投稿者: karib_sotai

  • うららかな時季より・・・3

    おはようございます。

     

    昨日は、午前中は風も穏やかで、そよ風の心地よさでしたが、昼からは春の嵐のような風が吹き付けていました。

    それでも、うららかな陽光に合わせるようにして芽吹いた小さな草花は、麗らかに咲き誇っています。

    特に、紫の花を咲かせた草が多く、紫の絨毯のようになっている所もあります。

     

    この紫色の花を咲かせている草は、ホトケノザと呼ぶのだそうな。

    確かに、よくよく見てみれば、葉っぱのつき方が仏像の座に似ている。

    それでも、雑草扱い。

     

    ホトケノザの花言葉は「調和」「小さな幸せ」

    どちらも大事であり、雑草として摘み取るには気が引けてくる。

     

  • うららかな時季より・・・2

     

    おはようございます。

     

    昨日の雨もあがり、すっかり春めいた空気感を感じます。

    うららかな陽光。

    どこからか聞こえてくる小鳥のさえずり。

    ほのかにかほる沈丁花の香り。

    やさしくすがすがしいそよ風。

    そよ風の静けさ。

     

    空を見上げれば、光を含んだ白さのある、淡い水色。

    秋の透き通るような青さではなく、様々なものが入り交じり、これから何かを生み出していくような、エネルギー感のある淡い色。

     

    何か良い事ありそうな。

    いやいや、良い事ありますとも。

    理屈をつけずに、良い事を良い事として受けとり、感謝すればいいだけ。

     

  • うららかな時季より

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員リレーブログ
    今週は友松の担当となります。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

     

    近頃は、めっきり春めいてきて、日射しもうららかで、その日射しに煌めいてすべてのものが、美しさを増しています。

    しかし、今日はあいにくの雨模様。

     

    それでも、雨もまた良し。

    花粉の飛散もやわらぎ、花粉アレルギーの人には、安息の得られる日となるでありましょう。

    この雨で、これまでに積もった花粉や塵、埃も洗い流してくれる事でしょう。

    春の雨はやさしい。

     

    そして、春の雨は万物生であるという。

    万物生とは、春に降る雨によってすべてのものが潤いと生気をもってよみがえる、という意味だという。

    春の雨はやさしい。

    あまり冷たくしないでね。

     

  • ちょっとのこと7

    道端にちょこんと咲いている草花、静かに枝を拡げて立っている樹木、日陰にひっそりと生きているコケ。そういった植物的なものに改めて意識が向くようになったのは、思えば昨年の春分の日のことがきっかけだったと思う。

     

    我が家の小さな庭にはどこかから飛んできた名前も分からない若木がいくつか生きている。名前は分からなくても、なんとなくかわいらしく感じられてくるから不思議だ。

     

    それらの木は冬の間にすべての葉を落とし、枝だけの姿になっていたが、朝の日課で冬の期間もときたま水をあげていた。

     

    それまで、冬は植物から感じられる変化はそれほどないものだと思っていた。冬芽をつけながらじっとして静かに春を待っているくらいなように感じていたので、微細な変化などあまり気にかけてもいなかった。

     

    そして春分の日の朝のこと。

    いつものように外に出で、今日は天気がよさそうだから水でもあげようかと感じていたら、あることに気がついた。冬芽をつけて枝だけだったいくつかの若木のところどころに緑色の若芽が芽吹いていた。

    それも、一つの個体だけではなく、庭に生きている植物のそれぞれが何かを申し合わせてでもいるかのように芽吹いているようにみえた。

    その光景に眠っていた生命感覚が揺さぶられるようなきもちになった。

    ことばをもたない生き物たちが、私たちの気が付かない、意識できない方法で自然環境と情報交換をして、生命力の発現の機を伺っているのではないか。そんな壮大な営みが感じられるようだった。

     

    冷静に考えて、正確には、自分にそのように感じられただけかもしれないとも思う。

    冬の間油断していて、もしかしたら数日前からそういった傾向があったのに気が付かなかっただけで、徐々に植物それぞれのリズムで芽吹いていたのかもしれない。

     

    ただ、ひとつ強く感じられたのは、自分が気が付かないだけのことが、本当にたくさんあるということだった。それも、植物園や大自然を訪れなくても、いま目の前にも転がっているんだという悦びだった。

