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  • 上手い下手の超越

     操体の講義を聴いていても、下手な受講者というのは、いつもその情報を必ず頭の中にしまい込んでしまう。 その情報はどうやったらその頭から出してこられるのだろう? 果たしてどんな方法が使えるというのだろうか? その方法に 意志の力 というのは本当に役に立つのだろうか? 

     

     いや、意志の力は役に立たない。 本当は意志の力というのは、力などではまったくない。 なぜなら意志とは自我に依存しているもの、非常にちっぽけな現象であるからだ。 とてもじゃないが大きな力など生みだせるものではない。 

     

     逆に意志をもたずにいるとき、そのときには受講者は、力に満ちている。 そのときには、からだ全体で講義を受けている上手い受講者ということになる。 深いところでは、意志力とは一種の無力さのことである。 自分が無力だという事実を隠すために意志をもちだすのであろう。 

     

     我々は、自分自身と他者を欺くために正反対のものを創りだす。 自分は愚かだと感じている人たちは、自分が賢いことを示そうとする。 我々は絶えず自分の愚かさを自覚しているものだから、賢く見えそうなことなら何でもやってのける。

     

     醜い人、あるいは自分は醜いと感じている人たちは、いつも、いつも自分を美しく見せようとする。 それがたとえ、描かれた美、ただ顔の上だけの、仮面の美であってもそうだ。 弱い人たちは常に強く見せかけるものである。 そのように正反対のことが創りだされる・・・・・・。 それが内側の現実を隠す唯一の方法なのである。

     

     故に意志の力というのは実のことを言うと、力ではなく、弱さのことなのである。 本当に力強い人は自分の意志などもっていない。 それは、からだ全体のトータルさというのが上手い人の意志のことである。 それは実在と和合して一体になっているということだ。

     

     ではどうしたらいい? どうしたら頭に中にしまい込まなくてすむのだろう? 具体的には何ができるのだろう? できることはただ一つ。 ただ静かに見守ること・・・・・・ただ内に在って静かに見ていること。 もし受講者に本当にこのように見守ることができたなら、心して見つめることができる、その時には、情報をしまい込む頭は存在しなくなる。

     

     そうなると、突如として、受講者はそれを超えることができる! その状況から出るのではない、それを超えるのである。 そう、突如として受講者は自分自身を超えて彷徨する。 テクニックという名の 上手い下手 を超えて・・・・・・

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

    テーマは「上手い下手について」

     

  • 臨床家が選ぶ上手い下手

    ある高齢臨床家のこんな話を聞いたことがある。

     

     もうじき百歳を迎えるという老いぼれ臨床家が、毎朝目を覚ますとき、治療の上手い臨床家であるか下手な臨床家であるか、どちらか一方を選んでいるという。 そこでその臨床家はいつも上手い臨床家である方を選んでいるのだそうだ。

     

     しかし、実際には我々が大概下手な臨床家の方を選んでしまうのは一体どうしたことだろう? 自分が選択できるということにさえ気がつかないのはどうしたことだろう? 

     

     これは、我々臨床家の問題の中で最も込み入ったものの一つである・・・・・・。 それには深い考慮をはらわねばならない。 それにこれは理論上のことではない。 我々臨床家に直接かかわることだ。 誰しもがこのように下手に振る舞っている。 いつも、悲しい、憂鬱な、惨めな方を選ぶ。 これには何か深い理由があるに違いない・・・・・・。

     

     まず、第一に、人が育てられるその方法が、非常にはっきりとした役割を演じているということだ。 まだごく幼いうちから子どもは政治駆け引きを学ぶことになる。 その政略は自分を惨めに見せかけるというものだ! そうすれば同情が得られる、みんなが注目してくれる・・・・・・。 具体的に言うと、病気に見せかければいい、そうなったらみんなから大切にされる。 

     

     病気にかかった子どもというのはいつも独裁的だ。 家族全員がその子に従わなければならない。 その子の言うことがルールになる。 だが、子どもが元気で幸福なときには誰もいうことなど聴かないし、健康なときには誰も世話などやかない。 まったく健康で申し分のないときには誰も注目しない、だからほんの幼少のころから、我々は惨めでいる方を選びはじめることを学ぶ。 悲しいこと、悲観的なこと、生の暗い方の側を選んでしまうことになる。 感受性のレベルが高い人なら、ごく初めからその違いを感じはじめることができるであろう。 

     

