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  • おなかのきもち・・・6

    おはようございます。

     昨日、自力自療ということを書いていて、人生は他力なのではないだろうか、という事が、ふと思い浮かびました。これは、他力本願とか、行き当たりばったりとか、そういうことではない。

     生かされて生きている。自分を包み込み、背中を後押ししてくれているものが常に在る。そういうものに支えられて生きている。その事を基にして、その場その時に、自分に向けられた事象に対して、何かしらの意義を感じ、はじめから否定しないという事。

     自分中心で物事を捉えようとすると、どうしても一時の楽や損得につながりやすい。脳には、一時的満足感を得ようとする特性があると主張する人がいるが、その為だろうか。

     しかし、自分を生かしてくれているからだや、からだと共にあるイノチ、それを取り巻く環境には、長期的ビジョンが組み込まれていると思う。だから、自分に向けられた事象は、生かしてくれているものが、ある程度選別して噛み砕き、自分が受容できるように働きかけてくれているという捉え方も、出来るのではないだろうか。

     それを目に見える形で証明しろと言われても証明は出来ないが、何か最近そのようなものを感じる。人と人との御縁なども、そうなのではないだろうか。

     だから、生かしてくれているものの後押しを感じられるならば、一度や二度上手くいかなかったり、失敗と思えることがあったとしても、それは快への示方性でもあり、成長の予感でもあり、続けるべきだと思う。人生はトーナメントではないのだから。山あり谷あり。いつか、生かしてくれているもの達、生かしてくれる人達と歓喜に沸き、しみじみと悦びを分かち合える日が来ると思う。

     人間は、母親の体内にいる10ヶ月と生まれてすぐの数ヶ月で、37億年前に誕生した生物の進化をたどるような、個体発生と系統発生を繰り返すといわれる。

     そして、ハイハイが出来るようになってくると、動きまわりながら何でも口に入れるようになる。生まれたばかりの赤ん坊というのは、原始的な動物と同じような状態なのだという。そして原始的な動物というのは大地で泥まみれの生活をして、泥を舐めている。赤ん坊も同じような行動をとる。そうすることによって、赤ん坊の腸は一時的に大腸菌だらけになるという。しかし、これは赤ん坊の腸の正常な発育や、腸内細菌を増やすには欠かせないものであり、動物は皆やっていることなのだという。

     こういう行為は、赤ん坊が好奇心旺盛だから行っていると考えてしまいがちだが、それだけではないような気がする。赤ん坊を生かしてくれているもの達が、そういう行為をさせているのではないだろうか。それも長期的ビジョンでもって、成長した時、ちょっとやそっとじゃ感染症にかからないようにするとか、アレルギーの予防とか、いつまでも共存共栄が出来るように働きかけているのではないだろうか。
     
     自分に向けられた事象には、何がしかの意味や意義があると思う。否定的に捉えない事。自分に向けられた事象を受け入れていくなかで、新たな可能性は拓かれていくのだと思う。

  • おなかのきもち・・・5。

    おはようございます。

    今朝は快便でしたか。
    私は快便でした。

     快便は気持ち良いですよね。ストーン、ストーン、コンモリ。そしてニンマリ。快便して怒り出す人はいないと思う。「ほっ」としてニンマリ。そして感謝の念も湧いてくる。
     気持ちがいいから、感謝の念が湧いてくる。誰に対してとかそういう理屈ではなく、とにかく安心して感謝したくなる。それが気持ちがいいということだと思う。
     「ほっ」と安心するには、他力を認め、受け入れること。自分ひとりで生きているわけではない。自分の存在を存在たらしめている存在や自在があるということ。そういう他力があって、生かされて生きている。自分だけではどうにもならない。

     道元禅師は「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」と言ったという。操体の創始者橋本敬三先生は「生命体が自然環境に適応するということ、これは生命の至上命令であるから、この絶対原理は自然の救いになっているのである」と著書の中で書いている。

