人の心は移ろいやすい、移ろいやすく動くという事は
心は確実に動くという事でもある。
動いてしまう心を、自分自身の意志で自由自在に動かす。
そこに武術の真髄の1つがあります。
練習で強いのに試合では弱い。
それは練習と試合では、心が違っていた可能性の方が高い。
練習と試合で身体が変わる事は、あまり考えられないのですから。
身体を動かす心が変わったと考えたほうが、より具体的な気がします。
人は心の持ち方で身体も変わる。
人はストレスであっという間に胃に穴を開けたりする。
少し風邪気味の時、楽しい時間を友と過ごしたりすると
帰った時間には、風邪はいつの間にか治っていたりもする。
立禅は胸の前に手を当てる。
胸には心臓がある、心臓に離れた状態で手を当てるようにする。
心臓は心の臓と書く、英語でも心臓はハートと呼ばれる。
その位置と手の形に秘訣が在る。
胸の前の手の位置と形を変化させると、何かが変わる感じがする。
近過ぎれば胸が締め付けられる感じもするし。
離れ過ぎれば何かボーっとぼやけるような感じもする。
手の位置を探りながら、記憶を呼び起こす。
楽しい記憶を呼び起こす。
未来や知らない心を導くのは現実には難しい。
自分の知っている、楽しい記憶を呼び起こす、その方がより具体的。
武術とは極めて具体的なものでした。
武術家のおこなう治療も同じでした。
記憶を出すのは、始めは案外難しい。
それでも段々楽しい記憶が出るようになって来る。
出て来た記憶は、消えてしまったり、他の思いに移ろう。
それを取り留めておくように続ける。
人の身体は続ける事で鍛えられる。
筋肉同様に、心を動かす力も続ける事で、鍛える事が出来る。
心を動かす早さ、心の持久力、心の強さ。
そのどれもを筋肉同様に鍛える事が実際には出来る。
そのやり方が武術の根幹の1つでもある。
人は心で身体が変わるのですから、命をかけた時代にそこに注目し
その力を引きだす事に心血を注いでも不思議は無い。
梅干を見ると心に変化が起きる。
梅干を見ただけで、人は反応し唾が出て来る。
楽しい記憶を自分の中から引き出し心を動かす。
そうすると身体に変化が起きる。
まずは、そうやって心を動かす事を覚えてゆく。
そこから武術として心を動かす方法に進んでゆく。
この方法は始めに身体を健康にするのが良い。
この方法を知れば、身体を細かく感じ動かす
武術の鍛錬に進む時間に役に立つようになる。
氣を動かすとは心を動かす事でも在る。
決してただ思うだけではない。
それよりも遥かに高度で素晴らしい物が氣功であり
武術とは人類の英知でもある。
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心を動かす。
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意拳(三日目)
意拳そして太氣拳で大切にする鍛錬が、立禅と呼ばれる鍛錬です。
ただ立つその行為を続けると、何故強くなり、健康になるのか。
ただ立って強くなったり、健康になったり出来れば楽な物です。
もちろんただ立つだけでは、1億年経っても何も変わりません。
立つという事で使う筋肉は無数にある。
立つ事から始まる、動きも無数にある。
その動きを総て漏らさずに行うには、あまり動かない方が、上手くいく場合が多い。
だから立禅は立って動かないようにして、身体を内側からまんべんなく動かす。
実際にはホンの少し動いている。
実際には身体全体が流れるように皮膚の下で動いている。
だから武術では氣功を大切にする。
皮膚の下の動きが、動きを滑らかに無駄なくする。
無駄が無ければ力は強く早くなり、その繰り返しは身体を健康に整える。
ただ我慢して立っていても何も起きる筈がありません。
操体のたわめの間に近い感覚の動きが、身体の中で重厚に常に行われるのが
立禅の鍛錬です、
もう1つただ立つ中で行う事が在ります。
意とは想念みたいなものでもあります。
人の心は動く、心は移りやすくもある、そこに人の悩みもある。
そこを上手く使う事で、大いなる力を得る事も可能となる。