     もし自分の治療が下手であれば、そこから何かが得られるのである。 治療下手であれば周りの人が同情的になり、その臨床家は哀れみを獲得することができる。 周りの人が優しくなり、その臨床家は同情を獲得することができる。

     

     が、もし、上手いのなら決まって何かを失うことになる。 治療が上手いのであれば、みんなが上手い自分に嫉妬する。 嫉妬するというのは、みんなが自分に敵対するということだ。 そういうときには誰も優しくない。 あらゆる人が敵になる。 それはかって三浦寛師が受けた操体同胞からの仕打ちのように・・・・・・。

     

     だから我々は他人の敵対するほどには喜ばないようにと学んできた。 自分の優越感を見せないように上手さを見せないようにと・・・・・・。 そしてその結果、我々が大概下手な臨床家の方を選んでしまう理由になるということだ。

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

    テーマは「上手い下手について」

     

  • 下手から上手いへの変身

    禅のこぼれ話をひとつ・・・・・・

     

     禅のお寺のことを 禅林というが、その禅林には 禅画と言って、禅宗の教義や精神を表現した絵画の伝統が今なお存在している。 

     

     そのような禅寺の禅師のもとで、禅画を習っているひとりの弟子がいた。 この弟子は竹に取り憑かれていて、絶えず竹の絵ばかりを描いていた。 禅では、絵を描くとはいうもののそれを通じて学ぶのは、禅那、すなわち瞑想のことである。 

     

     あるとき禅師がその弟子に言った お前自身が一本の竹にならない限り、何ごとも起こりはしないだろう・・・・・・と。 

     

     それから十年の間、竹を描きつづけ、その弟子は暗闇の中で眼を閉じていても描けるほど完璧にその技量は熟達していた。 絵を描く術は完璧で 上手いということに異論を差し挟むことは誰もできないほどだった。 

     

     ところが、師はそれを是とせず、決まってこう言った 下手クソ! お前自身が一本の竹にならない限り、どうやって竹が描けよう? お前は竹と分かれたままだ。 お前は傍観者、ただの見物人でしかない、お前は確かに竹を知ることが出来たかもしれないが、それは外側からだ。 それは外周にすぎない。 それは竹の魂ではない、お前自身が一本の竹にならない限り、どうやって竹を内側から知ることができよう・・・・・・?

     

     このように弟子は十年も苦闘したのに師は認めようとはしなかった。 それからこの弟子は、竹林の奥深くに消えていった・・・・・・ それから三年というもの、この弟子については何も聞かれなかった。

     

     が、そんなある日のこと、その弟子が一本の竹になったという話が伝えられてきた。 もうその弟子は絵を描いていなかった、竹たちと暮らしていた、竹たちと共に立っていた。 そこは風がわたり、竹はそよぎ、踊っている・・・・・・と、その弟子もまたそよぎ、踊っている・・・・・・。

     

     その弟子の師である禅師が様子を見に行ってみると、確かにあの時の弟子は一本の竹になっていた。 そこで師は言った 今度は竹のことも自分のことも忘れてしまえ!

     

     それを聞いたその弟子は言う ですが、竹になれとおっしゃったのはあなたです。 だから私は竹になったのです。」 

     

     師は言った もうそのことも忘れるのだ。 何故なら今では唯一お前にとってそれが邪魔をしているからだ。 お前の内部のどこか深いところで、お前はまだ分かたれたままになっている。 そしてここで、自分が竹になったことを憶えている・・・・・・だからお前はまだ完全な竹ではない。 竹であるならそんなことは憶えていないはずだ。 だから忘れてしまうことだ!

     

     それからさらに十年の間、竹の話は一切為されなかった。 と或る日、師はその弟子を呼んでこう言った。 さあ描いてみよ。 まず竹になるがいい・・・・・・、それからその竹のことを忘れるのだ。 竹として完璧な竹になることで、その絵が単なる絵ではなく、お前の成長となるように!

     

     さて、このように禅弟子に完璧な竹が起こるときには・・・・・・ 人間と竹の間に 私がいないということが起きるときには、自分も消え失せる。 それから突如として弟子は、変身することができる! 

