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  • 2014秋季フォーラム前の雑談 その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願いいたします。

    今度の土日(11月22、23日)は、

    いよいよ2014秋季東京操体フォーラムが開催されます。

    あれ?春にもこんな出だしを書いた覚えがありますよ。

    今年は春秋とフォーラム前にちょうどブログが回ってきてるようですナ。

    2014秋季のメインテーマは「操体進化論」ということですが、

    プログラムにはカタカムナ九星気学に経絡と ・・・ 何だか怪しさプンプンです(笑)。

    「それって操体(法)に関係あるんすか?」

    「もっと明日からすぐ使える操体法のテクニックを教えて下さいよ!」

    そんな声が聞こえてきそうな感じもします。

    確かにテクニックは覚えたいですよねぇ。

    しかも簡単で効果的なやつを、なるべく楽にたくさんね。

    まぁそんなウマイハナシがあるのかどうかは別にして、

    ワタシが今の仕事を始めた頃、ある先生から言われたことがあります。

    「整体やります、鍼もやります、テクニックもあります。

    でも全部やって治らなかったらどうするの?」

    う〜ん、どうするんでしょうかねぇ。

    また別のセミナーへテクニックを教えてもらいに行くんでしょうか?

    問題はこの「どうするの?」を「どうするか?」ですよね。

    もしかしたら操体フォーラムでやってることとは、

    それを解決させる糸口の一つに繋がることなのかもしれないんです。

    中谷祐祥

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 間似合紙より。

    おはようございます。

     今回のブログ担当も今日が最終日となりました。陽が暮れるのが早くなったせいか、ホントに一日が早く、一週間もあっという間と感じます。

     この、あっという間に、自分は間に合っていただろうか。間に合うという言葉は、寛げるような、安心するような言葉ではあるが、奥の深さを考えさせられる言葉でもある。

     最近、テレビを見ていて、間似合紙というものを知った。これは雁皮紙の一種で、名称の由来は襖の半間の幅に継目なしにはるのに、間に合うという事柄からだそうです。

     「間に合う」から「間似合う」へ。当初は襖にはる襖紙に、ちょうどよいサイズとして、間に合うという意味からだったと思う。しかし、襖は室内空間に合わせて、絵が書かれたり、金箔が貼られたりするので、紙質も用途に適応するものでないと間に合わなくなる。
     「間似合紙」という名称が生まれたのは、そういった背景があったからではないだろうか。

     テレビ番組は、間似合紙として名高い名塩雁皮紙を作る人間国宝の職人さんの仕事ぶりを紹介したものであったが、名塩雁皮紙のすばらしさが十分に伝わってくるものであった。

     名塩雁皮紙の特徴としては、日焼け、変色、湿度の変化に強く、保存性に優れている。その他に書画の墨ののりも良く色も良くなる、絵具の発色も良い、摩擦熱に強いことから箔打ち紙にも最適など。この適応力の高さ。正に間似合紙。重要文化財の修復には、なくてはならないというのも頷ける。

     襖が部屋どうしを仕切る単なる間仕切りであったなら、襖紙もサイズがちょうど良く、保存性に優れるという面だけで十分間に合い、間似合紙という名称はつかなかったかもしれない。しかし、人々は室内空間をより豊かに愉しむ為、美的景観を求めた。
     襖にそれを求めても何ら不思議はない。格好の下地だと思う。そして、文化の発達に伴い、書や絵画という芸術作品のキャンバスの役割も担うようになった。

     そうなると、襖紙も人々の要求、時代の要求に応じて、質的に進化していかなくては間に合わなくなる。
     保存性に優れるという事をベースに、書の墨や絵画の絵具への適応性を付けていくという事であり、墨ののりや絵具の発色が良くなったからといって、保存性が薄れ、日焼けや変色が起きやすくなってしまっては元も子もない。

