投稿者: karib_sotai

  • プロアマ

    突然ですが、プロフェッショナルアマチュアって面白い垣根だと思いませんか?

    だって、やってることは変わらないのに、天地の差が有るのですから、笑えます。ほんとは笑えないんですけどね・・・
    何が違うんでしょうか?考えたこと有りますか、お金貰うから?仕事としてるから?考えれば考えるほど曖昧模糊と言いますか、個人の価値観によってもその基準は大きく変わってきます。

    私は未だに過去の夢が捨てきれず、やっていることが幾つか有ります、一つが野球です。小学校から始まり高校まで、高校を卒業してからは軟式の連盟に席を置いて、現在も野球をやっています。
    何でやってんの?ええ年してまで・・・などと外野からの声を聞きながらも、現在でも二月の末からキャンプイン?12月の初めまで試合と、それこそ試合数は違うもののプロ顔負けの“意気込み”で取り組んでいます。

    そう!ここでのキーワードは“意気込み”です。
    中には年間90試合前後もこなす猛者もいて、プロがざっと140試合前後ですから、プロ顔負けです・・・
    気持ちだけならプロには負けてへんぞ!という気合いと言いますか気持ちの面では、プロと言う“自称プロ集団”が我々軟式野球軍団”です。

    ですから、私は職業を聞かれるとよく半分本気、半分冗談で『臨床家でプロのGrass Baseball Player(草野球選手)です!』と答えます。これも自分的には冗談ぽく言いつつも7割8分(7割8分って・・)は本気でプロだと思っています・・・

    シーズン・オフには筋力トレーニング、ランニング等をして、次シーズンのために筋量を落とさない様にしてますし、それがそう!“プロ”としての私のプライドだったりします。

    自分の子供と言っても可笑しくない位の年齢の若い連中と同じグランドでやっていますので、彼等にパフォーマンスとして同等のモノが出せなくなれば、潔く“引退”しようと思っています。
    何故なら、“プロ”だからです。
    野球(草野球も含む)に限らず、スポーツにおけるプロの定義とは一線で活躍(成績を残す)出来るかどうかというのが大きなファクターだと思います。

    そしてこのプロの中にも“一流”と言われる方と、“二〜三流”と言われる方が存在します。この違いもかなり面白いです。

    以前、同門の平さんと、とある格闘技の試合の結果の話をしていた時に、有る選手が試合そのものには勝利をしたのですが、勝ち方に問題が有ると平さんが言われていて、平さんがボソッと言われたのが、『あの勝ち方は無いよなぁ・・・余裕も何もない、ありゃぁ弱いよ・・もっとプロらしい戦い方しなきゃぁ、駄目だよぉ』と言われました。

    プロらしい戦い方、観客有ってのプロで有り、勝利が大前提なのですが、お金を払って観に来てくれている観客にも喜んで貰い、自身の持っているパフォーマンスの最高な状態を出せるのが、プロで有り、余裕のない状態で、ただ闇雲にパンチを振り回し、ラッキー・パンチがあたって、はい!勝利みたいな、“子供の喧嘩”の延長戦の様な試合を格闘技のプロとして観客に見せるのはプロとしては恥ずべきことで有り、プロとして二流と言われても文句はつけられないと思います。

    野球でも元巨人の長島茂雄王貞治が一流と言われるのも、期待している場面で、期待通り若しくは期待以上の結果を出すからこそ、数有るプロ選手の中でも一流と言われているのであって、期待に応えて当たり前、期待以上を出してこその一流を超えた“超一流”なのだと思います。

    操体の世界でも当然のことながら“プロ”“アマ”が存在し、全国的に見れば残念ながら“アマチュア”が圧倒的に多く、どちらかと言うと“健康体操”的要素の多い、皆で楽しくやりましょう的な雰囲気が満載です。

    これに関しては否定する訳ではなく、 “天然自然の法則”橋本敬三のPhilosophy(哲学)に反してさえいなければ、ドンドン広げていけば良いのです。

    ですが!ですが!哲学とは真理で有り原理なのですから、後生に託された人間が勝手に改竄(かいざん)したり改訂してはいけないモノだと私は思います。それは“アマ”だろうが“プロ”であろうが同じで有り、アマだからこれ位は良いだろうとか、私達はこれで食べてないから関係ないとかで済まされる問題では無いのです。

    少なからずとも橋本敬三という一人の人間が自身の一生涯を懸け、命を懸けて追求し、体系付けてきたものが 操体で有り、一生、操体を知らずに過ごす人も居る中で、出会いがあったということは“縁(えにし)”で有り、人が人生と命を懸けて紡いだものに対して、いい加減な気持ちで取り組むのは橋本敬三に対しての冒涜で有り、許されることではないのです。

    アマチュアにはアマチュアなりの学びが有り、プロに負けないだけの“プライド”を持って追求するべきだと思うのです。

    そしてもう一つ決定的に“アマ”“プロ”とで大きく違う重要なポイントは“お金”です。
    早い話がその仕事で食えるかどうかです。
    よく操体の話をすると(特に全国大会などで・・・)、お金を取っちゃいけないんですよね?とか仕事としては出来ないですよね?とか聞かれることも有ります。

    と・・!とんでもない話です!何処の世界に儲けない仕事、儲けてはいけない仕事が有るのでしょうか?仕事で行う、要はプロになるということはその仕事で儲けなきゃ存在意義がないのです。

    特に我々臨床家が儲けるということは逆に言えば、それだけ痛み、或いは苦しみから救われた方がいるということの証でも有ります。
    お金を頂くということは“責任”を頂くということでも有ります。

    アマだからという甘えは一切なく、結果が全て、結果が悪ければ当然、売り上げが上がらず倒産するだけですし、結果を出すということは常に向上心を持って、クライアントの身体の声と向き合っていかなければならないという厳しさが背中合せだということです。

    そして、これから操体の門を叩こうという若い人達が“仕事”として操体をとらえたときに、『いやぁ、操体は儲かりませんからぁ』などという声しか聞かなければ、操体を仕事としてとらえようとは思いません。

    そうなるといくら操体が素晴らしい!と声高に叫んでも、独りよがりでしかなく、やがては廃れてしまうのだと思います。
    仕事として人生を懸けるだけのものが有る!それだけの結果も帰ってくる!と解れば若い人達も操体を真剣に取り組んで行くのだと思います。

    勘違いして頂きたくないのは、“アマ”が駄目で“プロ”が偉いと言っている訳では無いということです。
    操体で言うところのプロが仮に臨床家だとすれば、この臨床家の中にも“超一流”も居れば“二〜三流”も居るということです。

    橋本敬三の意志(哲学)を忘れ、自論に自己満足を見い出し、いつの間にか操体とは看板ばかりの、操体とは似ても似つかない施術を行ってしまえば、これはもはやプロの臨床家とは言えず、ただの自己表現で有り、パフォーマーでしかないと思います。