     

    さてもうすぐ、春分の日。

    というわけで、今年は油断せずにじっくりと観察をしながらこの日が来るのを待っている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員のブログがスタートします。

     

    春のフォーラムも来月開催予定です。

    どうぞお愉しみに。

     

    www.tokyo-sotai.com

     

    今年は見逃さないようにしよう

     

  • ちょっとのこと6

    朝目が覚める。

    朧気な意識で生活が始まる。

     

    昨日とほとんど何も変わっていないような今日。

    でも昨日までの何かがリセットされているような気もする。

     

    昨日感じていたこと、昨日思っていたこと。

    それらのことが、憶えていることもあるけれど、どこかにいってしまったような気もしてくる。

    忘れてしまったことも忘れてしまったくらいに、変化が通り過ぎていく。

     

     

    カーペットの端がわずかに、折れているのが目に入る。

    まぁ、ちょっとのことだからあとで直せばいいかなと思う。

    こういったことは拾い上げていくとキリがないくらい生きているなかで無数に生まれている。

     

    そんな頭のなかの選択の繰り返しで生活が織り上げられていく。

    最近この「ちょっとのこと」がちょっとのことではないように感じられる。

    わずかなことと認識していた程度のものでも、塵のように度々頭のなかをよぎる。

    そして、このちょっとのことが生活の中に堆積していくような気がしてくる。

     

    あとでいいかなというような選択は次のあとでいいかなという選択に繋がっていくような感触がある。

    いま気が付いたことに、いま臨むのは最初ちょっとエネルギーを必要とするきもちが生まれる。私はそうだ。

    重い身体を動かして、ちょっとのことに対応しようとすることに、正直躊躇する自分がいる。

     

    コケの散策などで、しゃがむ機会が増えたからだろうか。

    ここのところ、ちょっとのことに向かっていく耐性みたいなものが少しついてきたのかもしれない。意外と、最初の気付きに対応できれば、その後もすらすらと気付きに応じていけるような感触が生まれてくる。

    不思議なものだ。

     

    朝目が覚めて、

    朧気な意識で生活が始まる。

     

    最初に気が付いたちょっとのことに臨む。

    そのことが自分自身の生活を支えている空間の健康学のようなものに繋がっているのではないかと感じられてくる。

     

    おはようございます

     

  • ちょっとのこと5

    以前から本ブログで地元小学校の学級園での活動について触れさせてもらっていたことがあるが、今回はその後日談について。

     

    昨年、種を蒔く適期が後ろにずれて、ゆっくりゆったり成長していて、年を越してしまったラディッシュ(二十日ダイコン)のことだ。

     

     

    4月以降の活動に向けて土づくりをすることになり、今までじわじわと育つ様子を見守っていたラディッシュを、いよいよ収穫しようかという話になった。

     

    うちの冬越えラディッシュは一般的な生でサラダに入れて美味しくいただける葉っぱとは違って、葉も厚く、ゴワゴワしているような雰囲気へと変化していた。

     

    年明けに時たま抜いて成長っぷりを確認してみると、ラディッシュらしい根が肥大する感じが見られず、葉だけが少しずつ大きくなっているような印象を受けた。そんな経過を目の当たりにしていたので、正直、実りとしてはそれほど大きな期待をしてはいなかった。

     

    先陣を切ったのは仲間のうちでもとくにその成長を見守り、愛情を注いでいたメンバー。試しに抜いてみようかと手ごろな大きさのものを抜いてみると、見届けていた面々に衝撃が走った。なんと、根っこがぷっくりとしてラディッシュらしく育っていたのだ。

    おまえ、いつの間にこんな大きくなってたんだ。。。

    本当に「いつの間に」という素直な驚きがあった。

     

    二十日ダイコンらしい若々しい根のプリッとした感じとは全く違う表情だが、4か月以上土の中で生きてきたものの姿。

    とても驚いたのはいくつかのラディッシュはぷっくり肥大した根っこの下に下へ下へと根を長く伸ばして生きていた個体がいたことだ。

    ことばがなくても、生きている姿から伝わるものがあるというのを、まさにこのことかと感じた。

     

    さて、そのお味である。

    早速、洗ってその日の昼食にみんなで齧ってみる。

    「あれ、ラディッシュってこんなに旨味があったっけ?」というくらいの濃い味ラディッシュ。

    やってみてわかることがあり、やってみないとわからないことに溢れていることをしみじみ感じる味わいだった。

     