     他力の中に自分自身が在る。いや、他力の後押しによって自分自身が在る。だから、たかがウンコを出したぐらいで、と思われるかもしれないが、気持ちよさを味わえ、とにかく感謝したくなるのだと思う。これも腸内細菌の働きは大きいと思うが、それだけに拘って相対的に感謝しているわけではない。腸内細菌のバランスを良くする腸内環境、からだの働き。からだと環境との調和。生かしてくれている全てに感謝しているのだと感じる。

     しかし、他力にばかり頼っていたのでは生きていけない。生かされて生きる。一方が「有難う御座います」他方が「どういたしまして」の関係ではなく、尽十方に尽十方が「有難う御座います」の関係。間を取り持つのが自然法則。自然法則にあわせて生きられれば、間に合って生きられる、ということにつうじる。間に合っていれば良い。間に合っていれば良いという心の豊かさが大切。

     操体は、自力自療ということがよく言われる。しかし、それは物事の一面、片面だけでしかない。物事の本質というのは一にして二、二にして一。片面だけ理解しても、本質を捉えているとはいえない。
     自力自療は、他力によって生かされているという事に、気づくことによってより効力が発揮されてくる。動診、操法も「オレが、オレ我」と自分中心で行っても、あまり意味がない。それでは、ただの体操だ。
     自力自療を行うにあたって一番大切なのは「からだの感覚をききわける」ということなのだ。そして「ききわけた快に従う」。自分で治すから自力自療なのではない。自分を生かしてくれている、からだ、からだと共に在る細菌など、それと環境、それらが調和を密にしながら、自然良能作用を発揮するから、不快症状の解消、改善に向かうのだ。
     自力自療の対象は自分ではなく、自身と自身を取り巻くすべてなのだ。自分が治しているわけではない。自分は自然法則を意識して動き、その感覚をききわけ、ききわけた快適感覚に従い、お任せする。我を張って欲張らない。欲張ったり、頑張って動くと感覚は消滅してしまう。間に合っていれば良い、という心の豊かさが大切。

  • おなかのきもち・・・4

    おはようございます。

    今日は一段と暑くなりそうですね。それだけでもストレッサーになり得ますが、ストレスとならぬよう、然るべき対応をしながら、御自愛していただければと思います。
     

     生体は有害なストレスを受けた時、視床下部−下垂体−副腎軸を介して腸内細菌に影響を与えているという事が、明らかにされているという。その影響を与える仕組みとして、従来は免疫機能抑制や腸管運動の変動を介した間接的な影響が想定されていたが、最近ではストレス時に消化管局所で放出されるカテコラミンによる直接的な影響が注目されているという。そして、カテコラミンにさらされた大腸菌など悪玉菌と呼ばれる細菌は、増殖が進み、腸管各所での病原性が高まるという。
     それから、ストレス時の反応として、緊急反応するものとゆっくり反応するものとがあり、緊急の時はアドレナリンが、ゆっくりの時はコルチゾールが分泌されるが、どちらも腸内細菌に変化を及ぼし、その腸内細菌がまた脳内へ神経伝達物質を送るという循環ができているという。

     このようなことからも、ストレスによる悪循環をくい止め、早めにストレスの解消をしなければならないということが、盛んに言われている。そして、普段から腸内環境を整え、善玉菌を増やし、幸福感ややる気を起こさせる神経伝達物質である、セロトニンドーパミンを増やそう、ということも最近よく耳にする。

     そして、大概その取り組みは食生活に向けられ、腸内環境を整え、善玉菌を増やすとされる食物がもてはやされる。ヨーグルトが良いとされれば、ヨーグルトを毎朝食べる人も出てくる。それはそれで良い事だと思う。しかし、長続きせずに何日かでやめてしまう人も多いと思う。