    有る方が、一流と二流の違いをこんな風におっしゃっていました。一流とは“貪欲(向上心)”で有り、二流とは“自己満足”で有ると。
    ここまでで、良いと思えばその人はそれ以上の成長はなく、挙句の果てには、このやり方では上手くいかないからこれをプラスしてやってみました。

    など、本末転倒、上手くいかないのは誰の責でもなく自身の“創造力の欠如”で有り、違うやり方や、違うモノをプラスする前に、橋本敬三の書籍を穴が開くほど何度も、熟読し、その上で自身の身体を通して実践することで、“気付き”を得ることが必要だと思います。

    何度も読んだ筈なのに読む度に、違う場所での新たな気付きが有る。それこそが創始者の意志で有り、行間に溢れる橋本敬三師の臨床ヒントこそが、臨床家としてのステップ・アップへの意志ではなかろうかと・・・

    プロの中のプロ、“超一流”の道は険しく、安易に行けないからこそ、目指すべき価値も有ると、富士山を・・・否、エベレストを目指す気分では有りますが、登って行きたいと思います。
    又、そんな集団が東京操体フォーラムで有ると信じています。

    福田勇治

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  • 興味有るモノ

    ブログにこの内容ってどうだろうって思うのですが、与太話にお付き合い下さい・・・
    皆さん興味有るモノって何か有りますか?
    多分、個々に有るんだと思います、公言出来るモノから密かなモノ・・・様々だとは思いますが、密かなモノは又の機会に密かに教えて下さい・・・
    今日は息抜きで私の何とか、公言出来るモノにお付き合い下さい・・・

    興味ってまぁ、惹かれるものの事ですが、例えばその一つとして先ず、必ず買うモノ、買い続けているモノなどから話を進めていきたいと思います・・・
    東京操体フォーラム実行委員の中でも、推薦図書紹介みたいなものがあって、個々に自身が読まれ、良かったと感じた図書を紹介することが有ります(殆どが畠山先生からの紹介ですが…)。
    昨年の立川談春師匠『赤めだか』は良かったですねぇ…

    それから考えると今日の話しは心苦しいのですが、私自身買い続けているモノが有り、その代表と言えば私はやはり“マンガ”でしょうか、マンガと言えば低俗だ!下らない!と言う人もいるのですが、そこはそれ、マンガにもその人それぞれの立派なドラマがあり、時にはその人の人生を変えたり、行き詰まったときなどに又、見返すことで勇気を貰うことも有るのがマンガの素晴らしさでも有ると思います。

    マンガって見る時期によって全然、感じ方が違うんですよねぇ、当然と言えば当然なのですが、高校生の時に見ていて感じていた感覚と、40過ぎのおっさんに成ってから見るのとでは感じ方が全く違い、かと言ってつまらない訳ではなく、十分に楽しめるというのもマンガの面白さでも有ると思います。

    これは本も同じで、20代前半の頃に読んで自分の生き方に影響を与えてくれた竜馬がゆくもそうで有り、司馬文学の虜に成ったのもこの竜馬がゆくの影響でした。
    剣の達人で、女性にもてて、始めてあった人を魅了するその人間性など、男であれば必ずうらやましい!と思う様な痛快な生き方を描いたのが、この竜馬がゆくでした。
    竜馬の様な生き方が出来れば面白いと思い、胸弾ませて読んだ事が昨日の様に思い出されます。

    ですが、今、読もうという気になるかと言えば、数十年の時が経ち、“竜馬がゆく”の内容自体がかなり司馬先生のフィクションの世界も含んでいると言うことが解ってくると、今更どうかという気になったりして、今であれば間違いなく、読みかけの同じ司馬先生の坂の上の雲を最後まで読み終えたいと思っています。
    日本が長い鎖国体制から世界に追いつけ追い越せと、直向きに突っ走っていた時代の話で有り、この当時の日本の政治家や軍人達が如何に腐心して、日本国を不平等条約などの後進国のレッテルを貼られた状態から、先進国と言われる国に変わろうとしていたかを、日清・日露の大戦を通し、組織力で挑んでいった姿を描いた司馬文学の最高傑作だと思います。
    是非、今の某国総理大臣に読んで貰いたいと切に願います・・・

    え・・マンガを語るつもりが司馬文学を語ってしまいましたが、これ語り出すと終わらなくなってしまうので、今、興味があるモノを語りますが、私の“戦国・幕末マニア”振りは皆さん?ご承知のことなので、今更そこはほじくり返しませんが、現在、平行して買い続けている単行本が三冊あります。
    それが、『JIN-仁-』『センゴク』『へうげもの』という三冊です。
    一冊は架空の人物ですが、後の二冊は実在の人物を主人公として描いている作品です。読み出した切っ掛けは単純に幕末モノと戦国モノだったからという単純なものですが、この三冊だけは欠かさず買っています。

    その中でもJIN-仁-は幕末にタイムスリップしてしまった外科医の話で、架空の話であるのですが、実際の外科医の監修を元に作られているので、かなりリアルに描かれており、臨床家の血が騒ぐといいますか、色々な思いを持ちながら見られるのがこの作品の面白い所です。

    坂本龍馬とか緒方洪庵などその時期の歴史上の人物が様々な形で戸惑いながらも未来から来た外科医と係わって行き、この未来から来た外科医を手助けしていく・・・
    その当時不治の病だと言われていた脚気コレラなどを現代の医学の技術を駆使し、その時代で出来ることを考え、手作りでのペニシリンの製造を行ったりと、ワクワクしながら見ています。オススメです・・・

    センゴクはそのまんま戦国時代の余りにもマイナーな武将、“仙石権兵衛秀久”が主人公です。
    多分仙石秀久を知っている人は殆どいないと思います、私も辛うじて「出石の仙石氏?かな」位のイメージしか無かったので、チョーマイナー武将です。
    サブタイトルが最も失敗し、最も成功した男となっており、戦国時代が好きな方にはオススメです。

    そして、最後にオススメするのが、実は結構ハマッているんですが、へうげものです。読み方としては“ひょうげもの”が正解で、意味としては“ふざけている”とか“おどけている”などの意味となります、私達の地方では“ひょうげまつ”などと言って、ふざけた奴の意で使うことも有ります。

    先ず、シュールです!絵も然る事ながら、最初は何てふざけた絵だ!何てふざけたキャラクター構成だ!と怒り半分で見ていたのですが(加藤清正のモデルが元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高氏だったり、その他数々)読み進むにつれ、表情が生き生きしている、皺の一つ一つに何だか感情が表現されている様で、今ではお気に入りの一冊となり、この作品だけは単行本では待ったがきかずに、隔週で講談社のモーニングに掲載されていますが、どうしても読んでしまい、後で単行本を購入又、続けて読むといった感じです。

    主人公は古田織部というこれ又、知る人ぞ知るといったチョーマイナー武将です。織部焼と言えば解る人もいらっしゃると思います。
    千利休が作り上げた茶道を継承しつつ、茶道だけではなく茶器・造園など多岐にわたり、安土桃山文化花盛りの頃、“織部好み”という流行を作った人物です。

    物語はその古織を中心に茶道や芸術を軸にしつつも、大胆な仮説を立て、物語が進んでいき、見ていて感心したり、頷いたりしています。
    エピソード・タイトルも、とってもファンキーで、洋楽が好きな畠山先生などは思わず吹き出すのではと思われます・・・
    会話そのものも結構楽しめ、見る人によって楽しみ所満載の面白マンガです。

    この三冊共に共通なのは主人公の直向きさで有り、その時代を“必死”で駆け抜けている事です。
    何だかその直向きさが自分の明日への糧になると言いますか、“フツフツ”と腹の底からわき上がって来るものが有るのですねぇ・・・まぁ、基本単純なんですねぇ、まぁ。。
    それで明日も“やるぞ!”っていう気になるのであれば、安いと思いませんか?