     基本をおさえ、基本を成す事柄を深化させ、その上で適応性を付けていく。雁皮紙の原料を再確認し、足りないものは足し配合のバランスを調整し、紙すき、乾燥まで、要望に沿う為の調和を模索していく。地道な精進の積み重ねであり、突然変異的進化ではない。深化を元にしての進化。

     当初はサイズが間に合うだけの襖紙だった。それが時代や人々の美的空間への要望が加わり、その美的価値に似合う襖紙が求められた。間に合うように進化させていった結果、間似合い紙と呼ばれるような適応性の高い上質な紙となったのではないだろうか。
     

     操体も進化している。こちらも突然変異的進化ではなく、深化を元にした進化だ。何を深化させているのか、もちろん自然法則だ。自然法則の原求を深めた上で進化している。

     なぜ、進化しなければならないか。それは、時代とともに、人々のからだの要求が変化しているからだ。
    何十年か前の、コキンとやったらパッと良くなった、という長期的展望抜きの考え方は通用しなくなっている。物質的に豊かになり、生活様式も大幅に変化した今、人々のからだに、それを受け入れるだけの素地がなくなってきているのだと思う。

     人々の心とからだは快を求めている。それも年々、より高い調和に向けた快が求められるようになってきている。出来るかぎり、からだにやさしく、効果のあるものへ。
     進化していかなければ、間に合わない。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

     一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
     来週は中谷祐祥さんの担当となります。
     来週も、どうぞ宜しくお願い致します。

  • 本人自身の利益。

    おはようございます。

     最近、歯医者さんに通っており、昨日は奥歯に詰め物をしたせいか、何かシックリきません。歯医者さんに通うのは10年ぶりくらいとなるので、歯の良い状態に戸惑っているのかもしれません。
     痛みがないからと、歯があまり良くない状態に慣れてしまうと、噛み合わせをはじめ、からだの動きにも影響しますものね。定期的なメンテナンスは、やはり必要ですね。
     

     ふと、ある歯医者さんを取り上げたテレビ番組を見ていた事を思い出した。印象に残っていたので、日記にあるかもと思い、専用の操体ノートを見返してみる。あった、あった。先月末のNHKの番組だった。

     その歯科診療所に通う人達は、80才を過ぎても25本前後の歯が残っている人が多数おり、また子供たちの8割以上が、20才になっても永久歯に虫歯ができないという。
     この世界的にも類のない圧倒的な成果は、単に治療の腕が優れているだけではなく、予防に重点を置いてきたことによる。

     番組で取り上げた歯科医の熊谷先生は、70歳ぐらいとお見受けする。若い時から最高難度の治療テクニックを磨いてきた歯科医だが、ある時から「真の患者利益とは何か」ということを自問自答するようになったという。

     痛みを治す歯医者から痛くならない為の歯医者へ。治すだけを良しとせず、予防の大切さを説き、意識改革を促す。虫歯を削って治療して、痛みがなくなっても、どうして虫歯になってしまったのか本人が気づけなければ、虫歯になったら削って治療しての繰り返しになってしまう。治療の度に削った穴も大きくなる。

     熊谷先生は、35年前に診療所を山形へ移転したのを機に、予防とメンテナンスに重点を置く方針に切り替えた。しかし、はじめの頃は、なかなか理解が得られず、罵倒されることも度々だったという。
     当時の患者の多くは、歯が痛いから歯医者に来たのだから、手っ取り抜いてくれ、早く削って詰めて治してくれ という人がほとんどだったと思う。
     それを唾液の殺菌力を検査することからはじめ、予防とメンテナンスの大切さを理解させ、口の中を清潔にすることが定着するまで、実質的な治療はしないというのだから、軋轢が生じるのも無理はない。

