
投稿者: karib_sotai
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まるごと操体(2)
私のところでは「操体の施術+ベーシック講習」というのを長年やっています。個人レッスン形式なので質問やテーマを持ってきてもらいますが、多いのは「患者さんがきもちよさをわかってくれない」「そもそも自分がきもちよさというものをわかっていない」「楽と快は違うっていうけれど、そこがわからない」というように「楽と快問題」がかなりの割合を占めます。「楽と快の違い」が分かっていないということは、操体の半分以上を理解できていないということになります。半分、と言ったのは、第一分析「辛い方から楽な方に動かして、瞬間急速脱力する」のように「快」に踏み込んでいなければ、つまり「楽か辛いか」のみならば良いのです。しかし、最近は操体=快」という図式の方が有名になっているので、大抵は「快」に踏み込んでいます。つまり動診自体「どちらが楽ですか。辛いですか」という事をやっているのに、言葉の誘導では「どちらがきもちいいですか」(ワーストな聞き方です)と聞いている、つまり、動作と言葉が一致していないのです。動作と言葉が一致していないので、患者さんは「?」になるのです。秋季東京操体フォーラムは11月23日に開催致します。 -
まるごと操体(1)
こんにちは。東京操体フォーラムの畠山裕美です。11月23日(勤労感謝の日)は、2023年秋季東京操体フォーラムを開催致します。コロナ禍ですっかりオンライン配信が定着してしまいましたが、操体はやはり実際に体験していただくのが1番です。今回のフォーラムのテーマは「まるごと操体」です。久々のオンサイト開催で、実技を交えながら「操体の色々なところを紹介しちゃう」という企画になっています。私は操体における自分のテーマ「楽と快の違い」について短時間ではありますが、発表予定です。「あなたの操体臨床が上手くいかないのは、楽と快を混同しているから」実際、上手くいかないという方の話を聞いてみると、ほぼ100パーセント、これです。というのは、私自身が最初に習ったものが「楽と快を混同している」ものだったからなのです。言葉では「快方向」と言ってはいるものの、実際には「楽な方」を選択していたのです。今回は、私が「楽と快の違い」に気がついた瞬間などについてお話したいと思います。
秋季東京操体フォーラムは11月23日に開催致します。 -
まるごと操体・・・7
おはようございます。
操体を語る上で忘れてならないのが、創始者、橋本敬三先生の生命観であろう。
橋本先生は、その生命観を基に、健康に関しても以下のような文章を残している。
神その像(かたち)の如くに人を創造りたまえり
人は神の像なのである。神の像なる人間がなぜ病気をしたり死んだりせねばならないか。
これは医学の範囲外ではあるが、重要な関係がある。
人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。
そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。
神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。
神と人とが同じ像であるという信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。
これを迷いというのであろう。
迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることとなる。
像も歪んで(ひずんで)来たらざるを得ないわけである。
「生体の歪みを正す」 力学的医学の構想ー求学備忘録の冒頭より抜粋
ここに書いている神とは、高額の壺を買わなければ災いが起こる、御利益がないとしているような見返りを求める神、いわゆる人間のつくりだした報いの神ではない。
此の世を創造した絶対的な救いの神のことである。
人間はじめ此の世の存在全ては、本然の救いの神を発祥としているという。
神が何も無い無極無限の世界に、愛と調和という意志でもって陰(-)と陽(+)を設定したから、そこに波動が起き、そのエネルギーから物質の素が出来、原子、分子と物質になっていき、宇宙はじめ大自然が出来、そして人間という生命も生まれてきた。
この成り立ちの全てに、愛と調和という神の意志がかかわっている。
私達の身体も60兆という細胞からなっているが、その細胞一つ一つにも愛と調和という意志による成り立ちがあり、愛と調和という意志が貫通しているから、からだとして機能して存在している。
元々は神性を相続しているという事。
此の世に生まれてきただけで、素晴らしい事なのであり、此の世に生きているという事は、もうすでに有難く救いが成立しているから生きていられるという事。
しかし、人間はいつの間にか、神人合一の信念から離れた生命活動を営むようになってしまった。