    “やるぞ!”とか“ヨッシャァ”とか自分なりのメンタル・コントロールをどうするかって意外と大事だったりするんですよ・・・

    本当は未だ、オススメしたいDVDとかオススメしたいガムとか色々有るのですが、今回は私の現在、愛すべきモノとしてマンガをオススメ致しました、是非、次回ブーイングが無ければご紹介したいと思います。。。

    福田勇治

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  • 働くって

    ニャァ・・・四日目だす、もう慣れてくれたかニャ、小太郎です。
    僕のお父さんが猫族を好きな理由をこうも言っています・・人間に媚びない自立自尊、自由奔放な風(ふう)が何だか独立独歩、自営業者的匂いが有って好きだと・・・

    七年前、お父さんもサラリーマンという立場から一念発起し、独立、明日も解らぬ施術家の道へと踏み出したのも、雇用という枠に囚われず、人生という真っ白なキャンパスに自分色で人生を描きたいという渇望だったそうでニャス。。。

    ♪ ナンバーニャンにならなくてもいい もともと特別なオンリーニャン ♪(注:猫族なのでワンには敏感なのであえてニャンに成っております)って歌にも有る様に、オンリーニャンに成れる仕事を探していたのだと思いニャス。

    サラリーマンで有る以上は会社という枠が有るので、売り上げNO.1とかあくまでも会社有っての自分であり、自分の力なのか?会社の影響力のお陰なのか?誰しもが会社勤めをしている人なら思うことが有ると思いニャス(僕には解りませんニャ)・・

    特に昨今、テレビなどを遠目で見ていると、米国のサブプライム・ローンに始まった金融危機、世界同時株安ニャど、煽りを日本も受け年末からの“派遣切り”や大手企業の赤字決算ニャど、サラリーマンの皆さんを取り巻く環境は厳しいものとなっておりニャス。

    “終身雇用”という日本ならではのビジネス・スタイルから実力主義成果主義という欧米スタイルへと変化し、株主・株価重視という流れの中で、“派遣従業員”などの新しい働き方の選択肢が増えましたニャァ・・・

    選択肢が増えるということは兎にも角にも自己責任が明確になり、昨今騒がれている“派遣切り”なども、失職しても文句は言えないということになりますニャ。
    職業選択の自由憲法にも定められている限り、色々な事情があるにすれ、自分が選択した職業ニャのですから、“残念!”

    一方で、世の中にどれだけ自分の本当にやりたい仕事をしている人がいるのでしょうか・・・考えたこと有りニャスか?子供の頃から目標を決めてコツコツと努力を続け、就きたい仕事に就く人、何となく学校を卒業し、何となく条件の良い企業に就職した人ニャど、人の数ほど職種も違えば、動機も違い、“夢のため”や“生活のため”などなどニャァ・・・人間って大変でニャンス。

    そんな社会状況もあってか、お父さんの業界に新たに入って来る人が最近益々増えているのだそうです・・・男性も女性も“手に職”を付けるというのが昨今のキーワードに成っていて、良くも悪くも“独立開業”ニャのだと。

    ニャット(ネット)で“独立開業”と検索すると有りとあらゆるビジネスが検索されニャス、それだけニーズが多いのも事実ですし、今の社会の閉塞感から逃れたいという人間様達の叫び声にも似た声が聞こえてきそうですニャァ・・・

    お父さん曰く、手に職が有ると食いっぱぐれないからとこの業界に飛び込んで来られるのは良いのだそうですが、やや勘違いした人々も多いのだそうですニャ、と言うのも臨床家が“技術職”だと思って業界の門を叩く人達も多く、技術さえ身につけば後は飯が食えるなどと思っている輩がいると・・・

    それこそ相手が機械ならば、技術(テクニック)が有ればどうとでもニャルのでしょうが、生身の人間であれば、教科書通りに行く訳もなく、やはり必要なのは対クライアント様への施術は元より心理カウンセラーの如く、コミュニケーション・スキルがどれだけ有るかだと思いニャス。

    臨床とは疾病を診るのと同時にその人の抱えている心の内をも察することが出来なければ、片手落ちニャのだそうです・・・

    見た目は同じ様なことをしていても、身体様を診させてもらっているという謙虚な気持と、真摯に身体に向かう気持ちがなければ、“仏作って魂入れず”で結果は正反対に成っていく可能性も有ります。『身体の歪みと同時に心の歪みもとっていく』がお父さんの合い言葉の様ですニャァ。

    ご縁有っての個々の仕事、大事に育てて自身のためだけでニャク、次世代や社会のために勤めあげられれば本望ではニャイですか・・・
    明日からはお父さんがスランプから復活でニャス…

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  • 学ぶべきこと

    三日目ですニャァ、このキャラに早く慣れてほしい小太郎がお送り致します。

    話は飛びますが、人間とはニャンて窮屈な生き物なのでしょうか、僕が知る限りの動物の中で何だか、一番、時間に追われ・仕事に追われ・人間関係に縛られとニャンだか見てて気の毒です・・・
    特にメンタル部分の弱さと言いますか・・・操体息・食・動・想の中の“想念”の部分ニャンですが、人間様は特にこの想念の部分が病んでいる様ニャ気がします・・・

    お父さんもよく言っているのが、開業した当初は純粋に腰が痛いとか、肩こりがどうとか肉体的な苦痛を訴えて施術に来るクライニャント(クライアント)が殆どだったらしいのですが、ここ数年は精神的な苦痛から生じる疾病から派生した症状を抱えている方が増えているのだということニャのです。

    社会環境やら人間関係などの急激な変化に本来、動物である筈の人間の精神バランスが不安定に成ったのだと思われニャス。
    どんなに着飾っても、どんなに文明が進んでも所詮、人も動物だということを現代人は気付くべきだと思いニャス。
    僕ら猫族から言わせれば地球上で一番賢いのが人間だと思っているのは、人間の奢(おご)りであり、我々から言わせれば、チャンチャラ可笑しく、へそで茶を沸かしちゃうニャン!って感じです。