     それでも熊谷先生は、己の信念を曲げずに、真の患者利益を優先し、患者の意識改革を促すことを地道に繰り返した。そして、痛くなくてもメンテナンスに通うことで、健康な歯を保ち、快適な毎日が過ごせる事を実証していった。
     現在では、その成果は世界的に類のない成績となって表れている。また、成績という数字以外にも、地域社会への貢献は計り知れないものがあると思う。
     番組中、80歳代の男性が「酒を飲んでも、歯磨きしないと気持ちよく寝付けないんだよ」と綺麗な歯を覗かせて、微笑んでいる姿が印象的だった。

     操体臨床にも、つうじるものがあると思う。そして、時代は確実に「からだに、やさしい」という方向に進んでいると感じる。
     依頼者の勝手都合の満足ではなく、一生使わせていただく、からだの満足を考える。それが結果的に依頼者本人の利益につうじる。
     

    秋季東京操体フォーラムお待ちしております。
    23日は、まだ参加可能です。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 落ち葉焚きより・・・なにも足さない、ありのまま。

    おはようございます。

    昨日、焚き火を見ていて、ふと、道元の言葉も思い返されていました。
    「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて・・・・」

     この後、生死観を表す文章へと続くわけですが、生死観を表すのになぜ薪と灰の関係をあげているかというと、一番身近で誰でもイメージしやすいものだったからだと思います。現代では薪や灰は、めったにお目にかからなくなったが、当時は両方とも暮らしに欠かせないものだったと思う。

    「たき木、はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず」当時の人達も、経験上そんなことは当たり前と捉えたと思う。たき木が「燃えて」灰になってしまったのだから、元に戻らないのは当然、と暮らしの経験上感じたと思う。

     しかし、道元は「燃えて」とは言っていないのである。「薪が燃えて灰となる」ではあまりにも唯物的になってしまうと感じる。言わなくていいことは言わない。言わないが、聞く人への配慮も忘れない。それが「しかるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」という言葉に表れていると思う。自分の哲学を理解している人にも、そうでない人にも、つうじる言葉をつなげる。この文章には、そんな思慮の深さが窺がえる。

     では、道元の哲学の根本を成すようなものは、どういったことなのだろうか。私は、「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」という言葉に表されるような哲学だと思う。存在を単に存在として捉えずに、その存在を生かしてくれている存在が必ずあり、そうでなければ生命は成立しない、そうしたつながりというか、法というか、縁というか、そういったものが自在してある。自分以外のそういった存在や自在してあるものこそイノチである。というような哲学。本質への求道心なのだと思う。

     道元のこのような哲学、「想い」は一貫しているように感じる。それは礼儀、作法に厳しかった面にも窺がえる。決して、威張りたくて、自分を権威付けたくて、厳しくしていたのではない。そのものに対する愛情や、そのものを包み込んでいるイノチにやさしくあれ、と思えばこそであり、それをいい加減にすることを厳しく諌めていたのだと思う。

     そういったことを踏まえると、「薪が燃えて灰になる」というように、ひと言加えて暮らしの経験則に当てはめてから入るのではなく、そのまま素直に「たき木、はひとなる、」から入ったほうが「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」という言葉がすんなり入るし、法位の意味も輝きを増すと感じる。「前後ありといえども、前後裁断せり」は非常にインパクトのある言葉だが、これも道元の配慮の言葉のように感じる。
     「前後ありといえども、前後裁断せり」という言葉を抜き出し、時間観に当てはめ「過去に捉われず、未来を恐れず、今を精一杯生きる」と解釈して、行動力の糧としている人もいると思う。それはそれで良い事だと思う。ただ、「法位に住して」という言葉がある以上「生かされて生きる」という事を念頭にしなければならないと思う。

     「法位に住して」という言葉から、操体創始者、橋本敬三先生の言葉が浮かんだ。橋本先生は、著書の中で「生命現象の生物の組成を逆に考えてみるならば、生物の世界は有機の世界から生まれる。有機は無機の世界から、無機の原子は・・・・・・・中略・・・・・・・各世界には、ひとかわ上の世界が入り込み、また各世界には第七天の太極が普遍貫通していることになる」と書いている。
     薪は有機、灰は無機。「法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後裁断せり」
     また橋本先生は「どんなものにだって、意識と意志がある。石ころにだってバランス感覚はあるのだ」と語っていたと聞く。

