カテゴリー: 未分類

  • みたて(2)

    (5)似た別のもので、そのものをたとえること。
     
    診立て、と言えば
    (1)判断鑑定診断
     
    ですが「見立て」というと、
    (5)似た別のもので、そのものをたとえること。
    を連想します。
     
    松岡正剛先生が、あるインタビューで
    子供の遊びのほとんどが、ごっこ遊び、しりとり、宝探しという三つの型にあるとすると、ここに、生命や歴史や文化の学び方の基本があるだろうと感じますね。」と話しています。
    (編集工学のお話です)
    この「ごっこ遊び」が、いわゆる見立てです。
     
     

     

    知の編集工学 (朝日文庫)

    知の編集工学 (朝日文庫)

     

     

  • みたて。(初日)

    こんにちは。畠山裕美です。
    一週間よろしくお願い致します。
     
    今回のテーマは「みたて」ということですが、臨床の際の「診立て」を考えることは当然なので、少し別の方面から
    行ってみたいと思います。
    「見立て」という言葉を「歴史民俗用語事典」というので調べてみると
     
     
    読み方:ミタテ(mitate)
     
    (1)判断鑑定診断
     
    (2)思いつき趣向
     
    (3)見送り
     
    (4)遊里で客が相方あいかた遊女を選ぶこと。
     
    (5)似た別のもので、そのものをたとえること。
     
    という意味があると書いてあります。
    私達が普通使うのは(1)の、判断、鑑定、診断のことですね。
     
    私は占筮もやりますので、「鑑定」も見立てに入っているのは、なるほど、と思いました。
    美術品も宝石も「鑑定」と言いますよね。
    (2)とか(3)も何となくわかります。
    (4)も、何となくわかります。
    言葉はよくないかもしれませんが、鑑定というか、どの子がいいか、品定めをしている
    わけです。
    (5)についてはまた明日。
     

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  • バランス感覚

    診たては

    今まで養ってきた思考がとても大切だが、

    その思考ばかりに偏ってしまい、

    目の前の情報をそのまま受け取れない状態に

    なってしまうことがある。

     

    そのまま受け取りつつ

    今まで養ってきなものを創造的に

    展開していく。

    このバランスが取れてこそ

    診たてがみたてになるのだと思う。

     

    一週間、ありがとうございました。

    明日からは、瀧澤さんです。

  • 便利であるがゆえに失われているもの

    見立ては

    「なぞらえる」「物を本来あるべき姿ではなく、別のものとして見る」という意味で

    使われることがあるようだ。

    私は茶道のことはよくわからないが、

    千利休は見立ての心を生かし、日常使いの生活用品を茶道具として取り入れていたという。

     

    今の時代は何不自由なく物が揃っており、不足していて困るということは

    日常生活の中でほとんどない。

    とても便利な生活に慣れているため、時々その物がないと、

    大変なことが起きたかのような事態になる。

    時にはパニック状態に陥ることさえある。

     

    そんな時、

    別なもので代用できる?

    どうしたらなくても大丈夫?と

    柔軟に想像力をはたらかせ

    発想の転換ができれば、

    パニックを起こすことが避けられることも多いだろう。

     

    こんな日常も創造力を養うよいチャンスなのだと思う。

  • 妥協

    ミタテは創造的思考が導くものだと思う。

     

    思考している頭の中は

    10個の視点での展開なのか?

    100個の視点での展開なのか?

    10,000個の視点の集合が展開されているのか?

     

    どれだけの視点で展開しているのだろう。

    どれだけの視点を活用して展開できているのだろう。

     

    こんなことを考えていると

    自分を磨くことに

    妥協という言葉は

    必要がないのかもしれない。

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  • 味覚

    最近、食べ物を口にした時の

    味覚の変化を観察するようにしている。

    味覚に意識を置いていると、

    自分の食事の内容にいかに無頓着(無意識)になっているかが

    よくわかる。

     

    体感して、驚かされたことは、

    好物で食べていた物の

    味が濃くて食べれないという経験をしたことだった。

    しかし、その濃いという感覚も、

    少し我慢して食べていると、

    次に同じような味付けのされているものを食べても

    今度は、濃いとは感じずに食べれてしまうという経験だった。

     

    こんなにも味覚は簡単に変化していく(順応する)ものだと体感した。

     

    自分自身が変化の中にいる中で、

    何かをミタテているという意識を持つことが

    大切だと思う経験をした。

     

     

     

     

     

  • ミタテ

    今日から8月。

    私はある経験をしてから

    8月が1年間の中で、好きな季節になった。

    私的なことだが1年間の中で

    一番自分の変化に敏感になれるような感覚があるからだ。

     

