カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 操者のおさめ

    操体臨床のプロセスは

    クライアント本人の感覚のききわけによって成り立っている。

     

     

    「動診」を通して、

     

    きもちのよさをききわける

    もし、ききわけられたら

    そのききわけたきもちのよさを

    味わってみたい要求感覚があるのか、

    「からだ」にききわける

     

    味わってみたい要求感覚があれば

    一番きもちがいいところまで

    からだのつくりを操り

    じゅうぶんに味わう

     

    きもちのよさが消えてきたら

    消えた後の「からだ」の要求に

    素直にゆだねる

     

     

    操者はこういった臨床のプロセスのなかで

    自身の口にする「言葉」を識別することの大切さを学ぶ。

    この言葉のひとつひとつには

    「あなたにしか、ききわけられない感覚があります」という

    からだからのメッセージが詰まっている。

     

    この一貫した姿勢も

    操者の重要な「おさめ」のひとつだと感じている。

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  • 操体にはおさめが在る

    おはようございます。

    瀧澤実行委員、一週間ありがとうございました。

    本日より、寺本が担当します。宜しくお願い致します。

     

    前回のブログデーマ「愛」に引き続き、今回は「おさめ」。

     

    ふと閃きました。

    操体操体法」というものがあることを知り

    「自分も勉強してみたい」と思い、初めて師匠に連絡をした、その時のことです。

     

    電話口からきこえてくる「操体指導者」の声や言葉をききながら

    「自分に足りなかったものが、この人から学べるかもしれない」と感じ、

    アタマで理由はわからないけれども、

    自分自身が感じているそのことに「核心」を持てている。

    そんな不思議さがあったこと。

     

    四年間学んできて、「不思議さ」の中身が

    いまは納得できるのです。

    あの瞬間から、大切なことを見せていただいていたのだと。

     

    電話口の先、「声」から感じた「おさめ」の波動。

    おさまっている「人間」がこの電話の先にいる。

    いま、たしかに生きている。出会っている。

     

    その確固たる「事実」は、

    悩み、迷いながらも、生きていたその時の自分にとって

    「きっと、自分自身もおさまる」という核心につながった。

     

     『自分がずっと探していたことのヒントがここにはある』

     

    そのひとつは

    操体には『おさめ』が在る」

    ということだと思います。 

     

    生きている人間のスガタに写し出された

    「おさめ」に憧れて、いまも学び続けているのだと感じています。

     

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  • 2015年 操体と愛の旅7

    操体から学んでいることには、すべて「愛」が貫かれている。
    「愛と調和」という「太極の意志」に基づき、成し、成されてきた学問。
    そう思えば、とても素直な結果なのだと感じられる。

    橋本敬三先生の著作を読んでいると、先生が「生涯の道楽」として様々なものに興味をもたれ、
    原究されていたことを知ることができる。
    「生命哲学」がどんな土壌で育まれてきたのかを、知ることができる。

    そのひとつに「ホツマツタエ」という古代大和ことば(ヲシテ文字)で綴られた「叙事詩」がある。

    この古文書の存在を知ってから、もう数年になる。
    橋本先生がどんなことに興味をもたれていたのか。
    知りたくて、ときたま「ホツマツタエ」にも触れてみていた。

    昨年末、師匠が「写経」を始めたと聞き、
    それがきっかけで、「このヲシテ文字も写経してみよう」という
    今まで私自身のなかになかった発想が生まれた。

    このヲシテ文字で、「操体でよく耳にする言葉」を写経しているうちに
    興味深いコトが「降って」きた。

    快(カイ)
    神(カミ)
    はい!(ハイ)
    そして
    愛(アイ)

    これらをヲシテ文字で書いてみると、なんとなく似ているように見える。
    ヲシテ文字の成り立ちからみれば、この「アイ」というヒビキが
    これらの言葉の「母形」になっているように見えてくる。
    ヒビキの面から捉えてみても、「アイ」は貫通しているのだと知る。

    「楽」や「欲」はどうだろうか。
    並べてみると、「アイ」とはヒビキの「母形」が異なるように感じられる。
    ヒビキの面から捉えてみても、「楽」や「欲」のなかに
    「愛」は貫通していないようなのだ。

    そういえば今日は「愛」を送る日ですね。
    「快」という名の「愛」を届ける一日にしたいと思います。

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    明日からは愛と操体の語り部、友松さんへバトンタッチします。
    お愉しみに。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年 操体と愛の旅6