    中には食べ過ぎて腹をこわす人もいるだろう。ヨーグルトの乳酸菌やビヒィズス菌は胃酸に弱く、その90パーセントが腸に届く前に死滅してしまうことから、沢山食べなくては、と思ってしまっている人もいると思う。
     しかし、ビヒィズス菌などが胃で死んだとしても、それらが棲みついていた溶液が腸に届くことで、腸内環境に良い影響を与えるという説もある。やはり、欲ではなく、からだにききわけながらとか、おなかにききかけてという事が大切であり、よく噛んで味わって食べることも肝要。

     腸内細菌は生き物だし、腸内細菌が合成するセロトニンなどの神経伝達物質も生き物に準じたものだ。物質を満たすために物質を補うという想いでは、調和和親して発酵というようにはならないと思う。イノチに対する想いも大切。セロトニンドーパミンは元気の素とも言われるが、その元気の素の素を、からだに応じた分だけ欲張らずに、いただくという想いも大切だと思う。

     想いもストレスによる悪循環をくい止め、早めにストレスの解消をするためには重要だと思う。腸は人間の感情や気持ちなどを決定する物質のほとんどをつくっているといわれる。ストレスを受けた時もそうだが、感受性にも大きく関わっている。そして、それを脳に伝えている。

     例えば、道端に咲くタンポポを見て綺麗だなと思った程度でも、腸内環境が良い状態でセロトニンなどが多ければ、脳が十分に幸福を感じられるようになるという。この時に言葉にする、その感情を言葉に出す、ということをすればもっと良いのではないかと感じる。決して「なんだ雑草じゃないか」と否定してしまわないこと。その時感じた感覚を大事にすることが肝要と思う。

     想の法則に「描写の理念」というのがある。これは「この現象の世界は、言葉の示方性を受け、言葉によって物事が具現化する世界である」ということである。だから「美しきこと」「清く好ましいこと」に心を向け、意識的に言葉に表現することが大事であり、その反対のことは極力心に留めず、言葉に出さないことが肝要であるということ。

     セロトニンドーパミンの力も借りて「綺麗だ」「美しい」と感じ、幸福感を味わったのなら、言葉でお返ししてあげるという気持ちも大切だと思う。ドーパミンが幸せを記憶する物質であると主張する人もいるというが、そうであるならば尚のこと、「美しい」と感じたことは言葉にしていくということが大切なのではないだろうか。

     そうすることで、からだのなかでは、脳と腸、腸内細菌のあいだに多幸感にあふれた循環ができ、より良い腸内環境が具現化してくるのではないだろうか。そうなれば、少々のストレッサーにはストレスとして反応しない、強くて穏やかな、個性真理体としての自分が、具現化してくるのではないだろうか。

  • おなかのきもち・・・3

    おはようございます。

    今日は土用の丑の日ですね。
    ずっと暑い日が続いて夏バテ気味だから、うなぎを食べて営養をつけるぞ、という人も多いのではないでしょうか。

    「石麻呂に 我れ物申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻捕り食せ」
                         大伴家持

    万葉集の詩にもあるように、昔から鰻は栄養価の高い食物だ。
    豊富な蛋白質に加え、数々のビタミン類、さらにカルシウム、鉄分と身体に必要な栄養素が、これでもかというぐらい含まれている食べ物だという。

    そして、美味い。美味くて高額だ。美味くて高額ゆえに普段より味わって食べる。
    お口の中で、よく噛んで唾液とよく混ぜあわせながら、自分独自のハーモニーを奏でる。

    ハーモニーの化学反応。唾液は人それぞれだし、味覚も人それぞれ。
    よく噛んで、自分にしかわからない感覚をききわける。だって操体なんだもん。

    そして、またよく噛んで食べる。おなかの中も悦んでくれているのか。発酵するのか腐敗するのか。
    ビタミンは他の生命から分けてもらうか、腸内細菌につくってもらうしかない。自分ではつくれないからビタミン。調和なくして循環なし。

    おなかの中もからだも悦んでくれているようだ。からだとイノチとともに悦びを分かち合う。
    悦びを分かち合いながら、またよく噛んで食べる。すべてをよく味わいながら。
    そして、またよく噛んで食べる。