人の心は移ろう、そして動く。
動くという事は、自分で動かせるという事でも在る。
操体でも想念という物を大切にしています。
明日は心を動かすやり方を書こうと思います。 -
氣 2日目
太氣拳を学ぶ際には、氣という物を徹底的に学びます。
大陸の氣とは、日本で考えられる物とは少し違うように僕は感じます。
現代の中国の大学病院で、正式な治療法として用いられる氣。
あやふやな物では、中国というお国柄では通用しません。
武術の氣とは、実際には極めて具体的な物だと思います。
よく日本でやっている氣の鍛錬。
掌を重ねてボールをイメージして動かす。
あくまでもイメージの上で動かす。
そのような鍛錬は、武術にはありません。
初心者にそのような事を言葉で伝える事はありますが、あくまでも始めにやるだけです。
ただイメージしても何も起きません。
武術の氣とは、極めて具体的なものです。
武術で氣を動かすとは、イメージでなく、本当に動きます。
皮膚の下の筋肉が、身体を動かさないで動く。
何層にもなって皮膚の下の筋肉が動く。
これが僕の知っている大陸の氣です。
動かした気になっても、何も起こりません。
皮膚の下が単独で動けば、身体は変わります。
その気になれば動く、日本語にあります。
その気になっても動かなければ、それは偽物の氣でしかありません。
身体を動かさないで動くその動きは
操体を学んだ僕には、操体をやった時に感じる、心地良さと共通する物があります。 -
僕なりの学び(一日目)
皆さんご無沙汰しております、今週ブログを担当します平直行です。
訳あって実行委員の勉強会での学びをお休みしております。
お休みしながら他の事を学んでいます。
操体、そして手技療法の源流を学び、やがて活かす為に。
僕は武術を学んでいます。
僕が学んでいる事、今現在学んでいる武術。
操体を学ぶ方にも、お役に立つような気がします。
ようやくその辺りまで来たように思います。
まだまだこの先に学ぶ事はありますが、中間報告させて頂きます。
賢い野次馬になれ、そう仰った、橋本先生が僕を見たらなんて言うのかな?
ブログを書きながら、そんな事を思ったりもします。
僕が現在学んでいるのは、太氣拳、そして柳生心眼流です。
太氣拳は意拳という大陸の武術を日本で伝える際に日本人であり
日本軍の武術教官であった創始者であられる澤井先生に
剣術や柔術も入れて構わないと仰られ。
日本の武術の英知と、大陸の英知である意拳を伝えなさい。
そう許された結果生まれた武術。
その為に名前を変えて伝える事を許された武術です。
意拳の正統の伝承者に澤井先生の名前は記されています。
意拳の創始者である王先生は気という概念を表に出し。
近代の武術のみならず、気功治療を表に出された方です。
人体を動かす際に起こる精神活動の部分が武術に大きな影響を与える。
その部分を集中的に鍛錬する独自の武術です。
想念を大切にされた橋本先生、意念という大陸の概念に出会ったら
きっと興味深く接したような気もします。
柳生心眼流とは伊達藩のお留武術です。
伊達藩は仙台の事、橋本先生が暮された街、僕の故郷でもあります。
学びの、不思議なご縁を感じたりもします。
昔の治療家は柔術家。
柳生心眼流には導引という技法が在ります。
導引には操体と見た目は非常に似通っている物もあります。
伊達藩は、仙台のみならず、東北そして蝦夷にも影響を与える程の有力な藩。
操体が生まれる、遥か前から存在した柳生心眼流。
操体の源流である、正体術は一人でおこなう導引と非常に似ている気がします。
大陸からやって来た医術、そこから学び派生した日本の医術。
その源流を学ぶ事は、現代では見えなくなった何かを手にする学び。
僕にはそこに導かれたようにも感じたりします。
導引の源流は大陸にまで遡り、後漢の時代にはすでに行われ。
始皇帝も導引師を側近に置いたと伝えられます。
意拳の養生法にも導引の影響を感じたりもします。
操体から始まった引退後の学び。
不思議なご縁で、太氣拳と柳生心眼流を学び。
僕の気付いた事を今週は書かせて頂こうと思います。