    愛の自覚か…。

    フッと、年に数回呼ばれるように足を運ぶ「骨董屋」の事が思い出される。
    一年のうち数回、無性に訪れたくなる空間。そんな不思議な「骨董屋」がある。

    別に何か欲しいものがあって訪れるわけでもなく。
    決して広くない一部屋に、店主曰く「御縁」のあるモノが
    一見、無秩序に。でもそれが不思議と心地よく、無邪気に並んでいる。
    そこでの時間と空間を味わいたくて、足を運ぶ。

    訪れると、店主が奥の部屋からするするとオモテに出て来る。
    「ちょっと、待ってろ」と言って
    絶妙な間合いで、缶コーヒーを出してくれる。

    この空間にあるものは、みんな愛しいもののように見えてくる。
    この店主の魔法がかかっているのだろうか。
    以前魔法にかかって、真剣に年代物の「十手」を買いそうになったこともある。

    缶コーヒーを飲みながら、そんなモノたちに囲まれて
    何でもない話から、何でもある話まで。
    時間を忘れた空間のなかで
    気付くと私自身にも、魔法がかかっているかのように、心地よい。

    自分自身、30年モノの「からだ」という器。
    ひとりひとりの人間の「からだ」も
    本来は一点モノの骨董品のようなものなのかもしれない。
    御縁という目に見えない波動の渦のなかで
    心地よさを味わいながら、何かが充電される。

    からだはちゃんと覚えていて、愛を自覚する機会を
    ことある毎に提供してくれているのかもしれない。

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  • 2015年 操体と愛の旅5

    操体と出会い、御縁を感じながら学んでいる人は
    どこかのタイミングで必ず、ある「メッセージ」と
    出会うことになるはずである。

    操体法〜生かされし救いの生命観〜(たにぐち書店)」
    の冒頭に刻まれている「メッセージ」のことである。

    操体法 生かされし救いの生命観

    操体法 生かされし救いの生命観

    詳細は同書「第一部 イノチの生命線」の中の「生命線」にエピソードが書かれている。
    御縁を感じた方は、本書と「出会って」いただきたい。

    初めてこの「メッセージ」に触れた時から
    ずっと気になっていた一節がある。

    愛の自覚は時にはその反対をも行なわなければならない

    前後の文脈もあるなかで
    この言葉は私自身に妙に語りかけてくる一節となっている。

    幾度口にしてみても、その度に味わいが変化する。
    「ミ」のつまった問いかけである。

    「愛の自覚」。
    操者は、クライアント自身が「快適感覚」という糸口から
    「からだにききわけ」、そのききわけた感覚にゆだねる機会、
    「間(マ)」を全面的にサポートしている。

    見方を変え、言葉を変えれば、
    クライアント自身の「愛の自覚」をサポートしている、とも言えるかもしれない。

    その大前提としてまず
    操者自身どれだけ「愛」を「自覚」できているのか。
    旅の途中、何度となく自分自身に問いかけることになるのだろう。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
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  • 2015年 操体と愛の旅4

    目に見えている「現象」は単独孤立して存在しているわけではないようで
    その現象の源となる「潜象」という目に見えない支えが、たしかに在る。
    潜象と現象は母から子へ。真理のへその緒で繋がっている。

    ここに来て今更ながら(恥ずかしながら)
    操体には一貫して「愛」が貫かれているのではないか
    という予感がしてきました。

    操体における「診断」。そこには「良い、悪い」という見方、捉え方
    意識感覚が働く要素はまったく出て来ない。

    「伏臥位にやすんだときに、右の背中が膨隆している(から)」
    「仰向けにやすんだときに左右の手のひらき具合が違う(から)」
    「立位にとったときに左肩が下がっている(から)」

    「だから良い、悪い」というような判断は、ほとんど。
    いや、少なくとも身近な御縁のある操体臨床家の口からは聞いたことがない。

    余計な思考判断を働かせず、「変化」をありのまま受け取る。
    こうした姿勢が一貫して操者に貫かれていること。
    そして、それはそのままクライアントのからだにも伝わり、
    クライアントが、自身のからだの「変化」をありのまま受け取ることにも繋がっている。

