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  • 神経症18

    昨日のつづき

     現実にある恐れとは、生命が脅かされているという感情であり、それは緊張も、感覚や精神の鈍化も伴わずに起こる。そういった本物の恐れを抱いた有機生命は、恐れを直感する準備が完全にできているということだ。原始的な恐れは、それが破滅的な恐怖であるがゆえに、鈍化をもたらすことになる。原始的な恐れは、両親らが自分を愛していないという原始的な苦痛が消え去らないがためにいつまでも残っている。すなわち古い恐怖が現在にまでつながっており、その恐れを不安に変えているのである。不安というのは結合されていない古い恐れである。なぜなら、結合というのは破滅的な苦痛を意味するからだ。たとえば山のなかで自分に向かって突進してくるイノシシに対する反応が恐れであり、イノシシが自分の方に向かってくるかも知れないという感情が不安である。

     幼児や小さな子どもは、状況をじかに感じとり、自分の感情にそくして行動する。しかし、時が経つにつれ、恐れを表すことすら神経症的な両親に批判されるかもしれない。たとえばこう言われる、「さあ、泣くのはよしなさい! 何も恐ろしいことなどないじゃないか」、それで恐れは否定され、原始的なストックに蓄積され、緊張の度合いが高まってゆくことになる。この否定された恐れは、自分の感情そのままに、しごく当然な反応をすることは許されないということを意味する。そして自分の感情をはっきりととらえ、緊張を解き放つために、恐れの対象物を考案しなければならなくなる。

     自分が怖気づいていることを神経症の人間に理解させるには、原始的な恐れを行為で発散させるよりも、感じとるよう強いる方がよっぽど役に立つ。神経症の人間をその恐れのなかに、さらにはその彼方へ連れ込むときに、我々は原始的な苦痛のなかへその人間を移動させているのである。

     幼児がお腹を空かして泣いてもそのまわりにお乳を与える人が一人もいないと、その状況で泣くことは不適切な反応となり、泣いたところでつらい、不愉快な状況を変えるのに何の役にもたたないので、やがてまったく泣かないようになる。生まれてから間もないうちに、絶えず欲求が充たされない苦痛をなめさせられた人は、幼児時代に戻って思い切り泣き叫ぶまで、反応が閉ざされる場合が多いことを、リバーシングなどの精神療法で目にすることが出来る。

     原始的な苦痛の影響は、それが感知という全面的な経験がされるまで続くと考えられる。要するに原始的な苦痛を有機生命から追い出す条件を調えることができないのである。したがって人間は、苦痛の表面的な表出である喫煙や飲酒、それに薬物の常用にふけったり、その報いを受けたりするが、苦痛そのものを変えようとはしないのである。このように苦痛は、完全に感知されるまで、神経症的な何らかのはけ口を求め続ける。

     神経症にかかっているものは、緊張を和らげるために、非現実的で象徴的な行動をとる。したがって小さな子どもの時代に持ってしまった自分は愛されていないという気持ちにまったく気づかないまま、愛されていると感じとるために、セックス行為に駆り立てられがちになる。性にとりつかれたフロイト理論の根拠はまさにここにある。

    明日につづく

  • 神経症17

    昨日のつづき

     神経症の緊張をスポーツや運動によって、機械的に払いのけることは一応、可能である。現実に神経エネルギーを拠りどころにジョギングなどをしている人の大半は、緊張を振り切ろうとしている。しかし、原始的な感情を振り切る方法など実際には皆無であり、緊張は永遠に続くようにしか思えない。緊張を振り払おうと懸命な人たちを見ていると、まるで首を切られてなお動いている鶏のように見えてしまう。ある意味で神経症にかかっている人は、肉体で行なっていることとそうした行動をしているわけを結合できるようになるまでは、頭を切り落とされた状態にあるとしか言いようがない。

     緊張に対する肉体反応の拡がりに応じて、それを測る方法はいくらでもある。そのひとつに筋肉の収縮を尺度に緊張を定義する方法がある。それによると緊張は肉体にある種の逃走運動を準備させるので、その結果、筋肉繊維が短くなる。その筋肉繊維の変化は電圧、すなわち電気的な圧力の上昇をともない、それは筋電図として電子装置で測ることができる。しかしこの筋電図は筋肉繊維のきわめて小さな変化までは測定できない。だがこの方法の言わんとしていることは、緊張すると肉体の全筋肉も緊張するので、寝ても覚めても自身はくたびれているという点にある。これは神経症にかかっている人が、眠っているときより目覚めたときの方がさらに疲れている場合がままある理由を、解明する手がかりとなっている。

