操体は「からだ」の要求を診立てる。
そして、その要求に素直に応える。
同時に、 その人の普段の「生き方」、
日常どんな「ミタテ」を行いながら生きているか。
そんなことも診ている。
操体臨床の空間は、
「からだの要求に適う、こんな『ミタテ方』があるんですよ」
と、経験し、紹介する場にもなっている。
からだの要求に応える空間を味わった上で、
本人が今後の生活でどんな「身立て(ミタテ)」を成していくか。
その点ばかりは、本人の意志に委ねられている。
その人の生き方は、
その人の「からだ」に現れている。
臨床家がからだを「診る」ということは、
その人のからだを通して、
その人の「生き方」を診ること。
そして、その生き方を通して
その人が普段どんな「ミタテ方」をしているのかを
知ることにもつながる。
日常生活は「ミタテ」の連続である。
何気なく送る生活のなかで
目の前の状況を
判断(診断)し、その結果をもとに
行動に移る。
ひとつの捉え方として、
その人の「生き方(いきかた)」は
その人の「ミタテ方(みたてかた)」
そのもののようにも思えてくる。
操体を学び始める前、 自分の頭のなかにどんな言葉が鳴り響いていたか。
当時の生活を思い出しながら
どんな言葉を使っていたか、振り返ってみれば、
「どっちのほうがいいかな〜」
「こっちのやり方の方が楽だよね」
こんなことを、何気ない日々のなかで考えながら生きていたように思います。
当たり前の様に「判断」や「選択」に迷う。
そんなことも多かったなぁと思います。
アタマのなかで
「どちらか」や「楽」といったキーワードが現れる機会は
今では珍しくなりました。
日常生活で、
「どちらの方が楽ですか、辛いですか」と自分に問いかける
「第一分析」を使わなければいけないことが
減ってきたのかもしれません。
瀧澤さん一週間ありがとうございました。
今日からは一週間寺本が担当します。
今回のテーマは「ミタテ」です。
宜しくお願い致します。
「診立て(診断)」というと、「臨床」の世界を思い浮かべますが、
よくよく考えてみれば私たちは、常にある種の「診立て」をしながら
瞬間瞬間を生きているような気がします。
「お腹が減ったなぁ…、何を食べようかな」
「これ欲しいな…、でも結構高いな」
「〜さんに誘われたけど、どうしようかな」
アタマのなかで交わされている自分の言葉。
その会話のような独り言に
「からだ」からの言葉はほとんど聞こえてこない。
もしくは聞こえていないフリをしてしまう。
日常のなかに溢れている診立ての瞬間に、
気付かない内に、随分と「自分」ばかりに
肩入れしているのではないかと思います。
自分の周囲に対して
「言い訳」を考えているときがある。
またか、と思い
呼吸に意識を向けて、「立ち止まる」。
アタマのなかで鳴り響く
声や言葉がおさまって 静かになれば、
さきほどまでの言い訳は、
自分自身への「言い訳」から生まれていたもの、
だったのではないかと、気が付く。
そうか、 これは自分自身に対する、
言い訳だったのか。
いや、
いつもそうではなかったか。
他人事の前に転がっている「自分事」。
そのフタを開けるかどうかも、 自分次第。
さあ、どうする。
ワタシは知っている。
他でもない、 自分自身との「秘め事」の世界。
逃げてしまえば味わえない、格別の対話が
そこで待ちかまえている。
一週間のお付き合いありがとうございました。
明日からは上野国から友松さんの
「プロ意識」と「プロ根性」が始まります。
おたのしみに。
「同じこと」を教えてもらうにしても
無難にこなせる講師から教えてもらうのと
その道のプロに学ぶのとでは、
まるで違う。
経験、失敗、工夫、発見、時間、空間。
辿ってきた道筋が、そのまんま
厚みと深みになる。
学んでいる方にはそういったものが
無意識的にわかってしまう。
心の底の方で
「失敗」を恐れていること。
そういったことも、
隠しているつもりでも
あからさまにバレてしまっている。
ただ傍にいるだけなのに
勉強になる人、
エネルギーをもらえる人、
何かを感じさせる人
がいる。
言葉を口にするわけでもなく
特別なことをしているわけではなくても、
極端な話、
ただ其処に居るだけの
その「居方」から 伝わるものがある人。
不思議だ。
こういうことは、
自分の行いにどこまで意識をもって生きているか、
日々、果てしなく問いかけ続けた先に見える
「在り方」の話なのかもしれない。
以前、新潟のお土産で「渋柿の焼酎漬け」なるものをいただいたことがある。
それがまた、今まで食べてきた柿のイメージがひっくり返る程に絶品で、
その時の衝撃が深く記憶のなかに残っている。
「渋柿」は、そのままでは、
あの独特の渋味が強過ぎて 食べられたものではない。
そんな「渋味」に立ち向かった、
初めての人。
試行錯誤と、手間ひまをかけて
「渋」を抜く方法があることを発見し、
処理を重ねることで、
甘柿では味わうことのできない
あの何とも言えない妙味にまでたどりついた。
もしそういう風に向き合う人がいなければ
未だに渋柿は「渋い柿」のまま。
この「絶品」は隠されたまま、
見向きもされない存在のままだったのだろう。
柿の渋を抜くのと同じで、
自分自身が「苦手」と感じていることも
「苦み」を丁寧に処理することができれば
何か別の感覚に化ける可能性が
あるのかもしれない。
「少しくらい、いいかな。誰かが見ている訳ではないし・・。」
日常のなかでの些細な誘惑。
スッと入り込んできては、「軸」を揺さぶる囁き。
安心してください。
例え、誰も見ていないところでも、
「自分自身」はちゃんと目を開けて見ています。
ワタシを支えている何十兆個の細胞は
ワタシの選択をしっかりと見届けています。
「独り」ではありませんよ。