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  • 環境を変える 環境が変わる

    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。

    ハスのしずくも美しい。
    暑い日も、ハスを見ていると、涼しく感じます。
    外では、蝉が鳴いています。
    いよいよ夏本番です。操体マンダラもだんだんと近づいてきました。

    ”意識”を受け取ること。それは”いのち”を受け取ること。
    まだまだ”意識”の旅は続きます。
    自転車からみえる景色をたのしみながら、”意識”を旅し続けたいと思います。

    一週間、ありがとうございました。
    明日からは、さわやかで情熱的な瀧澤実行委員です。
    皆様、おたのしみに。

  • 環境を変える 環境が変わる

    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。

    モンステラの葉からこぼれる、しずく。
    植物の美しさにうっとりします。

    ”意識” 
    ”いしき”
    ”イシキ”

    私が思考していることが、ますます”意識”というものを遠ざけているような感覚を持ちながらも、思考している私がいます。
    この思考している中に、意識はあるのでしょうか…?
    いまここにあるすべてが意識だとすると、求めないことが必要なのでしょう。

    三浦理事長が講習会の中でお話される、

    「受け取ればいい」…ひびいてきます。

  • 環境を変える 環境が変わる

    自宅前の紫陽花が、今年はまだ咲いています。
    例年だと梅雨明し、雨が減り、気温の上昇につれ、紫陽花も段々、来年の準備に入ります。
    ここ数日、関東は雨が降っていることもあり、とてもいきいきと咲いています。
    美しい色で歩道が華やかです。

    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。

    「意識の中に自分はいる。」
    さて、”意識”とは?
    ”意識”とはなにを意味するのでしょうか。

    私が…私が…
    私の中に意識があると思っていた数十年でした。
    しかし、「意識の中に、私は存在している」のだと学びました。
    では”意識”とは…

    波動の法則―宇宙からのメッセージ

    波動の法則―宇宙からのメッセージ

    以前に、岡村理事のブログにも上記の本について紹介されていました。
    この本によると、
    意識=中性子=調和
    意志=陽子=愛  と記載があります。

    あらゆる物質の元になっている原子核の中にある、中性子
    その中性子=意識

    今日も”ハッピー”を感じる学問があります。
    学ぶことができる今日に、
    ありがとうございます。

    7月21日開催、操体マンダラ
    ここにも”ハッピー”の予感がいたします。
    ご興味のある方、ぜひお出かけください。

  • 環境を変える 環境が変わる

    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。
    アサガオ」のツルについて、少し調べてみました。
    ”巻き”と捉えると、 ツルの観察の仕方(見方)で、 左巻き、右巻き、
    どちらともとれるようです。そのため、左巻きなのか右巻きなのかについては、
    定義が難しいようです。
    しかし、アサガオの方から観察すると、ツルは左へ左へと回りこみながら
    成長していくようです。

    昨日に続き、書きます。
    「必要以上に様々なことが気にならなくなる」
    そして、
    「今まで気づかなかったことに、気づけるようになる」
    この繰り返しの中で、私に、充実感や幸福感という”ハッピー”がうまれているのです。

  • 環境を変える 環境が変わる

    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。

    東京都内では「朝顔市」や「ほおずき市」などの開催される季節です。
    夏の植物たちが、街を活気ずけています。
    「あさがお」は、一年草です。そして、ツルは左巻きなんだそうです。
    皆さんはご存知でしたか?左巻きにツルが伸びているようです。

    昨日に続き、書きます。
    自転車に乗りながら、移り変わる景色をたのしむ毎日は、
    続いています。
    ”意識”について学び続けていると、ますます景色は色気づいてきます。
    雨の日、歩いている景色も興味が湧いてきます。
    帰り道、夕方の景色にも興味が湧いてきます。
    「意識のなかに自分がいる」のです。
    日常に流れていく、すべてに”ハッピー”が満ちあふれています。

  • 環境を変える 環境が変わる[香(こう)]

    7月7日。「たなばた」です。
    幾つになっても、おりひめとひこぼしを思い出してしまう、香です。
    皆さんはいかがでしょうか?

