カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 営みの成績表

    生前の橋本敬三先生には一度もお会いしたことはありませんが

    書き残していただいた言葉を通して

    お会いしているような感覚になることがあります。

     

    「生体の歪みを正す(創元社)」という厚みのある論想集を

    何気なく開いてみると

    そのなかにこんなことが書いてありました。

     

    絶対完全健康正体はあくまで理想像であって、自然法則への随順の程度にしたがって、より正体に、より健康に、すなわち、より幸福に近づきうる。しかし、人間は自然法則に背反する自由も与えられている。背反すれば歪体化する。これは現象界における因果応報の自然法則である。自然法則ほど恐るべきものはない。

     

    「生体の歪みを正す p440『恐るべきは”自然法則”』より」

     

     『しかし、人間は自然法則に背反する自由も与えられている』

     

    こういった橋本哲学が濃縮されている一言に

    わたしはシビレます(笑)

     

    その与えられている自由のなかで

    育まれる自身の健康度のことを

    橋本先生は「営みの成績表」と

    説明しています。

     

    学校でもらう「成績表」というのは

    年に何度か自分の元にやってくるもので

    場合によっては、目をつぶりたくなるようなこともあります。

     

    「営みの成績表」も同じように

    放っといていると「からだ」から

    年に何度か、目をつぶりたくなるような成績表をもらうことになる(笑)

     

    「営みの成績表」には特徴があって

    学校でもらう成績表とは違い

    確認しようと思えば、いつでも確認することができます。

     

    自分自身のこころとからだが

    いま、どんな感じなのか。

    そういうことに少しでも意識を向けることだって、その一歩。

     

    日々、この成績表をチェックできるということも

    人間に与えられている自由なのではないかと思います。

  • 日常の「つい」

    今日の朝は、雨の音で目が醒めました。

     

    操体と出会う前、

    例えば朝、目が醒めて今日のように雨が降っていたりすると

    「あぁ、雨か…」と

    残念な気持ちになっていたものです。

     

    ある時、師匠に

    「天気のことを悪く言うな」

    と教えていただいたことがあります。

     

    天気だけでなく、例えば先日は

    たとえ猛暑日が続いているなかでも

    「おれは『あぁ…暑い…』とは言わないよ」、と。

     

    からだに限らず

    身の回りに起こる「現象」に対して

    文句を言ったり、決めつけたり

    判断したり

    そういったことをせずに

    謙虚にありのまんまを受け取る。

     

    何気ない日常のなかに起こっている現象を通して

    このような見方、捉え方を教えていただいているようです。

     

    つい、「今日も暑いなぁ…」と言ってしまいたくなる。

    そういった日常の「つい」を、点検することから

     

    からだに起こっている「現象」を

    「つい」決めつけてしまうようなことも

    次第に変わっていくのではないかと感じています。

  • 忘れられている呼吸

    臨床の最中に、からだに起こっている「呼吸」の変化に

    ただただ魅せられることがあります。

     

    それまでは小さく、浅く、隠れてしまっていたような呼吸の営みが

    まるで、水平線の向こうから静かに、ゆったりと

    よせてはかえす、波のリズムに見えてきたり、

    吸気に伴う胸郭の膨らみから

    山脈が何百年、何千年という時間をかけて隆起しているようなイメージを想起したり。

     

    ちょっとオーバーかも知れませんが、からだを前に

    そんな雄大な「自然」を前にしているような

    感動を味わうことがあります。

     

    そういうときの呼吸からは、充分な「間(マ)」を感じます。

    このときの「間(マ)」は

    アタマで思考して

    生み出す類いのものとは

    質の違うもののように感じます。

     

    からだの中には、こんな雄大な呼吸の営みが眠っていたのか

    と驚くとともに、

    なぜ普段の生活の中では、忘れ去られてしまっているのだろうかと、

     

    この呼吸を眠らせてしまっているのは何なのだろうか、と

    不思議で、仕方がありません。

  • 左右の差

    左と右、その左右の形態的な「差」というものを

    できるだけなくしていくように

    働きかけようとしていた時期がありました。

     

    アタマのどこかで

    臨床の「ゴール」を

    からだに現れている左右差の解消に据えて

    からだと向き合っていた頃。

     

    もしかすると、からだにとっては

    うんと迷惑な干渉になっていたのかもしれません。

     