今週1週間よろしくお願いいたします。 -
心とからだの研究(最終日)
昨日の続き
昨日に引き続いて、操体の動診をもう少し掘り下げてみよう。動診の動きを起こす際にはまずイメージすることから始まると先述したが、これにはからだの機能の一特性を理解する必要がある。この特性というのは、心の外にあるもののことを考えるときには必ず、即座に筋肉がその想念の方向に緊張して振動するという現象が起こるということだ。
たとえばもし、足関節の背屈という想念が、被験者の思っている方向に向くと、特定の筋肉、いわば繊細な筋肉がそちらの方向に振動する。いわゆるからだの全緊張がその方向を指向するのである。同じように首の背屈を行う場合にも天井を見つめるように想念を上に向けると、特定の筋肉が緊張して上に持ち上がったような形になる。わかりやすく言えば想念がある特定の方向に動くときは、必ずその同じ方向を目指す筋肉の緊張が伴うわけである。
こういった現象の存在を知っている操体操者は、臨床において被験者に介助を与える前に、その手足に触れたとき、想念の方向に緊張する筋肉の振動を感じとることになる。たとえば左手首の背屈を誘導するに際して操者はまず被験者の手を握る。もちろんその被験者は操者の言葉の誘導によって左手首の背屈の動作のことを考えているわけである。そして手に伝わってくる無意識の徴候や振動を難なく読める熟達した操者には、より動作の誘導がたやすくなってくる。
操体操者にこんなことがやれるのは、何か特別な知識を備えているからではなく、単にこうした人間の特性の秘密を知っているからにすぎない。この秘密を知っていれば、誰でもちょっとした練習で同じことができるようになる。必要なことは被験者の手に注意を集中して、ほとんど感知できないくらいの僅かな動きを捉える力だけである。基礎を身につけた者であれば、根気よく練習を積むことによって必ず、ベテランの操体操者と同様に、被験者の筋肉の振動を感じとることができるだろう。
先に示した左手首の背屈に関して、何故このようなことが可能になるのかというと、握った左手の筋肉は、手首の背屈の方向に緊張せざるを得ないからであり、それらの筋肉が意識よりも潜在意識の支配下にあるからである。このように想念やイメージという心の働きがからだの筋肉に及ぼす影響は想像以上である。とはいうものの想念をそんな簡単に使えることができるのか、といった疑問をもたれるかも知れない。しかし、真理はいつもシンプルなものだ。まずはからだの動きをイメージして、感じてみれば、からだが教えてくれるだろう。すべてはからだの声を聴くことから始まるのである。
こうした操体の知識や療術の基礎を学びたいと思う者は、『操体法東京研究会定例講習』を受講するのがいちばん確実な方法である。講習でしっかりと基礎を身につけることが最も大切なことであり、その上で反復継続の自己努力が求められる。操体臨床は、からだが喜ぶことを喜びとする快なる妙療法なのだ。三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。
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心とからだの研究(六日目)
昨日の続き
操体の動診は感覚的、意識的にからだを動かすという独特の動きであり、その後に続く操法によってからだと心が自在に変化しうるもので、まさに妙療法としかいいようがない快へのボディランゲージである。こうした妙療法を通じて、一定の筋肉群が動かされ、活性化させられる。この動診では筋肉を活動状態においたまま快適感覚をききわけて、それに続く操法では最も快適な感覚時点において、一定時間、からだを静止する、いわゆる「たわめのマ」をもたせている。これは筋肉の振動を伴う静的な動作体系ができあがることになる。
このようなプロセスは、人間本来的な心身統合の姿へと導いていくことができる。動診の運動力学的な秘密を医学的分析によって考えてみると、すべての動診におけるからだの筋肉は、収縮させると同時にそれと拮抗する反対の筋肉を弛緩させる。たとえば動診で手首を屈曲させると、手の屈筋を収縮させて、反対に伸筋を弛緩させたことになる。同じようにすべての動診の動きは、それに関係する筋肉群を収縮させ、その反対の筋肉郡を弛緩させることを意識的に行うものである。