    人間ニャンて動物本来の能力から言えば地球上に生きる生き物としては、低いレベルで有り、僕たち猫族の様に獲物を引っ掻く鋭い爪が有る訳でもなく、天敵から逃げるほどのスピードもニャイし、どれ一つとっても、能力そのものは誇れるものでは有りニャせん。

    ですが、人間はその代わりと言ってはニャンですが、四つ足から二足歩行に変化することで脳が発育し、“知能”という武器を手に入れたのですニャ・・・
    早く走れないからこそ、僕らの天敵“車”を作ったりと肉体的なハンデを補う様に様々な“道具”を駆使し、地球上に君臨して来たのですニャァ・・・

    我々言葉を喋れない動物は人間よりも下等な生き物としてペットなどと呼ばれ、飼ってやっている位の勢いで扱われていますが、ニャンと言いますか『飼わせてあげている』或いは『飼われてやっている』が正解ですニャァ・・・

    だって、かなり癒してあげてますよ、落ち込んだ時とか寂しい時には側にいて、一声泣いてあげるだけで人間様達は喜んだり、感動したりと最近はアニマル・セラピーとか称して治療にも使われているそうではないですか・・・

    話が本文から大分ズレてきたので元に戻しますが、偉そうなことを言っても所詮自らの感情すらまともにコントロール出来ニャイ、不完全な動物が人間って生き物です。

    頭を使って金を稼ぎ出しているとか、科学で割り切れないことは存在しないとか、さも神にでも成ったかの様にふんぞり返っている、ニャアァ・・・何と人間の愚かなことよ。。。かなり毒づいてますが・・・

    想念で言えば、僕ら猫族はかなりユッタリと自分のペースで人生(猫生)?を生きていニャスのでストレス何ぞは殆ど存在しません、ストレスを感じれば毛繕いしますし、爪研ぎますし、基本その場で解消し、後に引きづらニャイ様にしています。

    しかも、三歩歩きますと、さっきの事ですら忘れる様にプログラムされているので、楽と言えば楽ですかねぇ・・・
    人間ももっと僕らの様に楽に生きれば、身体のバランスを崩したり精神のバランスを崩したりしなくて済むと思いニャス。

    僕らは言われなくとも、普段から操体してますニョ。。。
    もし、僕ら猫族を見る機会があったらよ〜っく観察して下さい。特に猫科のお仲間達の様子をテレビなどでも見る機会があったら面白い位に操体してますョ。

    僕らは一日の2/3を寝て過ごしますので、起きて身体を動かす際も“決して!”急には動き出しません!先ずは強烈なアクビをします、それもアゴが外れるぐらいな大きな感じで・・・これは顔面のストレッチだったり、舌の緊張をほぐし、身体の内部を緩めるなどの効果が有ります。

    そしてゆっくりと立ち上がり、手を前に出しつつ脚を後方に伸ばしますぅ、これを左右交互に行いますぅ・・・次はお尻を後方に突き出しながら背筋を気持ちよく伸ばしますぅ・・おおおぉ
    そしてユックリとユックリと歩き出して、身体全体のバランスを確かめますぅニャ。。。

    最低限、僕らはこれ位の操法?を通してから動き出しますニャ、平時の寝起きは必ずと言っても良いほどこのルーティンを行いますニャ。急に物音がしたり、襲われたりすれば別ですが、そうでない限りは必ず、動き出すための準備として操体を行っています・・・

    と言うよりは僕らの行動そのものが天然自然の理に適ったまさに操体そのものだからなのです。

    人間様?朝起きるときに目覚ましに急き立てられて、慌てて身体を起こして飛び起きてませんか?身体がしんどいのを薬で誤魔化して、痛みを麻痺させたりしてませんか?

    自然法則とは生きとし生けるもの共通のルールで有り、外れれば必ず報いを受けます、今一度、身近な自然に生きる我々動物から学ぶべきものが有るのではないですか?人間そんなに偉いもんじゃニャイですよ・・・

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  • 僕の日常

    ニャァアア…二日目ですニャ、初めてブログを見た方は軽く引いていることと思いますが、二日目も僕小太郎が担当です。

    昨日は何だか僕の自己紹介の様になってしまったニョで、今日は僕の日常などを語ってみたいと思いますニャ。ご存知の通り僕達、猫族は夜行性なので活発に動き回るのは夜が多いのですが、僕は殆どお父さんと同じペースで生活をしています。

    但し、どうしても夜中に小腹が空くので、夜中の三時位に無理矢理お父さんを起こし、ご飯を食べます。
    この攻防が結構激しく、最初の頃はお母さんを攻めていたのですが、全く起きる気配も無いニョで、試しにお父さんを攻めたところ、まんまと反応してくれたので、僕のご飯担当はお父さんとなっています。
    時には頭から布団を被ったり、無視したりするので、どうやったら目を覚ましてくれるか試行錯誤していますニャ・・今では諦めたようで、素直にご飯をくれるようになりました!

    そんなこんなで朝10:00位になるとお父さんのクライアントの方がいらっしゃるので、当然ながらお出迎えを致します。
    一応、招き猫としてのプライドが有るので、レオ兄貴にはこの役割は渡すことは出来ません!車から降りてくるクライアントの方の足元にスリスリしながら匂いを付け、愛想鳴きをしながら、玄関まで誘(いざな)います。
    大概の方は『可愛い!』と喜んでくれますが、いつも一言多いのです・・『大っきいですねぇ、メタボですね』って大きなお世話ですニャ・・ハーフ(ニューハーフとも言いますが…)は太る体質ニャンです!

    そして施術が始まると僕は又、お外に出て決して中には入りません、と言うか中には入れてもらえないというのが正解です。
    ニャンでも我々猫族が嫌いだという不届きな人間がいるとのことで、お父さんの考え上、入れてくれないのです…
    噛んだり、爪を出したりはしないんですけどねぇ・・

    でも、時々どうしても寂しくなったら部屋の外でひたすら鳴いてみたりします、最初は可愛く『にゃぁ』とその内、無視されているのに気付くと更にトーンをあげて『にゃぁあああ』と叫んでもみますが、何の応答もないので、最後の手段、障子に爪をたてて一気に障子を引き裂きます!
    一昨年までだと、この瞬間にお父さんが『こらぁあああ』という叫び声と共に僕を抱きかかえ、風呂場に強制隔離されていたのですが、某アサヒペン社から発売されている超強プラスチック障子 に張り替えてからというものは全然爪がたたなくなってしまい、お父さんの勝利となってしまいました。残念(波田陽区風 何処へ行ったんでしょう?)!

