カテゴリー: 未分類

  • 自然体

    いつでも、どこでも、誰といても、何かが起きて起きなくても、

    ありのままの自分でいることができるということ。

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    ここ数年、ありのままの自分でいることができる人に接し、感動することがたくさんありました。

    ありのままでいる人と一緒にいると、私にも大きなエネルギーが溢れ、とても幸せな想いに包まれます。ありのままでいるということが、どんなエネルギーを発しているのだろうか?と興味を抱かずにはいれません。

    やわらかいのに強くて、厳しいのに温かくて、日々の行動一つ一つに丁寧さがあります。

    ありのままでいる人は、自分に嘘をついていないのです。

    自分に嘘をつかないという意識がなおざりでは、なおざりなりのことしかできないのです。

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

    http://www.tokyo-sotai.com/?p=1278

  • わたあめ

    昨日の夕方、「あ、わたあめ!」と叫びたいぐらい、淡いピンクの雲が見えました。

    その一方で、もう一人の私が子供でもないのに「何がわたあめなんだ?」と思うのでした。その後、はしゃぎたい自分の感情を、「なぜ肯定できなかったのだろう」と考えました。感じている(受け取っている感覚や感情)ことを否定することは、感じることができない状態を引き起こす可能性があるのに…。

     

    自分自信が勝手に様々な評価や価値観を持ち、感覚、感性が鈍くなるような行動を、意識しない間に取ってしまっていることが、生活の中には多くあると感じました。

    感じたものをそのまま行動や言葉に移してはいけないこともあります。

    しかし、感じたことに対して、自分で必要以上に否定することはないと思います。

    「感じたことは、そのまま受けとる」とにかく受け取る。その先のことは、受け取ってから考え、行動や言葉につなげていけばいいのだと思います。

     

    「自分と向き合う」を感じた夕方でした。

    上手い下手とは、いかに自分(いのち)と向き合っているか?なのかもしれません。

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

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  • 同価値として扱っていく

    下手という状況、できないという時間・期間があることで、すぐにできるようになってしまった時と違い、なぜできなかったのかをよく理解できることがあります。

    この期間・時間は、できないことに意識が向きやすいのですが、

    その後できるようになると、

    できない期間・時間を大切にしなければならないと感じます。

    焦る、悩むなどの感情にばかりとらわれがちですが、

    学ぶことに豊かさを与えてくれるのは、もしかすると、このできないという状況なのかもしれません。

     

    松岡正剛氏の著書の中に、

     もともと日本ではプラスとマイナス、ポジとネガの両方を同価値として扱っていくという方法がけっこうあったのです。私はとくに「負」のほう、マイナスのほうに関心があります。

    という文章があります。

     

    自分の中で起きる、状況を俯瞰し、方法として捉えることができると、違った気づきができるのだと思います。

     

     

    神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く (連塾方法日本 1)

    神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く (連塾方法日本 1)

     

     

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

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  • つづけること

    学んだことを学んだままにせず、

    繰り返し、繰り返し磨き続けることが大切です。

    毎日、毎日、向き合う意識をもち続けることができるかどうかで、現在の状況は変わるのです。向き合い続けていると、学んだことの中に、さらに疑問やわからないところがみえてきます。その疑問を学ぶことで、気づきを発見します。その繰り返しに、忠実に向き合うことができる人が「上手い」を得るのだと思います。

    毎日、毎日、忠実に向き合うためには、そればかりを考えているのではなく、時々、違うことに触れることも大切です。

    私自身、どう展開していけるか?

    たのしみながら、取り組みたいと思います。

     

     最近よく使われる言葉となった、「断捨離」

    この言葉を作られた方、やましたひでこさん。

    この本を読んで、思考も整理整頓していかなければならないと思いました。インプットとアウトプットのバランスが取れないと、より良い展開はできないということですね。

    感度の高い仕事人は断捨離じょうず。

    感度の高い仕事人は断捨離じょうず。

     

     

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  • 勝手に色をつけない

    学びの場で教えていただいた内容に、

    学ぶ人が色をつけずに、

    教えていただいたことを”そのまま受け取る”ことができるということが、

    上手いという状態になるためには、必要だと思います。

     

    昨日のブログに書きましたが、自分の勝手な思い込みがあると、機会を得て、教えていただいているにもかかわらずが、理解できなかったり、教えていただいた通りにできなかたり、何年経っても同じ状況のままだったりするのだと思います。