からだに起こるさまざまな症状・疾患というものは、不自然な緊張を筋肉に与え続けた結果にほかならない。こうした拮抗筋の無駄な緊張や過度の緊張が症状・疾患の原因となっている。先に述べたが、動診および操法にあっては筋肉の基礎張力を低下させることが可能である。特筆すべきは「たわめのマ」において疾患の原因となっている拮抗筋の緊張に限られた筋肉群だけを弛緩させることができるということだ。そして操法のクライマックスにおいて、全身脱力とともに筋肉が完全弛緩してしまうのである。したがって、動診・操法では医薬のなし得ないことでも、自然な方法で達成できるのである。
このように動診によって誘導された安心で完全な弛緩状態は生体エネルギーの莫大な節約をもたらし、そのエネルギーは治癒力への錬金作用に貢献する。これだけの効果が得られる動診ではあるが、ただ動かせばいいというものではない。からだのある部分を動かす場合、全身すべての筋肉、すべての関節を総動員しなければならない。そうすることで普段あまり使うことのない萎縮ぎみの筋肉にも血液がよく循環するようになり、いきいきと機能が回復してくる。これを「からだ全体で表現する」という言い方をしているのである。そして操法の「たわめのマ」に入ると、からだが静止した状態になり、ひいては神経系の全活動を鎮めるようになる。そうなると、体性神経だけに限らず、内蔵を支配する自律神経系も鎮まってくる。こうしてからだは活性化し、生体電気的なエネルギーで満たされ、情緒は安定し、心にも平安が訪れることになる。
明日に続く三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。
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心とからだの研究(五日目)
昨日の続き
からだの筋肉や骨や関節について解剖学的な様子がわかったところで、今度は姿勢について考えてみたい。我々人間にとって姿勢はさまざまな体位をとることができるが、基本的な姿勢は「立位」、「座位」、「仰臥位」である。それらのどの姿勢にとっても脊柱は重要な役割を果たしている。
物理学によると、物体が倒れることなく均衡を保つための必要条件は、重力の軸がその物体の重心を通過していることである。立位および座位の姿勢では、脊柱がまっすぐに伸びて、からだの重心は腰椎部分にあり、重心の軸はこの重心点を通って、立位の場合であれば、わずかに開いた二本の足によってひとつの三角形を構成している。椅子座位の場合だと、重心を通る軸は股のあたりに移る。このような自然な物理的均衡状態を保つことができる場合には、脊椎における筋肉の緊張は最小ですみ、全体重は脊柱すべての関節に分散してかかり、調和がとれたバランス体といえる。
ここで立位から前屈しようとする場合を考えてみると、からだの重心は前方へとずれていくが、それによって重力の軸も開いた両足の間や股から、その先の前方を通ることになる。それは結果的にからだの平衡状態が乱れ、アンバランスになるので、修正運動をとらなければならなくなる。こういったバランスの調整は脊椎辺縁筋群があるおかげで、姿勢の均衡や屈曲、背屈、側屈、捻転などの動きが可能となるのである。ところが、この筋肉群の緊張がある時点まで高まると、「背中の痛み」が現れてくることになる。
これらのことからわかるようにアンバランスの修正運動がなされるには、中心軸である脊椎をまっすぐに伸ばしておかなければならない。操体動診においても、脊椎をまっすぐに伸ばした状態から動きを通さないと、自然な連動に導くことができなくなる。この脊椎をまっすぐに伸ばすことは、脊椎の筋肉をバランスよくするというだけでなく、神経系が調和のとれた働きをする上でも大変重要なことである。また、人間の尊厳を最もよく表現する手段として、脊柱をまっすぐに伸ばした自然な姿勢がいかに大切であるかということは、ギリシャの彫像やヒンズー寺院の神仏像からもみてとれる。