    現在は「七夕」ですが、古くは「棚機(たなばた)」や「棚幡(たなばた)」と
    表記されていたようです。たなばたは、元々はお盆行事の一環だったのですね。
    現在「七夕」と表記されるのは、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であったことから、
    「七夕」となったようです。

    たなばたは、笹ですね。
    笹が風に揺れて、奏でるメロディーは、暑さを忘れさせてくれます。

    さて、昨日の続きを書きます。
    「自分の中に意識があるのではなく、意識の中に自分がいる」ということが
    腑に落ちた日から、様々な変化が起こりました。
    一つは、朝自転車で自宅から、駅に向かう景色がたのしくなりました。
    「私」の意識が変化した事で、毎日の何気ない景色がたのしみになったのです。
    決して、景色が変化したのではないのです。
    このたのしみにご興味がある方、ぜひ2014年操体マンダラへお出かけください。7月21日海の日開催です。
    様々な変化を感じる中で、実感した事があります。
    それは意識が変わると「私」のおかれる環境は、
    確実に変化して行くということです。
    ”はっぴー、ハッピー”という感覚です。
    「意識のなかに自分がいる」のです。
    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。

  • 環境を変える 環境が変わる [香(こう)]

    今日から一週間担当致します、香です。
    よろしくおねがいいたします。

    暑さなんか、なんのその。
    今年も私の好きな、”ルリタマアザミ”が咲き始めました。
    この花を観ていると、とても強いエネルギーを感じます。
    その季節に似合う花が、自然界から届くのだと感じながら
    眺める今年の”ルリタマアザミ”もきれいです。

    以前に講習会の中で、「自分の中に意識があるのではなく、
    意識の中に自分がいる」と三浦理事長に教えていただきました。
    学んだ日から、月日が流れるほど、経過するほど、この言葉が私の中で
    「いきている」と感じています。
    初めは、言葉で、頭で理解をしていました。教えていただいた日から、
    数日は毎日ノートに書いてあるこの言葉を何度も何度も繰り返し読み返しているだけでした。
    言葉を言葉としてしか受け取れなかったのです。
    しかし、繰り返し読む事を続けているある日、腑に落ちたのでした。
    この感覚は、私にとってとても心地のいいものでした。
    つづきはまた明日にいたします。

    2014年操体マンダラは7月21日海の日開催です。

  • 神経症21

    昨日のつづき

     子どもは生まれて間もない歳月のうちに、他に方法がないことから自分自身を締めだしてしまう。声が大きく口数の多い子どもは、息子や娘が礼儀正しくおとなしい子であって欲しいと願っている抑圧された両親に、そう長い間、大目に見てもらえるとは思えない。親たちは子どもがそうした振る舞いをしなくなるまで、暴力やせっかんをするであろう。そこで子どもは、自分の一部に対して死刑を宣言しなければならない。その子は自分ではなく、両親にふさわしい生き方をしなければならない。同じ種類の行動は、両親が子どものためにあまりにも多くのことをしてやるために、子どもが自分のために何の努力もしないですむ場合にも生じる。その子どもは、いわゆる両親の親切に窒息しているのである。

     もしも非現実の装いが効果を発揮できなかったときや、両親から人間的な反応を引き出せない場合には、子どもはもっと絶望的な防衛手段をとらなくてはならない羽目に追い込まれる。子どもは両親の機嫌を損ねないように、あるいは暖かく親切にしてもらうために、自分自身にまつわるすべてを締め出すことだろう。子どもは、まるでコンピュータのように硬直した、形通りの話し方をすることになる。そうした子どもの考え方は、小さく凝り固まった幅の狭いものとなり、目を細めうかがうような目つきをするようになる。要するにそうした子どもは、自分の両親を人間らしい人間にするために、自分自身の人間性を殺してしまったのである。そんな子は両親のために、ついには自分自身を裏返しにしてしまう。男の子が女の子になってしまう現象がそれだ。

     操体のようにインテグラルな反応だとする見方は重要である。愛の要求は、考え方を切り替えれば変えうるような、ただ単に大脳だけに絡んでいるものではない。愛の要求はからだの全組織に連動し、いきわたっているもので、当然に肉体と精神の両方を歪めることになる。その歪みが心の防衛である。

