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  • 無意識とネガティブ・エネルギー

     我々におけるすべての成長や変化は 「自分は本当に誰なのかを、さらに思い出してゆくプロセス」 だと言える。 我々は無限の一面であり、もうすでに、本当は無限の存在なのである。 ところが、この物理次元にあまりにも意識の焦点を絞りすぎたために、全体の意識としての自分、無限な存在としての自分を忘れる才能を身につけてしまった。

     

     自分の意識を、いろいろな小さな部分に分けてしまって、特定のエゴの部分や性格の中に閉じこもったままにすることを覚えてしまったのである。 なかなかすごい概念を創り出したわけだ。 例えば我々は、本当はたった一つの意識でしかないのに 「表層意識」 と 「潜在意識」 というものを創り出した。 実際には、いわゆる 「無意識」 は存在しない。 

     

     だがしかし、いま見たくないものをしまっておく場所として、「無意識」 を創りだしてしまったのである。 その中にはポジティブなものも、ネガティブなものもある。 こういった無意識レベルを持つことの長所は、物事をひとつずつ体験できるという便利さである。 この物理次元は、本質的にひとつずつ、時間に沿ってものを見ていく次元であるが、統合された意識では、すべての次元の現実で起きていることを、一度に見ることができる。

     

     無意識レベルを持つことのネガティブな側面は、自分で見たくないものや怖いものがあるとき、それを無意識の中にしまい込んで知らん顔ができることだ。 そこにない振りをしても、実際になくなったわけではない。 しまい込んだものは時々出てきて、我々の肩を叩いては 「ほら、私はここにいるのだよ」 といって知らせようとする。

     

     しかし、いつかは対処しなければならない。 だから 「忘れたものを思い出す」 という概念は、別の言い方をすれば 「統合するプロセス」 であると言ってもよい。 日常生活の中の性格を形作っている分離された部分を、再び、ひとつに統合するプロセスであると言える。 

     

     また、時間と呼ばれているものも、我々の幻想であり、我々が創り出したものも、単なる道具でしかない。 我々なくして、時間は存在し得ないものだ。 我々が過去世、来世と呼んでいるものもすべて 「いま、ここ」 に同時に存在している。

     

     はっきりしているのは、いま、この人生が、我々が焦点を合わせている人生なのである。 他のすべての人生からも、常に情報が現世に漏れてきている。 ただ、普段はあまりこのことに気づいていないだけである。 なぜなら、この人生の中にうまく当てはまるような形で入ってくるからだ。 だから、他の自分の人生から、テレパシー的に直接情報が入ってきたとき、それを、当たり前のコミュニケーションととらえず、想像とか空想、インスピレーションと呼んだりしているのだ。

     

     同時に他の人生にも必要な情報が、この人生から様々な方法で伝達される。 だから、前世や過去世などにつながりを持つとき、 「私は、この人生だけの存在ではない。 いま自分が持っている性格だけがすべてではなく、それを超えた存在なのだ」 と気づくことができる。

  • 占星術とネガティブ・エネルギー

     2015冬季フォーラムでは 「スピリチュアリスト、臨床家がネガティブなエネルギーから身を守るには占術を臨床に活かす」 というのがテーマであった。 私も僅かの期間ではあるが、占星術に関わっていたことがある。 占いには四柱推命やタロット占いとか、ほかにもあれやこれやといろんなものがある。 こういった占いに関して少しコメントしてみたい。

     

     占いというものはすべて、自分の超能力の部分であるアストラル体に、どのように同調したらいいのかを知っているということだ。 占い師は媒体、すなわち引き金となるだけである。 ここで占いの本質について述べると、未来の予言というものは、存在しないということだ。 しかし、未来の予想を感じる事ならできる。 

     

     予言をするとき、その占い師は占う相手の 「今の」 エネルギー、すなわちネガティブなエネルギー、若しくはポジティブなエネルギーを感じているということだ。 ただし、占い師が 「本当にその人のエネルギーを感じていれば」 の話である。 よく自分のエネルギーを占う相手のエネルギーに混ぜてしまう占い師がいる。 