     橋本哲学と道元の哲学、合いつうじるものがあると思う。お二人とも真理をズバッと言葉にするものだから、自分の経験側に落とし込んで簡単に理解しようとしても、なかなかそうはいかない。固定観念を捨て去り、まっさらな気持ちで向き合うことも大切だと思う。

     昔、ウィスキーのCMで「なにも足さない、なにも引かない」と言っていたものがあったのを思い出した。これには続きがある。「ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと」

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 落ち葉焚きより・・・慎む。

    おはようございます。

     冷え込んだ空気の中で、降り注ぐ晩秋の陽の光を浴び、その暖かさを感じていて、ふと陽の光以外でも暖をとれるのは人間だけなんだなぁ、と感じました。
     そろそろストーブでも出さないと。ストーブのゆらぐ炎を見ていると、なんだか和みます。考えてみれば、火を熾すことが出来るのは人間だけ。他の動物はむしろ恐がる。他の動物とは何か違う特別さと、有り難さを感じます。それと同時に何か責任のようなものも感じる。

     ふと、懐かしい匂いがしてきた。窓を開けて見てみると、畑で焚き火をしながら焼き芋を食べている人がいる(田舎なものですから)。
     火を使うことが出来たから、食べ物を焼いて食べたり、煮て食べたり、それが器の開発や穀物の栽培にもつながってくる。そして、暖房、照明、様々な機械の動力源としての利用。火を使うことが出来たから、暮らしが豊かになり、文化、文明の発展につながった。

     その反面、火は使い方によって、破壊に導くものになったりする。火災などは、その一例で、火の破壊力の凄さや恐さがダイレクトに実感される。誰だって、火災を起こしてはいけないと感じるだろう。
    ダイレクトに実感出来るものほど、一致団結して予防をしたり、対策を立てやすい。

     問題なのは、火の燃料となるものが有限なのに、無限であるかのように使いすぎたり、それによって空気をはじめとする自然環境を徐々に破壊してしまっている事の方。
    こちらは、徐々に進行する為、自分達で自分達の首を絞めるようなことをしていても、なかなか実感できていない。地球の温暖化など、その報いの警告は感じていても、対策については、なかなか足並みが揃わない。

     火を使えるという有り難さを、もう一度想い返し、慎みの心を取り戻す必要がでてきていると思う。慎みの心というのは、「自分で自分が生きている」といった、自分中心の考え方からは生まれない。
    自分を生かしてくれている存在や、存在を可能としている絶対的イノチが自在する真実を、真実として受け入れる事からはじまる。人間と人間という相対関係の枠を超えなければ、利害関係の枠も越えられず、自分達を生かしてくれている地球の事は、いつまでも枠の外に置かれてしまうのかもしれない。

     幸いにも火に関しては、世界の、どの民族でも畏敬する文化があるという。日本でも、つい何十年か前、私が小学生の頃ぐらいまでは竈があり、竈の神様を祀っていた。竈三柱神。
     竈三柱神はオキツヒコオキツヒメカグツチオキツヒコオキツヒメが竈の神でカグツチは火の神であるという。

     昔の人は、暮らしや生活に切っても切れない竈という大切な場に、小宇宙を感じていたのではないだろうか。私なりの解釈だが、オキツヒコオキツヒメは竈という場の(+)と(−)の神様。カグツチは「愛と調和」という太極の意志が貫かれた、竈での生成、具現化の神様、別名ホムスビ。ホムスビの「ムスビ」とは「愛とその法則」であり、愛をもって現象に秩序をもたらせている。

     秩序をもたらすことで、燃料の質と空気の触れ合いに法則性をもたらす。その法則性があるお陰で、炎のエネルギーは対象物に質的変化をもたらし、新たな命を呼き込める。生まれ変わった対象物は、炎が消えてもイノチと共に存在する。命の結び、命の連続性。