     緊張を押さえきれないと、その結果として症候が現われる。子どもはマスターベーションをし、親指を吸い、爪を噛み、オネショをしたりする。これらはより強力な解放を求める手段なのである。ところがあまりにもしばしば見受けられることだが、両親は子どものためを思って、緊張のはけ口であるこれらのことをやめさせようとして、問題をいっそうこじらせ、もっとほかの手段を子どもに探すことを強制する結果を招いている。ある患者は、自分の胃の調子が悪いと両親が信じていたので、自分は絶えずおならをしていたと訴えた。「おならは不随意なものだと両親は考えていたので、それだけは受け入れてくれたのです」と患者は語ってくれた。

     小さな子どもは、問題を抱えているのは両親の方であることを理解できない。両親の問題は自分が行なうこととは関係なく存在していることを、子どもは知らない。両親のいさかいを止めて、両親らを幸せにしてあげることや自由にしてやることが、子どもの役目ではないことが子どもらには分からない。子どもは生きていくために、自分にできることをしているのである。

     生まれて間もないときから馬鹿にされつづけてくると、子どもは自分に何か欠点があるのだと考えざるを得ない。子どもは気に入ってもらおうとあらゆる方法を試みるが、子どもが行わなければならないことは、悲劇的なことに、両親が自分たち自ら自由になり幸福になるすべを知らないがゆえに、漫然としている。両親が自分の気持ちを引き立ててくれないので、子どもは自分自身に頼らざるを得ない。子どもは目に入るものを手当たり次第に食べ、誰も見ていないときには、親指をなめ、マスターベーションをし、やがては誰ひとりとして慰めてくれない苦しみを和らげるために自分で薬を打つようになる。大人になったときには最早、ただたんに神経症にかかっているだけではない、もう立派な神経症そのものになっている。

    明日からの担当は香実行委員です、爽やかなそよ風をお贈りします。

  • 神経症20

    昨日のつづき

     心の防衛機制に関する概念は、フロイト学派をはじめとする多くの心理学理論のなかに見出すことが出来る。しかし、操体のような原始感覚的な理論からいくと、あらゆる防衛は神経症的なものであり、健全な防衛などというものはまったく存在しないと定義できる。フロイトの健全な防衛という考え方は、基本的な不安は保持されるべきものであり、すべての人間において遺伝的に備わっているものである、とする仮定に基づいているのだが・・・・・・。

     原始感覚的な理論では、正常な人間に基本的な不安が宿っているとする考え方を認めるわけにはいかない。なぜなら防衛というのは精神を生物学的な現象であって、単なる精神的な行動ではないとしているからであり、収縮した血管と強迫性のおしゃべりは、防衛であるという点では変わりないからだ。

     原始感覚的な考え方からすると、防衛とは、原始的な感情を自動的に阻止しようとする一連の行動である。腹部が自動的に引き締まるとき、ある感情を呑みこむとき、追い詰められて顔が痙攣するとき、肉体というのは確実に感情を押し殺しているのである。

     心の防衛には不随意防衛と随意防衛に分けることが出来る。不随意の防衛は原始的な苦痛に対する精神と肉体の自動的な反応で、幻想を描くことやオネショ、それに反抗やまばたき、そして筋肉の緊張などを列挙することが出来る。これらは日常的に、まっさきに使われる防衛のやり方で、子どもたちに生得の防衛でもある。たとえば呼吸器官の収縮は、子どもの声の調子と音質に影響を及ぼし、呼吸器官の収縮の過程とその結果生ずる押し殺された声は、人格組織に織り込まれ、その一部となってしまう。こうして人格は防衛のまわりに築きあげられ、防衛の不可分な一部となることだろう。

     また不随意の防衛には緊張を高めるものと緊張を解放するタイプがある。胃の筋肉の収縮は、感情を鎮めるが、その結果、緊張が生ずる。意識的な防衛が弱まっている夜中に、床のなかでおしっこを漏らすのは、緊張の不随意の解放である。他に不随意の解放としては、歯ぎしりや溜息、それに悪夢などがある。