    左には左の、右には右の

    それぞれに「役割」が在る。

    その各々の性格が絶妙に絡み合って

    生命活動は営まれている。

     

    そういう捉え方で診てみると

    「左右差」は最初から在るもの

    生命にとって必要なもののようにも感じられてきます。

     

    地面に根を張り

    生命活動を表現している

    樹木のスガタを見れば

     

    「左右対称」とはひと味もふた味も違う

    目に見えないバランスに則った

    「左右非対称」の生き様がそこに在るように感じます。

  • 素材の味

    「変化」というのは、余計な味付けをしていない

    「素(ス)」の言葉だなあと感じています。

     

    からだが変化する、そのこと自体に

    「良い」も「悪い」もない。

    からだはむしろ、「自然法則」という目には見えない規範に則って

    どこまでも素直に、生命活動を表現し続けているようにも感じられてきます。

    そんな奇跡のような営みが、日々静かに身近で行なわれている

    というのは、本当はスゴいことなのではないかと思います。

     

    「息」、「食」、「動」、「想」という

    自分自身と切っても切り離せない営みと

    それを取りまく「環境」。

    そういったものも余すところなく

    あからさまに写し出している「からだ」。

     

    余計なものを足さず

    「変化」として、からだが素直に写し出しているものは

    誰でもない「ワタシ」そのものなのではないか、と

    思う時があります。

     

    取り繕って、どんなに隠そうとしても

    本当のところは

    自分自身という「スクリーン」を介して

    「ワタシ」を赤裸々に物語っているのかも知れません(笑)

     

    もし

    からだに起こっている現象のすべてを

    味付けせずに、ありのまんまに「いただく」ことができたなら 

     

    そこに写し出されている「ワタシ」という「素材」のことも

    曇りなく、ありのまんまに

    「味わえて」いるのかも知れません。

  • 言葉の変化

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間のブログありがとうございました。

    岩手から届くきもちのよい風に変わって

    今日から一週間、目に見える世界と目に見えない世界をいったりきたりしながら(笑)

    寺本が担当致します。宜しくお願い致します。

     

    今日の朝は聞き慣れない鳥の声で目が醒めました。ちょうど窓のすぐ傍で、良く響く声で伸び伸びと、五時前から鳴いていたどこぞやの鳥。実に個性的なファンファーレを堪能した朝でした。

     

    さて、今回のテーマとしていただいた「歪み」。

    最近改めて「一体、何なのだろう?」と思うようになりました。

     

    日々更新されるこのリレーブログのなかで語られる「歪み観」。

    それがそのまま、操体の「臨床観」のようにも感じられてきます。

    私自身最近のブログはまた目が離せないモノとなっています。

     

    自分自身を振り返ってみれば、まず思い浮かぶのは

    「歪み」という言葉の出番自体がどうも極端に減ったことです。

     

    いままで何気なく使っていたこの「言葉」のなかに

    「良くないもの」だとか、どことなく「負の要素」だとか

    余計なものが付着しているように感じるようになる。

    目の前のからだに起こっている現象を口にする時に

    その「ありのまんま」を表現するのに

    どうも馴染まないような感じがするようになった。

     

    代わりに、「変化」という言葉を大事にするようになる。

    自分自身の口にする言葉から余計なものが自ずと消えていって

    素直な、後味のいい言葉へと変化していく。

    捉え方が変化することで、言葉も変化する。

     

    操体を学んでいると実によくこういった経験に遭遇します。

    「歪み」という言葉は、その典型だと感じています。

  • 足趾の操法からおさめを学ぶ

    「足趾の操法」というものがある。

    当フォーラムではここ数年、体験の時間を設けているので

    フォーラムに参加していただいたことのある方には

    身をもって味わったことのある方もいるかもしれない。

    とにかく、「きもちのいい」ものである。

     

    操法として、快適感覚のききわけがとおりやすい。

    「快適感覚」に基づいた臨床を行なっている臨床家にとって

    この操法から学ぶことは尽きない。

     

    操体法東京研究会主宰の講座で

    この足趾の操法と出会い三年くらい経つ。

    この操法から、「おさめ」ということを初めて教えていただいた。

    橋本先生が70代の頃にも「足心道」に由来する

    足趾の操法の原型が行なわれていたと聞いているが

    その頃には操法のプロセスに

    「おさめ」がなかったという。

     