     緊張というのは全身的症状ではあるが、ことさら弱い部位に集中しがちである。ふつう人間の器官のなかには、ストレスを受けると緊張度が特に高まりを見せる特定の領域があることがつきとめられている。たとえば首の左側が慢性的に痛む人の場合だと、ストレスがかかっている状況では、右側より左側にずっと大きな緊張が生じている。

     緊張は感情が否定された結果もたらされる内面的な圧力であるが、その経験の仕方は各人によってもそれぞれ異なってくる。気分がすぐれない人もいれば、胃にしこりを感ずる人もいるし、骨格筋の緊張、胸のつかえ、歯ぎしり、嫌悪感、今にも悪いことが起こりそうな不安感、吐き気、咽喉のしこり、あるいはただ不安に悩まされる人もいる。緊張のせいで、口は動きつづけ、あごの筋肉は締めつけられ、瞼はふるえ、胸はドキドキし、心は落ち着かず、足は小刻みに動き、眼は飛び出さんばかりに大きく見開かれている。このように緊張は耐え難いものなので、さまざまな形をとって外に現われる。

     実に多くの人が緊張を経験するので、我々はそれを人間につきものの一つだと考えるようになった。しかし、真実はそうではない、だが不幸なことに、多くの心理学説が、緊張の避けがたさを自分たちの仮説の根拠にしているのは、とても残念なことだと思う。その一つの学説を打ち立てたジグムント・フロイトは、我々が健康であるためには、基本的な不安の周囲に防護網を張り巡らさなければならないと断定しているが、決してそんなことはない、なぜなら基本的な不安というのは、非現実の機能のひとつにほかならないからだ。

     神経症は、自分が緊張していることに自ら気づくことすらないように、緊張を拘束する。だが緊張していても不安であるとは限らない。恐れと不安の違いは状況に左右されるもので、生理学上の問題ではないからだ。恐れと不安の生理学的なプロセスは同じものだと思えるが、恐れの場合、人間は現在の状況に反応しているのに対し、不安にかられている人間は、過去に対してそれがあたかも現実であるかのように反応している状況だと言える。精神療法を受けに来るのはふつう、緊張が不安に転じたこの時点においてである。
    明日につづく

  • 神経症16

    昨日のつづき

     「人格」というのは保護手段として生長していき、その人格の機能は子どもの要求を充たすことにある。要するに子どもは自分がいずれは愛してもらえるように、両親の望みに適う人間になろうと努力するのである。しかし両親好みの人間になろうとするとき、必ず緊張が生ずるリスクを負う羽目になる。しかしありのままの自分自身であるときには、その緊張はいとも簡単に取りのぞかれる。

     小さな男の子が父親に抱いてもらいたいと望んでいるのに、父親ときたら、「男というものは抱き上げてキスしたりするものではない」と考えているとしたら、その男の子は、父親のために男らしくなろうと必死に努力し、自分の要求を否定して、荒々しく振る舞うことになってしまうことだろう。

     しかし、この男らしいという荒々しい人格は、緊張を生むとともにその緊張を拘束してしまう。そしてこの少年はやがて、一種の精神的な潰瘍を患い、将来において精神療法の世話になることが想像できる。この少年が荒々しくなったのは、何よりも父親に愛してもらいたいためであったのだが、その動機はとうの昔に忘れ去られてしまっている。こういう男らしさの象徴とでも言いそうな荒々しいことをやめさせることは、愛と承認を失うことに、すなわち、原始的な絶望に直面しろと、その男の子に迫っているようなものだ。

     このように過去に否定された意識に上らない感情に基づいて現に行なっている行動は、すべて象徴的な行為である。要するに、その人間は、否定された古めかしい要求を充たすために、現在あることをやり通そうとしているのである。こうした無意識の要求に基づいて現に行なっているすべての行動を、象徴的な無意識の行動と呼んでいる。その意味で人格とは、神経症患者の象徴的な無意識の行為であり、神経症患者の自己保存の方法、それに、表情や喋りかたや歩き方に至るまで、古くて葬られたさまざまな感情に対する反応にほかならない。