この神経というのは背骨の中を通る脊髄から椎間孔を通って外に延びており、各神経幹は運動神経、知覚神経、自律神経からなっていて、背骨をまっすぐに伸ばしておくことは、心理面にも重要な効果を及ぼしている。からだの物理的な平衡と心の精神的な平衡は密接な関係にあり、からだのバランスを失うと、心のバランスを保つこともできなくなる。憂鬱な気分にあると、肩を落とし、背をかがめた、いわゆる猫背の姿勢になって脊椎辺縁筋は慢性的に緊張し、背中が痛むようになってくる。この慢性的な背中の痛みはやがて精神的な抑圧状態に陥り、こうした悪循環が続くと「心身症」という病名が与えられることになる。背骨を中心とするからだの姿勢がいかに大切であるかということがよくわかる。からだの重心やその軸の移動について、操体ではからだの使い方・動かし方という「自然の法則」として教えているが、それらはみな脊椎の筋肉に負担をかけることなく、脊柱はもっともバランスよくからだを支え、動作を助けることができる。自然の法則とは、いわば「からだの取扱教本」なるものである。
明日に続く三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。
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心とからだの研究(四日目)
昨日の続き
意識動作として随意筋が働く場合、筋肉や神経以外に、骨や関節と密接に連動することになる。一つの動きを起こすには、筋肉と骨と関節が単一の運動装置として働くことになるが、それらは運動装置の中での異なった一部分にしかすぎない。作動原理からみれば、骨をテコに見立てると、そのテコの支点が関節ということになる。そして体性筋肉が腱によって骨と接した部分にテコの力が加わるのである。
たとえば前腕には橈骨と尺骨というテコになる骨がある。そしてこの前腕を屈曲させようとすると、肘関節がその支点になる。その際、少しの抵抗を手に感じるも、やがて屈筋の筋が付着している橈骨、尺骨に力が加わり、前腕は屈曲動作を果たすことができる。
骨や関節を機能的観点から見ると、静的にはからだの重量を支え、動的には筋肉活動を最終的な動作として発揮させるという二重の機能を持っている。からだのすべての骨は、関節によって互いに連絡しており、その大部分の関節の働きはボールジョイントと同じ機能がある。このボール部分は丸くて滑らかな表面をもった軟骨でできており、骨の関節部分を被った構造になっている。このように連結した関節部の軟骨の間には関節滑液という潤滑油の役目をする液体で充たされている。
関節には動作という機械的な働きのほかにからだの重量によって常に圧迫されていることから、土台である足首の関節には特に負担がかかってくる。肥満したからだの足関節が、生涯にわたって重い体重を支えながら動かし続けなければならないという、過酷な労働にさらされた可哀そうな器官であることもわかってくる。その上、自分の注意不足によって不自然な姿勢や運動不足などのアンバランスな生活を続け、不適切な食事内容も重なって足関節を痛めてしまうと、事態はさらに悪化する。こういった からだに対して害になる諸因子が、関節を錆びつかせ、耐用年数を極端に縮めていくのである。
このような足関節にみる疾患は骨関節炎と呼ばれている。その特徴的所見は関節部の軟骨がだんだんもろくなって徐々に失われていく。すると、関節システムそのものが消失する結果にもなりかねない。足関節だけに限らず、膝や腰においても骨関節炎に見舞われると、いずれ哀れなわが身を車椅子や寝たきりベッドの中に見いだすことになろう。
これらの症状を訴える肥満したクライエントには、下手な慰めは不要であり、ハウツー的な施術行為を無条件に行うべきではない。それよりも操体教典が示すように「息・食・動・想」の自然法則に基づいた生活習慣を指導することの方が先決であり、それに加えて施術を併用していくことが求められる。肥満は自己責任において招いた結果なのであるから、そのことを反省し、自然法則に適った生活に戻るための、心のあり方への指導がまず必要なのだ。