     

     占い師のエゴ、または観念で、現在の波動にいろいろな色づけをしてしまうことがよくある。 占う相手のエネルギーを感じるとき、占い師自身の翻訳になってしまうことがあり、占い師の解釈が加えられることになってしまうのである。 

     

     そういった色が殆んどついてないにしても、現在においての方向性しかわからないということだ。 どういうことかと言うと、今のエネルギー状態がわかって、しかもそれが変化をしないまま、その方向に進んで行ったときに、いま予言したことが起きやすいということである。 しかし、エネルギーが変われば、その予言はまったく役に立たないものになる。 だから、次の瞬間に、新しいエネルギーを感じなければならない。

     

     予言というのは絶対に起きるということではない。 むしろその代わりに、もし我々が今の自分のエネルギーが嫌だったら、今こそそれを自分の望む方向に変えるいいチャンスだと教えてくれているということだ。 よくいろんな人が 「人の死」 を感じることがあるが、それは、実際の死というより、本当は大きな 「変化」 「変革」 であることも多い。 こういった解釈の仕方を知らないときに、これは 「死」 だと、ひとつの解釈だけで、文字通り受け取ってしまうことがある。 

     

     また、参考までに言っておくと、占い師だけでなく、我々全員に言えることだが、午前三時~四時は、超能力の部分であるアストラル体が非常に鋭くなって、いろいろなものをテレパシー的に受け取る能力が大きくなる時間である。 我々のエネルギーが一番高いのが、午前三時で、一番エネルギーが低いのが、午後三時になる。 ということは、我々の文明では、ほとんど自分の中の生物学的なペース、サイクルに、まったく合わないような機構をどうやら作ってしまったようだ。

     

     だから占う相手としては、心をオープンにして、それらのエネルギーをコミュニケーションのひとつとして受け取るべきであり、自分の役に立つような応用を考えることが必要である。

  • ポジティブ・エネルギーとネガティブ・ネルギー

     ネガティブなエネルギー、そのものについても少し触れておきたい。 なぜなら、ポジティブやネガティブというのもすべてが自分の意識の中にあるからだ。 我々の意識には、外というものはない。 我々が考えられるもの、知覚できるものは、すべて我々の意識の中にある。

     

     ネガティブなエネルギーというのは、「肉体」 とスピリットである 「霊的な部分」 と頭で考えるマインドの 「思考部分」 という三つが調和していないから起こってくる。  からだというのは、自分のペースに合わないことを知らせてくれるようになっていて、 それが病気という形で表れてくることもある。

     

     もし、頭の部分が一所懸命、先に行こうとして、からだの部分を無視しようとするとき、そのからだの自然のペースを無視してしまうことになる。 頭で一所懸命急いでばかりいて、からだに無理をさせると、結局は自分の思うことができなくなってしまうのだ。

     

     いつの間にか我々の頭は 「忘れる能力」 を創りだしてしまった。 それは自分がすべてのことを選択しているのだということを忘れさせてしまった。 そのような 「表層意識」 と 「潜在意識」 を創りだしてしまったがために、ときにはその潜在意識を選択していることもあるが、今ここという現在で体験していることはすべて、自分が選択した結果であるということを理解しなければならない。

     

     選択というのは、自分の中にある一番強い観念が実現するような状況を、自身に引き起こす傾向が強くある。 たとえば、「嫌なことが起きるのではないか」 と怖れているとき、よりポジティブなものよりも、怖れているネガティブなもののほうが起きると信じていることになる。 心配性の人の病気が重症化するのも、強い怖れからくる観念がその原因であることに間違いない。

     

     この怖れるということは、ネガティブな現実を自分で選択しているということになる。  しかし、この現実世界のすべての状況は、本質的には絶対的な中立であり、それ以外には存在しない。 

     

     我々は自分の中の観念や価値観を使って、それがポジティブである、あるいはネガティブであると決めているわけだ。 その選択に際して、好奇心と驚きをもって何かを選ぼうとするとき、ポジティブな結果が出てくる。 それとは逆に、恐れから何かを退けようとするときには、ネガティブな解釈を選択してしまう。 その結果、ネガティブなものを呼び寄せることになる。