    百二十日ダイコン

     

    blog.tokyo-sotai.com

  • ちょっとのこと4

    (つづき)

    コケ類や地衣類の散策を通して、樹木を眺める機会も増えてきた。

    かれらの一部は樹木の樹皮にその存在を見つけることができるけれど、とても小さいし、ぱっと見ではなかなか見つけられないので、近くでじっくりと観察することが自然と増える。改めて樹木にも親しみのようなものが湧いてくる。

     

    3月の、まだ寒さが残っていたある雨上がりの朝のこと。

    冷たい雨はやんでいたがまだ外気は冷えていて、それを皮膚が感じているような早朝の空気だった。

     

    ふと、道端の樹木が目に入った。なんの木かはわからないけれど、なんとなく、そのこんもりとした幹に触れてみたくなり、左手で触れてみた。

    その時、何とも言えないあたたかみのようなものをその樹木のからだから感じた。

    ちょっと意外な感覚だった。

     

    外の空気は冷えていて、風が吹けば猶の事寒い。そんな外気にさらされながら、樹木はそのからだにあたたかさを蓄えて生きている。

    わずかな太陽の光を蓄えていたのか、生命活動由来の熱のようなものが発生しているのか、それとも私の手の感触の錯覚だったのか。

     

    それにしても、その時に感じたあたたかみは、生き物に宿っている自然なやさしさというか、たまらなく穏やかな感じのものだった。

     

    ふと、数日前に近所の公園の木の上に座っていたおんなの子のことを思い出した。

    散策をしていたら、ちょっと目立たないところに生えている大木の上に気配を感じて、みてみると曲がりくねった太い枝のところに座っているおんなの子と目が合った。

     

    今時、木登りをするなんて珍しいなと思い、でもそれなりに高いところだったので、ふと思いなおして「ひとりで降りれる?」と声をかけてみたりした。

    その子がこくりと頷いた様子をみて、あぁこの子はこの場所が好きで、しょっちゅう登りに来てるんだろうなという感じがした。

     

    あの子のきもちがなんとなくわかるような気がする。

    なんとなく、自分にほんとうに必要な間をあじわいにきているのではないかと思う。

     

    木登りかぁ

     

  • ちょっとのこと3

    (つづき)

    そんなコケについていろいろ感じている話を、つい先日師匠の前で話す機会があった。

    すると師匠から「コケをかじってみたことはあるか?」という質問が返ってきた。

    たしかに年々、神農みが増してきた師匠ではあるが、また予想もしない問いかけがかえってきたことに驚いた。

    勿論かじってみたことなどなかった。

     

    ものは試し。ちょうど我が家には育てているコケがいる。

     

    コケの散策をしていると、公園のケヤキなど、樹皮が株元に剥がれ落ちているのによく遭遇する。試しにひっくり返してみてみると、樹皮の上でまだ生きているように見えるコケを見つけられることがある。そういったものを拾い上げては連れて帰り、霧吹きで朝晩水をあげたりして観察を愉しんでいた。

     

    「なんだかかわいいなぁ」と感じて眺めているこのコケをかじるというのは、なんとも不思議なきもちが最初はしたが、「ちょっとかじってみてもいい?」となんとなく問いかけてみると、そんなにいやそうでもない気がしたので緑のもふもふしたところを少しつまんでみた。

     

    指先にほんのわずかなコケの葉の連なりがとれたので、

    それを試しに口にしてみた。

    (勿論コケを食べようということを推奨したいわけではありませんのでご了承下さい)

     

    大きな口腔に対して、口にしたコケはほんのわずかなもの。

    その小さな組織を歯と歯で噛んでみると、小さく「しゃり、しゃり」という触感が感じられた。

    それは思っていたものとはだいぶ異なる独特なものだった。こんなにちょっとしか口に入れてないのに、微細でフレッシュな細胞のひとつひとつを歯がすりつぶしているような感覚とでも言えばいいだろうか。普段何かを口にしているときには、こんなに繊細な感覚を抱いていない事を感じたりもした。

     

    そして、その後に鼻の奥にさぁーっと抜けるような、なんとも言えない新鮮な青々とした香りが拡がった。あんなにわずかな細胞なのに、これほどに存在感が拡がるのかと驚いた。