     

    さて、自然の偉大さにふれるたびに、感動する。

    その感動は何度あじわっても同じということはない。

    同じ場所の風景であっても、止まっていない風景(空間)は

    時には、感情より先に涙が湧き出る。

     

    この感覚。

    感情、思考より先に

    からだが示す反応。

    この感覚を

    大事に、大切に

    まずは自分と自分のからだとの信頼関係をきずくことを

    大切にしたいと日々思う。

     

     

     

     

  • 日々

    私たちは、変化の中に生きている。

    同じ日付、時間というものは当たり前だが、二度と来ない。

    しかし、日常の中でいつの間にか

    日々、変化の中で生きていることを忘れてしまう。

    忘れてしまう、無意識になっている小さな変化に

    どれだけ自分が向き合うことができるだろうか。

    意識していくことができるだろうか。

    意識しているだろうか。

     

    自分自身へ、問いかけ続ける姿勢が

    必要な時に

    ミタテという力になり

    私を助けてくれるのだと思う。

     

     

  • 玉ねぎの根

    7日間担当します、香です。

    よろしくお願いいたします。

     

    「ミタテ」について考えると、いつも思い出す方がいる。

    私の髪を切ってくださる美容師の砂原由弥さんだ。

    学生時代から切っていただいているので、10年以上、お世話になっている。

    美容師として最前線でご活躍し、とても高名な方である。

    砂原さんにご縁をいただき、髪を切っていただけることに、感謝している。

     

    さて、なぜ思い出すかというと、

    「目の前にいる人が似合うヘアスタイルが見える」ということを

    以前、切っていただいている時にうかがったからだ。

    「絶対に似合うベストラインが見える」のだという。

    そこに向けて、一心不乱にハサミを動かす。

    すると、その人が輝くラインが出来上がる。

     

    そのお話を聞いた時に、

    イメージできる、ミタテができる、先が見えることの大切さを

    しみじみと体感し、感動を覚えた。

     

    美容師として髪を切っていただくにとどまらず、

    砂原さんの人間的な魅力がどこから生み出されているのかが

    知りたいといつも感じる。

    そのため、美容室へ行く日が近づくと、

    小学生が遠足に行く前夜みたいにワクワクする。

     

    お会いするたびに、

    ミタテを生かすヒントが湧き出している。

     

     

    「玉ねぎの根」に目が止まり、写真に収めた一枚

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  • 「ミタテ」の考察⑦

     ある本を読んでいて、このようなことが書いてあった。

     

     原子物理学者のアルバート・アインシュタインは、死に際に自分の人生についての見通し、すなわち 「見立て」 ができなかったことを悔いていた。 アインシュタインが死ぬ前に、誰かが彼に尋ねた。 「もしあなたにもう一度機会が与えられ、あなたがこの世に戻って来ることを神が快く許されたら、あなたは何になりたいですか?」 アインシュタインは目を開けて言った。 「ひとつ確かなことがある ・・・・・・。 物理学者には二度となりたくない、そういった科学者には決してなりたくない! むしろ私は配管工になりたい」

     

     これにはある理由がある、そこには偉大な体験が含まれている。 アインシュタインは自分の人生を無駄にしたことを、自分が広島・長崎の原爆の原因だということを、自分が人類にとってアドルフ・ヒトラーよりもさらに危険だということを熟知している。

     

     いつ何時、世界全体が消滅してしまうかも知れない可能性がある。 しかも、その理由と原因はアルバート・アインシュタインにある。 だが、アインシュタインは、原子エネルギーを発見しつつあるとき、自分は社会に偉大な貢献をしていると考えていた。

     

     アインシュタインは続けて言う、「どうか、あまり社会の役に立つことは避けて欲しい。 それより、もっとバラの木を植えて欲しい! 広島や長崎はもうたくさんだ! 小さな植物にも水をやって欲しい。 もう少し世界に緑を、もう少し世界に赤を、もう少し世界に黄金色をもたらして欲しい。 それから、ピアノを弾いて欲しい、ギターも弾いて欲しい、もう少し世界に音楽を、もう少し世界に調和をもたらして欲しい。 愛のために愛して欲しい。」

     

     アインシュタインのように 「見立て」 ができないことで大きな罪を背負ってしまうこともある。 我々に求められることは、自分自身にも納得ができ、社会にも貢献できる、そういった 「見立て」 が必要なのではないだろうか。

     

     

     明日から香実行委員の 「ミタテ」 が始まります、お愉しみに。