     重要なのは物質現象の根底には波動現象があるということ。よく料理は、愛情と火加減が大事だと言われる。「美味しくなれ、美味しくなれ」と想い、やさしい波動の言葉をかければ、火の神様も応えてくれるということなのではないだろうか。昔は、燃料が薪だったのだから、なお更だと思う。

     恐ろしいのは火事を起こしてしまうこと。注意散漫もさることながら、荒い波動を向けることによって、怒ったように荒く燃え広がることもあるのではないだろうか。悪くすれば、自分の家の焼失どころか、他の家にまで災害を及ぼすことになる。竈三柱神は別名三本荒神、仏教では三宝荒神

     火に畏敬の念が生じるのも当然と思う。自分達は絶対ではないのだ。生かされるべき絶対的なものに、見守られながら生きている。慎んで生きる。

     再び、窓を開け、焚き火の様子を見てみる。年配の方が一人だけだったのが、お孫さんだろうか、小さな子供が一人増えている。
    お爺さんは、焼き芋の灰を軍手で掃い、二つに割って半分子供に与えた。子供は晩秋の優しい光を受けながら、ハフハフ食べている。お爺さんは軍手を外し、そっと子供の頭を撫でている。荒神様の出番はなさそうだ。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 晩秋の光より・・・相補性。

    おはようございます。

     光は粒子性と波動性を併せ持つ。こう表現されるようになったのは、ニールス・ボーアが相補性という概念を提唱したことによるという。粒子性と波動性という、異なる二つの性質が互いに補いあって一つ。
     この世で最も根源的なものとも思える、光にこのような性質があると想うと、なんだか嬉しいような、救われているような、有り難いような、そんな気分になります。

     ニールス・ボーアが相補性という概念を提唱するまで、光は粒子だと主張する科学者と、波なのだと主張する科学者とが対立し、大いに議論していたという。しかし、光が波であるとしなければ説明できない現象と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象とがあり、科学者達を悩ませ続けたという。

     そこでニールス・ボーアの登場となったわけだが、ボーアもなぜ相補性が在るのか?相補性の元とは?起源とは?という事は言っていないと思う。知ってはいたと思う。
    それはボーアが後半生、量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学を研究していたことから伺えるが、科学者の立場としては自在を肯定しつつも存在の研究を優先するしかなかったのかもしれない。あるいは社会環境が、そこを超えた発言を拒んだのかもしれない。

     橋本哲学では、そこから先、つまり相補性というある種の親和的エネルギーの起源はどこかという事を重要視している。橋本敬三先生は著書の中でも、その起源である太極が自在することの有り難さ、太極の意志のすばらしさについて、ことあるごとに説き、悩める私達に生きる勇気と自信と、生かされている悦びと感動を与えて下さっている。

     相補性の元は、太極の意志である愛と調和という、ものごとの基本となる理念なのだ。
    愛と調和という太極の意志が起源となり、相補性が生じる。または、愛と調和という太極の意志は全てに普遍貫通しているのだから、相補性はその表れと捉えることも出来ると思う。いずれにしても、太極の意志が元になっているという事。

     相補性はいたるところに発現している。一番身近なところでは、自分のからだや、今、生かされて生きている自分自身の事だろう。

     人間が生命活動を営む上で、「息」「食」「動」「想」は自己最小限の必須条件であり、責任がある。これらは同時相関相補連動性であり、そして「環境」と密接に関わっている。
     同時相関相補連動性とは、あるものが悪くなれば他ものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質を意味する。
     高次の存在の集合体として存在する人間は、相関相補性をより良く活かさなければ、その相補性により集合体全体が衰弱してしまう恐れがある。

