純陽の 乾 を 天 とし
純陰の 坤 を 地 とし
その間の6つを人体に配当し、六経とした。
即ち、

この様に、人間は天と地の間に在って、様々に変化する。
それが生きているということだ。
しかし、この「六経」という言葉も、
日本と中国では運用の仕方が違うので、御用心!
室町時代後期から江戸時代初期にかけて、
曲直瀬道三らを中心に「黄帝内経」や金、元、明の医学が主流となり、
後世派と呼ばれた。
江戸開幕後100年ほど経て、
この医学に疑問を持つ医者が輩出した。
陰陽五行論によることばの説明で満足するのではなく、
もっと事実に即した効果のある治療法を求め、
実際に事実を観察し、臨床的に追試しなければならない(親試実験)とし、
「傷寒論」(漢)に帰れ、と説いた。
その中心人物が吉益東洞であり、
古法派と呼ばれた。
東洞は自らを扁鵲、仲景ら疾医(本当に病気を治せる医者)の系譜に属する者とし、
陰陽医(陰陽五行論の理屈で病態を解釈する理論家)を批判したため、
当時の医界に大論争を巻き起こした。
本日で私が担当する年内最後のブログになります。
まだ冬季東京操体フォーラムを終えて二週間足らずですが、自分の中で大きな変化で生じているように思えます。
その変化とは感覚的な事になりますが、自分の影に隠れていた自分自身が少しずつ目覚めてきた感覚です。
フォーラムの前までは何か自分自身が窮屈な生き方をして感じが実感としてありましたが、フォーラムを通じて、様々なことに「感動」したことが、こういった自分自身の変化に繋がってきたように感じます。
三浦先生はフォーラム前後で「上から何か降ってくるように新たな気付きがある」と言われていましたが、最近の私も今まで学んできたこと、そしてこれから深めていきたいことが上から降りてくる感覚があります。
それは一ヶ月前にはなかった感覚です。
そのような感覚を体感して分かったことは、人はちょっとした何かがきっかけで劇的に細胞が産まれ変わるということです。
それは誰にでも常に起こっていることで、瞬間、瞬間で細胞は変化し、自分の身心に何らかの変化を及ぼします。
そのちょっとした変化を感覚的にキャッチし、細胞の悦を心とからだを通して実感していくことで、本来在るべき真我の自分を目覚めさせていく気がします
そうした自分自身のちょっとした変化を感じ取ることもこれからの学び、生きていくことにおいても、とても大切なことのように思います。
こういったことが自分と陰と陽、表裏一体にある自分自身の姿と繋がってくるのだと思います。
一週間ありがとうございました。また来年もよろしくお願い致します。
明日からは半蔵さんが担当致します。お愉しみに。
私は操体を学ぶ前までは今回のテーマである「陰と陽」について考えてみる機会はあまりありませんでしたが、このことについて考えていくと物事に対する見方、捉え方が大きく変わってきます。
この事に始めて触れたのは操体を学び始めてまもない頃、橋本敬三先生が記された「生命現象創生の中心理念」という潜象から現象が生じる「ものことなり」のプロセスを記された図を目にしたのが始めてだったのを覚えています。
最初はその意味していることがよく分かりませんでしたが、少しずつ潜象という目には見えない世界の事に目を向けることで少しは理解出来てきたように思います。
人・物・空間、目に映るもの、目には見えないもの、私達は生きている中で存在と自在に常に触れ何かを感じながら生きている。陰と陽とは触れている全てのものにあり、物事を現象的な見方と潜象的な見方・捉え方をする必要があるように思います。
それは操体に限ったことではなく、師や自分が模範としている人達をどういった意識を持って見て、そして学んでいくのかがとても大切であり、これも先程書いた現象的な見方と潜象的な見方、この二つの見方でその姿、考えていることを見る必要があるのではないでしょうか?