     こうした慢性的で、神経症的な緊張を止めることができるものは、ただひとつ、結合だけである。他の行為は緊張を一時的にごまかすことはできるが、決して解決するものではない。生まれつきの緊張や基本的な緊張ないしは基本的な不安などというものは現実には存在していない。それらは幼かった頃の神経症的な状態から派生したものにすぎない。神経症とは、当人が意識しているかどうかにかかわりなく、緊張した状態のことうをいうのである。

     神経症とは防衛の同義語ではなく、人間のさまざまな防衛方法全体を意味する広義でいう言葉なのである。したがって、神経症のさまざまなタイプは、当人の独特な防衛機制を示しているにすぎない。神経症を患っているものは、日常生活のなかであらゆる種類の防御手段を用いるので、典型的なタイプなどというものもない。しかし、神経症の人間はあるひとつのスタイルをとりがちであり、たとえば、異常に知的なものにこだわる傾向がある。便宜上、これもある種の神経症と名づけることはできる。

     どんな神経症も例外なく、現実の感情を緊張に追いやっている非現実の体系の存在を証明するものであり、人間の感情と要求のほとんどは、似たりよったりのものである。複雑なのは、それらに対する我々の対処の仕方である。しかし、その下にひそんでいるものに、もし達することが出来るならば、その複雑さにかかわり合う必要はまったくない。

     原始的な苦痛が存在しているかぎり、神経症にかかっているものはそれらに対して構えざるを得ない。神経症の人格は、自分自身を守るために自らが見つけ出した、多少なりとも確かな方法である。原始的な苦痛を取り除くことは、とりもなおさず神経症の人格を取り除くことになる。つまり、最初の一連の原始的な感情が、神経科学的エネルギーであって、それがたえず肉体的な運動や内的圧力を強いる運動エネルギーや機械エネルギーに変化しているのである。

     操体でいう神経症患者の自力自療というのは、この変型したエネルギーを本来の状態へ戻し、内部的な力に強制されて行動することが二度とないようにするところにある。まず肉体レベルで自分の欲求が満たされたとき、快感がやってくる。そしてその快感に根ざした感情が喜びになる。逆に肉体の望みが満たされないときは、悲しみの感情が起こる。この喜びや悲しみの感情をつかさどっているのが、脳の前頭葉と言われているところだ。この部分は系統発生的にも新しい皮質で、高等動物ほど発達しており、快を味わうというように感情豊かに暮らすことは、前頭葉の進化により寄与するものと考えられる。

     神経症にかかっている実に多くの人たちが、不快感や怒りや恐怖といった動物的で情動的な反応があり、次にそれに根ざした感情から圧力を受けていると感じているために、興奮ないしは混乱しているのである。だから、じっと坐っていることが出来ず、いつも何かをせずにはおられない状態にある。それは緊張が、からだ全体に連動していることを証明している。感情を阻止され、要求が充たされないたびに、からだの全組織に影響をおよぼす内面的な圧力の度合いが強められることになっていく。

    明日につづく

  • 神経症15

     前回からの続き「神経症」について、もう少し続けてみる

     神経症にかかっている人間がはじめて精神分裂を起こすとき、視覚、聴覚、触覚でとらえた情報を一時的に蓄える働きをしている脳の記憶組織である海馬からその周辺の神経回路、さらに大脳皮質の連合野にも分裂が起こってくる。そんな記憶の内には、苦痛な感情とともにしまい込まれた現実の記憶の他に非現実的な体系と結びついている記憶も存在している。この非現実的な体系に結びつく機能というのは、苦痛につながれている危険性のある記憶について、それをこし分けて、ふるいにかけ、99%の情報は阻止する役目を担っている。

     だから子どもたちが新たに原始的な苦痛の情景に直面するたびに、そんな経験をより多く消し去ることを強いられることになる。その結果、それぞれの原始的な苦痛のまわりには、完全な意識からふるい落された連想がまとわりついている。このように精神的な外傷が強ければ強いほど、脳の記憶のいくつかの面に影響を与える度合いも当然強くなってくる。