     その為には「息」「食」「動」「想」の自然法則を学び、相関相補性をより良く活かしていく必要がある。そうすることで、「環境」への適応力が増す。
     特に人為的環境とのかかわりでは、一人の自然法則への気づきから、他の人達とも良い相関性が築け、一人一人をより高めるような相補性が引き出されて、より良く人為・社会的環境を変える力が生じてくると思う。

     秋季東京操体フォーラムお待ちしております。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
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    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
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  • 晩秋の光より・・・ヒビキ。

    おはようございます。

     朝起きて、朝陽を見る。これが春の東京操体フォーラムで学んでからの日課となっている。秋のこの季節、それほど眩しく感じない。
    手をかざし、指の間からこぼれる光を目を細めて陽の光の線だけ見る。スペクトラムが山吹色優位で、ほんの少しだけ緑や青が混じるように見える。なんだかゴッホの絵の配色にあったような、なかったような。

     降り注ぐ陽の光と、その波長を吸収したり反発させたり、上手い具合に調整してくれる空気のお陰で、自分達は生きていられる。そう想うと、今、指の間からこぼれている光が、なにか愛おしく感じてきます。ある意味、聖別され祝福された光なのかもしれない。

    そういう光と空気を感じて、木々は紅葉する。それを愛でる人間の視覚も遥か昔からの進化により、美しいと感じられる色彩感度を備えた視覚を持つことができている。逃げるものを追って食べる動物の目では、この色彩に富んだ紅葉の美しさは感じられないかもしれない。文化、文明を創造できる人間の目だからこそ視感できる美しさ。それを受け継ぐ有り難さ。秋の紅葉の風景の一瞬には、様々な構成要素とそのプロセスが含まれている。

     その構成要素とそれらのプロセスを知り、有り難いと想えば、風景の記憶は一層輝いてくるだろう。しかし、見る時は、その美しい記憶を一旦区切らなければならない。そうしないと、その一瞬を思考の決め付けで見てしまう恐れがある。
     決め付けをもった目で見れば、その時の本当の姿というのは見えてこない。それでは、その時その場にいる意味がなくなってしまう。

     操体臨床にも、つうじるものがあると感じる。操体には、この症状だからこうする、という決め付けはない。今その場で、からだの要求に応えることを行なう。前回診た時と同じやり方で、快がききわけられ、バランスの回復、不快症状の改善に向かうとは限らない。
    常に、その場その時の、からだの要求に対して、負担をかけずに優しく、尚且つ調和に向けた効果的な応え方をしている。快にも質があり、からだの求めている最高の快を味わっていただく為だ。

     決め付けずに、素直に見て、感じて、ヒビキ、そして紡ぎあげていく。どちら側の目を優先させるか、どちら側の脳を優位にするかということも、ヒビキという事に重要になってくる。
    そして、紡ぎあげるという事では、それまでの経験や知識というものも絡んでくるが、経験や知識でヒビキをシャットアウトしてはならない。一番の大敵は知識による決め付けだ。

     ヒビキ、つまり、からだや心の心根にヒビクということは、イノチの記憶と交感することであり、存在を存在たらしめる意識に触れるということであり、存在の創造主の意志に触れることでもあると思う。
    知識を高めることは重要なことだが、高めた後の想いが大切。想にも自然法則がある。想いを自然法則に合わせるようにすることで、知識はより活かされ、ヒビキとも調和和親でき、より良く美しいものが紡がれるのではないだろうか。

     ヒビキということに焦点をあてれば、時には目を消し、自然現象の呼吸を感じるということも必要かもしれない。光からすれば人間の可視域は限られている。そのお陰で美しいものが美しいと見れるが、自然現象のヒビキには、それ以上のものが在ると思う。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
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  • 晩秋にて。

    こんにちは。

    今週のブログは友松が担当致します。どうぞ宜しくお付き合いください。

    秋もすっかり深まり、もう晩秋ですね。

    ひんやりとして澄んだた空気に、斜陽、木々の紅葉。晩秋独特の自然のコントラストが刻々と変化していく。存在投影時間はあっという間。
    無常。
    自然現象は常ではない。無常だからこその美しさ。無情ではなく、根底に親和性のある無常。