そして、どのような状態が健康な像なのかも解らず、迷いに陥っている。
それは、からだを不正当に使い、不自然な飲食、上手く活用できていない呼吸にもつながってしまっている。
だから、橋本敬三先生は「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランス現象に着目し、誰でも真の健康を蘇らせて神人合一が叶うような自然の法則の究明に、その生涯を捧げたのだと思う。
橋本敬三先生の成さんとしていた事、それは寿命の都合もあり生前は成されなかった。
しかし、橋本先生の下で長年学んできた三浦寛先生に、その意志は引き継がれた。
三浦先生により、操体は橋本先生の意志を引き継ぎつつ、進化してきた。
そして、三浦先生は今新たに新重心理論を提唱している。
学ばせていただいて感じるのは、従来にはない新しい理論ではあるが、橋本先生の求めていた真の健康像の提示なのではないかという事。
あとは自分の生き方次第であり、有難みを忘れずにからだと向き合い、愉しみながら心も成長させていければ良いのだと思う。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。友松 誠。
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まるごと操体・・・6
おはようございます。
操体の臨床では、今表れている症状疾患に対処するのではなく、症状疾患の原因、元となるものに着目し、そこから健康回復につながるバランス制御が成されていくにつれ、今表れている症状疾患が治まっていくのをみる。
症状疾患の元となるものにボディの歪みが挙げられるが、そのボディの歪みは「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランスの崩れから生じている。
いきなり症状疾患に対処しても、元を何とかしなければ治まるものも治まっていかない。
からだからしたら、本人がバランスの崩れる様な生活を続け、迷惑を被ってきたのに、どこか悪くなれば「薬をやるから早くなんとかしろ」「関節の変位を修正してやったから早く治癒力を出せ」ではからだだってまいってしまう。
健康が損なわれて症状疾患に陥っている程、からだは癒しを求めている。
まず癒す。
バランスを崩すような生活をしていた自分を癒すのではなく、自分のからだを癒す。
今まで、知らず知らずのうちにもからだに負担を強いてきた自分の「想」、自分の我は引っ込んでいた方がいい。
それまでの自分の「想」からの、「息」「食」「動」でバランスを崩しているのだから。
自分の「想」は一旦放下して、からだの求める生命活動に委ねた方がいい。
それが癒しにつながる。
からだにききわけた一番寛げる体勢で休み、心とからだを解放させてあげる。
これは臨床の場でも大切な事。
臨床の場で、皮膚へのアプロ―チを行っていると、よく意識飛びの現象が起こるが、これも心とからだを解放させて自然とともに癒され、そこから「息」「動」が無意識的に変わっていき、バランス制御に向かうのが感じられる。
癒しの方が先決。
自力自療の取り組みでも、癒しにつながるような、からだへの「想」は大切。
夜、睡眠に入る時も、一番寛げる体勢をからだにききわけ、そして「今日も一日ありがとう」と、その日がどんな一日だったとしても、からだと自然にいたわりと感謝の気持ちを向けて、言葉掛けをしてあげる。
これだけでも続けていけば、現象は変わっていくと思う。
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まるごと操体・・・5
おはようございます。
「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランス。
このバランス現象からは、生きている限り逃れる事はできない。どんな人も、このバランス現象を基として生かされて生きている。
ここに注目し、誰もが自分自身で健康の基から正していけるというのが、操体の提唱する健康学なのである。
生きている限り、他人に代ってもらう事のできない最小限の生命活動である「息」「食」「動」「想」。
この「息」「食」「動」「想」の営みは「環境」と関わり合いながら、同時相関相補性になっている。
同時相関相補性とは、ある営みが悪くなればバランスの崩れとともに他の営みも悪くなり、ある営みが良くなれば他の営みもバランスの向上とともに良くなる性質をいう。
そして「息」「食」「動」「想」の4つの営みは、常に行っていなければならない営みとそうでない営みがある。
「息」は常に営んでいなければ生存に係るし、「動」も無意識に行っている動きも含めれば、寝ている間にも生じている常の営みである。
この「息」と「動」が、自然の理に沿うようにバランス向上に向かえば、自ずと「食」も「想」も「環境」に適応するよう営み方がより良く変わってくる。
実際に「息」と「動」が変われば、「食」の質や量も変わり、「想」も変化してくる。