     記憶というのは苦痛な感情に密接につながっており、人間の本能でもある健忘的な記憶は、意識的に合成し受け入れるにはあまりにも苦痛が伴うようである。したがって、神経症にかかっている人間の場合、いくつかの重要な領域の記憶が不完全であることもわかっている。

     原始的な情景にはじめて直面したときに、非現実の記憶の体系が芽生えるとする考え方は、いくつかのことを意味している。たとえば神経症の人間は、日時、場所、歴史的な事実、さらには自分の過去についてすら、恐るべき記憶をもっているが、それは「えっへん! どうだい、俺はすごく頭がよく、よく覚えているだろう」と言っている非現実の外面を支える働きをしているにすぎない。それは神経症患者の記憶の深い部分においては、全面的に阻止されているに違いない。非現実の自己の記憶は選択的で、緊張を和らげ、「自己」を助長するために心の奥深くにある闇の部分に絡みついているのだ。要するに、神経症の人間のすばらしい記憶なるものは、本質の記憶をはねつけるための防御にすぎないということが言える。

     そして緊張を伴わない神経症など絶対にあり得ない。ここでいう緊張とは、不自然な緊張のことで、これは正常な心理状態の人には無縁なものだ。いうまでもなく正常な緊張は、我々が生きていくうえで必要なものであるが、不自然な緊張とは慢性的なものであり、否定された感情と要求、あるいは未解決のそれらがおよぼす圧力なのである。神経症患者の臨床でいう緊張とは、いつの場合にも神経症的な緊張を意味しており、緊張の程度が弱ければ、その分だけ気分がよいのがふつうで、緊張が高いほど、気分は悪くなる。要するに神経症患者が見せる行動は、少しでも気分をよくしたいと自ら望んで行なっているものである。

     緊張が生ずる原因、それにその効用とはいったい何なのか? 神経症の一部を形成している緊張は、必要を満たしたり、破滅的な感情から人間を守ったりする方向に肉体を動員する、いわば生存のためのメカニズムであると推論することができる。いずれの場合にも、緊張はその人間の継続性と統合性を保ち続けようとする。たとえば、お腹がすくと、緊張が生じ、食べ物を探し、その必要を満たす方向に我々を向かわせようとする。

     小さな子どもの場合には、抱いてもらえず、元気づけてもらえないと、そこに緊張が生じ、必要に駆られて行動を起こす。また、いつも必要を充たされることがないと、満足感にありつけないことが耐え難い苦痛となって、その痛みを抑圧するために要求が抑圧され、それが緊張として残ってしまう。

     このように充たされない思いは、意識と統合され、解消されるまで、緊張としていつまでも残ることになる。要するに、小さな子どものときに経験した運動や感情面での重大な抑圧は、それが感じとられ、解消されるまで、要求として残るのである。

     こうして心の分離は、恐れによって保たれ、苦痛の原因となる要求や感情が、意識に近づくことで信号を発するようになる。そんな恐れは防衛機制に行動をとらせ、要求をしりぞけたままにしておくためにありとあらゆる手段を講じてしまう。その恐れは生きていくためのメカニズムの一部であり、自動的に反応する。ちょうど我々が注射を受けるときに緊張するのと同じように、それは打撃に対して守りかためる体制をとる。その体系がうまく苦痛を払いのけることができないと、意識的な恐れ、すなわち、不安が生ずることになる。恐れもまた、通常の意識に感じとられることがない。それは蓄積された緊張の一部となってしまう。

     不安というのは、感じととることが出来るが、きちんと焦点が定まっていない恐れのことであると、定義することができる。不安は防衛機制が弱まり、恐れの感情が意識に近づくときに呼び覚まされ、その感情が結合していないために、不安の焦点は定まっていない場合が多い。不安の根源は、愛の欠如、すなわち誰からも愛されていないという恐れにこそある。大抵の人間は、自分は愛されていないのだという感情を脇に押しやるために「人格」というものをつくりあげ、それで不安そのものをふせぎ止めているのである。

    明日につづく

  • 至高の日々(岡村郁生)

    今日6月26日がお誕生日の貴方、お誕生日おめでとうございます。
    至高の一日を愉しんでお過ごし下せるようお祈り致します。

    日々の思考が試行を産み、試行は指向を確立し、至高を生む。
    悶々と日々を過ごしつつ、嬉々としない自分に不安を生み出す。

    脳で作った一時の安心感の姿、映し出された姿にこだわらず、呑気に
    いたらそこにあったのは、そのものでいいんじゃないか。
    考え続けた挙げ句、自分は映し出されている幻ではないか…と。