    あぁ何て幸福なんだろう。あぁ有り難い。

    物質的な栄養価を超えたイノチの営養。

  • おなかのきもち。・・・2

    おはようございます。

     昨日は、おなかの中、おなかの環境にも想いを馳せ、おなかの快もききわけるということを書きました。
     

     私たちは、目に見えるものから目に見えないものまで、様々なものによって生かされている。その中の一つに細菌がある。細菌というと、あまり良い印象は受けないと思うが、自分たちが生きていけるのも細菌が居るお陰だし、また死、つまり肉体を脱ぎ去り帰一できるのも細菌が居てくれるお陰である。

     人間のからだには、常在細菌と呼ばれる細菌が大量に棲息している。勿論、外部環境には人間の存在を脅かすものも居る為、皮膚、鼻腔、口腔、消化管などで、存在を保てるよう働いてくれている。なかでも腸内細菌は、免疫力の70パーセントを担っているという.

     考えてみれば、私たちは雑食性であり、色々なものを食べている。よく食事会の時に、珍しいものが出てくると「コレを最初に食べた人って凄いな〜」という話になるが、それも腸内細菌が居てくれるお陰でもある。普段、おいしいと言って口にしている食べ物の中にも、直接血液に混入したりすると、ショック症状を起こして死に至るものもあるという。

    入れ場所を間違えば危険なものも、膨大な数の腸内細菌が居てくれるから、受け入れることができる。腸内細菌が居てくれるお陰で、消化器官は食物を栄養素までしてしまえる。そして消化管は、それと共に食物中の抗原や常在細菌の産物と接触し続けて、免疫系を巧妙に調節する役割を果たすことが出来ているのだと思う。

     目に見えるものは、目に見えないものに接触している。そして、目に見えないものに生かされている。食物など外のものを取り入れる消化器官と腸内細菌、皮膚、鼻腔、口腔など外部との接点と常在細菌。そこには常に自分の存在を存在たらしめているものが居る。

     なぜそういうものが自分のからだのまわりに居てくれるのか。これも目には見えないが、太極の意志である愛と調和が、どんなものにも貫通し自在して、イノチとしてのバランス感覚を有しているからだと思う。

     その調和のかたちは様々だと思う。腸内細菌だけでも百種類以上、百兆個以上もの細菌が居るというのだから。
    人間の思考からみて、善玉も居れば悪玉も居る。しかし、悪玉も居なければ、免疫機能はより良く向上していかない。バランスが大切。

     そのバランスの道しるべをどこに求めるか。よくよく吟味していけば、自然法則ということになる。自然法則も目には見えないが、確かに自在する。自然法則に合わせるようにする。その中で快がききわけられる。すべてのイノチは快を求め、それに従おうとするのだから。そういうイノチの快。

     消化器官というのは最も原始的でもある。脳がない生物は居ても、消化器官がない生物はいないはずだ。原始的であるが故に、その調和の仕方は頭であれこれ考えるより、イノチの快に委ねる方が効率的なのだと思う。おなかの快をとおしてのイノチの快。それが免疫系もより活性化して、環境に適応してより良く生かされて生きる、ということにつながるのではないだろうか。

  • おなかのきもち。

    おはようございます。

    今週は友松が担当させていただきます。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

    梅雨も空け、夏真っ盛り、暑くなってきましたね。
    ついつい、冷たいものを飲んだり食べたりしたくなります。
    夏ですものね。スイカ、かき氷、冷たいビール。美味いですよね。
    一時の清涼感、爽快感は格別ですよね。
    しかし、飲みすぎ食べすぎをしてしまうと、気持ちが悪くなる。

     内臓をつうじてのからだの感覚をききわけ、日常生活の指針としていく。誰でもやっている当たり前の事だが、その当たり前の事こそ重要。そうでなければ生命の存在は保てないと思う。
    しかし、その感覚のききわけは不快が主となっていることが多い。