    落葉樹が紅葉するのは葉っぱの老化現象によるものだという。確かに葉っぱそのものは、やがて落葉し、朽ち果てていく。外面だけ見て、理屈で考えれば紅葉は老化かもしれない。

    しかし、紅葉を見て感じた感性は違う捉え方をしていると思う。確かに郷愁や哀愁の感はあるが、その感情は葉っぱが朽ち果てていく様を見て湧き上がってきているのかというと、そうではないと感じる。

    秋の陽射しを受けた時の、あの輝き、エネルギー感。葉っぱの老化だけで片付けられないものがある。
    あのエネルギー感は、自然環境に順応しようとする木そのものの姿であり、その様が自分自身に宿るイノチの永遠の記憶と共振し、心地良い郷愁や元気となるのではないかと感じる。

    木全体からすれば、一生賢明これから訪れる冬に向け準備している。そして眠りにつき、翌年の新緑の時節には、若々しい葉っぱを芽生えさせて生まれ変わる。

    それを繰り返して、より深く根を張り、広がる。無常のなかに常あり。常たらしめるのは自然法則。自然法則に合わせることで生長している。

    植物には植物の生があり、人間には人間の生がある。その生をより良く全うするために、それぞれ自然法則が自在する。もともとは有り難くできている。

    郷愁。

    夕やけこやけで日が暮れて
    山のお寺の鐘が鳴る
    お手々つないで皆帰ろ
    烏といっしょに帰りましょ
    幸いな吾が家に、母なる自然法則の懐に。
    橋本敬三先生著、「山寺の晩鐘」より一部抜粋)

    秋季操体フォーラムお待ちしております。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
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  • 「手入れ」を考える 7

    「手入れ」について考えてみると
    色々な発見があります。

    まったく関係ないと思うような分野の中にも、
    「骨董」の世界にも
    「落語」の世界にも
    実はお手本になるような
    その世界ならではの『営み』がある。

    そして
    「からだ」の世界にも
    この世界ならではの『営み』が
    あることに気付くのです。

    さて、ここで振り出しに戻ってみます。
    そもそも
    なんで「からだ」に手入れをする必要があるのでしょうか。

    一日目に提起しました。
    「掃除」を怠ってからだを「使って」いると
    次第にからだの方が間に合わなくなって
    あっちが痛い、こっちが痛いと
    しまいには「大掃除」が必要になり
    大変な「想い」をしてしまうから。

    でもそれは大掃除という「結果」を避けるための
    「手段」としての手入れの捉え方なのかもしれません。

    一理はあるのですが、
    もうひと味ありそうです。

    先の「愛着」の話でも触れましたが
    「手入れ」をすると
    その「モノ」への意識が変化する。
    すると
    たとえば、次に
    そのモノを「使う」とき
    そのモノの「使い方」も変化しているはずです。

    手入れをしたものを
    「乱暴」に扱うようなことは、そうそうしない。
    むしろ
    「使うこと」が
    「手入れ」に繋がっていくような意識の方向性が芽生えてくる。

    そして、その先に
    「使うこと」そのものが
    「手入れ」となっているような
    営みの世界観がチラリと見えてくる。

    ここがミソではないでしょうか。

    操体でからだの勉強をされている方だったら
    言わずもがな。

    からだの「手入れ」が、そのまま
    より負担の少ない
    からだの「使い方、動かし方」に繋がり

    また、
    からだの「使い方、動かし方」を身におさめることが
    からだの「手入れ」に繋がっている。

    自然法則という
    「真理」に根付いた人間の「生き様」があるのだととしたら
    その人間像をからだを通して
    自分自身で学習し、実践し、探究することができる。
    真理の「ピラミッド」を積み上げていく。