    否!ふと起きた瞬間にソレに指導されてしまう。

    「本当に大切なことを伝えていないから ”からだ” は訴えているんだ 
    オマエさん 一体今迄ず〜っと何を教わってきたの
    いったい なにをおそわってきたの
    人を感動させるために 自分自身を感動させたいから学んだんだろう
    いいか 臨床の組み立てを自分勝手なマスターベーションにするな
    オマエさんの本当に ”からだ” を通して伝えたいことが
    いつも気分を生み出しているんだからな」

    う〜ん、気分って言われてもなァ・・・。
    すると、めくっていた本に ”目線”が飛び、ヒントを観る。

    小脳の ”無意識”的能力は”意識”に不可解なのである。
    それは、”直観的”にしか捉えられないもの。

    ”意識”は限られたモノ・コトに向く注意の集中でもあり
    “集中しているモノ・コト以外は無視する”という作用もある。

    ”非意識的な行動”には、”技能の習得こそ必要”なのであり、
    技能とは、”意識的な努力の継続”によって得られる。

    つまり、非意識的な行動に至るには、”努力の継続”こそ必要。
    確定的にではなく、試行錯誤しながら”臨機応変”に行動すれば、
    動的平衡=調和=バランス現象”をいつの間にか得てしまう。

    「構造」を中心に考えると、客観的証明が必要となるかわりに、他人
    とも共有できる情報となり、見て判断し脳の海馬に記憶されていく。

    「ツクリ」はそれ自体で価値があり、生きている限りの条件を伴う。
    生命は誕生以来(+)エントロピーを発生して変化し続ける。
    ゆえに「構造」は常に変化して、崩れてゆく方向を露呈する。

    ソレを少しでも留め「構造」を維持するように働きかけるので、エネ
    ルギーが必要となっている。

    ただし「食」でカバーされるので、崩れていく量に比例して、「食」
    の個体差は大変な”偏差”を生んでしまう。

    エネルギーは「うごき」で「動的平衡」と共に主観的なものである。
    本人のわかることが必ずしも客観的情報となりうるワケでないように、
    ”個”のバリエーションに富んでいる。

    ”無形”なるモノは、自在に動くことが可能だ。
    それは、見えていないからこそ成立しているのである。

    動きの大きいもの程、形は無いに等しく見えないものは他人の目で確
    認したり、情報と共に海馬へ取り込むことは、”一見”困難でもある。
    この主観的「うごき」は、形にするごとに制限を受け、反比例している。

    本来、生きているという条件を付与されていた「構造」の維持は(+)
    エントロピーだが、生きていようと死んでいようと大差ないのは「動
    的平衡」つまり、見えないものを含んだ「うごき」の本質であり、か
    いつまんで言えば、”万物に共有されている”のである。

    それならば”客観的”でもおかしくないが、そう簡単なことでもない。

    その理由をいくつか挙げてみると、「見えないもの」の特徴として、
    感じとっていくものであり、積み重なったシステムで成立されており、
    不自然な縮退部位は”歪み”として具現化し、理屈ではなく理解する
    形質として進化し”説明”ではなく”納得”を受け入れる性質なのだ。

    以上の点から考察を纏めてみると・・・。
    本能的ではあるが、すぐさまわかるものでない故に、人はわからない
    ことが、面白く感じられるが如く、生と死の本質こそ「バランス現象」
    ともいえるのではないだろうか?

    至高という言葉の意味は、「この上も無いこと、最高」
    指向という言葉の意味は、「ある方向、目的に向かうこと」
    志向という言葉の意味は、「意識が一定の方向に向かうこと」
    試行という言葉の意味は、「ためしにやってみること」
    思考という言葉の意味は、「経験や知識を元にあれこれ考えること」
    嗜好という言葉の意味は、「あるものを特に好むこと、それに親しむこと」

    「しこう」とは、なかなかいい言葉である。
    操体」の学びにもパッと浮かぶような言葉であり、なにか馴染みやすい。

    120才まで愉しめるように学べるのも「操体」ならではであろう。

    ヒトは一二〇歳まで生きられる―寿命の分子生物学 (ちくま新書)

    ヒトは一二〇歳まで生きられる―寿命の分子生物学 (ちくま新書)

    それでは一週間(迷走していましたが…笑)ありがとうございました。
    明日からは、西のお師匠様である日下実行委員の登場です、お愉しみに!!