     例えば「これ以上かき氷を食べたら、おなかをこわしそうだ」「これ以上ビールを飲んだら、二日酔いで気持ち悪くなりそうだ」など、ちょっとしたことだが、不快なサインを感じることから予防につなげている。
     もちろん、これらは大切なことである。おなかの気持ち悪さは、からだの気持ち悪さであり、もちろん感情に作用し、まわりの環境にも影響を与える。まわりに迷惑をかけない為にも感情を押し殺し、無理して頑張る。これは、ボディの歪みにもつうじ、心とからだのアンバランスにもつうじる。だから、不快感をつうじての予防は大切だ。

     しかし、不快から学ぶだけでは、予防の枠の中に留まってしまう。予防の枠を超え、より良く健康増進につなげるには、積極的な快のききわけということが求められる。ボディの快のききわけだけでなく、おなかの快のききわけも積極的に行うという事。

     そのやり方は、臨床の場でおなかの快もききわけてもらうことは勿論、自分自身で行える事を含めれば、無数にあると思う。大切なのは、「息」「食」「動」「想」の自然法則に自分の生き方を合わせていくことと、「おなか」へのいたわり。

     おなかの中というのは、外部との接触の場でもある。食物は外部から取り入れるのだから、そのおなかの中の環境に配慮し、ストレスをなるべく与えないように心がける。
     例えば、食べる時には良く噛んで唾液と混ぜ合わせながら食べるのが良い。そうすれば、からだに良いものかどうかの選別や量の調節が出来る。しかし、良く噛むという事だけを意識していても、長続きしないし、からだに良いのかどうかの選別や量の調節にはつながらない。

     自然法則に合わせた作法が大切。その作法には「息」「食」「動」「想」すべての自然法則が絡む。姿勢を正すにしても、内蔵を定位に安んじるように正しく姿勢を正すには、普段から「動」や「息」の法則を意識して行動することが大切だし、その為には「想」も重要。

    そうした普段の積み重ねが、よく噛んで食べるということにも反映され、おなかが悦ぶ、おなかの快のききわけにつうじると思う。快をききわけるまでのプロセスが大事という事でもある。また、食欲を満たした時の頭の満足感と、おなかが悦ぶ、おなかの快のききわけとその識別。これも重要なことだ。

     ここまで、食べる時のことに関しての、おなかの快について書いてきたが、おなかの快というのは、食べる時だけにききわけられるのではない。空腹を感じた時にもききわけられるし、排便時にききわけられる快もある。
      先に挙げた臨床の場での快もあれば、ゆったりとした深い呼吸の中でききわけられる、おなかの快もある。また、人としての正しい想念の中でききわけられる時もある。自分の生き方を「息」「食」「動」「想」の自然法則に合わせていく中で、積極的にききわけるべきだと思う。

     その快こそが、からだのバランス制御に働くのは勿論、より良く生かされて生きる、ということにつながるのだから。

  • イノチ×操体×半歩

    イノチ。
    そのことに意識を向けると、モヤモヤしていたものがスッとする。
    「迷い」も、「躊躇」も
    それを握りしめていた手も、自然と緩んでしまう
    フシギなスイッチ。

    イノチの本質はどこにあるのかな
    「途方もないことだよ」と思っていたことは
    「とても身近なことなんだ」と感じられるようになる。

    その「身近で大切なこと」をこそ、学ぶことって、愉しい。
    操体はからだを通して、魅せてくれる。

    「身近なこと」
    そのことの裏側には、「本質」が潜んでいる。
    「本当に触れたかったモノ」に触れるような学びは
    時間を越えた「彼方」からの追い風を受けて
    イマまさに「加速」してきています。
    「人類」みんなで学んでいます。

    ふと、「半歩」という言葉が降ってきました。
    師匠がいつも言う
    「一歩でも半歩でも前に出ること」
    「一歩」はね、躊躇してしまうこともあるかもしれない。