  • イメージングとネガティブ・エネルギー

     今回のタイトルについては、ネガティブなエネルギーそのものがポイントではなく、臨床家がそのエネルギーをどうはね返すのか、あるいはどのようにして身を守れるのか、という趣旨に基づいた内容になるようにというサインを受けた。 しかしながら、私は2015冬季フォーラムにおいて、すでにこのタイトルについて話をさせていただいたこともあり、今回の趣旨から少々脱線するかも知れないことをお断りしておく。

     

     まず始めに臨床家は、施術に際して、ある決まった周波数の波動エネルギーを流しているという事実がある。 そういった能動的な波動手段は色々あるが、手技療法もそのひとつである。 そのような臨床家のフィールドにやってくるのは、その臨床家の波動エネルギーに共鳴して同期化しようとする患者さんたちである。 なぜならそれによって助けてもらえると思って、臨床家のもとに患者さんはやって来るからだ。 それは、臨床家が患者さんに与える電磁気的な波動エネルギーの中に浸りたいと思ってやって来るのである。

     

     そして、臨床家の高い波動をヒントにして、患者さんは自分自身の波動エネルギーを高めていくことになる。 ということは、臨床家が患者さんを治療する、癒してあげるというよりは、臨床家が示しているその高い波動に患者さんが自分の波動を合わせていくということだ。 それによって、患者さん自身が癒される、ということを臨床家の波動が教えているのである。 このようにすべての治療というものは、結局「自力自療」すなわち、自分自身で自分を癒すということにつきるわけである。

     

     ところで、臨床時において、患者さんの疾患が臨床家に痛みという形でくる場合がある。 それは痛みをどこに見つけるかというひとつの臨床方法であり、ネガティブなエネルギーとして受容しているということになる。 しかしながら、臨床家が自分で感じたくなければ、実際に痛みを感じる必要はないということを知って欲しい。 

     

     まず、基本的なことを理解しなければならない。 それはこのようなことだ。 臨床家が患者さんを施術しているのをイメージしてみよう。 そのとき、自分がまったく透明な水晶のようなものだと思って欲しい。 そして、患者さんの波動エネルギーを読んでいるとき、自分は透明だから、患者さんの波動エネルギーが自分を通り抜けてしまって、ひっかかることはないということ。 患者さんのエネルギーが自分の中で、少し濃くなったり、滞ったりするところがまったくないような、透明な自分をイメージするのである。

     

     それはまるで水晶で作った鐘のような純粋な音、そのような波動で共鳴することができる。 患者さんを診るとき、その水晶の鐘になった自分を想像してみる。 すると、身体の中で共鳴して、患者さんの体験していることを読むことができる。 そして、患者さんのエネルギーを全部通過させて、自分の身体に影響を与えないようにすることも、このようなイメージングによって可能になってくる。 

     

     また、患者さんと自分の間に交流しているエネルギーを、青紫色の電磁波の光であるとみる。 そして、患者さんのエネルギーを感じ、患者さんにエネルギーを送りながら、自分の身体をできるだけ解放して、深くて静かな呼吸を行なう。 それからエネルギーが、自分と患者さんの両方が浄化されて双方の光がより輝くようにイメージしてみる。 

     

     自分の望まないものは水晶の中にとどめず、流れ出てしまうのを想像する。 すると、自分の現実の中に欲しくないものは、すべてスルリと身体から出て行ってしまうだろう。 そして深くて静かな呼吸をするのを忘れないで、その一定の呼吸を続ける。

     

     このようなコミュニオンは、一所懸命しようとすると、より疲れてしまう。 臨床家は無条件の愛をもって、ただやるとき、自分自身に多くのエネルギーが戻って来て、とても元気になる。 理解していただけただろうか?