     

    素直に

    そのまま受け取ることができる

    心とからだでいたいと日々思います。

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

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  • 学生時代の授業

    今日から7日間担当いたします、香です。

    よろしくお願いいたします。

     

    上手い、下手というキーワードを考えた時に、学生時代のことを思い出しました。

    私は学生時代、体育学部に所属していました。

    ある実技の授業では、授業が始まると、先生はまず見本を見せました。

    見本以外、細かい説明などはなく、「次は皆さんがやりましょう。」という流れでした。

    すると、ほぼ全員、あたりまえに、見本通りの実技をやっていました。

    しかし、私は、それができませんでした。

    体育学部ということもあり、「運動神経がいい」や「運動のセンスがある」といわれる人が多く所属しているということもあると思いますが、私と一番違うと感じたことは、その実技をすることに対して、恐怖を感じていないということでした。

    また、見本を見ることで、イメージがしっかりとできているということでした。

    決して私だけが、恐怖を感じるような環境で実技をしていたわけではないのに、私は勝手に恐怖を感じていました。

    自分の勝手な思い込み(恐怖)が、できないに結びついてしまったのです。

     

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  • 学ぶことの上手い下手

     我らの操体師匠である三浦寛師にはヒゲがある。 そのヒゲはそれ自体だけでは生えることはできない。 三浦寛という肉体があってこそヒゲが生えることができる。 そして、このヒゲとは本当に象徴的なものだ。 人間の霊魂は生きているが、その肉体は半分生きていて半分死んでいる、そしてヒゲはまったく死んでいる。 

     

     カラダに生える毛というのは肉体の死んだ部分である。 だから毛を切ってもどんな痛みも感じない。 指を切ったらそれは、それは痛い。 毛は我々の肉体の一部である・・・・・・が、毛を切っても痛みはまったくない。 それは死んだ細胞だからだ。 

     

     人が死ぬ・・・・・・ そして通夜の翌日は 友引である、日が悪いので葬儀は翌々日に施行となる。 するとどうだろう・・・・・・ ヒゲ無しで死んだ人間にヒゲが生えている! ヒゲは死んだ肉体の上にまで生えるのである。

     

     なぜならヒゲも死んでいるからだ、それは単なる死んだ細胞にすぎないからである。 そして、ヒゲを生やすのはとてもいいことだと思う。 ヒゲがあったら、鏡の前に立って自分の内の三つの層を見ることができる。 完全に死んでいるヒゲ、半分死んで半分生きている肉体、それから、完全に生きている霊魂だ。 これら三つのものが同時に見られる。

     

     ヒゲとは物資、そう、モノなのである。 肉体は物質と精霊の出会いのスペース、この出会いは常に困難だ。 だが肉体は、単に物質と精霊の出会う基盤にすぎない。 この出会いが崩れるときにはバランスが失われ、心は深刻になってしまう。 そして深刻というのは病気そのもののことである。

     

     ヒゲという物質は物質の中に再び吸収され、霊魂という精霊は精霊の中に再び吸収される。 そして、精霊は決して物質にはなりえない、ということだ。 

     

     師に教えを乞うとき、我々は師その人を見なければならない! が、師の肉体を決して見てはならない。 これは非常に象徴的なことである。 我々は自分を肉体だと思っているから、師もまた肉体だと考えてしまうのだ。 だが、師は肉体ではない! 師の肉体的側面は重要なことではないのである。

     

     教えに際して、自分の師と本当に接触することができるその方法というのは、自分の内側に入っていくことなのである。 自分自身の内側に深く入っていけばいくほど、師の内に深く浸透していくことができる。 師から教わることの上手い下手というのは、このように精霊的側面にアプローチすることができるか否かで決まってくるのである。

     

    明日からは感覚を捉える名手、香実行委員です。

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

    テーマは「上手い下手について」

  • 師弟関係における上手い下手

     操体だけのことではないが、ひとつの道を歩んでゆく師弟関係において、弟子は師が言うことについてはひと言ももらさず従うべきなのだろうか? それとも、自分自身の裁量で動くべきときもあるのだろうか? 