     

     実存主義を唱えたジャンポール・サルトルがどこかで言っている 他者こそが地獄だ、と・・・・・・ しかし、彼は絶対に間違っている。 本当のことを言うと、他者は決して地獄などではありはしない。 他者が他者であるのは、自分が自我であるからだ! もし私自身がいなかったら、自分自身も消え失せてしまったなら、他者も地獄も消えてしまう。

     

     この竹を描く禅弟子のように自分自身を忘れることができたなら、下手クソ!から 上手い!に変身することが可能なのである。

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

    テーマは「上手い下手について」

  • 7日目・・・介入している

    病院に行けば、検査も行う。

    相談されれば、傾聴も行う。

    医療も介護も、機器だけでは成立しない。

     

    ここに人間同士の意識、ひとつの介入問題は生まれる。

    このことで何か、全体の状況は変化してしまう。

     

    介入の下手な人間は、勘違いが多い。

    謙虚に、あるがままではなく、我欲でわがままである。

     

    物理の観測問題ではないが、何か意識で介入する事は、

    相対的関わりのみならず、絶対的に「からだ」と関わる。

     

    この真理を、もっと、もっと、丁重に扱う必要はある。

    この真理に、上手いと下手は生まれるのだから。

     

    なぜなら、介入によって、そこからの生き方も変わるし、

    その介入選択は、刺激的だったのか、接触的だったのか。

     

    「からだ」に自ら関わること、その意識は変わったのか?

    人が人らしいあるべき姿へ、自律性ある本来の姿に導く。

     

    物事の考えかたのフレームを、少し変えただけで、驚く。

    上手い介入とは、その「意識」を変えることなのである。

     

     

    さて、いよいよ春季東京操体フォーラムまで三週間です。

    明日からは、妙味も珍味もしゃぶり尽くす快男児こと、

    日下実行委員のブログ週となります、お愉しみにッ~!!

     

     

    あっちの一言:性エネルギーは、つつがなく代謝しないと、

           「からだ」に不都合も生じてくるのだ。

           男も女も、発散経路を通していない場合は、

           性エネルギーは、内向して精神的に攻撃し、

           メンタルに不具合を生じてしまいやすい。

           これは、性的要求(欲求でない)の昇華による、

           快のイデアと、遊びに極まるのである。

           故に性は、活き、生き、息に往き粋でもある。

     

     

     

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

    http://www.tokyo-sotai.com/?p=1278

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  • 6日目・・・失敗のしつらえと型

    「何が失敗なのか、よくわからない」

     

    なに言っているんだ此奴は・・・と思うのが普通の反応である。

    この場合の普通は、”KY”(=空気読めない)、困った下手な輩に多い。

     

    これには、始めから色々と教わり、その都度教えてもらいながら、

    やって失敗しながら、徐々にできるようになっていくプロセス。

     

    だが、ある環境において、真摯な愛に基づく”しつらえ”と”型”により、

    超越した、上手いとしか表現できない人間を育て上げる場合もある。

     

    それは、超一流と呼ばれる世界の人間が人を育て上げるプロセス。

     

    つまり、弟子入りしてからしばらくは、ただただ見ているだけで、

    実際には何もやらせてもらえず、やるのは仕事の雑用くらい。

     

    そして、ある時を経て「間」を観ていた師は、突然許可を与える。

     

    すると、師を観ていただけの弟子は、失敗経験の全くない状態で、

    結構出来て、更に凄いレベルまで到達していくことも可能となる。

     

    ・・・ん?どこかで聞いたような話だなぁ。どこだったかなぁ(笑)

     

     

    あっちの一言:人間はウンコしてスッキリ、スッキリして腹が減り、

           腹が減ったら食べて、そしてウンコしてスッキリ。

           その妙味を味わいつつ、心に響くなのは、その合間。

           意識で、何処に性エネルギーをどう扱うのか・・・だ。

     

     

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  • 5日目・・・掴む(つかむ)

    上手な人は、コツをつかむ

    そうに言えば、

    上手いといわれる人はコツをつかんでいる。

     

    下手な人は雲をつかもうとする

    さらに言えば、

    藁(わら)までも掴もうとする。

     

    では、「操体」なヒトは(イメージです)、

    この豊かな空間から、何を掴もうとするのだろう。

     

    上手いとか下手とか言われるヒトの境目には、

    間合いと「からだ」の意識がヒントを掴んでいるのだ。

     

    しかしながら、そこで満足して終わらない。

    永遠の未完成、自然法則の応用貢献「操体」なのだから、

    旬を愛でる「からだ」の無意識というものを掴みたくなるのだ。

     

     

    ※あっちの一言:時間軸には時として、変な快感というものがある。

            空間軸には間としての、妙味ある「プレゼント=今」しかない。

            変な快感には、強烈な刺激を求め続けるという危険性が伴う。

     

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  • 4日目・・・固執する

    ここのところ、焦りを感じている”自分を見つめる自分”がいる。

    いつも、どこかで、俯瞰する「からだの意志」のように思える。

     

    操体」を感じているか、「操体」を学んでいるか?

