」を立てることで、師から教わった結果だけでなく、その道筋を自分なりに辿り、なぜそうなったのかを自分で体感しながら結論を出すようになった。

    もちろん、それが間違いであることもある。だが、その間違いは「失敗」ではない。真理への糧となるものなのだと捉えるようになった。
    学びとはその繰り返し、積み重ねであり、失敗こそが学びの本当の愉しさなのだと思うようになったのである。

    やはり本当に掴みたいものは理論だけではなく、自分のからだを通して体感しなければ身につかないものだと思う。

    こういったことを少しでも理解してくると師である三浦先生が歩んできた半世紀にも及ぶ操体の道は途方もなく険しい道であったものだと想像出来る。

    私が師に対して本当に凄いと思っているところは、自分を導いてくれる師が現世にいない中で、意思を継承し、現在の操体を体系化されたところにある。それを成せてきたのも師の教えを忠実に守り、学びの本当の愉しさを解かっていたからだと思う。

    そういった師が身近にいることを本当にありがたいことだと感謝しなければならない。
    そして師が現役でいる間は泣き言を言わず、出来るだけ近くで学び、精進していきたいと思う。

    一週間ありがとうございました。来週からは半蔵さんです。お楽しみに。

  • 「無心」

    今日は私の好きなコトバを一つ紹介したい。

    「無心は、いっさい心なきなり」(黄曝『伝心法要』)

    無心は、いっさい心なきものである。
    「無心の心」は、心に何もとどめないことである。心に生じてくる、いっさいの観念が、まったく何もないという状態の心だ。
    「私が」ということも、「あなたが」ということもない。
    何も求めることもない自由な心の状態にしたい。

    「禅のことば 禅のこころ 武田鏡村」(第1章 生きる知恵を学ぶ P28より)

    三浦先生が最近、講習で言われるコトバがある。

    「自分を主語ではなく、からだを主語にしなさい」といわれる。

    操体の臨床は他の手技療法と大きな違いがある。

    それは「感覚を聞き分けること」である。

    「感覚を聞き分ける」ということは患者のちょっとした心身の変化を常に聞き、感じて、それに適うメニューを提供していかなければならない。そのためには自分を主語にしてしまうと相手の感覚の聞き分けを無視することになるので、私は常に上記に記したコトバを念頭に相手のからだと向き合うようにしている。

    やはり臨床において自分が主役になると相手のことよりも「どうやって治してやろう」「こうすればもっと良くなるはず」と自分の手柄を立てたくなってしまうものだ。特に私のような臨床経験がまだ浅い人間にはこうした思考は必ず働き、自分を主役にしてしまう。
    そうならないように臨床の空間には自分や自分事を持ち込まず、無心で相手のからだとだけ向き合えるように努めている。

    ここで一言付け加えておきたいのが、「無心」というのは何も考えないことではない。相手のからだとこころを、そして空間をまるごと一体受け入れられる心をいう。

    こういったことを生かせるのは臨床だけではない。己の生き方にも十分に生かせることである。

    人間が生きることにおいて自分を主語にしてはならない。自分が主語になってしまうと誰かしらに迷惑をかける。別に誰かの為に生きろというわけではない。自分の為で良い。ただ、自分のしていることが間接的でもよいので誰か(何か)の為になることをするのが、自分を主語にしない生き方なのだと思う。

  • 「皮膚が教えてくれること」

    お風呂上りに皮膚が赤くなったり、痒くなったりしたことはないだろうか?

    最近、私も風呂上りに太ももや背中が痒くなる。

    この原因の説は様々だが、私はこの症状が出る時は決まって精神的なストレスを感じる時に出る。水温等の環境的な要因、もしくは肉体的なストレスによるものなのか、または私のように精神的な要因によるものなのかは分からないが、いずれにしてもこれはからだが皮膚を介してなんらかのメッセージを送ってくれているように思えるのだ。

    また、おなかが痛い時、もしくはお酒を飲んで気持ちが悪いとき等はおなかや背中の皮膚をおさえたり、さすったりする。
    決してつまんだり、つねったりはしない。
    それは無意識のうちにからだが皮膚に対して「刺激」ではなく「接触」することで痛みを和らげたり、不快を無くすというのを本能的に知っているからだと思う。

    一般的に皮膚はからだの総面積の15〜16%を占め、その大きさは個人差はあるが、畳一枚分にもなると言われている。これだけの量が一ヶ月に一度生まれ変わるということは皮膚にも私達と同様に命があり、意思を持っているのである。

    その意思は私達が持っている意思とは独立したものであり、からだが持つ健康でありたいという意思に忠実に従っているように感じる。人間がからだを介して何かを感じることにおいて、皮膚は必ず関与している。「刺激」には敏感に反応し、「接触」にはを喜ぶように反応するのである。