明日に続く三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。
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心とからだの研究(三日目)
昨日の続き
からだの動きは筋肉活動だといってきたが、平均的な人間にとって、横紋筋のような随意筋や内臓筋の不随意筋もともに完全に休息の状態になることは殆んど起こり得ない。筋肉には、どうしても一定の緊張が残ることになるが、この緊張のことを「基礎張力」と学説は定義している。基礎張力の一部は、筋線維を形作っているミオシン蛋白質自身の構造による弾性的性質に由来するものである。残りの大部分は、神経系器官からの神経インパルスによる筋肉刺激が要因である。
意識的な筋肉活動である筋収縮と基礎張力には質的な違いはない。この基礎張力というのは無意識に筋収縮が起こっている状態のことであり、不随意筋の内臓筋肉や随意筋の体性筋肉にも基礎張力は分け隔てなく起こる。また基礎張力は筋肉の長さに関係しており、我々の意志とは無関係であって、筋肉自身から発生する刺激によって、それが脊髄に達し、再び筋肉へと生体電気的なインパルスとして戻り、基礎張力を作りだすのである。このような大脳皮質の関与しないスタイルで直接筋肉に戻る反射のことを生理学では「短絡脊髄反射」と呼んでいる。
こうした筋肉の基礎張力は、静止状態で働いているバランス力という見方ができるが、もしこの静止状態が乱れると痙攣発作が起こり、強い痛覚が感じられる。これが筋肉の疾患といわれるものだ。痙攣を生理学的に言うと、意志によらない筋繊維の異常なひきつけ状態を起こしているのである。これを操体の動診で対応すれば、高レベルの運動エネルギーと低レベルの熱エネルギーに変換して基礎張力の静止状態に戻すことができる。
筋肉活動は生体電気的なインパルスによって、ある種の化学反応が起こって、筋肉蛋白質に潜在していたエネルギーを放出することにより筋収縮が起こる。これは筋肉内にある糖質が燃焼することにより進行するわけであるが、操体動診における動きの誘導がこれにあたる。もしこのときの収縮が高い運動エネルギーだけで終わってしまったなら、治癒につながってこない。そこで操者の介助抵抗をかけることによって低い熱エネルギーに変換することができる。そして筋肉は基礎張力の静止状態を保つことができるのである。そのためには運動エネルギーと熱エネルギーのバランスが必要であり、操者の介助抵抗に対して更に操者の動誘という誘導操作が求められる。この動誘というのは被験者に与えた目的の動きを軽く誘導することで、主に皮膚に対して働きかけることであるが、同時に操者の想念も必要となる。
動誘をかける操者の手には心臓の鼓動や血流の拍動や呼吸による拡張収縮、それに脳脊髄液の循環による骨振動などが被験者の皮膚に伝わっていく。操者においてはこれらの動力源を意識による想念波動でもって動きを誘導していく。まさに心とからだの協調性が必須条件となるのである。
明日に続く三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。
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心とからだの研究(二日目)
昨日の続き
操体の動診で行うからだの動きというのは、ある部分の筋肉を収縮させると同時に、その筋肉と反対の拮抗する筋肉を弛緩させることを意識的にもくろむ事である。このとき、部分的な動きに止まらず、全身の動きへと連動させなければならない。すなわちからだ全体で動作を表現することが必要なのである。何故なら感覚は部分的なものではあり得ないからだ。からだの感覚とは全体性、全一性のことを言う。