    お父さんの施術時間は平均1時間〜2時間位の間でしょうか、どうやら相手によって時間は区々(まちまち)の様でお父さんなりの考えが有るようですニャ…
    面白いのは何故か僕もとっても気持ちいいということですニャ、時々障子越しに柔らかいエネルギーを感じるといいニャスか、丁度、柔らかい日差しを浴びながらお布団の上で寝ているような、そんな心地良さを感じることがありニャス…
    僕のファンだと言うクライアントの方が来られる時は希に施術室の中に入れてもらえるのですが、正に至極の時を過ごせます…

    特に気持ちいいのは、お父さんのお師匠さんからご伝授いただいたという“渦状波”なるモノをお父さんが行っている時が特に『チョー気持ちいいぃいい』って感じです。
    ニャンでも皮膚へのアプローチをするとのことで、僕ら猫族の様に身体を動かして歪みを調整する種族にとっては理解しにくい世界ですが、何故だか気持ち良いのです…
    お父さんが“渦状波”を始めると先ず、僕はウツラウツラと眠気に襲われます、何だか思わず頭がカックンとなってしまったりして、お父さんにも笑われたことが有りニャス・・

    暫く眠気に襲われたかと思うと、もう居ても立っても居られなくなり、思わずゴロンと仰向けに寝てみたりします…おおおぉ気持ち良い、気持ち良い…又、お父さんが笑ってる…
    こうなってくると、周りのことは関係なく身体を操ってみたくなり、仰向けのままから上肢を挙上してみたり(こんなことは僕は言いませんが)…

    つ・・ついでに膝を曲げてみたりして…その心地良い空間の中で身を委ね、恍惚の時間を味わってみたりします…気が付いたら施術が終わって置き去りもよく有りニャス…

    この“渦状波”に関してはレオ兄貴も同じ見解なので、間違いないと断言出来ます・・・同じ部屋に居るだけで気持ちいいなんて・・・恐るべき“渦状波”でニャス。。。
    動物をも癒す操体・・・恐るべし

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  • 僕 小太郎です…

    こんニャちわ、何でも今週一週間ブログとやらに日記もどきの文章を書かねばならニャイとのことですが、ご主人様が文章スランプとのことで代わりに私めが今週少しお手伝いをしたいと思っております…

    え?僕が誰ニャって(ニヤリ)?それでは自己紹介を兼ねてお話を進めて参りたいと思いニャす…
    僕の名前は福田小太郎(フクダコタロウ)性別 男?(♂+♀)、年齢ザックリ6歳弱の福田家の三男坊主です。
    あ!勘違いされると困るのですが、生物学的には猫っす(猫ってキーボード打ち難いっす)…

    以前のブログにご主人も書いていたらしいのですが、私には腹違いの兄が二人居て、長男が天敵レオ10数歳、次男が顔を知らないマア君享年1歳弱、2番目の兄は我々猫世界では良く有る、発情期の興奮状態で道路を左右確認せず飛び出したところ、犯人不明の車に撥ねられ死亡…
    ですから、現在はレオと私とご主人と僕のお母さん(ご主人の奥さん)とお爺さんお婆さんとの六人家族です。

    僕が福田家に来る切っ掛けとなったのは、『無残!僕置き去り事件』というショッキングな事件が有ったからなのです。僕はどうもアメショと日本猫との混血のハーフの様で、日米合作、人間で言えばウエンツ瑛士の様な感じですニャ

    生まれた場所とか本当のお母さんのことは何も知りません…気がついた時には迷彩柄の首輪を付けられ、福田家から数百メートル離れた隣の地域で色々なお宅の玄関先に托鉢に回り、ご飯をいただいたりしてました(時にはコッソリ頂戴したりもしました)…そんな時にお猫様大好き!捨て猫と聞くと居ても立っても居られない今の僕のお母さんとの出会いが有りました。

    丁度その時期は福田家では次男マア君がご逝去されたばかりで、悲しみに暮れてた時期だったと後からお母さんに聞かされました…そんな悲しみの隙間を埋めるように登場したのが、僕小太郎だったのです。
    ところがご主人様やお婆さん・お爺さんは僕の顔を見るや、『駄目だ!返してこい!家には入れるな!』の大合唱で、天敵レオ様には冷たい目で見られたりもしました…
    でもお母さんが『一週間だけ置いてあげて!その間に元の飼い主を捜すから!』と涙ながらに訴えてくれて、期限付きで家に置いてもらうことと成りました。

    僕のお母さんは宍道町という小さな町で町内だけに放送されている、オフトークと言う有線放送のアナウンサー(良く言えば・・悪く言えばウグイスおばさん)をしている関係で、それから一週間毎日、公共の電波を使って、僕の親捜しをしてくれたのです。特徴はこんな感じで迷彩の首輪をしててと、そりゃあもう、有りがたくて涙チョチョ切れそうでした。

    ですが必死の捜索にも関わらず、無情にも一週間はすぐ過ぎてしまいました。結果は予想通り、誰も現れず、又もサバイバル生活に逆戻りと猫背を丸め荷造りをしていました。
    ところが家族会議の最中、お母さんがスックと立ち上がり、『家の子にする!今更、捨てるなんて出来ない!誰が何て言っても絶対に!』と僕を実子として育ててくれると言ってくれたのでした。

    後にも先にもその時はお母さんに心から感謝しました、渋い顔をしているお爺さんとお婆さんを説得し、渋々了解を得、これで一安心と思っていたら、意外にも今ではこの人が居ないと僕は死んでしまぅという位LOVEしている、ご主人様が大反対したのです…
    理由としては“命有るものをそんなに安易に預かってはいけない!”と言うのと“もう大事な者の死に目に会いたく無い!”という理由でした。

    次男のマア君が家の玄関前で車に撥ねられ血を流して死んでいるのを近所の人に聞いて、ただ泣き崩れているお母さんを横目に、未だ暖かさの残るマア君を抱えお風呂場で綺麗に身体をお湯で洗い、泣きながら『いけんだったなぁ(いけなかったなぁ)…可愛そうなことしたなぁ』と呟きながらタオルにくるんで翌日、埋葬したのもご主人様で、そんな辛い思いをしたくないのだそうです。

    納得しないご主人様を尻目にお母さんはそんなに文句を言うのだったら、小太郎と二人で生活をする!と言って、2階の寝室から1階の居間で寝泊まりをするようになりました。勿論、僕との二人での生活で、ご主人様とはその間、家庭内別居というやつです。。。。
    僕はご主人様に心苦しく思いながらも半年間そんな生活を送りました。

    ですかニャ未だに僕のことをご主人様は自分の子供だとは認めていなくて、お母さんにも『俺は小太郎は飼うの認めて無いからな』と未だに言っています…

    寂しい気もしますが、僕は知っていニャス・・僕が夜更かしをして帰りが遅くなった時、何度も外へ出たり入ったりして心配していたのを・・僕の寝顔を見てニヤニヤしているのも…

    対外的には冷たい感じをしてるご主人様は紛れもなく、僕のお父さんですニャ・・今週はお父さんの文章スランプが解消されるまで、僕小太郎にお付き合い下さいまし・・ニャァア

