カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • やぎさんゆうびん考

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間ありがとうございます。

    操体臨床のホントのところ。

    それを「生音」で聴いているようでした。

     

    今年開催される4月の春季フォーラムの醍醐味のひとつは

    操体臨床の「事例発表」の機会をたっぷり体験できることです。

    操体の目線から捉えた「生音」の臨床をきく。

    私も一段と愉しみになりました。

     

    さて、今日から一週間は寺本が担当致します。

    宜しくお願い致します。

    テーマは引き続き「アプローチとメッセージ」ですが・・・

     

    あれ?

    何処からか、懐かしいうたがきこえてきましたよ。

     

    やぎさんゆうびん

    作詞:まど みちお 作曲:團伊玖磨 

     

    しろやぎさんから おてがみ ついた

    くろやぎさんたら よまずに たべた

    しかたがないので おてがみ かいた

    さっきのてがみの ごようじ なあに

     

    くろやぎさんから おてがみ ついた

    しろやぎさんたら よまずに たべた

    しかたがないので おてがみ かいた

    さっきのてがみの ごようじ なあに

     

    やぎさんゆうびん (はじめましてのえほん)

    やぎさんゆうびん (はじめましてのえほん)

     

     

    この童謡・唱歌。記憶のなかにしっかりとおさまっていて、

    度あるごとにいまでもアタマのなかをリフレインしている、

    わたしにとっては不思議なうたです。

     

    小さい頃は、

    ことばのリズムと、軽快なメロディが織りなす

    この「繰り返しのたのしさ」が大好きでした。

     

    そして、だいたい4周目を過ぎたあたりから、

    「それ・・・食べちゃダメなんだけどな、てがみが書いてあるんだけどな」

    とアタマのなかで呟いていたような気がします。

     

    大きくなって、

    そして操体の臨床観に触れるようになって、

    この「終わらないうた」のなかには 

    臨床にとって大事な要素が詰まっているような

    気配を感じるようになりました。

     

    何かありそうだ・・・クンクンクン。

    というわけで、今回は操体の臨床という観点から、

    やぎさんゆうびん」を味わってみたいと思います。

     

    2017年春季東京操体フォーラム開催! 

  • 間合い

    武道の世界などでよく「相手との間合い」が勝敗の分かれ道

    とった言い方をしますが、

    操体を学ぶようになって 「間合い」には

    「自分との間合い」もあっていいんだということを教えてもらいました。

     

    その間合いのとり方はいろいろで、

    「アタマ」と「からだ」

    「自分」と「自分自身」

    「自我」と「○○」

    と、思いのままに設定してみてOK。

     

    こういったことを「自分との対話」と言うのかも知れませんが、

    対話が生まれるには、程よい「間」が必要で

    まずは自分との間合いを探る機会、

    そういった時間を創ることから始まるように思います。

     

    日常生活はめまぐるしく流れているように感じますが、

    時間が足りなければ足りない程。

    また忙しければ忙しい程に、

    そんな間合いを設ける時間を、自分に提供してみたら?

    と、操体から教えてもらっているように感じています。

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは「間の人」、友松実行委員の登場です。

    おたのしみに。

  • 1900年の間

    先日、近所を散歩していたときのことです。

    住宅街のなかで「遺跡見学会→」の張り紙が目につきました。

    「え、こんなところに、遺跡?」と

    しばらく状況が飲みこめずその張り紙の前に立ちつくしていましたが、

    見れば、次の見学会の時間がちょうど始まるところだったので

    とりあえず参加してみることにしました。

     

    会場は、都営住宅の跡地。

    白い塀に囲まれていて、中がほとんど見えない場所だったので

    まさかここで発掘調査が行なわれていたとは思いもしませんでした。

     

     私の住まいのすぐとなりには「川」が二本流れています。

    そして、川が合流しているポイントがあるのですが、

    その自然にできた三角地帯に、1900年前の集落があり、

    私が知らなかっただけで、ここ数年に渡り

    周辺の発掘調査がすすめられていたようなのです。

     

    小学生のときに地域の郷土資料館で見たような

    「竪穴式住居跡」や「地層の断面」などを前に

    専門調査員の丁寧な説明を聞いていると、

    当時の古代人の生活が立ち現れてくるようです。

    「実際にここに住んでいたのか」と思うと

    ご近所さんのような気がしてきます。

     

    30分の見学会は、期待以上に面白かったのですが、

    中でも「台所」の説明を聞いていて、私はハッとしてしまいました。

     