この全身への連動に導くのに必要なプロセスが視覚イメージであり、そのイメージするのに必要な時間を伴うことから、ゆっくりと動きを通すことが求められる。何事も素早く行うのは簡単かもしれない。が、それをあえて丁寧にゆっくりと、しかも心乱れることなく意識的に動きを通すには、多少の努力が必要である。上手下手というものではなくて、少しの努力と丁寧に行うことが、乱れる心を落ち着かせ、呼吸を調えて気を鎮めてゆく効果が得られるのである。
このようにゆっくりしたからだの動きによって収縮している筋肉に神経エネルギーが流れ込んでゆくのが感じられるようになってくる。やがてこのような感じが随意筋から神経的につながりのある不随意筋にまで拡がってゆくようになる。すると、内臓器官までが知覚対象に入ってきて、実際に内臓周辺部分が温かく感じられるようにもなってくる。
こうしたゆっくりと動きを通すにもプロセスがある。もっともポピュラーなのが動きに際して「目線」をつけるということであるが、何も目線だけに限ったことではない。目線と同じ他の五感を使っても同様の効果は得られる。嗅覚から動きを通してもいいし、聴覚からでもいい。要は感覚器官を使うことでからだの動きを意識的に導くことができる。
また動き方に関してもプロセスがあり、外面的には末端から動きを通すということになっているが、内面的に見ると、下腹部丹田から動きは始まる。からだを動かすときには、下丹田を中心に動かすことになる。四肢末端の足先、手先からいきなり動き始めると、どうしても局所的な動きで速くなってしまう。局所的な動きは、全身に連動したからだ全体で末端の動きを通すのに比較すると、力んでいる割には力強さがない。からだに動作を起こそうとしたとき、力のない手先、足先から動いても疲れるだけということになる。まず下丹田を動かすことによって末端の動きは自然と遅くなって、底力が入り、これが全身への連動につなげる起爆剤となる。
下丹田から動きを通すというのを具体的に捉えてみると、からだの末端部を動かそうと意志が働いた時点で、からだの中心部である下丹田には微細な動きが起こっている。四肢末端を動かそうと心の中でイメージすることそのものが、ミクロな身体運動なのである。はじめに動作を起こそうという意志が働くと、その目的である完成された動き、例えば「右手関節の背屈」というイメージを思い浮かべることになる。すると下丹田から脊椎に動きが起こり、右肩から微細な波動となって上腕から肘へ、さらに前腕から手関節に伝わり、背屈という動作がスタートする。このようにすべてのからだの動きは中心軸が定まっていなければならない。
この中心軸というのは、からだの中心である下丹田と神経組織の中心である自律神経のことを指しており、両者が融通自在に交流し合っているところに生命は成り立っている。ということは、心の中心軸が外れると、その結果は必ずからだに現れてくるし、からだの中心軸が外れても、きっと心に影響が及ぶことになる。我々の生命はもとよりあらゆる存在はすべて中心を持ちながら融通無礙な働きをしているのである。それはからだにとって、中心とそれを軸にして働く円のような働きを持っている。そんな生命中枢の狂いは全身に狂いを生じさせ、あらゆる病の根源となる。逆に自然な生命法則に従った動作は全身の細胞が生き生きと蘇り、大宇宙のエネルギーが発現されていくことになる。
中心軸と円の関係をからだについて考えてみると、「心」と「からだ」、それにそれらをつないでいる「神経」が存在している。「からだ」は背骨という中心軸から骨格という円があり、「心」は魂という中心軸とそこから生まれていく感情や知性などの心の働きという円と、それらをつなぐ「神経」は中枢機能として無意識に生命活動を司る運動神経という円から形づくられている。このように中心軸と円のダイナミズムを見てとることができる。しかしながら中心軸は内なる見えない世界であり、意識が行きにくいことから忘れ去られる傾向が強い。この忘れ去られた中心軸に回帰して意識的に動きと感覚を得ようとするのが操体の動診なのである。
明日に続く三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。