     

    善い「からだ」を使わせて頂く人間は、上手い有り難みを感じる。

     

    ヘタは「からだ」を「本人」の物として一時も放すことを嫌う。

    まるで、大損でもするが如く、底意地をはって固執してしまう。

     

    そのような意味で、下手な「からだ」の使い方をするのは簡単だ。

     

    私たちは上手い「からだ」のつかいかたを検証し続けているので、

    ホントに下手になる暇がないのが、実行委員一同の悩みでもある。

     

     

    ※あっちの一言:男女の関係を超えていく醍醐味があるとするならば、

            欠かせないのは、磨き続けるお互いの感性の萌芽だ。

            到達できる悦びとは、いつも「欲」と一歩距離を置く。 

     

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

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    テーマは「上手い下手について」

     

  • 3日目・・・認めない

    実を伴わず、大きなことばかりでは、

    「大風呂敷を広げる」とか、「大言壮語」といわれてしまいます。

     

    しかし、他人にとやかく言われようと(迷惑千万であったとしても)、

    本人さえ認めなければ、本人にとってはただの陰口に過ぎません。

     

    ・・・ということで、素直に認めるのには「品」こそが必要ですね。

     

    一方、認めないのも、ある意味「上手い・下手」を超越しています。

     

     要は、上品と下品も、その人となりによりけり。

     

    培ってきた生き方の味わいある品位と風格にみあってこそですから、

    「品」と「格」が、認めないものも認めさせてしまうようなのです。

     

     

     ※あっちの一言:動物の交尾を、セックスと言わない。

            性交こそ、人間である責任を「意識」しているのか。

            持続に貧しくも、性の感性を磨く「品」は諦めるな。

             (品:人や物に備わっている好ましい格や質の意)

     

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  • 2日目・・・罪を認める

    ヘタは下手なりに理由があるのだろう。

     

    それを知らぬで通せば、罪深いこともある。

     

    諦めることさえしなければ、なんとかなる。

    諦めないで繋がっていれば、なんとかなる。

     

    覚悟を決めれば、なんとかなってくれる。

     

    結局のところ・・・贖罪も自分の揉んだ愛の果て。

    間に合っていればいいという、心のゆとりなのだ。

     

     

    ※あっちの一言:その3秒間は、深い意味がある。

            お互いに求めたコンセンサスの結果なのだろうか、

            自己欲求的な悶々の延長の上で招き入れた結末か。

               

     

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  • 1日目・・・応用が利くか?

    今回のテーマは「上手いと下手」。

     

    例えば、手に職をつける場合にも、数え切れない専門職があって、 

    本人が何年その道の専門家だと言えど、上手い・下手はある。

     

    専門家の上手さ・下手さとは、一体・・・何なのだろう。

     

    一つに、確立された技術と訓練によって、速やかに正確にやり遂げること。

    その期間が、一般平均より短縮できるなら、より高等な専門家とも思える。

    このような上手さとは、客観的にみてもわかりやすい。

     

    一方で、個々の場合に応じて調整し、試行錯誤も通して、ゆっくりと行い、

    さもなければ、時と場合によりけり、曖昧さを生じても許してしまう。

    これでは・・・客観的にみて、下手と認識されるかもしれない。

     

    だが果たして、自然の活用・自然の増進は、どちらの選択肢なのだろう。

    副作用といえる「不自然」の発生割合では、どちらが起きにくいだろう。

     

    うまいは「上手い」=「巧い」ともいえるし、その反義語は「下手」となる。

     

    意味合いの妙に都合よく考えてみるなら「上手」というのは、様々な応用が

    利くということ、その法則性なのかもしれない。

     

    ※あっちの一言:省略することができるのは、無数にちりばめられた音色を引き出し、

            壮大な交響曲として全てを見越しているから可能なことなの。

            それを、時間がない、経験がない、面倒と、言い訳しているのなら、

            謙虚に「下手」ですからと、「からだ」にチャンと教えてもらうの。       

     

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

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