     一方、随意の防衛は、不随意の解放のメカニズムがその任務を果たし得ないときに限って働く。それは喫煙や飲酒や薬物の使用、過食などが、随意防衛の例である。それらは強い意志の力によって、やめることができる可能性をもっている。しかし随意の防衛は、過剰な緊張を解放するために必要とされるものであって、たとえば交通整理の警察官に荒い言葉を投げつけられただけで、神経症にかかっている人間の外面的な人当たりの良さは破壊され、酒を飲む必要が生じてくる。このように随意と不随意の防衛形態の目的は、現実である本物の感情を排除することにある。

     こういった心の防衛は昼も夜も休みなく機能しており、たとえば女々しい男が眠っている間に突然、男っぽくなったりすることはない。その男の女々しさは、起きているときも眠っている間も繰り返されている精神物理的な出来事である。それは有機生命のなかに深々と織り込まれているのであり、要するに、当の本人が自分の自然な傾向を感じとれないために、不自然な行動が規範になっているということだ。自分本来の自己を取りもどすまで、そうした人間は、現に行なっている歩き方や話し方、あるいは行動しかとれないのである。

     大体において両親は子どもに、そのような防衛を要求している。そして、子どもたちはひっきりなしにしゃべり、生意気な言葉を使う子どももいれば、黙りこくっている子どももいる。どちらの子どもも、両親の要求を感じとり、それに応えているのであって、どちらの子どもも、自分自身の一部を締めだしているということだ。

     このように心の防衛は有機生命を保存するための適応メカニズムとしてすばやく行動に移る。その意味で神経症は、我々全員が遺伝的に備なえている適応能力の一部とみなすことが出来る。神経症は適応能力であるから、神経症をショックで与える装置などで吹き飛ばしてしまうわけにはいかない。防衛は、人間がまったくそれなしで振る舞えるようになるまで、慌てずに順序立てて一時に少しずつ剥ぎとっていかなければならないものである。

    明日につづく

  • 神経症19

    昨日のつづき

     緊張は肉体のあらゆる部位で感じとられるが、それが集中する特別な器官が存在している。それはまぎれもなく「胃」である。腹部全体におよぶ胃の筋肉の強い収縮は、神経症にかかっている人間の内面的な痛み止めのようにさえ思える。だから、従来からある精神療法の多くは、患者の腹のまわりの緊張をやわらげることを中心にしているが、それらがまさにそのことを証明してくれている。

     神経症患者のほぼ全員が、胃に緊張が集中していると訴えているのは決して偶然なことではない。「言いたいことを、飲み込まなければならなかった」、「それについて我慢できない!」、「あなたの根性が憎い!」、「腹を割って話し合おうじゃないか」といった物言いは、その重要さを証明している。

     神経症患者は精神療法家が緩めてやるまで、自分の胃がどれくらい緊張しているか気づいていない場合が、きわめて多い。サイコ・セラピーなどを施している間に、緊張が胃を離れ、上へ昇っていき、胸がしめつけられ、次にのどに圧迫を感じ、歯ぎしりが起こり、顎が緩む。そして肝心なことを口にすると、もうそんなことはなくなる、と神経症患者たちは口々に訴える。

     「苦痛が胃から口へ昇っていくのを目撃できる」というのに抵抗を感じるかも知れない。しかし臨床の現場では苦痛はカラダのなかをのぼってゆき、叫び声となって口から出てゆく。そのとき患者は、はじめて自分の胃にしこりを感じなくなったと訴える。それまでは緊張のために胃が明らかに小さく固まっていたので、食べ物が完全に消化されることはなかったのである。

     しかし緊張のために、食べ物をとれなくなるとは限らない。その反対のことが起こる場合もある。食べ物を詰め込むことによって、自分の感情を押し戻すのである。緊張には降下と上昇の両面の現象がある。緊張の上昇は防衛機制が弱まり感情が意識に近づくときに起こる。不安という緊張の上昇は、食べ物をとることを不可能にする場合が多い。一方、緊張の降下は、神経症患者の感情を食べ物によって食い止め、緊張が不安に転じないようにすることを可能にする。一般的に言って、極度に体重オーバーな人は、深く隠された苦痛の持ち主であると言える。そのふくよかな脂肪の層は、緊張の降下に対する絶縁体の役割を果たしていることになる。操体で言う「アンバランスのバランス」とはこのことだ。

    明日につづく