  • 使命感と”天命”と境界感

    私自身で、ネガティブなエネルギーを防ぐためにやってきたこと。

    それは、この与えられた生に生かされし生き方を大切にすること。

    基本を忘れずにいること。「般若身経」を「からだ」で反芻すること。  

     

    僕自身に与えられたことを成し遂げる使命感を持つコトの大切さ、

    当初の志を抱き続ける”青春力”、それを達成するためのコト・行動、

    これを身につけるため、エネルギーを放出することです。

    青春とは

    青春とは

     

     青春力とは、自分の事だけを考えず、”目標”や”志”を持つこと。

     

    平安時代末期に東大寺再建という、現代で言うなら百億円を超える、

    事業の「大勧進」として活躍した俊乗房重源という人間は、まさに

    不可能を可能とするために、青春力を生かしていたようなのですが、

    その重源・・・栄弥という孤児にこんなことを語っています。

     

    「森の奥から生まれる川の水は、森の木々を育て、

     人里に来て里人の喉を潤し、川の流れになって船を助け、

     魚を養い海に流れ込む。

     やがて水は雲となり、時には炎暑から人々を守り、

     あるいは雨水となって喉の渇きを癒やす。

     水のようになれ。

     どこにいても人々を助ける水のように・・・」

     

    ハイ、大それた事を目指しているようですが「我が意を得たり」ッ。

     

    元々重源は、京都の醍醐寺で出家して、山岳修行を行うような人で、

    天然自然の呼吸をヒ・ビキとして「息吹」に感じとりつつ、その息吹を

    皮膚(=肌)で感じ、その境界線を自由にしつつ、頰打つ風には神仏の

    有り難きぬくもりとして感じとっていた・・・ように思っています。

     

    ですから、一人一人の過ぎ去った人生のすべては、深化のプロセス。

    天の使命に尽力する準備でもあり、万物の流転と再生と変化のような、

    そんな感じを「操体」の哲学と「息診」で感じているんですよね・・・。

     

    ・・・ということで、一週間のおつきあい誠に有難うございました。

     

    明日は、西遊記が如く愉快に本質を語る、日下実行委員の登場です!

     

     

     ※今日の一言:「鏡は 自惚れの醸造器である如く、 

            同時に 自慢の消毒器でもある」

                         =夏目漱石

     

     

     

     

     

  • 寄りそった間は、切なくとも裏切らない

                          

    「2匹の狼が闘っている。

     1匹の狼は恐れ、怒り、嫉妬、悲しみ、後悔、自己憐憫、

     罪悪感、恨み、劣等感、そして、・・・エゴの象徴。

        

     もう1匹は、喜び・平和・愛・希望・分かちあい・安らかさ、

     謙虚さ、親切、友情、共感、寛大さ、真理、思いやり、

     そして・・・信頼の象徴。 この2匹が闘っている。

     

    そこで、一人のこどもがおじいさんにたずねました。

    「どっちの狼が勝つの?」

    ゆっくりと、おじいさんはこたえました。

    「君が育てる方だよ」・・・と。    

     

    ネイティブ・アメリカンの言葉は、まさに偉大な言霊の宝庫です。

    ネガティブ・キャンバーじゃないんですよ~、これは車の話ですから。

    (ちなみに昔の”シャコタン車”は、ネガキャン仕様が多かったですねぇ・・・)

     

    例えば、誠意ある人間同士で学びあうにはルールがあると思うんですよ。

    「お前は聞こえているけど、聴いてはいない。

     お前は見てはいるけど、視えてはいない。

     お前は話しているけど、本当のことは伝えていない」

     

    このメッセージに僕は思い出しましたね、ええ。

    7年ほど前の三浦寛理事長の個人レッスンで「自分のことばで伝えなさい」

    本で得た情報のままに内容を興奮して話していた時、言われたんです。

    そうです、操体とはなんと言っても、”実践学問体系”そのものですから。 

     

    自己責任で実践すること、「からだ」で学ぶには、バカ正直になること。

     

    実践して数年経過した未来、どうなっているんでしょうねぇ、フフフ。

    呪縛に捕まりそれこそ、決まりに決められ染まったままなのか?

    更新し、その都度ごとに、息診を通した意識で通しているのか? 

