昨日の続きで
ユガミについてである。
不可視と可視の空間にはネジレがあるという。
そのネジレを
潜象と現象
空間と時間の
超自然的なユガミというのではないか。

遠い昔、私がまだ20代の頃
ソウルで「世界手技療法学会」が開かれ
橋本先生が招聘されていました。
しかし、学会近くになり
橋本先生は「ワシに変わってお前が行ってこい」とおっしゃり
代わりに行くことになりました。
当時のソウルは
いまでは想像ができないような状況で
23時以降は外出禁止令のサイレンが響いているようなところでした。
しかし、そこでは良い経験ができました。
このような経験の場を、
フォーラムの中でも体験できるような環境を作りたいと考え
私は時々、席を外してみました。
これも私のパーフォーマンスとして
今後参加される皆さんには愉しんでもらえれば、嬉しいです。
今回御参加の皆さん、ありがとうございました。

「発表者に質問する中で新たな創造性が芽吹いてくる」ことに
ふれてもらえたらと考え
今回は質問の時間を設定しました。
今回、この試みができたことは
参加者の多くが継続して操体を学んでいる方だったからです。
私がよく発表者に質問するのは
濃縮された内容であればあるほど
さらに奥にあることを引き出して理解したい
という気持ちが貪慾になるからです。

今回も貴重な内容の発表でした。
濃縮した内容を限られた時間の中ではなしているので
1日で貪慾に咀嚼することは無理かもしれませんが
ここだけは、繰り返し深く知りたいと思う内容が
参加された方の中にあったのではないでしょうか。

感謝しながら生きていきたい。
感謝を言葉にする、という意味だけではなく、「あぁ、ありがたいなぁ」と感じて、こころがふわーっと暖かくなっている状態、それを感じながら生きていきたい。
その暖かい心で満たされていたら、自然に人にも優しくできることが多くなってくるのではないか。
それには人から何かをもらったり、何か親切をしてもらわなければいけないわけではない。
もうすでにある、受け取っているものに感謝できたら良いのではないだろうか。
今こうして生きていられることには、沢山の自然の恵や、人の労力、気持ち、エネルギーが関与し、それを享受しているはずである。
そのことに気づき、実感できれば、自然と感謝は湧きでてくるのだろう。
一週間、ありがとうございました。
明日からは三浦寛先生です。
松浦伸考
日々の中で、嫌な人もいれば、不愉快な思いさせられることもある。
以前はどう対処したらいいか、どう正してやり込めるか、どうやって関わらないようにするか、等考えていた。
しかし、ここのところ、その人、その出来事を嫌悪したり、不快に思ったり、葛藤が起きる根本の原因が、自分の心の内側にあるのではないかと少し省みることができるようになってきた。(十分に不快な状態に巻き込まれて、しばらく不愉快になった大分後ではあるが…)
よくよくのぞいてみてわかってきた自分の心の中にある、人より偉くなりたい、人より優れたい、人に勝りたい、人を服従させたい、人を支配、コントロールしたい、といった思考は、逆の立場の人と、摩擦を生む、不快を生む、争いを生む原因となりうる。
また、「~しなければならない」、「~すべきではない」と自分を縛ると、そうしていない人に対して、嫌悪しかねない。
嫌な人、不快な出来事はなくなってほしいとは思うが、自分の心が穏やかでないのに、人様、世の中に平和を求めるのは、虫が良すぎるか。
できることなら、まずは自分の心を少しずつでも穏やかに、平穏にしていきたいのである。
その為に、自分の心の不和を気づかせ、平和を見つめる機会を与えてくれたのだと思えれば、嫌な人も、不快な出来事も、ありがたいと少し感謝の気持ちが湧いてくる。
エチオピアには、客人にコーヒーセレモニーをして迎え入れてくれる風習がある。お茶をたてて客人をもてなす日本の茶道と似たものであるようだ。
エチオピアの砂漠と荒野にある田舎の村を訪れたときのこと。
そこでもコーヒーセレモニーを催してしてくれた。
それにはまず、それまでに使用した汚れたカップとソーサーを洗わなくてはいけないようだった。
しかしそこには水道がない。
その様子をみていると、水差しからカップに半分にも満たない水を入れ、その水をこぼさないように指でカップを洗う。
そして次のカップにその汚れた水を注ぎ、今度はそのカップを洗う。
それを繰り返していくつかカップを洗った後、その水をソーサーに入れ、今度はソーサーを洗う。
そうしてまた次のソーサーへ入れ、また数枚のソーサーを洗う。
要するに、約カップ半分の水で数セットのカップとソーサーを洗っていたのだ。
そんな発想は思いもしなかった。
日本では、簡単に蛇口から水がでるし、簡単にどこでも水が買える。
わずかコップ半分の水が貴重だなんて思ったこともなかった。
水が蛇口から出てくることは当たり前ではなく有り難いことだったのだ。
他にも自分の日常の中で見逃している当たり前でありながら、有り難いことが沢山あるのだろう。
それに気づき、有り難いと感謝できたら、日々の気持ちが変わってくるのではないか。
感謝のエネルギーは強力である。
それは私だけでなく、誰にでもできる日常の宝さがしのように思う。