  • 幻想と妄想には脳の働きかけがある

    今日、6月27日がお誕生日の皆様、お誕生日おめでとうございます。

    ほんの少しでも嬉しいことがあったら、大げさに感謝して下さいネ。
    感謝と感激と感動と感銘と歓喜と感嘆ってね、有り難うございます
    の成分がタップリ入ってるのよ!まァ・・・成分は見えないンだけど、
    欲張っているとわからないから、ほんの少しでも感謝するの(笑)

    ブルーハーツの歌で「あれも欲しいこれも欲しい、もっと欲しい、
    もっともっと欲しい〜・・・」って始まる歌詞があるんだけど、
    あれは別ね、今でも名曲。

    夢

    「起きて半畳、寝て一畳」って言うじゃない?割と有名な諺なんだけど
    トルストイってロシアの書いた民話に『人はどれだけ土地がいるか』
    にも、これと同じような内容が書かれているの。

    あるところに広い土地が欲しくなった農夫が、広い土地を持つ商人と
    契約したのよ、その条件は”1000ルーブリで一日歩きまわり、元の位置に
    戻ってきた分だけ、アナタの土地と認めよう”ってことなのね。

    で、農夫は日の出から歩き始めてアッチの丘も欲しい、コッチの野原
    も欲しい、まだいける、まだもう少しって欲が出てしまって、結局日
    没迄に戻った時、出発点を目前にして倒れてしまうのが悲しいわね。

    ケツ論としては、農夫に必要だったのは、彼を埋葬する為の土地だけ
    ってコトなんだけど、「土地」を例えば「情報」って置きかえてみると、
    意外に「情報」の未消化や食あたりや血行不良ってありそうじゃない?

    プロレスの芸術技ジャーマンスープレックスをもじって言わせて頂く
    なら、言いっ放しジャーマンとか書きっぱなしジャーマン?って感じ
    で受け手も怪我しやすくて、柔道の巻き込みと同じようなものなの。
    ヤルならチャンと、余韻まで味わうようにキッチリ決めなきゃねぇ。

    「臨床」も一緒、無暗に手を付けて知識だけ増やすのも同じ。

    未消化のままなら、知識が多ければ多いほど空回りする事もある。
    22日「NHKのサイエンスZERO」の放送で、脳は「ボ〜ッ」としている
    時に、重要な働きがあるって可能性を特集していたわね。
    (おススメ:デフォルトモードネットワークで検索)

    昔の諺に「日の下に新しきものなし」って言うんだけど、ゲーテ
    「幸福になりたければ、小さな世界に生きよ」って書いているのよ。

    ワタシ自身、3年前から♀の猫チャンと同居しているんだけど、彼女
    がいつでも一番気持ちよさそうな場所を見つけてボ〜ッと寝転んでる
    のは「快」って感じね。感覚的状態で脳とからだは仲良くする限り、
    一番いいところをチャンと知ってるって感心するばかりよ、ホント。

    大人になると、割にハートをボイルドするじゃない?
    ハードボイルドで包み隠さず、お気楽な極楽も忘れないでネッ。

    では、今日もお付き合い頂きまして有難うございます。

  • 自分自身を塗り替えていく日誌

    6月26日木曜日。今日がお誕生日の方々おめでとうございます。
    ヒトとして生まれてきたからこそ味わえるのも誕生日ですね。

    もし、私たちが魚だったら?どんなことを考えているのでしょう?