同時進行するように、からだのツクリ、形態も不自然さが解消されて、変わってくる。
からだの内も外もより良く変わってくるという事であり、その間に働いているのは自然良能作用、自然治癒力といったものであり、からだや自然のバランス制御の働きかけである。
大切なのは、からだや自然のバランス制御に働きかけが成されているかであり、それなくして一つの営みが良くなれば他の営みも良くなるという性質を、充分に活用する事は出来ない。
「息」にしても、世間には呼吸法に関して様々あるが、呼吸法を実践する当人のからだが不自然な方向性に傾いた状態であれば、充分な呼吸法とはならないであろう。
それよりも、「動」のからだの正当な使い方を識り、動きとともに呼吸も自然の理に沿ったものに変わっていければ、不自然な方向性に傾いたからだのツクリも変わって「息」も深く、長くといった事が可能となってくる。
からだや自然本来の良能作用というのは、本当に素晴らしいものがあると思う。
からだや自然のバランス制御への働きかけ。
ここに接するには、痛い、ツライといった不快な感覚からではなく、からだにききわけた快適感覚、からだがききわけている快適感覚であるという事が、生命体に対する自然の恩恵であるように感じる。
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まるごと操体・・・4
おはようございます。
健康を基から調えていく。
今、健康だと思えている状態を保つだけではなく、誰もが積極的に健康の基から調整して健康増進へも、つなげていける。
それが可能なのも真の健康学であり、操体。
みんなそれぞれ個性の差というものがある。
何かしらの持病がある、それも個性であろう。
今、巷にあふれる健康法、健康食品というものは、その効果もうたうが個人差がある事や、何か異常があった場合は医師に相談して下さいという説明も付け加えられる。
誰にでも効果があるものというのはない。
なぜ無いのか。
それは、生命体としての生存に於ける必須条件についての考察がないからであろう。
人間、この生命体は誰もが環境の中で、息をし、飲食し、動き、想う、という活動を営みながら生命エネルギーの入出力を行って生きている。
個性の差を考慮する前に、誰にでも共通するこの生命体として必須の生命活動を、どうすればバランスのとれたものにしていけるかを考えてみる必要がある。
環境の中での生命エネルギーのバランス収支がとれているほど健康なのだから。
その上で、真の自分の個性を発揮していく。
「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランス。このバランス現象からは、生きている限り逃れる事はできない。
どんな人も、このバランス現象を基として生かされて生きている。
ここに注目し、誰もが自分自身で積極的に健康の基から正していけるというのが、操体の提唱する健康学なのである。
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まるごと操体・・・3
おはようございます。
健康とは自分自身で創造していくものである。
創造、つまり健康は人から与えられるものではなく、自分自身で新たな気づきを得ながら、それを愉しみながらつくりだしていくものだと思う。
自力自療が適う。
それが真の健康学だと思う。これは、保健、つまり健康を守り保つ事を目標に掲げる行政指導型の健康に対する考え方とは異なる。
保健からの考え方も必要だが、それだけでは間に合わなくなってきているのも事実だと思う。
病原排除の公衆衛生など、個人の力だけではどうにもならない事柄に対しては、行政指導型の保健の考え方は有効だと思う。
しかし、健康学に必要なのは、みんなが羅患しない様にするにはどうしたらいいかではなく、個人個人が健康の基礎からの底上げをはかり、誰もが病を寄せ付けないようになっていく事である。
病原排除の公衆衛生も、いき過ぎれば抵抗力、免疫力を弱くしてしまう。
また、排除したつもりでいた病原菌が、更に強力になって舞い戻ってくるというケースも多くなってきている。
病原排除で、まわりの環境が人為的に清潔になっても、やはり自然の方が人為を上まわってしまう。
健康を、行政や学者に任せきりではいけない。
自分の生命、自分の人生なのだから、自分で自然の理と向き合うようにする。
その自分というのは、からだがあっての生命体なのであり、この生命体は最小限、息をし、飲食し、動き、想う、という活動を、環境の中で営まなければ、生命を維持できない。
生命体としての基礎的活動である「息」「食」「動」「想」の4つの営みと「環境」とのバランス、これをどんな環境の中でも自然の理に合わせられるようにして、環境適応できるよう底上げし、間に合うようにしていく。
そうした、日々生まれ変わり、日々つくり出していく健康への自分自身の取り組みのバイブルとなるのが、真の健康学なのだと思う。
日々、まるごと操体。
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まるごと操体・・・2