     

     これについてひとこと言わせていただくと、絶対的に従うか、まったく従わないかのどちらかにしなければならないということだ。 これは決して妥協するべきことではない。 なぜなら、中途半端というのは無意味であるだけでなく、有害でもあるからだ。 

     

     心半ばで師弟関係を続けるというのは何であれ弟子を分割してしまうことになる。 それは確実に害になるだろう。 そうならないために弟子は分割していない統一体としてとどまらなければならない。 

     

     したがって、弟子は全面的な受動態になるか・・・・・・ その場合には、弟子の側では何も考える必要はない。 ただただ深い信頼に基づいて盲目的に師に従うことである。 この盲目的という言葉は非常に強調される。 それはあたかも自分に眼が無いかのように。 それは眼のある誰かに引っ張ってもらうかのように。 

     

     そうなったら弟子は分裂していない一つの統一体としてとどまることができる。 ばらばらになることなく、統合して弟子は成長することができるのである。 あるいはまた、もし弟子がこれはとてもできないと感じたら、こんなことは不可能だと感じたら、それならまったく従わないほうがいい。 その場合には全面的に自分自身に従えばいい。 それでもまた、まとまっていることができる。

     

     ばらばらにならずにまとまっていることこそが目的である。 だからどちらでもいい。 同じことがその究極的な結果となる。 もし弟子に師なしで独りだけで在ることができたなら、もしそれがどこへ導こうと、自分自身の意識に従っていくことができたら、それなら同じことである、結果は同じ。 だから、これはまったく自分次第なのである。 

     

     しかし、頭というのはいつもこう言う。 両方やれ! と・・・・・・。 頭は言う、師に従うがいい・・・・・・ が、よく考えることだ。 自分が正しいと考えることだけ従うことだ! と。 そうなったら従うということはどうなる? 全面的な受け身はどこにある? 

     

     そうなったら師弟関係の信頼はどこへ行ったのだろう? それなら、自分自身の意識に従った方がずっといいに決まっている。 だから欺いてはならない、自分に従うなら少なくともそこに欺瞞はない。 さもなければ、弟子は自分自身に従っていながら、それでいて師に従っているような気になってしまう。 

     

     もし弟子が決定因子であるのなら、もし弟子が選ばなければならないのなら、もし弟子が、捨てたり受け容れたりしなければならないのなら、その時には弟子は自分に従っていることになる。 

     

     しかし弟子は、自分が師に従っているという印象を自分のまわりにつくりだし、自分自身を欺くこともできる。 それだったら成果は何も無い。 それなら弟子は成長することがない。 なぜなら欺瞞を通じては成長ということはありえないからだ。 

     

     それに弟子はますます混乱することだろう。 というのも、もし弟子が、何を為すべきで何をすべきではないということを決めるのだとしたら、もし弟子が自分の師の導きの中から選択しなければならないとしたら、弟子は混沌を引き起こすことになる。

     

     師が弟子を導くときにはいつでもその導きは有機的に統一されている。 指示のひとつひとつが互いに関わり合っていて、密度の高い一つの全体となっている。 そして

    もうひとつ、師弟関係にはなく、全面的に自分自身の意識に従うことができたなら、それでも成長は可能である。

     

     さあ、どちらか選ばなければならない。 だが両方選ぶのは駄目だ! 道を選択する上手い下手は、まったくもって自分次第なのである。

     

     

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    テーマは「上手い下手について」

  • 演技の上手い下手

     人は誰でも病気をする・・・・・・ そこで一つ提案がある。 健康なときにその健全さを感じとっておき、それを健康でないとき、病気のときに持って歩くというのはどうだろう。  その健全さというのは健康に依存するものではない。 健全な感覚というのは内的な感覚のことであり、肉体に依存しているものではない。 だからそれは、たとえ病気をしていても持って歩けるものなのだ。 

     

     このように、たとえからだが重病であっても、内側の健全さは保つことができるのである。 これとは逆の場合もある、それは完全に健康であるにもかかわらず不健康でいることがあるということだ。 完全に健康で若く元気なのに惨めでいる。 生きるということ全体を重荷のように、胸にのしかかる重みのように運んでいる。 そんな若者も決して少なくない。

     

     なぜ惨めになるのか? それは陰と陽の対極を合成しようとしたからである。 だから決して対極を合成しようとしてはならない、ただ融和の状態で在るべきだ。 そうすれば、ものごとはひとりでに自然に落ち着いてくる。 自分で落ち着かせる必要はない。 ただ自分自身を落ち着かせるだけでいい。 まず自分自身が落ち着けば、そうすればものごとは、それぞれ独自の配置の中に治まっていく。

     