    でも「半歩」なら

    「半歩」は周りから見れば、「気付かない」くらいの
    ほのかな動き
    でも、それで十分。
    自分自身の「意識感覚」は、半歩でも大きな変化を味わっているから。

    「ア、イマ、内動シテイル、、、」

    この感覚はドコからやってくるのカナ

    その「半歩」の
    「内動」の「源流」をたどる旅
    なんにももたずに
    ほのかで、かすかな
    イノチの声をききにいこう
    イマ、自分自身の感覚で。

    最近大切に感じている「イノチ」というヒビキをテーマにブログを担当させていただきました。
    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    明日からは友松実行委員のヒビキが始まります。
    よろしくお願いします。

  • イノチ×操体×音楽

    イノチに響く音楽は、たしかに在る。
    そんなことを昨日、江戸川橋のホールで身をもって経験してきた。

    アーティストは南シベリアのトゥバ共和国からやって来た4人組。
    「Huun-Huur-Tu(フーンフールトゥ)」というグループだ。

    ORPHAN'S LAMENT

    ORPHAN’S LAMENT

    実はこのグループは一昨年の2012年にも来日公演をしている。
    「知る人ぞ、知る」世界をまたにかける「スーパーグループ」である彼らが、日本にやってくる。
    その年の10数年ぶりの来日は、「奇跡の来日」とトゥバ音楽を愛する人たちに囁かれていた。

    それが2年後に、再び生で見れるとは!
    奇跡は2度起こった。

    彼らが演奏するのは、トゥバ共和国の伝統的歌唱法「ホーメイ」と
    数種の伝統楽器の織りなす極上のアンサンブルだ。
    「トゥバ音楽のアンサンブルグループでは世界一」
    このブログでもお馴染みであり
    実は昨日の極上の公演をコーディネートしてくださった
    ヒカシュー」の巻上公一氏も、そんな風に彼らを説明していた。
    たしかに文句なしだ、と感じた。

    ヒカシュー・スーパー2

    ヒカシュー・スーパー2

    トゥバの「音」の世界は、そのまま「トゥバの自然」に根付いた音の世界だと言える。
    昨日に引き続き「言葉」の持つフシギな、見えないつながり
    「音(ネ)」が「根(ネ)」付いているということは
    こういうことを言うのか、というのをしみじみ感じてしまう。

    木のぬくもり溢れる会場に響き渡る彼らの演奏。
    それはスピーカーから、音の「刺激」を受け取るという感じよりも
    音の世界に「包まれている」という感じに近い。

    地平から吹き抜けていく風
    荘厳な山の気配
    そこに息づく生き物の音
    遠い原始の彼方から
    響き継がれてきた音

    気付くと目を閉じて、その世界を味わっている自分がいる。
    すると、どうであろうか
    自然に根付いた音の世界は、そのまま自然に包まれているような感覚に誘ってくれる。

    その時に気付いた
    その包まれている中で
    からだが反応していること
    イノチが悦んでいるのを感じたこと
    ただ聴いているのではなく
    受け取っている自分自身にも「何かが起こっている」という実感であった。

    これは「刺激」にばかり傾いている、ただただ一方的に受け取るだけの音楽では
    なかなか味わうことのできない現象だと思う。
    そしてこれは何も音楽表現のことに限らず
    同じようなことは、からだを診るという臨床の世界にも重なってくるのではないだろうか。

    操体の臨床に関わっている方には
    是非一度この体験をからだを通して味わってみて欲しい。

    つい昨日、2度目の奇跡は起こってしまったが
    「2度あることは、3度ある」という言葉を信じて
    彼らがまた日本に
    「極上のヒビキ」を届けに訪れてくれることを、切に願う。