    このように皮膚を捉えていくと、皮膚が持つ意思を無視してはならないのだと思う。皮膚は心身の状態を忠実に表してくれるものであり、私達以上にからだのこと、こころのことを知っている。

    これからはもっと皮膚からのメッセージを大切にしていこうと思う。

  • 「痛みに対しての捉え方」

    おもしろいことに、どんなに五体満足で健康な人でも人体のどこかしらに「痛い」ところがある。
    臨床を通していても、なぜ、こんなに健康な人にこれほどの痛みが通るのか不思議で仕方ない時がある。また症状・疾患を抱えている人ほど痛みが鈍感になっていることが多い。それはからだが無意識に痛みを隠そうとするからなのだと思う。

    なぜ、からだは痛みを隠そうとするのか?

    そういえば、私が2年間、飼っているハムスターも人間と同じように病気や怪我を隠す習慣があると聞いた。それは外敵に対し、自分を強くみせるために本能でそうしているらしい。

    きっと人間にもそういった自然の本能が備わっているのだと思う。それは自分の意識レベルでは感じ取れないものであり、無意識にからだが行っている行為なのである。

    そのように痛みを捉えると、人間の意識レベルで感じる痛みはからだからのメッセージであり、本来からだが治さなければならない箇所ではない可能性が高い。例えば、肩が痛い、腰が痛いという症状があったりしても、からだが「痛い!治してくれ!」と訴えているのは肩や腰ではなく、無意識にからだが痛みを隠している箇所なのだと思う。

    操体の臨床では患者の訴える症状・疾感を鵜呑みにはせず、からだ全体を丸ごと一つとして診て治療をする。からだがどこを診てほしいのかを診断し、快適感覚を通してからだが治す手助けをしているのが操体の臨床なのだが、気持ちのよさを味わっていくと患者が訴える痛みは変化し、時間の経過と共に快に変わり、からだが喜んでくれているように感じるのである。

    「痛み」に対し、こういった捉え方をしていくと決して悪いものではないことがわかる。
    それはからだからのシグナルであり、「痛み」という不快があるからこそ、気持ちのよいという快適感覚が聞き分けられるのである。
    人間が生命活動を行っている以上は、からだには少なからず歪みが生じる。それは歪みという形でバランスを保っているのであって決して悪いものではない。そして歪みから生じる痛みも常に変化する感覚であり、気持ちのよさと表裏一体で感覚とからだのバランスを保っている。

    もしかすると「痛み」というのは人間がからだを使わせて頂くうえで、なくてはならないものなのではないだろうか?

    誰でも「痛い」のは嫌なものだと思うが、この痛みこそが、からだの治癒力を引き出す「快」の起源になるものだと私は思っている。

  • 「親指の使い方」

    最近、自分の中で気になっていたことがある。

    それは親指の使い方である。

    人間が生きていくうえで最も使っているからだのパーツの一つに挙げられるのが「親指」なのだが、意外にもからだの使い方のルールの中に、この親指の生かし方・使い方がない。

    その理由の一つに「手は小指を利かせる」というルールがあるからだ。小指を利かせるということは肘が正中に向き、肩は下がるということになり、その姿勢のまま親指を使うということになる。
    つまり、親指を使うということにおいては肩の力を抜いて、脇を閉めることが正しい親指の使い方ということになる。

    そして更に追求していくと「骨盤と肩甲骨の使い方」が大切だということがわかった。

    指圧やマッサージをされている方達のからだを観察してみると、腕と肩の筋肉が私達操体の臨床家と比較し発達している。同じ腕と指を商売道具としているのに筋肉のつき方が違うのかを考えると骨盤と肩甲骨の使い方に大きな違いがある。
    私達、操体の臨床家は腰が反らないで前湾した状態が基本的な姿勢になる。そして肩甲骨の筋肉はかなり柔らかい。
    その理由は親指を点で使うか、線で使うかの違いにある。つまり親指だけを使うと、腰は反り、肩の力が入ることで腰と上腕、親指の母指球に負荷がかかる。それを中指を介して小指側側を利かせ、肩甲骨を使いながら親指を使うと、その負荷は明らかになくなる。

    息の長い臨床家、スポーツ選手で故障の少ない人、また肩こり、腰痛に悩まされず健康に過ごしている人は共通して肩に力が入らず、親指と肩甲骨の使い方が上手いのだと思う。

  • 「臨床家の宝」

    私が現在、最も大切にしているのが「手」である。

    臨床家である以上、この手は命に等しいといっても過言ではない。

    からだのどの部位よりも気を使い、毎日時間があれば手入れをするようにしている。

    私の手は自分でいうのもおかしいかもしれないが、指先は女性の手のように長く、掌はもっちりしていて、臨床家に向いた手をしていると思う。

    この手は親から頂いた何にも変えがたい財産である。何をするにしても特に秀でた才能を持っていなかった私が臨床家としての道を歩んでいけているのも父、母が与えてくれた財産のおかげだと感謝している。