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  • 「楽」になくて「快」にあるもの。

    『楽』と『快』の違いについてを説明するのはなかなか難しい。それを知っている友人が先日教えてくれた。

    彼女は南画家だ。南画家というのは、『書、詩、画、篆刻(てんこく)』の四つをマスターしなければならないのだが、そのうちの『篆刻(てんこく)』には漢字学の勉強をする。その膨大な知識の中から、彼女がそっと教えてくれたのはこういうことだ。

    『楽』と『快』の意味には勿論重複するところもある。例えば”cofortable”という意味などである。
    この、重複する意味があるのでこの二つの区別は難しいのだそうだ。全くその通りだ。

    楽、というのはもともと巫女が病気の平癒のために、両手に鈴を持って踊っている様子から出来ている漢字だ。音楽、も音と鈴を振って舞う巫女の姿を考えると何となくわかる。一方、「快」という文字だが、「りっしんべん」、すなわち「心」という「へん」がついている。『快』には「はやい」という意味もあるのだそうだ。そういえば「快速電車」と言うではないか。といっても単にスピードが速いという意味だけではない。(笑)この「はやい」とは、例えば二人で話しをしていて、相手の言うことがすこん、ときもちよく入ってくるような「はやさ」を指すのだそうだ。

    「この『早さ』って何だろう、と思って三浦先生の本とひろみさん(私)の本を復習してみたんだけど・・・・」

    「これは『原始感覚』のことを指すんでしょうね」

    『楽』になくて『快』にあるもの、それは『原始感覚』なのだ。

    これって、すっきりしませんか??

    一週間ありがとうございました。

    フォーラムでお会いしましょう

    島根は松江の福田画伯にバトンを渡します。

    畠山裕美拝

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  • 何故操体は「自分で動く」「きもちよく動く」(だけ)ではいけないのか?「きもちよさが出てくる」ではないのか?

    たまに雑誌の取材などを受けますが、記者やライターの方が結構勘違いをしていることがあります。
    それは操体を「きもちよく動く」という認識をおられるということです。

    以前、『秘伝』のライターの方と話をしましたが、普段『気持ちよく動く』と言われている、河野智聖氏の「快気法」になじんでいるせいか(河野氏は三浦先生の教え子でもあり、操体野口整体を混ぜて「快気法」を作られました)、また、河野氏が『気持ちよさを探す』とよく書かれているせいか、操体法と混同している傾向がありました。(ちなみに私は河野氏と交流があります。違いが分かっているからです)

    快気法:きもちよく動く、気持ちよさを探す、気持ちよさの比較対照をする
    操体法:ゆっくり動く、きもちのよさをききわける、きもちのよさは比較対照せず、一極微で分析する

    このような違いがあります。

    ここではた、と思い出しました。数年前教えていたある受講生に『操体を簡単に説明してごらん』と聞いたところ
    『自分で動く』と答えました。その後私はその人にみっちり操体の「いろは」を教えたのですが、なまじっか運動神経に自信があり、武術系の方だったのであまり私の話を聞いてはいないようでした。逆に『操体はきもちよさを色々探してもいい、そんな操体があってもいいじゃないですか』と反論されたりしました。その時の言葉が『いろんな操体があってもいいじゃないですか』という言葉です。

    この言葉は都合がいいように使われることがあります。「感覚をききわけ、味わう」過程は人それぞれであり、一人ひとり違います。それが個人というものです。百人いれば百通りの感受性があるからです。しかし、それを 『自分の勝手な解釈で、どうアレンジしてもいい』と、受け止め、「いろんな操体があってもいいじゃないですか」、というのはちょっと違うのではないでしょうか。

    私が動診と操法の違いを説いて、『きもちよさを探して色々動いてみる』というのは動診と操法の行程を混同しているということで、「快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法)」という、操体の行程から外れると言ってもダメでした。

    残念ながら今現在お付き合いはありません。仕方のないことです。

    ★元々、動ける方は『きもちよく動けてしまう』のです。しかし、どこかに症状疾患を抱えていらっしゃる方々はそれができないから操体の専門家のところに来るのです。自分が出来るからと言って、「きもちいい動き」を患者様に強要するのは不親切この上ありません。

    ★★私はいつも、東京操体フォーラム実行委員の面々にも言います。
    『自分がきもちよく動けるからと言って、症状疾患を抱えたクライアントがそうだとは思ってはならぬ』

    東京操体フォーラム実行委員の中にも、カルチャーや地方自治体の教室、道場などで指導しているメンバーがいますが、それはちゃんとわきまえて指導にあたっているのです。

    臨床として、クライアントなり患者様と相(あい)対して向きあう場合カルチャーや健康教室、道場やセミナーなどで、不特定多数と向き合う場合、

    これらは皆違うのです。シチュエーション、相手に応じ臨機応変に挑むのです。

    ★武術の練習に来るような方々だったら、そこそこ「きもちよく動け」と言われて動くかもしれませんし、そういう方々は『身体能力が高い』という自負心があるので、まず『きもちよく動けません』とは言わないのです。
    なので、元気な身体能力が高い(自称含む)方を相手にしていればこれでも済むのです。

    ああすいません、テンションが上がってきました(笑)

    その方は、三浦先生の講習も受講されていたのですが、三浦先生が『きもちよさを探して動くのではないのだよ』と説いてもやはりダメでした。

    私のみならず、三浦先生の話を聞いてもダメだったのです(汗)
    もうこうなったら操体ではなく『○○式何とか法』にすればいいのに、と思うのですが、今現在、『操体』の看板を掲げてやってらっしゃいます。操体、という名前は美味しいのです。
    「三浦先生の講習を修了した」という修了書を、ホームページに掲げておられます。先生の教えを無視している割には修了書だけ飾るというのは
    なんとも不思議でなりませんが、その方にとって、「修了証」というのは、単なる宣伝ツールで領収書でしかないのかもしれません。

    あああああああ。またテンションが上がりそうですが、押さえておきます(笑)

    知らない方はHPを見て『ああ、三浦先生のところで講習を受けたんですね』と思って行かれるわけですが、

    ああああああああああああ。やめておきます(笑)

    で、私や東京操体フォーラムの実行委員に迷惑がかからなければいいのですが、

    クライアントの中には『きもちよさをさがしてうごく派』のところに行かれて、『きもちよさを探して色々動いて〜』とか『ここを揺らすからきもちよさを探して〜』と言われて、

    ・なんだかわかりませんでした
    ・きもちよくありませんでした

    と、我々のところにいらっしゃることもあるのです。結局は筋を勝手に曲げて結果が出ず、クライアントや患者様は『操体ってこんなものなの?』と不信感を抱くか『なんだ、たいしたことないじゃん』ということになるのです。