    調査員の人「この丸くて、土の色が黒くなっているところが、

    当時、火を使っていた場所。今で言う台所ですね。

    この円形の周りにこうやって土器の破片が置かれていますけど

    これは何で置かれているのか、わかりますか?」

     

    私の心のつぶやき「(なんかガスコンロの五徳みたいに見えるな…)

     

    調査員の人「はい、そうですね。これは煮炊きするときに

    土器を置く五徳みたいなものだったと考えられています。

    むかしの人も割れた土器をこんな風にリサイクルしていたんですね。」

     

    その瞬間、古代人が暮らしのなかで考えていたことが、

    とても身近に入り込んでくるような気がして、

    「1900年」という時間が

    一瞬消えてしまったような気がしました。

     

    遺跡を通して古代人の暮らしや、思考感覚を教えてもらっているような

    そんな30分間でした。

     

    東京は杉並区の小高い場所に位置するこの遺跡から

    高い建物のなかった当時は東京湾まで一望できたようです。

     

    古代人は当時、暮らしの営みをどんな風に感じながら

    生きていたのだろうかと、考えてみるきっかけになりました。

  • 充電と隙間

    とても感覚的な話になりますが、

    なんとなく感じる「停滞感」や

    どことなく漂う「立ち止まっている感」

    に 包まれているときは、

    「あ、充電しよう」と思います。

     

    そう思って、身の回りの状況を確認すると

    「充電してください」と 言われているような現象が

    あちこちに見えてきます。

     

    「箱ティッシュ」が空っぽ。

    「携帯電話の電池」が切れそう。

    などなど。

     

    些細なことが目に入ってくることも在れば、

    逆に、「新しく入る余地がなくて困っています」

    と言われているような状況に遭遇することもあります。

     

    そういう時は、

    「充電」できるように、まず「隙間」をつくることに励んでみます。

     

    足りていないモノを補うこともさることながら

    溢れているモノに隙間をつくる作業も、

    いい充電になっているような気がします。

  • 抜けても、延びても

    これはむかしからのことですが、

    うっかり「間の抜けた」ようなことをして

    怒られ、反省することがあれば、

     

    また時に、信頼できる人から

    「それでは間延びしているよ」 と

    指摘されては、これもまた反省することが

    度々ありました。

     

    「反省する」と言っても、

    この「間」ということについては、

    なんとなくわかるけれども、

    でも、

    「ではどうしたらいいのか」

    正直よくわからない。

     

    わからないなりに

    試行錯誤をしてきたことでした。

     

    抜けていても、延びていても

    どうもしっくりこないもの。

    なぞなぞみたいだな、と思います。

  • 「間」違い→「間」違いない

     何気なく使っていますが

    言葉は不思議なものだと思います。

     

    「間違い」という言葉のなかに

    「間」が入り込んでいます。

     

    語源に関しては詳しくありませんが、

    試しにこれを文字通り、

    「間」の違いとして捉えてみます。

     

    するとこの言葉が

    とても感覚的な言葉のように

    感じられてきます。

     

    一方で、この言葉に「ない」をつけると

    「間違いない」となり、

    一気に確信を持った、

    絶対的な意志が宿るように 感じられます。

     

    橋本敬三先生は

    「自然法則が間違ってるんじゃない、人間が間違っているんだ」

    と指摘されています。

     

    たしかに、自然法則には元来「間」が在って、

    ただただ人間がその「間」からはずれた生き方を選んでいる、

    「間」が違っているだけ、なのかもしれません。

     

    操体はこの「間」違いを見つめて、

    自然法則に適った「間」違いないものを

    見据えているのだと思います。

  • 「間」のデザイン

    長年操体を勉強し続けてきた人。

    まわりを見渡してみると

    みなさん独自・独特の「間」を

    持っていることに気が付きます。

     

    これは操体に限らないことですが、

    「この人はタダモノではない」

    と感じるような

    その道に通じている人は

    極上の「間」を持っている人だと思います。

     

    「持っている」というのは、

    結果的にそういう風に見えるというだけで

    実際には、「間」の使い方を心得ている人 とも言えるでしょう。

    通常は長い年月をかけて、養われる世界観なのだと思います。

     

    実は操体って「常」に、

    「間」のことについて

    学習しているようなところがある。

    そんな風に思うようになりました。

     

    からだを介して、「間」をデザインする。

    そういう面白さが、とってもあるように感じます。

    実行委員のなかで「藝術部」が盛んなのも、

    この辺のこととも関係している、

    のかもしれません。 

     

    操体を勉強し始めると

    醸し出される「間」も変化していく。

    そういった変化も、興味深いところです。

  • 「 」に合う

    おはようございます。

    瀧澤実行委員の波「ma」を眺める姿に

    なんかしらんけど、納得!