     それには対極の反対のものの中に調和を見出そうとしてはならない、そんなものは決して見つかるはずがない。 見出そうと試みすぎたら、ますますかき乱されるだけだ。 そんなことは不可能なのだから! 実際の話、人の生きる社会というのはすべて病的な世界である。 まるで精神病院の中で暮らすのを強制されているような生活をしているように見える。

     

     だからそれは確かに難しい。 まわりは誰もかれもすべて狂人なのだから・・・・・・。 そうなると、自分に一体何ができるというのだろう? 精神病院ではほかの誰もが狂っている、ならば、どうしたらいい? そこでの唯一賢いやり方は自分が狂ったような演技をすることだ。 そうすれば誰もが自分のことを正気だと知られることはない。 なぜならもし知られたら、狂人たちはトラブルを引き起こすだろうからだ。

     

     精神病院の中では、本当に賢い人はそこにいる狂人たちより以上に狂った振る舞いを、そう、上手い演技をしている。 それがそこにおける唯一安全な状態なのだ! だから、社会の中で、まわりの誰もが狂っている中で、自分に一体何ができるというのか? この地球全体が広大なる精神病院だといってもいい。 あらゆる人々が病的で、病んでいて、どこかおかしくて異常になっている。 

     

     だったら自分に何ができる? それこそ演技しかないのだ! 下手な演技では駄目だ、上手い演技が必要だ。 人々の中にあっては自分の感じるままに演技すればいい。 不必要なトラブルを起こそうとしてはならない。 ただ演じて、それを楽しむことである。 それが人々とともに在るときにすることであり、自分自身のためには、感じること、そして、いつも快適感覚に溢れているのがいい。

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

    テーマは「上手い下手について」

  • 上手い下手の両極性

    治療とは一つのエネルギー現象である。 

     

     そして、エネルギーについては、それがどんなタイプのエネルギーであってもひとつ極めて基本的な事柄を理解しておかなければならない。 これは理解されるべき根本的な法則である。 

     

     このエネルギーというものは二元的な両極性の間を動いていく。 それがエネルギーの唯一の動き方である。 このほかの動き方などエネルギーにはありえない。 それは二元対立する両極端の間を動くことになる。 そんなエネルギーがダイナミックになるには、その対立する極が必要とされる。 

     

     これはちょうど電気というものが陽子と電子とをもって働くのと同じことである。 もし陰の極である電子しかなかったら、電気は起こらない。 もし陽の極である陽子しかなかったら、やはり電気は起こらない。 エネルギーは、この電気のように必ず両極が必要になる。 電子の移動によってその両方の極が出あうとき、電気が創りだされるのである。 そのときには、エネルギーのスパーク現象が起こる。

     

     これら二つの両極端の間にバランスを生み出してそのバランスの内にとどまることによって電気が創られるのである。 しかし、このバランスは線状の努力によって達成できるものではない。 そして、臨床もまたこの同じエネルギーが、両極の間においてバランスをとりながら動いているのを見ることができる。 

     

     この両極性というのは、臨床にとって非常に意味深いことである。 何故なら臨床を行なう人の頭は極めて論理的だが、臨床そのものはシンプルで弁証法的なものだからだ。 頭の思考は線の上を動くという意味の線状的であり、実際の臨床はと言うと、正反対のものの間を動く対極的なものだ。 電気の電子と陽子のように、それは陰極と陽極の間をジグザグに動きながら、対極を利用するものである。

     

     これこそ 無努力の努力 というあの禅の手法の意味することだ。 禅では矛盾した表現をよく使う。 無努力の努力、門なき門、道なき道・・・・・・。 禅は矛盾語を使うことによって即座に我々にものごとのプロセスは弁証法的であって線状ではないということを暗示する。 

     

     反対のものは否定されるのではなく、吸収されるべきものであり、対極は取り残されるべきものではない。 それは使われなければならないものであって、それが取り残されたら、臨床家にとってそれはとても重荷になる。 使われなかったら、臨床家は多くを取り逃がすことになるだろう。 そのエネルギーは転換され、利用されうるべきものだ。 

     

     そうなったら、それを使うことになったら、臨床家はより活気を帯び、より生き生きとしてくる。 だから反対のものは必ず吸収されなければならない。 そうなってはじめてプロセスは弁証法的になる。 これは臨床家にとって、両極性というバランス感覚の上手い下手に尽きるのである。

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

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