    胎児の時魚だった記憶は失われていても、どこかに納まっているだけ
    で、静まっている理由は”意識されなかった”だけ、なのかもしれない。

    徐々に進化という形を取り、生存確率を上げてきた私たちの”からだ”。
    「性」エネルギーを通じつつ、想わぬところで面白い生命連鎖を生む。

    日記を綴り気になる本を読み「ん!」と繋がる”ことのは”を記憶する。
    「まず書く、そして書きつぶす。また、書き足す。
     その後をまた、青や茶の鉛筆であとづけしていく」

    芥川賞作家の大江健三郎氏の言葉ですが、この書き方って・・・(笑)
    そのまんま、三浦寛理事長のノート記載方法なんですよね。
    しかも大江氏は続けてこのようなことまで語っています。

    「・・・私たちの日常使っている言葉は無意識的、反射的に使われている。
     言葉はものを包装紙で包んだようなものである。
     書いて初めて明瞭になり、ものが見えてくる。
     つまり、人間の意識は言葉に出会ってはじめて考えはじめる。
     自分にとって、あいまいに生きた生に形を与えることであり、自分の
     生き方をとらえなおすことだ」

     
    さて、行動を起こすのは、今。
    「いいね!」と感じたら進化です。

  • 今日6月25日誕生日の方々、お誕生日おめでとうございます。
    意識で始めたら今も未来の羽扉、羽ばたいて下さい。

    ということで、羽にも筋、筋金入れて更新するお題は”筋”。

    筋肉を覚えなければ、身体を扱うエキスパートにはなれない。
    そう考えているセラピストは意外に多いように思う。
    なので、筋肉の名称やら、始まりから終わり、支配する神経、
    まあ、人間ってのは覚えたら使いたがるのが常である。

    ただ、ちょっと考えてみたらわかるように、動かない筋肉の
    動きをイメージで目の前に生きている人間に当てはめてみて、
    どの程度分かっているといえるのだろう?考えてみてほしい。

    勿論、人様の身体に触れるなら知っておくに越したことはない
    し、それを学び、記憶して、克明に描き出すことができてこそ
    臨床のセンスに繋がってくることも、確かな事実としてある。

    一つの例を挙げよう。

    実際のからだは、一か所の筋肉のみ動かすことなど出来ない。
    例えば、表層筋と深層筋に分類できるのは、一体何故なのか?
    例えば、横紋筋と平滑筋に分類できるのは、一体何故なのか?

    …これらの分類をする目的はなぜ必要だったのだろうか、と。
    それは、細分化して識別したかったからであろうし、識別して
    機能を一致させておくことで、安心したかったのであろう。

    そう、安心なのである。これは「楽」と置き換えてもいい。
    人間の性(サガ)というか、知識的要求として、不安定な状態を
    わかりやすい”カタチ”で理解し安心していたいのであろう。
    いわば、「型」創り上げるプロセス、そのものなのだ。

    表層筋ならば、瞬発的で急速な脱力にも十分対応できるだろう
    し、さらに言えば、多くの関節をまたぎ一気に動かすのも有利。

    深層筋ならば、可動域は狭くなる代わりに安定性はぐんと増す。
    また、持続的な動きにも対応しやすく、血行上も疲労しにくい。

    ゆえに、表層筋群は「白筋繊維」が多く認められ、深層筋群は
    赤筋繊維が多く見て取れる。(赤=ミオグロビンの働きによる)

    ここで一息入れてほしい。先日の三浦寛理事長のブログにあった
    呼気は「オッオッオッ」と、吸気は「ホッホッホッ」と通しつつ
    しばらく「息(ソク)」を通して落ち着いたら、もう一度・・。

    操体」では、人の動きはどんなに多様に見えても、どんな複雑
    な動きでも、分類したうごきは”八つ”なっていると学んでゆく。

    まるで、生き生きと活性化した土壌を自在に動き回る、その土壌
    こそが、植物的「快」の土台となって、私たちを生かしてくれる。

    からだは、常に連なって動く。「連動」しているのが、「からだ」
    それを診て摂れるように(息を通して観ることで共有できる土台)
    学ぶことができるから、「操体」は面白い。

    シンプルでブレがなく、愉快に学ぶ…植物と共に羽ばたく可能性!
    では背中に仕舞った羽を広げつつ、ありがとうございます。

  • 今日、6月24日誕生日の方々、お誕生日おめでとうございます。

    このブログをご覧になっている方々ですから、操体に興味がおありで
    操体法操体について、何かを求めつつ読まれているのでしょうね。

    つい先日の話、三浦寛理事長と個人レッスン中こんな語りを頂いたの。

    ・無知←何もしらないこと
    ・無智←わかっているのにやらないこと

    コレ、面白いから帰ってきて辞書で調べたら、明確な違いとしては書
    かれていないのよ、だから”意識”を通して味わっている言葉なのね。

    わかるわ〜わかっちゃうのよねコレ、だってワタシやってるもの(笑)
    敢えて、ヤッた方が良いな〜って知りながら、思いつつも避ける(笑)
    そんな私が憎めなかったりするから、始末に負えないのよね、ホント。