    操体では初診の場合、必ずと言っていいほど、触れて診る「膝窩(ひかがみ)」
    というポイントが在る。

    熟練の操者にこの「ひかがみ」の触診をしてもらうと
    「はっきり」とした逃避反応をからだが示していることを
    「第三者的」に見届けている自分がいることに気付く。

    そのときクライアントである自分の意識には
    「からだの歪み」の現れである圧痛硬結「シコリ」に対して
    「こいつが悪いんだ!」や
    「こいつが原因か!」
    というようなイメージは不思議と現れていない。

    色眼鏡を外して「診る」、自身の変化。
    触れられていることで、ありのまんまの「シコリ」と対面し
    それが寧ろ「コロッ」として「愛しい存在」であるように思える。
    愛を貫くことで、そんな「間」を操者は演出しているのかもしれない。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年 操体と愛の旅3

    愛を廻る旅の最中、昨日の朝のこと。
    愛からのメッセージを受け取るような体験が訪れる。

    我が家には、俗にいう「ぬいぐるみ」と呼ばれている存在
    が大小含めて「数体」同居している。
    御縁があって、なぜか我が家にやってきたモノたち。

    別にぬいぐるみが大好きというわけではないけれども
    不思議と語りかけてくるものがあるので
    何となく「妖精」の一種のようなものとして、接している。
    また、時に自分自身の「良心」を写す、「化身」のように見えてくることもある。

    昨日の朝のこと。
    身支度をして、部屋を出るその刹那
    何気なく、「彼ら」に目を向けたとき、
    「彼らの『目』をちゃんとみているか」
    という意識が働いた。

    この時、自分自身のイメージでキャッチした「目」は
    現象としてぬいぐるみに縫い込まれているあの「目」のことではないようで、
    目には見えない「彼らの本当の『目』」というイメージに近かった。

    「せっかく目を向けるなら、その『目』に意識を合わせてみたらどうだろうか。」
    そんな「だれか」からの提案だった。

    「現象」の目ではなく、「潜態」している目。
    そんなイメージに目線を合わせる。
    それに伴って、私自身の意識も
    「見ている自分」から、「見られている自分」へと変化していた。

    この意識の質が変化するような感覚は
    「愛」の一言で、意識感覚がチェンジしてしまったときのそれと似ているものだった。

    ふっと、思い出す。
    2015年1月8日に岩吉実行委員から届いた「手紙」。
    締めくくりにはこう書き記されていた。
    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20150108

    『愛とは感性の方向性であり、
    相思相愛とは感性の方向性の
    重合である。』

    私たちは操体をとおして
    大いなる方向性に「重合」していく生き方を
    学問しているのではないだろうか。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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  • 2015年操体と愛の旅2

    「愛」、その一言によって
    「何かが足りない」と感じていた空間の質が変化してしまう。

    この状況を変えたいと思い
    その為に「足りないもの」は何なのか。

    身体運動の法則、
    三法則一相関性
    さらに、進化した四法則三相関性
    自然法則…。

    その法則と相関性を応用貢献している「つもり」でいても
    「愛」の一言でバケの皮がはがれてしまうような経験を、何度もしている。

    「愛だな」と、そのことを照らし出される度に
    「足りなかった」のではなく
    「求める」必要もなかったことを思い出す。

    ずっと、その空間に「在る」のに
    気づかず、無視してしまっていただけ。
    その度に、なんだか「ゴメンナサイ」という気持ちになる。
    何に対して、「ゴメンナサイ」と感じているのだろう…。

    「自然法則」も、そこから紡ぎ出される
    「身体運動の法則」、「相関性」も
    「自在」と繋がっていることを、愛は思い出させてくれる。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
4月29日(祝)に
    開催いたします。
『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    
詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年「操体と愛」の旅1

    おはようございます。
    東北から毎日届く、操体と愛の息吹き。
    瀧澤さんからのバトンをいただいて今日から7日間
    寺本がブログを担当します。宜しくお願い致します。

    「実行委員リレーブログ」今回の一巡は
    2014年12月28日から「操体と愛」というテーマを繋いでいます。

    愛。これは今までの人生の中で、あまり使われることのなかった言葉であり、
    なんとなく「避けて」きたような言葉でもあり、
    そして、きちんと「言葉」にしてこなかったテーマでもあります。