    そういえば、昔の会社の上司がこんなことを言っていた。

    「掌はその人の人生そのものなのだよ。
    僕は自分の掌を見て笑っていられる人間になりたい」

    そんなお酒の席で十年何年前に聞いた一言が今でも私の胸に残っている。

    操体の学びを得て、ようやく上司のこの言葉の意味が少しずつ理解できるようになってきた。臨床で患者を診ていても、また自分が患者としてうけていても掌や指先からその人の歩んできた人生、心の在りかた、思っていることは自分のからだを通して伝わってくる。

    きっと腕の良い臨床家は触れらただけで、その腕前がわかるのもこういったことが関係しているに違いない。

    こういったことが解かってくると臨床は技術以上に、その人の生き方や思想がとても大切になるのだと理解できる。それを映しているのが掌になるのである。

  • 原点回帰

    こんにちは。一週間よろしくお願いいたします。

    気がつけばソチオリンピックまで、あとわずかになった。

    スポーツは基本的にサッカーや野球等の球技しか観ないのだが、最近になりフィギアスケートを観ることをささいな愉しみにしている。なかでも個人的に注目しているのが高橋大輔選手である。

    今回のクールのブログで寺本氏も書かれていたが、去年の暮れに行われたオリンピック選考会の高橋選手の演技を観て、私も寺本氏のように彼の演技に魅了された一人であった。

    今までの私はスポーツ観戦に求めていたものは「勝つこと」であったが、高橋選手には勝敗を超越した自分がやっていることへの情熱を教わった気がする。あの情熱はスポーツ選手に限らず、皆が持たねばならないものだと思う。あの時、高橋選手が魅せた演技、涙、そして自分がやっていることへの誇りは私がずっと忘れていた何かを思い起こさせてくれた。

    「自分は何のために操体を学んでいるのか?」

    演技を観た後にそんなことをフト考えていた。臨床で生計を立てていきたい、そしていつかは師を超え、自分の学んだことを世界に広めていきたい。それが私の目標であり、使命なのだと思い学びを深めていっているのだが、もっと大切で大事なことをあの日まで忘れていた気がする。
    それは自分の身につけたもので「人の幸せの役にたちたい」というのが私の操体の学びの原点にあった。その願いもいつしか見失い、自分の為だけの学びになってしまっていたように思う。
    あの日の高橋選手の演技からは観ている人に感動を与えてくれた。彼が何のために演技をしているかは私にはわからないが、少なくともお金や栄誉等の私利私欲のためではない。
    きっとスケートへの愛、自分を応援してくれている全ての人達への感謝の気持ちを込めた演技であったように思う。少なからず私は彼の演技を観たことで大切な気持ちを思い出し、幸せな気持ちになれた。

    そんな高橋選手をソチオリンピックでも感謝と尊敬の気持ちを持って応援したいと思う。

  •  最終回。操体法は場所を選ばず。

    おはようございます。

    快晴の冬空です。

    一月も、ゆっくりと日々の時が流れ、いよいよ二月に入りました。
    出版の進み具合の順調そのもので、一つ一つ丹念に、めんこく仕上げています。
    出版社編集部との打ち合わせにより、三部作のシリーズとして出版の予定です。

    週刊プレイボーイ編集長、島地勝彦先生の臨床はターミナルビルで、週一回の間隔です。
    先日で四回目の通院です。
    日を追うごとに回復し、日常生活には殆ど差し支えないほどです。
    今後は健康維持増進の為、週一度通院される予定です。

    素晴らしい回復力で、診ごたえのある見事な臨床でした。
    また、その後の経過などもメールマガジンで紹介して下さるとのことです。

    先日、伊勢丹デパートメンズ館8階にある、サロン・ド・シマジに顔を出してきました。
    丁度居合わせたお客様の中に、若手のペインクリニックの院長先生がいまして、島地先生と同じように、頸椎症で、背中に激痛をかかえているとか。
    スパイシー・ハイボールを飲みながら、院長先生の右側の背中に点の渦状波を15分ほど試みたんです。

    そうしますとネ、先生の顔から大粒の汗が噴き出して来たんです。ハンカチで汗をふくほど発汗しているのです。
    これも、からだに変化があったのだと受け止めますが、何せカウンターのサロンなので、立ちっぱなしで服の上からの接触、それでも反応があったのですから、やってみなきゃわからんことですね。