    はあはあ。ぜいぜい。
    血圧が上がりそうです。。。

    気を取り直して、

    「なぜ、きもちよく動く」(だけ)ではいけないか。

    「動診と操法の区別をつけよう」でも書きました。

    最初にも書きましたが、操体は『快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法)』なのです。

    本人にしかわからない感覚をききわけるために、ある動きを試してみるわけです。これが診断にあたる動診です。
    ある動きというのは、例えば手関節を外旋させて、それに伴って全身が連動するような目的がある動きです。
    これで快適感覚が「ききわけられたら」それが診断になるのです。

    ここで、快適感覚がききわけられていないのに、「きもちよく動く」と言っても無理なのです。
    そこで多くの方はよくわからないまま、色々からだを動かしてみたりします。
    この場合、感覚をききわけるのであるから『ゆっくり動く』なのです。

    快適感覚がききわけられたら、からだがそのきもちよさを味わってみたいという要求を満たしていたら
    そこからが「操法」すなわち治療です。

    快適感覚(きもちよさ)がききわけられており、そのきもちよさを味わってみたいというからだの要求を満たしているのだから、今度は『きもちよさにゆだねて』とか『一番きもちのいいようにからだのツクリを操って』という指導をしてもいいし、クライアント(患者様)は、きもちよさにゆだねてタコ踊りをしようがバク転しようが、泣こうが笑おうが無意識の動きを表現しようが、それはそれでいいのです。

    ★ご参考までに、「無意識の動き」はきもちいいものです。快適感覚を味わっているとからだが勝手に無意識の動きをつけてくる場合があります。これが「きもちよさに委ねる」ということなのです。

    なので、操者は動診時には『きもちよく動いて』のではなく『ゆっくり動いて』という指示を与えるのです。

    「きもちよさがでてくる」

    以前、操体法東京研究会の講習で、何気にこの言葉を使っている受講生がいました。
    私は即、厳重注意しました。

    放っておくのも一つの手で、その後その人が実際の臨床に立つ際、
    恥をかくのもその後上達しないのをそのままにしておく。
    しかし、そういう事はしたくありません(笑)折角学びにきておられるのだから、やはりきちんと学んで欲しいのです。

    私から注意され、何でこんな些細なことをいちいち、と思ったと思います。小うるさいヤツだ、と(笑)しかし、操体指導者の未来のため、その方の為、将来を思って指導しているのですから、その気持ちは分かって下さいね(笑)

    何故、「きもちのよさをききわける」は良くて、「きもちよさがでてくる」ダメなのでしょう?

    考えてみてください。この二つの文章に主語をつけるとしたらどうします?

    「きもちのよさをききわける」に主語をつけるとしたら『からだ』なのです。『からだが、きもちのよさをききわける』のです。一方「きもちよさがでてくる」はどうでしょう。主語を想定しにくいですね。更に深掘りしてみると『きもちよさがでてくる』のを確認して感じているのは『私』なのです。

    つまり、「ききわける」のは『からだ』で、「でてくる」のを感じるのは『私』。

    操体で大切にしているのは
    Don’t Think, Feel!(アタマで考えるな、からだで感じろ!)という言葉です。
    (これは、「燃えよドラゴン」のブルース・リーの有名な台詞です。「皮膚で感じろ!」という訳もあり、それもいいなと)

    本人はそこまで考えていないのでしょうが、その言葉の指向性によってアタマで考えてしまっているのです。

    またアタマで考えているので
    「出てこない、出てこない・・・じゃあ色々動いて探してみよう」と、なってしまうのです。色々動いて探す・・・・先程出てきた言葉ですね。

    私が『操体NGワード』として決めた言葉です(今決めました!)

    ほんの僅かな違いですが、言葉の指向性というのはすごいものなのです。

    私達が操体臨床における言葉の誘導は、言葉を大切に選んでいるのです。

    言葉には魂がこもります。言霊(コトダマ)です。
    (外国語ではどうする、というご意見もありますが、外国語でも同じです)

    『きもちのよさをききわけ、味わう』この言葉に奥義が含まれているのです。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • 足関節の背屈操法の回数について

    膝の裏に手を差し入れて触診すると、患者さんは『いててててて〜っ』と痛がってジタバタする。
    『ここが悪くなってんだな』
    『首さ痛でぇのに何でここが痛でぇんだろなぁ』
    『痛いですぅ』
    『それじゃ、つま先をすぅ〜っとスネの方さ挙げてみて』
    『はい、ポタッ』
    『ほれ、痛でくねぇ』(膝裏の裏ぐりぐり)
    (以上東北弁は1900年生まれ、橋本敬三先生とほぼ同年代で宮城県人の畠山の祖父、畠山三左ェ門を思い出しつつ。。ビデオやラジオで聞く橋本敬三先生の声って、何だか祖父を思い出したりします。)

    おなじみの『足関節の背屈』(私は大昔、膝窩の圧痛硬結を取る操法なので、『ひかがみ操法』と習ったことがあります。。。。今ではそんな言い方はしてません)。

    膝の裏の痛い圧痛硬結が、つま先を挙げてポタンと落とすとあら不思議!痛くないし膝の裏側がつきたてのお餅のようにやわらかくなって、あら?腰が痛いのも良くなった!

    な〜んていう、風景です。

    この操法には動診というものはありません。膝の裏を触診して、圧痛硬結をキャッチします。動かさないで触診して即操法にすすめるわけですからね。そして足首を背屈させて、その足背に抵抗をかけ、脱力させます。

    本などを読むと、まるで一回でウソみたいに膝の裏の圧痛硬結が失せるように書いてあります。勿論、そういうこともあるのですが、それにはそうなる道理があるのです。その道理を知っているのが名人達人というわけです。該当者は少ないのです。なので、誰がやっても同じ、というわけにはいきません。

    さて、ここで、万病を治せる妙療法・操体法 (健康双書)
    など、主に農文協の『健康叢書』から出版されている操体法シリーズを見てみると「操法の回数は2回から3回」とか「2回から5回」と書かれています。
    実は私が10年前に出した『ふわ、くにゃ、すとん 操体法』にもそう書いてあります。
    何故かというと、そう習ったからです(笑)
    勿論今は、からだの要求感覚に委ねた脱力を導いているのでそういうことはしていません。
    (本の訂正箇所は、サイトに掲載してあるので、そちらをご覧下さい)

    なお、快適感覚をききわけ、味わうとういう『第二分析』で行くと、操法の回数の要求(からだの要求ですよ)は、多くありません。

    操法の回数と「きもちよさ」は反比例するのです。
    つまり、うんと快適感覚を味わうような操法を十分味わえば、一度で十分なのです。しかし、例えば上のつま先をすねの方に持ち上げて、ストンと落とす場合、不快な感じはしないと思いますが、「からだが味わってみたいきもちよさなのか」と、といかけてみても「?」「わかんない。。。」というケースが多いのです。そのような場合や、単に『楽で何ともない』という場合には回数でこなすことになってしまいます。