    ただ不思議なのよね、操体のこととなると別!愉しいから別腹なの!
    手間暇かけた愛のスープでグツグツ煮込むコトって伝えたくなるの。

    勿論それはいいコトなんだけど、つい難しいコトを言いたくなるのヨ。
    それをまるで、怪傑ズバット(←古い?)語ってくれちゃう方々は素敵
    なのよ、本当に命懸けで「操体」を大切に、丁寧に扱い、余すことな
    く”意識”で頂いてこその、創始者の”弟子”の風格ってあると思う。

    それは橋本敬三師の直弟子、三浦理事長とその直弟子畠山常任理事ね。
    だから、食わず嫌いはやめて東京操体法研究会に参加すればいいのよ。

    操体の創始者から直接学んでいる弟子ならではの違いって感じるの。
    ワタシもレッスン中に、よくお会いしたことはない橋本敬三先生のこと
    を感じちゃうの、空間を超えて旅するような気分を味わって欲しいの。

    そうそう、「大人が何か勘違いをしている」(生体の歪みを正すp45)って、
    橋本敬三師も書かれているから、興味がおありなら読んでみるといいわ。

    確かに知恵が無いのは幼子の振る舞いが如く、微笑ましくもあるけれど、
    大人になってくると”ずるさ”を創り出す知恵があって、できる筈のこと
    を先延ばしにして、気持ち悪いわね。
    本人は上手く誤魔化してるつもりでも、「からだ」はオミトオシなのよ。

    だから、知ることを知り学ぶべきことを学び、なすべきことを為し得ず、
    いま、貴方が幸せって何かしら?とか考えていられる余裕があるのなら、
    周りの人はともかく、少なくとも貴方は他人からすれば幸せなはずなの。

    行動できるのなら、考えるより先に行動したママを味わって欲しい。
    マンマじゃないわよ、お飯(マンマ)はママの後で十分だから・・・。
    そう、ママってのは大自然のおっかさんのことなの、わかるかしら(笑)

    わからなかったら「人生読本『人間の設計』NHKラジオ第一放送“S56”」
    を手に入れて聴いてみること、これは聴くのなら若いうちがいいけれど、
    モチロン年を重ねている方々にも強くお勧め。

    ・・・ということで、チーママ?のワタシが担当する一日目の今日は、
    素朴な人の持ってしまいがちな欲望について・・・、ご一緒致しました。
    また評判が悪くなければ、ワタシがしっぽり書かせて頂くことにするわ。

    では皆様の今日も、佳き朝、佳き昼、佳き夜に向かわれますように!
    ホッとオシリの力の抜けたお付き合いを、ありがとうございます。

  • 今日、6月23日誕生日のかた、お誕生日おめでとうございます。

    このブログをご覧になっている方ですから、操体に興味がおありで
    操体法操体について、何かを求めつつ読まれているのでしょうね。

    「世の中には喜びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局
     のところたった一つ、愛することができるという喜びなのだと。
     愛することと喜び、この二つは一つ、同じものなのだ」

                        =ミヒャエル・エンデ

    もともとのからだは、きもちがわるいって意識できるんだから、気持
    ちのわるさから逃げればいい、それできもちがいいってこともわかる
    ようになってるんだから、ありがたいって想うコトは自己責任ですね。

    やってみなくちゃわからないことだらけの世の中で
    やっているだけで充分に満たされていくこともあるよ
    それを天然自然にそった生きかたというよ

    あらためて探す必要などないけれど
    かぎわけてあじわう努力はしよう
    それはあなたのためだけでなくみんなもよろこぶよ

    よろこびとよろこべることはちょっとちがうよ
    よろこばしいことはよろこべるけれど
    よろこびがあってもよろこばしくないこともあるよ

    すべてかぎわけてあじわってみたらいいよ
    だってそうなっている”わけがある”んだもの

    ・・・イノチとかけて臨床をまなぶ・・・
    そんな生きかたなら一生愉しめそうですよね、先生!