    「おさめ」は奥が深く

    「おさめ方」にもその操法に合った使い分けがされている。

    プロセスのひとつひとつにも

    からだの要求に適うように

    かなり細かいところまで指導の目が入る。

    そして、いまもなお

    生命の要求に適うように進化し続けている。

     

    足趾の操法は一生たのしめる。

    もし、今回の実行委員ブログを見て

    「おさめ」に興味を持っていただけたら、

    まず、「足趾の操法」から

    「おさめ」について学んでいただくことをお勧めします。

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  • カガミとおさめ

    先日、日本の上古代文字ホツマツタエの勉強会に参加した際に

    講師の先生から興味深いことを教えていただいた。

    古代日本では軽い罪を犯した人への「刑」として

    「大きなカガミ」の前に連れて行く

    ということが行なわれていたそうだ。

     

    能楽」に興味のある方はご存知かもしれないが

    能舞台の揚幕の奥、

    見所(客席)からは見えない空間に

    大きな「姿見」の静置された

    「鏡の間」という神性な空間が存在する。

     

    人間と「カガミ」。

    古来より、「カガミ」とはどんな存在だったのだろうか。

    人間は「カガミ」を前に、何を感じてきたのだろう。

     

    操体では

    「姿見」のような「大きな鏡」を用意することは無いが、

    臨床のプロセスのなかで

    「目に見えないカガミ」を扱っているのだと感じている。

     

    からだにききわけて

    自分自身の良心に問いかけて

     

    この、目には見えない

    そして、時として「曇って」しまうこともある

    「カガミ」のおさめ方を

    しっかりと学べる場が

    操体の学びにはある。

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  • 変化のなかでおさまる

    昨日の夜はたっぷり雨が降った。

     

    こどもの頃から川の近くに住んでいるので

    急な大雨が降ると、その度に鳴り響くサイレンを聞いていた。

    昔はよく川の水が溢れて、氾濫していた。

    昨日も案の定、サイレンが響いていた。

     

    コンクリートの上に降る雨は

    あるものは水たまりとなり

    たまりは溢れて、排水溝へと流れていく。

    マンホールの蓋の下では

    けたたましく流れる濁流の音がしている。

     

    都市に降った雨の何割かは、土にしみ込まずに

    人間の作った水の通り道に導かれ、

    様々な「管」を通って循環する。

     

    昨日降った雨も、今頃は川の水になっているのか、海の水になっているのか

    未だ下水道の水として浄化されている最中か。

    人間の生み出してきた、「環境」の姿があり、

    その一部として、自身もそこに住んでいる。

     

    人間が生み出したものは、どこまで「変化」に対応できるだろうか。

    昨日の夜、雨のなかを歩きながらそんなことを考えた。

     

    環境を管理する為に作られてきた「器」。

    そういった「器」の多くが、

    「変化」を忘れ、「動き」を失っている。

     

    「変化」を忘れた「器」は、自然に生み出される現象を

    時に、受け止めきれなくなり、サイレンを響かせる。

     

    変化のなかで「おさまる」。

    操体を学んでいると、この本質と何度も向き合うことになる。

     

    人間は何かを生み出すようになる前から、

    実は、生まれた時から

    変化のなかで「おさまる」ように創造された

    「からだ」というイノチの「器」を有している。

     

    からだは、人間の生き様を

    どんな風に感じながら

    傍で見ているのだろうか。

     

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  • 眠りとおさめ

    毎晩、眠り

    毎朝、目覚める。

     

    師匠からも「眠り」の大切さを何度も教えていただいているが、

    本当に不思議なもので

    「今日一日をどう過ごしたか」

    そのことが、「眠り」の質に

    如実に作用している感じがする。

     

    目覚めているときの、その営み。

     

    呼吸の営み

    食べる営み

    からだを動かす営み

    想念の営み

     

    そのひとつひとつには「自然法則」が在り

    「息、食、動、想」の自己責任を

     自身のおかれた「環境」のなかで全うする。

     

    この「生き方」ということがそのまま

    操体の臨床のように見えてくる。

     

    自分自身に問いかけながら営む日々は

    「一日丸ごと」のなかに

    「動診」から「操法」のプロセスが

    いくつも詰まっているかのように感じられてくる。

     

    「眠り」を、この一日の営みの「おさめ」として味わう。

    その「おさめ」から、また自然と目覚める不思議さがある。

     

    その不思議な目覚めを味わうたびに

    たしかに、目に見えない存在に生かされているイノチなのだと、感じる。

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