おはようございます。
先日、昼食をとりながらテレビをつけてみると、所信表明演説の中継がされていた。
その中で首相が、「経済、経済、経済」と強い口調で連呼していたのが印象的だった。
経済も語源を辿れば、経世済民。
経世済民とは、世の中をよく経(おさ)めて、人々を苦しみから救う事だという。
しかし、演説を聞いていると、所得税を減税し手取り所得が増えれば、昨今の物価高でも消費は促進され、お金が様々な人たちに行き渡るようになり、そうなれば国民からの支持率や人気も高まるという思惑が見え隠れしているような感があった。
お金は大切だが、お金を渡せば人々を救済する事や人々の幸福につながるかといえば、必ずしもそうはならないと思う。
お金で買えないものは沢山ある。
一番身近で、これがなければどうにもならないというのが、自分自身の健康や健康寿命であろう。
何をするにも健康あったればこそであり、これから超高齢化社会を迎えるにあたり、問題となるのが平均寿命の伸びに対して健康寿命はどうなのかという事。
本来、健康はお金で買う事などできない。
健康とは自分自身で創造していくものである。
自分自身で健康は創造していくものであるが、その取り組みに対する世間一般の認識の仕方は非常に曖昧模糊である。
時代は、真の健康学を求めている。
操体は、この真の健康学にまるごと活かせるものでもある。
真の健康学こそ、経世済民の済民を担うべきもの。
何故なら、人間の本音の部分には「健康で快適に満足して充分に生きたい」という願望があるのだから。
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まるごと操体・・・1
おはようございます。
実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります
どうぞ、よろしくお願いいたします。今回のテーマは「まるごと操体」ということでリレーしております。
「まるごと」というと、まるまるゴロゴロしたジャガイモや肉の入ったカレーライスが思い浮かんでしまった。
秋は食べ物が美味しい季節ゆえあしからず。
カレーも、肉や野菜の具が良ければいいというものではない。
一切れ何万円もする肉を入れたから、美味しいというわけでもあるまい。
ルーとのバランス、調和、ハーモニーがあって美味しくなる。
操体の創始者である橋本敬三先生は、著書の中でよく「自分だけ良くたってしょうがない」ということを書いている。
カレーの肉や野菜それぞれがルーの味を吸収し、ルーにも肉や野菜のそれぞれの旨味が加わり、どちらも調和しながら美味しくなっていくように、人間だってまわりの生かしてくれている環境があってこそ成長がある。
環境も人為、社会的環境との関係性にばかり目が行きがちだが、大事なのは自然環境であり、自然環境を構成する要素や全てに貫通する自然の理が包含された空間と、私達は無縁ではいられないという事。
自分一人で生きていると強がっていても、無意識のうちにもからだがそうした空間と、生きるエネルギーを受けたり渡したりしてくれているから、生きていられる。
であるならば、自分の考え方や想いも、自分を生かしてくれているからだや自然に向けてみる必要がある。
そして、からだをとおしてどうすればより良く生かされて生きていけるかを学んでいければ、まわりの様々な環境も違って見えてくるはず。
今まで感じられなかった有難さを感じるだろうし、今まで気づけていなかったところにも目がいくだろうし、そうした事というのはより良く自分自身もまわりの環境も変わっていく事につながると思う。
これも、一朝一夕に直ぐに結果が出るとは限らないが、カレーがじっくりコトコト丁寧に煮込めば美味しくなるように、じっくり丁寧に自分自身と向き合い愉しみながらからだから学んでいれば、何かが変わり何かが成される事と思う。
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まるごと操体⑦
何事もなく穏やかに生活が営まれている。
普段、「普通」だと感じていることが、実はヒトの意識の及ばない生命活動の重なり合いによってささえられ、実現している。
操体はこういったからだにとっての「普通」であることに、新たな切り口をもって学ぶことのできる学問なのではないかと思う。
学ぶことで、ささいなきっかけから意識は変化していく。
からだがききわけていることを、からだにききわける。
からだが学習していることを、からだを介して学習する。
何事もなく普通であることを味わい、ゆだね、満たされる。
まるごと呼吸。
まるごと内臓。
まるごと皮膚。
まるごと感覚。
まるごと宇宙。
まるごと操体。
今日も宇宙のなかで生きている。
今週も一週間ありがとうございました。
明日から友松実行委員のまるごと操体が始まります。
よろしくお願いします。
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