    躊躇してたんでは、はじまらない。

    操体法は場所を選ばず、どんな条件下であってもOKなのですから、ありがたいことです。
    院長先生曰く、「ペインクリニックの医者でありながら、自分の痛みが治せない。何をやってもダメ。なさけないよ」と、こぼしていました。



    一週間ありがとうございました。明日からは三浦寛幸が担当します。

  •  使命は元気、正義です。

    去年11月に、医道の日本社と正式に出版が決まり、正月を返上で執筆に励む毎日である。

    どうしてもやり残していることに気づき、数年前から原稿を集めていた。
    今日はからだの動きに対応する、操者側の介入「介助、補助のかけ方、与え方」がテーマとなっている。
    操者側に立って、見落としていたところの検証である。

    特に、からだの動きに関与する操者の介助、補助は、特に見落とせないテーマの一つである。
    私が48年前に習ったのは「患者の動きに抵抗を与える」であった。
    これは二者択一の選択、つまりどちらが「楽か辛いか」の診断と操法の問いかけの時代である。
    現在は、快適感覚の快に問いかけ、それに従った診断と操法に移行しつつある。
    その移行にそって、新たな問いかけが生まれるのも当然である。
    患者の動きにかわり「からだの動き」に変化し、抵抗が介助、補助に言語統制され「からだの動きをサポートする」という意味にかわった。

    からだの動きの極限安定率を考慮すれば、基本8つの動きに適(かな)う、介助法、補助法が必要になる。

    これは、その動きに適った、全身形態の合目的連動性にも関与してくる。そして、動診の要(かなめ)である、快感覚のききわけにもかかわってくるのだ。

    その動きに適うことが、この操者への介入なのだ。
    それを満たすのが、介助補助ということになる。
    この介助、補助のかけ方、与え方は、日々の臨生(りんしょう)の中で習得したことであるが、40数年前に手ほどきを受けたことはなかった。

    臨生をとおしてのお土産だった。
    私はその介助、補助のかけ方、与え方を一つ一つデッサンして、残しておいた。
    今にして役立っている。

    神が創造した、被造物である。身心(みこころ)に触れる学問は愉しいことだ。

    私は感謝している。
    「神をデザインする」気持で、からだの動きをデッサンし、デザインする。とても愉しいと思う。
    今、数百枚あるデッサンに手をくわえて、修正中である。

    ついに目に疲労がたまり、充血してしまった。
    右手の中指のペンダコも、何度もそぎ落とした。
    ペンダコがもり上がってくると、神経をハリでつついたような激痛が走るのだ。

    この出版も、操体にかかわる私の使命です。
    使命は元気、正義です。

  • 五日目。編集と変集。松岡正剛氏

    おはようございます。

    先日1月24日、ホテルオークラの仕事を終えて、松岡正剛氏の古稀のお祝いに顔を出した。

    私は生まれてこの方、文化、文学とは縁のない風来坊である。
    本に親しみを覚え、本の豊かさを知ったのは、ごくごく最近のこと。
    シェークスピア、枕草子源氏物語といってもまともに完読したことはない。

    松岡先生の講演を聴きに行っても、ほとんど頭に入らない。
    入らないんだけど、私のこの右脳が「わからんでも聴け!!」と話しかけている。
    わからないことだらけだけど、かなり真剣に聴いている自分がいる。
    なにか冬眠し続けてきた神経回路にスイッチが入り、線香花火のように、チリチリ、パチパチとはじけているんだ。

    松岡先生の「編集工学」という名称、そのヒビキがとってもいいことに気づく。
    とくに「編集」がいい。
    私はもじって、へんか、の変に変えて変集と心得た。
    変集とは、自在するものの、普遍なる現象の変化である。
    それは、あふれでる生命(いのち)の起源である。
    ヒトはそれに親神を描き、心に唄ってきた。

    「人間とは、神の意志の編集である」
    ヒトはそれを書籍に残す。書籍とは、その再生フィードバックである。

    松岡正剛は、まさに書籍をとおして、人間は神の意志の編集者であることを示している。
    彼は神の言葉の証(あかし)を多くの人、書籍を介し紹介しているのだと思っている。

    そしてさらに興味をそそるのは、私が学ぶ身心(みこころ)の生命工学につながっていることだ。
    言葉を変えれば、わが師、橋本敬三医師が生涯原究しづつけてきた、自然法則の応用貢献を成そうとしていた姿に、松岡正剛がだぶってくるのだ。

    だから、私は松岡氏の姿に感動してしまうのだ。
    私の師も、私も、そして松岡氏も、きっと「神の声」を聞いている人達なのだ。

    自身を越えた世界をもっている、それを使命として受け取り、愉しまれている。
    そして、自分と、この使命にはまったく境界線がなく、使命のままに自分を使って愉しんでいる人達なのだ。