ちょうどこのブログを書いている時に、このような言葉を目にしました。
「師を見るな、師が見ているものを見よ」
これは正しく、この2つの見方が当てはまると思います。
この意味するものは、ただ師を真似てコピーをするのではなく、現在感じていること、そして先に何を見据えているのか、という目に映ることのない波動のようなものを感じ、体現していくことが必要だと言っているように感じます。
先のフォーラムでも瀧澤副実行委員が師弟関係の在り方について発表して頂きましたが、陰の時代に差し掛かった現在、自分の心の在り方というのを見失ってしまうことが多いです。
自分らしく生きていく師や尊敬する人達を持ち、その生き方を見て、そして感じて自分の生き方に落とし込んでいく。そういった事が現象に惑わされない自分らしく生きるヒントになるのだと思います。
昨日は陽の時代から陰の時代への移行に伴い、性への捉え方が変わったことについて書きましたが、それはスポーツ指導においても大きな変化を及ぼしているようです。
先日、スポーツプログラマーの資格研修にてスポーツトレーナーである岩崎由純先生の講義を受けたのですが、操体で私達が現在学んでいることに近いことを言っていました。
その講習ではぺップトーク(気持ちを高める言葉)とプッペトーク(気持ちを沈ませる言葉)の違いを説明していましたが、指導する立場の人間は言葉一つ一つの意味を理解し使わなければなりません。
例えば私は学生の時にサッカーをしていたので良く耳にしましたが、コーチから「三浦!さぼるな!」と良く叱られていました(笑)
振り返ると叱られる事が自分の成長の糧となっていたと思っていますが、現在では「サボるな!」と叱咤するよりも「しっかりやろう!」と声を掛け、ポジティブなイメージを沸かせるシンプルな声掛けに変化してきているみたいです。
それは操体の学びでも同じようなことが言えて、最も代表的な例では「ムズカシイ」という言葉は自分にも、相手にも使わないようにしています。
そういった言葉は物事に対し、自分は出来ないと思わせてしまう波動の粗い言葉です。
不思議なことに「ムズカシイ」という言葉を発すると簡単なことでも難しく思い込み、出来なくなるという法則があります。
このように人は言葉の選択次第で己の生き方、そして運命も大きく変わってきてしまうので、私自身陰の時代への以降に伴い、一番大切にしなければならないのは言葉の選択だと思っています。
こういった時代の変化の中で人の心の在り方は非常にデリケートになってきていると思う反面、昔ながらの日本の教育で良かった面が無くなってきているように思います。
それが良いか、悪いか時代の流れもあり、一人一人感じ方は違うと思いますが、個人的には現在の教育の在りかたには少し疑問があります。
昨日もニュースで体罰により甲子園を辞退する高校が出てきてしまいましたが、教育者が手を出してしまうことの原因の根底にあるものを見直していく必要があるのではないでしょうか?
先月末にフォーラムにも起こし頂いたヒカシューのメンバーでもある佐藤正治さん率いるMASSAのライブがありました。
今回で二回目になりますが、良いと思う音楽というのは操体の臨床と同じで回数を重ねる度に味わい深いものとなり、心地よい感覚の世界に導かれていきます。
また、それと同時に「本当に良い音楽とは何なのか?」と考えさせられます。
たくさんの人から拍手、喝采を浴びるものが本当に良いものなのか、それとも売り上げが良いものが良い音楽なのか?
その判断は各々の価値観や時代の流れによって変わってくると思いますが、ただ一つ言えることは本当に良いものとは音楽にしても、物作りにしても、また臨床においても、魂の思い入れがどれだけあるかどうかのように思います。
また、それに比例するように、その人自身の生き方、品性も作品に影響しているのではないでしょうか?
私自身、以前のブログでも書きましたが、音楽とはあまり縁がなく、たまに聴く位です。しかし胸に響く音楽は大切にしたいという想いがあるので、佐藤さん達のライブは出来るだけ足を運び生で聞くようにしています。
足を運び、その人達の顔を見て、音を介して魂を感じる。それを明日からの自分の励みにする。MASSAのライブにはそんな私自身の想いがあります。
そういった想いで佐藤さん達の音を受け取っていくと、音楽にも「陰と陽」があるように思います。
心に響く音楽、皮膚を介してからだで受け取る音楽。右脳に響く音楽、左脳を揺さぶる音楽。時代が必要とする音楽、時代が隠した音楽。
受け取り方は人それぞれなので、あえて分別する必要はありませんが、誰もが知っている音楽の裏に「隠れた名曲」というのがあるように、音楽にも先日まで述べたような現象と潜象が潜んでいるように感じます。
私が操体を学び始めた当初、私自身の中で未だよく理解出来ていないことが一つありました。
それは橋本敬三先生が説かれている「太極の意志」が何なのかということです。
「太極の意志」を理解する上で、SEXという神性なる儀式がとても重要なポイントのように思います。
この「太極の意志」という言葉は橋本敬三先生の著書や三浦先生の中でもよく目にしますが、現象の成り立ちにおいて陰と陽に分極される、その起源が「太極の意志」であり、それは「愛と調和」だとされています。
太極の意志をSEXという観点から見ていくと、種を与えるエネルギー(男)とそれを受け取る器が(女)が必要であり、それが一方通行ではなく、互いが調和しなければ命は誕生しない。このように捉えると分かりやすいように思います。
この「調和」ということを理解する上で、男女それぞれの心のあり方もとても大切なことではないでしょうか?