    そしてこれらのすべてが、決して私にとって不快な感じがしない、寧ろ生命力をいただいているような、そんな印象だったのにも不思議を感じた。

     

    たしかにこのコケを顕微鏡でみてみると、微細でちょっとツンとした緑の構造体、緑のつぶつぶが連なっているのが見える。あぁこれがあぁいう感じに口の中では感じられるんだなということに納得した。

     

    ほんの一つまみの欠片でこれだけの存在感があるってことは、このもふもふにはとんでもない生命力が宿っているということか。

    かじってみて、コケとの関係にもまた新しいつながりが生まれたような気がする。

    ただ眺めて、愛でていただけでは、知らなかった世界である。

    ちょっとかじってみてもいい?

     

  • ちょっとのこと2

    (つづき)

    雨が降った翌朝に散歩などしていると、また普段と景色が違って見えてくるようだ。

    特にコケ目線で散策していると、空気が乾いている時にはカラッとしていて気が付かなかったコケたちの存在が目に入ってくる。青々というか緑々というか、なんだかきもちよさそうに見える。

     

    家屋と家屋の狭い隙間のにひっそりと。

    「あぁ、こんなところにもいたのね」という姿に目がいったりして、

    少し嬉しくなる。

     

    我が家の敷地にも、普段はカラッとしていて茶色く変色したように見えるコケたちが

    敷石の上に存在している。あるとき何気なく水を撒いてみたら、魔法のようにすぐさま緑色がさえわたる様子が気に入って、毎朝、このコケたちに水を撒くようになった。

     

    水を与えると、何とも言えない「しゅぅぅぅぅ、ぷつぷつぷつぷつぷつ・・・・・」といった小さい音がきこえてくる。

    乾いた石の上にしみこむ水の音か、または水とコケが触れあって生まれている音か。

    小さないきもののいきている姿、その呼吸がきこえてくるようだ。

     

    コケをみたり、探したり、触れていたりすると、なぜだかコケをみているはずなのに、

    わたしたちの皮膚の世界をみせてもらっているような気持ちになる。

    なんでだろう。

     

    しゅぅぅぅぅ、ぷつぷつぷつぷつ・・・・・

     

  • ちょっとのこと

    おはようございます。

    瀧澤さん、身近な息もの(いきもの)のお話を一週間ありがとうございました。

    あのぬか床の写真をみて、おなかが反応しています笑

     

    本日より一週間寺本が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    昨年から、「自然」に常日頃触れている仲間と交流するようになって、

    私自身も自然を観察することに興味を抱き、そういうことに気が向くようになってきた。

     

    自然といっても都会のなかである。

    観察するといっても、特別なものはない。

    道端の草花や公園の見慣れた樹木、川辺でなにやらをついばんでいる水鳥。

    そんなありふれた日常の自然なるものに、もう一度出会いなおしているような感覚とでも言えるだろうか。それでも、だいぶ愉しめる。

     

    最近、仲間と散歩中に見つけて愉しんでいるのは「コケ」や「地衣類」のような微細ないきもの。

    毎日通っている道でも、「コケ類」や「地衣類」の目線でもう一度目に触れてみると別世界に見えてくる。

     

    その辺のコンクリートの溝に拡がっているオレンジ色の何かを、しゃがんでポータブル顕微鏡で覗いてみると、ちゃんとなにがしかのいきものだったりするから面白い。

    (そして、道行く人はその姿をみて怪しんでいるに違いない。。)

     

    なんとなく見ただけでは乾燥しているように見えるものが、じっくり見てみるとうまい具合に細胞のなかに潤いを蓄えているのが見えてくる。知らない世界がその辺に無数に転がっているような気がしてくる。

     

    ちゃんと観察しようとしたときのからだは全部で近づいていっている感じがする。

    服が汚れるとか、そういうことが気にならなくなる。

    それがこどもの頃の身体感覚を思い出すようなひたむきさだ。

    そして、自然の生み出す造形や生きている姿に触れて、自ずとこころや探求心や感覚的なもの、いろいろなものが働きだす。

     

    ちょっとのことでも、自分のなかに何か普段と違ったながれやうごきが生まれてい

    るのを感じられる。

     

    一体この樹皮のうえにどれだけのいきものがいきているのだろう