    最新のトゥバ共和国ホーメイ」情報を知りたい方は
    以下の巻上公一さんHPをオススメします。
    http://www.makigami.com/

  • イノチ×操体×言葉

    マノアタリ 目の当たり
    マンナカ  真ん中
    マノマエ  眼の前
    マニアウ  間に合う

    「マ」のヒビキひとつ
    ウツワに載せて味わってみても

    「目」「真」「眼」そして「間」

    何気なく使っている言葉の中に
    「見えない」つながりが見えてくるようだ

    「見えない」つながり

    そういったものが、在るならば
    見えるものを説明するのではなく
    見えないものを表現するために
    「言葉」はイノチを得てきたのではないか
    と感じられてくる

    ふと、思い出す。
    橋本先生が「神代文字」に興味を持ち
    研究されていたこと
    また、橋本先生と同じく「医師」であり
    経絡研究を通じて、宇宙機構の本態を原究され続けた
    尊敬する藤田六朗先生が
    「俳句」を詠まれていたこと
    このことが、なんだかとても納得できる。

    操体では
    「間」は大切な意識のオキドコロ
    その「間」に、『目線』という「マ」も触れている
    「間」と「目」
    同じヒビキをもつもの同士、決して無関係ではない、ようだ。

    無意識に、何気なく使っている言葉、その中に
    古代から紡がれてきたヒビキの「痕跡」がある。
    橋本先生が残してくださった「同時相関相補連動性」という道しるべ
    そのことを研究し、「見えないつながり」に触れる手がかりは
    身近な言葉の、ヒビキの中にもコロがっている。

    ヒビキを通して、「痕跡」にイノチを吹き込む

  • イノチ×操体×プロセス

    先日、テレビで芸能人が数日間の「サバイバル生活」を体験する番組を見た。
    砂漠、極寒、無人島、ジャングル。
    各々がそれぞれ全くことなる環境で、使用を許可された道具を用いて、工夫をこらして生活をする。
    数時間に及ぶ内容だったが、その様子をついつい最後の方まで見てしまった。

    中でも、おかれた環境の中で、「食糧」を自分自身で調達し、口にする。
    その様子は興味深かった。
    なんだか、とっても「美味しそう」に見える。改めて、「なぜなのか」と感じた。

    口の中に入ったものが、味覚として、栄養として
    からだの中に染み渡っていく。
    不思議なもので、その味わっている「感覚」を
    画面を通して、ともに味わっているような感じさえした。

    しかし、その時、口にしていたものは
    「日常生活」であれば、決して口にしない類いのもの。
    捨ててしまうようなもの。
    ジャングルの川で、罠をしかけて捕まえた「小さな小さな魚」や
    灼熱の砂漠の中で、植物の蒸散から採取した「濁った水」

    それは物理的な量としては
    腹の足しになるはずのない、ほんのちっぽけなもの。

    しかし、そこから受け取っているモノは
    目に見えているその「量的」な印象を越えて
    「ウンメェ〜!!!」
    という悦びに現れていた。

    まったくもって「当たり前」なことだけれども
    そこにはやはり「プロセス」ということが
    密接に関わっているのだと感じる。

    『プロセス』

    同じように日常生活の「食」に視点をおいてみれば
    このプロセスの質は全く異なっていて
    腹が減ったら、オカネを持っていき
    食べたいものと「交換」することができる。
    都心にいれば、時間に関わらず
    制限なく何かを口にすることが簡単にできる。

    自分自身で担っている、その自己責任の割合は
    「オカネ」を手にするまでのプロセスや
    逆に「欲」をコントロールすることに、代替されている。
    ということは、日常生活のなかで
    「食」そのものに関わるプロセスは
    極々一部となっているのかもしれない。

    サバイバル環境では
    「食」のプロセスを
    操体で言う「息食動想・環」
    その「同時相関相補連動性」のなかで
    自己責任をもって、全うしていかざるを得ない。
    それはかかるべき時間をかけながら生きる
    「イノチのプロセス」に共振していくことなのではないかと
    感じている。

    操体」を通して、イノチのプロセスを学ぶ。
    そこに、都会で生きる自分自身にとっても
    重要なヒントが在ると感じている。