先日の三浦先生のブログで「陰と陽とはギブアンドギブアンドギブ」と欠かれていましたが、この意味には男と女の間で見返りを求めないこと、私達は太極の意思から受け取れるものを存分に受け取りなさいと言われているように感じました。
橋本敬三先生が「太極の意志」の「志」を「思」という字にしていないのか、というのも男と女の交わりを欲や思考ではなく、神性を持って行いなさいというメッセージがあったように思います。
このように太極の意志を見ていくと、陽から陰の時代に移行に伴い、女性という存在が大切にされているのも納得出来ます。
私は操体の学びを得る中で女性は無条件に尊敬の存在だということを学びました。その中でも自分の母親には特にその想いは強く抱いています。
それは臨床においても同じです。女性に触れるということは神性に触れるのと同じような意識で触れなければなりません。
こういった時代の流れからしても、操体の臨床も楽から快へと移行したのも自然の原理に適っているのかもしれません。
昨日の話の続きになりますが、毎回フォーラムではプログラムの中に般若身経を組んでいます。今回のフォーラムでは実行委員のtaskチームで発表しましたが、毎回参加者に日々進化する般若身経をどのように伝えていくかはとても考えさせられます。
なぜ考えるのかというと、それだけ橋本敬三先生が説かれたこの般若身経は操体を学ぶことにおいてとても重要であり、奥が深いものだからです。
一般的に般若とは「ほとけさまの智慧」だと説かれていますが、橋本敬三先生はなぜからだの使い方・動かし方のルール、法則をこのように名付けられたのでしょうか?
この「般若身経」と名付けられた意味には橋本敬三先生が私達に暗示した裏の意味があるように思えます。
世の中の現象には全て裏と表があるように、からだと表裏一体となっている心にも、この般若心経とは違う、陰の時代に適うルール法則があってもよいのではないでしょうか。
私自身の橋本先生の時代に記されていたからだの使い方、また更に進化している般若身経を自分のからだを通して体感していると、そのヒントは意識の使い方にあるように思います。
意識と無意識、それは表裏一体、陰陽の関係にあり、救いと報いにも繋がってくるように思います。このシャバで生きている限りは意識というのは常に働き、無意識というのは、このシャバを離れた時にあるものだと思います。それを踏まえると般若の意味とは意識を出来るだけ無意識に薄めていく意味があるのではないでしょうか?
おはようございます。三浦先生、一週間ありがとうございました。一つ一つの言葉にとても深い意味がありましたね。これは操体を学んでいる人に限らず、学問に携わっている人全員に向けたメッセージなのだと思います。
では改めて、今週一週間は三浦寛幸が担当致します。よろしくお願い致します。
今月5日、6日と二日間に渡り冬季東京操体フォーラムを無事開催することが出来、二日間合計で約120名の方にお越し頂きました。
講演して頂いた先生方、参加して頂いた皆様、また場所を提供して頂いた市谷ルーテル、昭和女子の関係者の皆様、ありがとうございます。
この二日間で強く感じたのは「陰と陽」この相対する二つが交わる時代がすぐそこに来ているということです。
「操体と腱引き」「法と術」「自力と他力」もっと言うならば、「潜象と現象」、同じ臨床に携わっていても全く違うアプローチをしている手技がお互いの良いところを学び、吸収しようと学びの場を共にしたことに大きな意味があるのではないでしょうか?
その意味が何なのか、直ぐに結論を出す必要はなく、各々が感じ取ったことを今後の人生の糧にすれば良いのだと思います。
また今回のフォーラムにはヒカシューのメンバーでもある巻上公一さんと佐藤正治さんにもお越し頂きました。操体と音楽、一見あまり関係無さそうに見えて感覚を通じて共鳴し合えるものがあるのですね。
感覚の共有。これも操体の魅力の一つなのだと改めて思いました。
このように今回のフォーラムは自分がやっていることに関係なく、操体を通して自分の人生の肥やしになるものを共有し合う豊かな場となりました。
私達、東京操体フォーラム実行委員は早速来年の春に向けて始動しています。
もし、今回のフォーラムを通じて自分の中に何かひびくものがありましたら、ぜひ来年の春もお越しください。お待ちしております。