     

    バトンを預かって、今週は寺本が担当致します。

    宜しくお願いします。

     

    さて、テーマが「ma」に決まってから

    真っ先に浮かんできたイメージが

    「間に合う」です。

     

    橋本敬三先生の有名な言葉のなかにも

    「間に合っていればいいんだ」という

    静かですが、ある意味、強烈な一言がありますね。

     

    操体はこの「間に合う」の解釈次第で

    膨らんだり、萎んだり、

    如何様にも変化し続けていくもののように感じられます。

     

    それにしても、

    橋本先生が語っていた「間」って

    一体なんなのでしょう。

     

    そんな自問自答をくり返しながら、

    臨床家のなかに育まれた

    『「 」に合う』のイメージ。

    それがそのまんま

    臨床に立ち現れてくるのだと思います。

  • 感性を磨く とは

    よく「感性を磨く」という言い方をします。

    色々な体験をしたり、触れることで養われる感覚。

    また、センスのある「何か」に接触すると、自分自身の感性も感化され、変化していく。そういったイメージがまず浮かんできます。

     

    一方で、「感性の磨き方」には別の角度からのアプローチもあることを、操体を学んでいると感じます。

    と、いうよりも、操体でまず最初に学ぶ、からだの使い方、動かし方。

    そういったことの基礎は、実はそれがそのまま感性の豊かさへと直結しているものなのだと思う様になりました。

     

    もっと「ぶっちゃけ」てしまえば、感性を磨く方法は、からだの使い方や動かし方の基礎を学習することに「こそ」ある。

    それくらい大事なことがこの「からだ」には秘められていると感じています。

     

    では具体的に何を、どうしたらいいのでしょうか。

    実は、そういったことはこのブログの場でも既に語られています。

    なかでも「作法」という単語。この言葉には要注意です。

    「注意」というのは、「何かあるな」ということです。

     

    先日、南会津で行なわれた伝統療法カンファレンス。そのなかで行なわれた師匠のワークショップでも、超最新の最重要事項がなんてことのないような会話のなかにぽろぽろと放言されていて、弟子は結構驚きました。

    でも、あまりになんてことのないように聞こえてくるので、さらりと聞き流してしまう、なんてこともあるのではないかと思います。

     

    操体に興味をもってフォーラムに参加してみようと考えている方は、「作法」という言葉が出て来たら「ちょっと気をつけて」耳を傾けてみてください。

     

    「なんかよくわからないなぁ」と感じても、ちょっと一息ついて。

    そういう時にこそ、重要なヒントが含まれている可能性があることを思い起こしていただければと思います。

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは感性を言葉に置き換えて操体叙事詩を語る友松実行委員が登場します。

    おたのしみに。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です

  • 灯り

    部屋の「灯り」の話です。

     

    夜、散歩をしていて、ふと、家の外から自宅を眺める。

    すると部屋の灯りがついていて中の様子が外から良く見えている、ことに気付く瞬間があります。

    目隠しのつもりでレース地のカーテンなどつけていても、以外と部屋の灯りがついていると外からは中の様子が見えている。

     人の家で目に入ってそれほど気にならないものが、自分の家だと新鮮に感じるものです。

     

    「ちょっと恥ずかしい」とその時は思い、そういうことは度々気付くのですが、普段家のなかにいるときにはすっかりそのことを忘れてしまっている時が多いように感じます。

     

    場面は変わって、例えば深夜の室内。

    ちょっと喉が渇いて、灯りを付けない暗闇のままの台所に向かう時。

    何気なく薄地のカーテンの閉まっている窓から外を眺めると、隣の家の電気がついていて予想以上にその様子が見えている、ということもあります。

     

    部屋の灯りがついている時にはまったく気付かないのですが、灯りが消えていて室内が暗いと、外の世界はまったく違う見え方に変化するんですね。

    当たり前のことではありますが、とても不思議に感じます。

     

    これを「からだ」のこととして眺めると、「臨床」にも似たようなところがあるような気がします。

     

    「操者」の方に「灯り」がついていると、逆に「相手」や「相手のからだ」からはこちらの様子がまる見え状態。

    逆に操者側の余計な「灯り」を消すことで、素直に見えてくるもの、見せてくれるものがある。

    似たようなことを、度々師匠から言われてきました。 

     

    この「灯り」に何が当てはまるかは、ご想像にお任せします。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です