    私自身にとっては「未開の地」。
    すでに何名かの実行委員は、「愛」をテーマに各々の「旅」に出発。

    愛か…。

    何か、愛について言葉にできることがあるだろうか。
    とりあえず、半歩。踏み出してみることにします。

    操体と愛。
    そういえば…、私にも「愛」について、身に覚えのある経験、
    「痛感」するような出来事が、「度々」あります。

    それは、こんなコト。

    動診と操法の営みにおいて、
    今まで学んできたことを、自身の「からだ」に通し
    また相手ではなく、相手の「からだ」に問いかけることを忘れず
    「楽」ではなく、「快」という意識で相手を前にしていたとしても、

    「相手」も
    「相手のからだ」も
    そして「自分自身」も
    「何か足りない」と本音の部分で、感じとっている瞬間。

    「何が足りないのか…」、考える。
    そして、またその「考えたこと」をからだで表現する。

    それでも、イマイチ…という触感は改善されず、
    よりその「イマイチな感じ」は増していく。
    アタマの中はその状況を打破するべく
    「足りないもの」を求めて思考し、さらに繰り返しのドツボにハマっていく。

    そんな声なきアタマのなかの「声」は
    しっかりと空間に伝わっていて、
    「感覚、感覚…」と思い留めながらも
    思考が見事にフル回転している。その「様」を見かねるように

    充実した、しばしの「間」。
    そして、空間を照らしだす一言。

    『愛だな。』

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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  • 「手入れ」を考える 7

    「手入れ」について考えてみると
    色々な発見があります。

    まったく関係ないと思うような分野の中にも、
    「骨董」の世界にも
    「落語」の世界にも
    実はお手本になるような
    その世界ならではの『営み』がある。

    そして
    「からだ」の世界にも
    この世界ならではの『営み』が
    あることに気付くのです。

    さて、ここで振り出しに戻ってみます。
    そもそも
    なんで「からだ」に手入れをする必要があるのでしょうか。

    一日目に提起しました。
    「掃除」を怠ってからだを「使って」いると
    次第にからだの方が間に合わなくなって
    あっちが痛い、こっちが痛いと
    しまいには「大掃除」が必要になり
    大変な「想い」をしてしまうから。

    でもそれは大掃除という「結果」を避けるための
    「手段」としての手入れの捉え方なのかもしれません。

    一理はあるのですが、
    もうひと味ありそうです。

    先の「愛着」の話でも触れましたが
    「手入れ」をすると
    その「モノ」への意識が変化する。
    すると
    たとえば、次に
    そのモノを「使う」とき
    そのモノの「使い方」も変化しているはずです。

    手入れをしたものを
    「乱暴」に扱うようなことは、そうそうしない。
    むしろ
    「使うこと」が
    「手入れ」に繋がっていくような意識の方向性が芽生えてくる。

    そして、その先に
    「使うこと」そのものが
    「手入れ」となっているような
    営みの世界観がチラリと見えてくる。

    ここがミソではないでしょうか。

    操体でからだの勉強をされている方だったら
    言わずもがな。

    からだの「手入れ」が、そのまま
    より負担の少ない
    からだの「使い方、動かし方」に繋がり

    また、
    からだの「使い方、動かし方」を身におさめることが
    からだの「手入れ」に繋がっている。

    自然法則という
    「真理」に根付いた人間の「生き様」があるのだととしたら
    その人間像をからだを通して
    自分自身で学習し、実践し、探究することができる。
    真理の「ピラミッド」を積み上げていく。

    このからだの「手入れ」というのは
    単なる「お掃除」にあらず、
    自分自身にしかできない
    愛おしきライフワークではないかと思うのです。

    な・に・かヒビキのあった方は
    まもなく開催される秋季東京操体フォーラムに顔を出して
    是非からだで味わってみてくださいね。

    (さて、ここから先は私の独り言です)

    でも
    よく手入れされた「からだ」。
    それはゴールではなくて
    ここからがスタートライン。

    真理を身に纏って
    「人間」は、何を成していくのか。
    その「目的」に触れるような時が来た。

    そんな時代に私たちは生き
    イノチがけで学んでいる。

    一週間お付き合いありがとうございました。
    バトンを渡して、明日からは「巧者」
    友松実行委員の登場です。お愉しみに!

    「2014年秋季東京操体フォーラム」

    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。

    メインテーマは「操体進化論」。

    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので

    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。

    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。

    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813