    それとも、誰かを操ることなく、操られることもなく正直にあるのか。

     

    操体を学び合う同志、操体を学びあった同士、操体を学んでいる童子。

    そう、今も過去は未来へ結ばれているんだから!そう、バカ正直にッ!

    ゆっくりでも、 朴訥であっても、自分自身を裏切ることはないからさ。

     

                                (続く)

     ※今日の一言:「仏子自ら仏法を破る。

            外魔天魔の能く破壊するにあらざるなり」

                          

    (意訳:仏法がもし滅ぶとすればそれは仏弟子によってもたらされる、との戒め)

                                =梵網経より=

               

             

             

     

  • ルールも、波も、乗っていこう

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    ”いい”とか、”悪い”を頭でジャッジせず、そのまま力を抜こう。

    イヤ~になるとき、悄気(しょげ)るとき、滅入るとき。

    原因がネガティブなエネルギーによるかどうかは、自分次第もある。

     

    茅ヶ崎で波乗りを始め17年の私の経験ですが、初心者の頃は何回も

    ネガティブなエネルギーを他人から”頂いた”ものでした。

     

    例えるなら、全世界共通の波乗りにおけるルールとして、一つの波に

    一人しか乗ってはいけないというルールがあり、一番で波に乗ること

    や最も掘れた波に近いことが優先されるんですが、ルールを守らなか

    った場合に地元の先輩に怒鳴られる。(悪質な場合はパンチアウト!)

     

    この場合、ルール自体に事故防止という大義名分があり、全く知らな

    い同士でも、ルールがあれば「場」を共有できるわけです。

    人が集まるところに所属するなら、その「場」で成立した”ルール”を

    学び、チャンと守りましょう、ってことなんですよ。

     

    それだけで、「ネガティブなエネルギーから身を守ること」自体から

    解放されるってことになるのです。

     

    波乗りに例えて、何を伝えたかったかと言えば。

    ルールをわかっていても、守れないのは本人が「初心者」だからでは

    なく『あわよくば見逃してもらえるかも知れない』といった、本人の

    欲や甘えによる場合も多いのですよ。

     

     

    ※今日の一言

        「学問とは、後進により継承、深化、発展されるべきもの。

         これこそが,ネガティブなエネルギーから身を守るのだ」

                              =敬郁=

  • 陽だまりのなか、感じられるから・・・

    (続き)

    ”意識”で触れ合う”接触”。

    ”皮膚”で伝え合う”空間”。

    ”想い”と”想われる”ことの調い。

    どうかしら?ワタシから愛のメッセージ、受け取って頂けたかしら・・・。

    じゃ、そろそろ茅ヶ崎の”間”に酔える旅人に戻って頂くわ、またネ~ッ!

     

     

    ・・・ぅう・・・ノンバーバルコミュニケ―ションをバーバルに変換して語るのは、

    かなり大脳の前頭前野ドーパミンが出続けるせいか、中性的な思考になり、

    毎日毎日、ほぼリアルと同様で環境の異なる夢を見るようになるんですよね。

     

    ところで、私の実弟なんですが、ほとんど英語等ができないにもかかわらず、

    今までに、タイ、ジャマイカ、バリ、インドネシア、西アメリカ、等に旅行

    というか、滞在というか、一か月以上半年以内で出かけているんです。

     

    その理由も仕事ではありません。理由を聞いても行きたかったと、馬鹿正直。

    (今は私の実家のある静岡市のセノバ近くで、NERDというバーを営業中)

    ただ、彼は言語的に世界中の様々な人種の方と語る必要はなく、雰囲気や顔、

    身振り手振りだけで何とかなるよ!と豪語してはばかりません。

     

    「からだ」の中にある大脳の側頭葉の奥にあるミラーニューロンは、相手の

    身振り手振りによる感情や意図、そして行動の予測までこちらに感じる意味、

    それを、今までの人間は生かしてきたからこその生命現象なのでしょうね。

     

    だからこそ、「からだ」に教えて欲しい。

    朝よ・・・僕はいきているのか。

    昼よ・・・僕はいかされているのか。

    夜よ・・・僕は、僕の命を他人に渡したくはない。

     

     

    ~僕は自分自身の肉体を俯瞰していた。

     肉体が感じている苦しさ、痛み、熱。その一つ一つの感覚が理解できる。

     なのに、それを上から見下ろしていた。 どうしてしまったんだ? 