    このからだの「手入れ」というのは
    単なる「お掃除」にあらず、
    自分自身にしかできない
    愛おしきライフワークではないかと思うのです。

    な・に・かヒビキのあった方は
    まもなく開催される秋季東京操体フォーラムに顔を出して
    是非からだで味わってみてくださいね。

    (さて、ここから先は私の独り言です)

    でも
    よく手入れされた「からだ」。
    それはゴールではなくて
    ここからがスタートライン。

    真理を身に纏って
    「人間」は、何を成していくのか。
    その「目的」に触れるような時が来た。

    そんな時代に私たちは生き
    イノチがけで学んでいる。

    一週間お付き合いありがとうございました。
    バトンを渡して、明日からは「巧者」
    友松実行委員の登場です。お愉しみに!

    「2014年秋季東京操体フォーラム」

    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。

    メインテーマは「操体進化論」。

    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので

    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。

    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。

    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 「手入れ」を考える 6 〜メキシコ古代ピラミッド篇〜

    先月末、NHKスペシャルにてメキシコにあるピラミッドに関する
    かなり最先端の発掘研究調査の内容を紹介する番組が放映されていました。
    「謎の古代ピラミッド〜発掘・メキシコ地下トンネル」
    http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/1026/index.html#hosogo

    昔から「遺跡」や「考古学」と聞くと
    どうも好奇心のスイッチが入ってしまう性分で
    この日もまんまと最後まで見入ってしまいました。

    その中で
    古代人からの「エール」を受け取ったような
    そして「嬉しく」なってしまうような
    研究内容が紹介されていました。

    愛知県立大学大学院 国際文化研究科 
    特任教授 杉山三郎教授が出演されていました。
    これからの人類にとって財産となるような
    研究をされている方だと感じます) 

    どうやらメキシコのピラミッドは
    単なる「権威の象徴」ではなかったようなのです。

    その証拠のひとつに
    とあるピラミッドの真西に夕日が沈む日が
    年に2回だけあって

    その「特別な日」がちょうど
    「雨季」のはじまりと
    「乾季」のはじまり
    その日と重なっているというのです。
    つまりピラミッドは
    古代人にとって「暦」そのものであったという説です。

    この時代の人は「ピラミッド」を通して
    自然界からの情報を正確に受け取り
    それを自身の作物栽培に生かしながら
    生活していたんですね。

    これは
    「自然法則の応用貢献」
    そのものではないだろうかと私は感じました。

    古代人は自然の中にある法則性を発見し
    それをピラミッドという「見えるカタチ」にして
    そこに住む人々の営みに生かしてきた。

    何だか時を越えて
    自然法則を学んでいる「同志」の存在を
    感じるようです。

    もうひとつ発掘がすすんでわかってきたのは
    このメキシコの「ピラミッド」。
    最初はもっともっと小さい規模で
    暦を伝える建造物だったようです。

    それが数回の「増築」を経て
    私たちのよく知っているあの大きさになった。

    それが今の見解では
    「300年」という年月を通して
    「7回」増築されたのではないかというのです。

    そういう意味では、このピラミッドは
    300年かけて育まれた
    自然法則の応用貢献の
    「結晶」のようなものだったのだと感じます。

    そしてそれは文字通り
    「結晶」のように色褪せることなく
    1000年以上経った
    現代に生きる私たちも
    こうして目にすることができる事実。

    これはスゴい!
    と感動してしまったのです。

    ここで、
    若干こじつけっぽくもありますが(汗)
    このピラミッドの「増改築」も
    見方を変えれば

    自然法則を学び、
    その学びに「手入れ」を続けている
    ようなものだったのでは
    ないかと思うのです。

    「土台」からしっかりと
    「真理」に根付いた学びを続けなさい
    世代を越えてもいい
    何百年かかろうが、いいではないですか
    その分
    数千年後の人にもしっかりと伝わる様な
    「学問」にしていきなさい

    古代人からそんなエールが送られているような
    気がしてきませんか?

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813