    それはさておき、世の中には橋本敬三伝説』というようなものがあります。例えば『橋本先生は操法を一度しかやらなかった』というものとか『一発で治った』というものです。

    ★この『足関節の背屈』に関して、橋本敬三先生は操法を一回しかやらなかった、という話を聞きました。(昨年の仙台での全国操体バランス運動研究会です)

    しかし、そんなことはありません。昨年春のフォーラムで公開した、『よみがえる映像』でも紹介させていただきました。これは、70年代に虎ノ門ホテルオークラの「平安の間」で橋本先生がセミナーをされた時の映像です。

    会場に集まった方々に声をかけて、確か『腕が上がらない人』だったと思います。勿論、腕が上がらない方だといって腕に触ったりはしません(さすが『症状疾患にとらわれない』ということを実践しているのです)。『何で腕が上がらないのに足をひねったりするんだ??』というオーディエンスの表情が面白くもあります。そこからいくつか動診操法をとおしてゆきますが、いわゆる『第一分析』。楽か辛いかの比較対照の分析をしてから、辛いほうから楽な方に動きをとらせます。この時『静かに、静かに』と誘導されていたのが印象的でした。
    おそらく、長年の経験から『ゆっくり動いて』というよりも『静かに、静かに』と誘導した方が、初めての方や慣れない患者さんにとって分かりやすいということをご存じだったのではないかと思います(実際は『すんずかに、すんづかに』と聞こえます。懐かしい東北のおじいちゃんのしゃべり方なのです)。

    肝心の『足関節背屈』、モデルは初老の男性ですが、なかなか脱力が上手く出来ません。橋本先生(熟練しておられる橋本先生がですよ)も何度かやり直しをさせて、4回目かそれくらいでやっと先生が納得できるような『瞬間急速脱力』に導けたのです。

    ★仙台の操体バランス運動研究会で『橋本先生は足関節の背屈の操法は一度しかやらなかった』という意見に対しては、三浦先生が挙手し、その映像のお話をされました。

    橋本先生も一度しかされていなかったわけではない、ということをです。患者さんに操者が思ったとおりの急速瞬間脱力を導くのは大変なことなのです。

    この映像はDVDに落としてもらい、完成品とノートパソコンを抱えて、三浦先生と一緒に見たのです。丁度このシーンは最後の方に入っているのですが、見終わってから三浦先生が少し考え込み、
    『おい、見たか?橋本先生が何度も何度も患者に脱力させてたな』
    と、つぶやきました。
    『そうですね。橋本先生でも慣れない患者への瞬間脱力は苦労されてたんですね』と答えました。

    操体というのは、見た目は非常に簡単に見えます。動かして瞬間脱力させればいいから(笑)
    しかし、実は他人に自分がしてもらいたい、希望通りの動きをしていただくというのは非常に難しいことなのです。
    操体を勉強しはじめた方々がまず直面するのは『患者さんが思い通りに動いてくれない』という問題なのです。

    ここで改めて考えてみると、何故昔(第一分析時代)は、操法の回数を2回から3回、あるいは2回から5回としていたのか、分かってきます。

    ・瞬間脱力に導くのは操者にとって口で言うのは簡単だが、患者にとっては難しい
    ・なので一度でちゃんとできることはあまりない(だから2回から3回やっておけば何とかなるだろう?)

    ということなのでしょう。

    あと、もう一つの秘密ですが、きもちよさがあれば回数は一度(多くても二回)で十分なのです。なので、当時は「楽」をききわけさせる動診・操法をやっていたことが理解できます。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • なぜ、『一人操体』『二人操体』とは言わないのか

    我々東京操体フォーラム実行委員のメンバーには、ちょっとしたこだわりがあります。
    こだわりと言っても、橋本敬三生の哲学にならっているだけなんですけどね。

    一般的には「一人操体」「二人操体」という言葉を聞くことがあります。
    話を聞いてみると、「一人でやるから『一人操体』で二人でやれば『二人操体』じゃないですか」と言われます。それももっともと言えばもっともなのですが、どうやらこの言葉のルーツは、神戸の中川重雄氏の本『すぐできる 一人操体』と『ふれあいの 二人操体』から来ているのかなと思います。

    ★書籍のタイトルっていうのは、やはり売り物ですから売れるようにつけるわけです。私の最初の本はサブタイトルが『辛い、痛いを自分で治す!』でした。橋本先生の『万病を治せる妙療法』も

    確かに一人でやれば一人操体で、二人でやれば二人操体じゃん!というのも分かりますがまあ、私の話も聞いて下さい(笑)

    操体は基本的に『自力自療』(自らの力で自らを療す)です。しかしこの自力自療という言葉がちょっと取り違えられているケースが多いのです。

    自力自療、というのは『自分で自分を治す』そっか、それじゃ一人操体じゃん、と思うのは早計です。

    自力自療≠一人操体

    (自力自療は一人操体ではない)

    一人でやるから≠一人操体
    二人でやるから≠二人操体
    三人でやるから≠三人操体

    なのです。

    操体で言う自力自療とは『本人にしかわからない感覚をききわけ(自力で診断・分析)、味わう(自力で治療)』という
    ことなのです。操体は『目的がある動き』(例えば仰向け膝二分の一屈曲位で膝を右に倒すとか)を試し、それに快適感覚がききわけられるのか感覚の分析を行い、快適感覚があったらそれをからだが納得するまで味わうというものです。

    感覚のききわけを行うのは『本人』しかいませんから、基本的には一人でやろうが介助者あるいは操者がいて、二人でやろうが、体育館などで指導者が言葉の誘導だけで動きを指導しようが、全部自力自療なのです。

    なので一人でやるから「一人操体」、二人でやるから「二人操体」ではないのです。

    ★三人でやったら(三人でもできますよ)、十人でやったら。。

    例えば、家で自分でからだのメンテナンスをする場合には『自力自動の動診と操法』という言い方をします。

    操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

    操体法の治療と予防

    上記二冊の本は、「自力自動」の操体法が載っています。「操体法治療室」は巻末にポジション別に、「操体法の治療と予防」はやはり全編ポジション別に載っています。これも面白いのですが、初診の方が本を持ってこられて、『自分でやってみたんですが、よく分かりません』という方が多いのです。なので『どんな風にやってらっしゃいますか』とチェックさせていただくと、動きが早く、感覚をききわけていないとか、単にその関節しか動かしておらず、末端が動いてからだの中心腰が動いて、首が動いて全身が動く、という連動が表現されていないのです。
    こういう場合、何度か学習を積んでいただきます。最初からうまく行く場合もありますが、感覚をききわけながらゆっくりとからだを操る、ということに慣れていない方が多いのです。

    学習を積んでいくと、「快適感覚をききわけ、味わう」という意味を、からだをとおして納得していただけるようになります。そうすれば、指一本、腕一本動かしてもきもちよさをききわけることができ(診断)味わう(治療)ことができるようになります。そうなったら大したもんだ!!

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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