     なぜそこに自分がいるんだ? あれは本当に自分なのか?

     それなら、いまこうやっていろんなことを考えているこれは誰だ?~ 

    The Songlines

    The Songlines

     (上記はp156より抜粋した一文です。旅行記なんですが叙情豊かで哲学的です)

     

     想いは想われてこそ輝き、想われることは想いあって満ちている。

    写真家で著者の竹沢うるま氏は、混じり合う出会い、出来事に「からだ」を通す。

     

    僕自身はまるで、「共感覚」の持主と変化したが如く、紡がれる文と一体になる。

    竹沢うるま氏と共に体験した世界、それは、エネルギーとは何かを教えてくれた。

     

    僕がもし「脳」とか、「経験」とか、様々な知識がなくなる時があったとしても、

    感じることで「命」はつながっているんだよ、と・・・美しい文章が「皮膚」に沁みる。

    空間に触れあって、草の匂いを嗅ぎ、土を舐めて、水を浴びて、息を吐いて吸う。

     

    そんなことがとてつもなく、ありがたいことです、、、有り難い。

    そう、読後に感じました。頭が柔らかいうちに、僕は読んで欲しいと思います。

     

    そして、ほんの少しだけ日々の「からだ」に感謝を。

    人に、断定的な物の言い方をする人々が、行動と言動に自己責任を負って欲しい。

    操体はそう伝える。㎜程度の意識は、地球をまるく美しくみせてくれるのだから。

     

     

    ※今日の一言&ネガティブエナジーを防ぐために。

        「僧肇は『天地と我は同根。万物は我と一体』といっているが、

         私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人に対して、 

         南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつつ、語った。

        「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢を見ているようなものだ」

                      =碧巌録、四十より=              

                       

  • 3,感じて君と二人で抱きしめたい

    (続き)

    魔術や魔法、超能力や幻術、法力や奇跡・・・これが特別なんだってこと。

    ホンットにそう感じてるのかな?大切なことだからもう一度言わせてネッ。

    特別な能力って、誰かのモノなの?この問いかけを忘れない貴方でいてね♪

    西の魔女が死んだ (新潮文庫)

    西の魔女が死んだ (新潮文庫)

     

     

    この映画を(プライムで笑)鑑賞したんだけど、その都度「間」がよかったわ。

     

    で、この話とは関係なく”無邪気”な旅人という語りかけで聴いた話だけどね。

    邪気がないというのは、イメージで示すと無心・無欲で純白と言う状態なの。

     

    日々変化する私達は、色々な欲求があって、多様な心を持って、色を取り込む。

    言葉も含めて様々な情報もエネルギー、光や熱や電子移動もエネルギーだから、

    取り込むには境界線があるの。

    私達はそれを、皮膚と呼吸でコントロールしているのよ。

     

    それでね、無邪気な旅人は何故?邪気を出さないし、吸収もしないかと言えば、

    皮膚の境目と呼吸の範囲が無いのよ。

    なんだ・・・ファンタジーか・・とか決めつけないで頂戴ネ。

    それは、本当に大切なことを教えてくれているのよ。

    だって、世の中に溢れている雑多な情報の渦にも、”本質”はみつけられるもの。

     

    沢山の人間がいて、それを支える生物がいて、みえないエネルギーは循環して、

    清浄なモノ、混濁したモノ、関係なく循環しているのが、社会と言う生命現象。

    本能的に感じとることは仕方ないけれど、私達はそれをどう扱うか自由もある。

     

    だからアンパンマンみたいに、まんまるのときはバイキンマンに負けないけど、

    ちょっと人助けと思って”世間的に良い事”をしてばかりいると凹むわよねぇ。

     

    そんな善意の塊みたいな人や、清く正しき人達の集団(・・・まぁ憧れちゃうけど)

    少し凹んでいるとき、さらに感情と情動を揺さぶって境界線を乱さないように

    荒らすヌシがいるなら、ここぞと(=邪)な波動を皮膚と呼吸にぶつけるものよ。

     

    現実的な事をカイちゃうと、境界線の育成には潤沢に投資を注いで損は無いわ。

    だって、ソレがキャッチした瞬間にどうしたらいいか一緒に抱きしめたいもの。

     

    そう、環境のなか、皮膚と呼吸をどうしているの?って経験が直観なのかもね。

                                  (続く)

     

     

    ※今日の一言:「人生を最も偉大に使う使い方というものは・・・

            人生が終わっても まだ続く何かのために 人生を使うことだ」

                            =ウィリアム・ジェームス= 

  • 2,蜃気楼の彼方に

    (1の続き)

    ほら、この世の中にいる限り、難しいことって”頭=脳”で考えるじゃない?

     

    でもねェ、ワタシ自身よく想うんだけど・・・。

    「からだ」にお任せしちゃったとき、ワタシの脳も納得することってあるわ。

    脳は、体感したあとも生長して、腑に落ちた経験を忘れないコトが多いのよ。 

     

    そこで「からだ」に関して”感じちゃう”ことって、どういうことなのかしら。

    「脳」は無いけど、「腸」だけで生きている生物もいるから面白いわよね。

    さしずめ、「腸能力」=「超能力」とか・・・(笑)

     

    で、貝原益軒サンの記してくれた「養生訓」にはこんな事が書いてあったのよ。

    図解 養生訓

    図解 養生訓

     

     

    「人の身は父母を本とし、天地を初とす。

     養生の術をまなんで、よく身をたもつべし。 是人生第一の大事なり」

     

    ・・・あ、そっか!、そうよね~ッて、ここで想ったわけ。

    操体の哲学思想で教えてもらった「大自然のオッカサン」ってコトなのね。

     

    ワタシはやりたくないけど、ネガティブなエネルギーを発してみたいなら、

    「からだ」を、”自分だけの物”として扱えばいいんじゃないかしら(笑)

     

    生きていれば色々あるのは当たり前、嫌な体験はどのような人間にもあるわ。

    かといって、いつまでも嫌な情動を脳で反芻しないこと!トラ&ウマも自由。

    だから、たとえどのような不遇に見舞われたとしても、自分次第なのよ。

     

     

    それは、お父様やお母様、ご先祖から古代のDNAまで連綿と繋がるコト。

    だから、天から授かった「からだ」と共にワタシ達ってここに居るのよね。

     

    ・・・で問題はね。

    事実に蓋をして、我関せず&微塵も想わない人間もいるってことなのよ。

     ネガティブなエネルギーを発散していること自体で周りに迷惑をかけ続ける。

    この感覚がマヒしていると、本当に大切なコトも気付けないことになるのよ。

    そうよ、『おやっ?』って感じるってことは、親から頂いた有難味なの。

     

    だから、今日”新成人”を迎えた皆さまもハメを外し過ぎないでね。

    なにもお酒のコトだけじゃないわ。

    ネガティブなエネルギーを発散しがちになったら、自己責任も必要なのよ。

     

    想いは生きていること、想われていることって生かされていること。

    ワケもなく感じる仕組みなんてないんだから・・・。

    生きている限界まで、「からだ」で感じるのが人間ってことなのよ。

     

    成人式はみんなに「おめでとう」って祝福して頂けるし、嬉しい晴れ舞台。

    だからこそ、チョットだけ・・・自分に連綿と繋がる生命の繋がりを感じてみてッ!

     

    何か忘れてるような・・・・そうそう、防ぐ方法だったわ!

    ネガティブなエネルギーを防ぐには、繋がりを外した人間独特の雰囲気を感じて、

    スゥ~っと「からだ」に任せておけばわかるものよ。

    生命感覚の基本だからよ・・・それに、抱きしめたくない感じがあるんですもの。

     

                                   (続く) 

     

    ※今日の一言:「ためらうことなく 注げる物がある。

            何一つ ためらうことなく 選択できる愛。

            親とは こどもの後ろ盾である」