なんだかそれもいいのかも、と思うようになりました。



おはようございます。
サントリーの創業者、鳥井信治郎氏の経営哲学のなかに、「三方良し」というのがあります。
これは、もともと近江商人の商いのモットーからきているようで、信治郎氏の生家のまわりも近江出身の商家が多く、丁稚奉公先の主人も彦根出身だったことから、幼少期から身をもって近江商人の商いの精神を学んでいたと推測されます。
三方良しの三方とは、売り手、買い手、世間の三方であり、売り手買い手双方だけでなく、商いも世間あっての業であり、世間も大事。世間が困窮して経済が成り立たない状態ではどうにもならないし、世間とのつながりが絶たれた状態でも困る。
三方良しとは、売り手の儲けばかりを優先せず、買い手にも満足してもらい、そこで生じた利益を自分達だけでなく、広く世間の為にも役立て、偕に発展していこうという精神なのだと思います。
そこからは、生かされて有難く生きている、という心の持ち方も垣間見えます。
この三方良しの精神を生命現象に当てはめてみるとどうでしょうか。
自分、からだ、環境の三方という考え方ができます。しかし、人間の場合、暮らしの利便性を追い求めた結果、からだの為にならない環境をつくりだしてきた面もあります。
ですから、生命現象の根幹に目を向け、自分、からだ、空間の三方の調和を、まず考えてみる。
この場合、からだと空間はイノチとしてヒビキ合い、存在を存在たらしめているわけですから、そこに自分を合わせていく。鍵を握るのが重力と重心。
そして、自分、からだ、空間の三方の調和が密になるほど、自然環境、人為、社会環境への適応力が増し、より良く生きていく事につながると思います。

一週間、有難うございました。
明日からは畠山裕美先生の担当となります。
来週も、どうぞ宜しくお願い致します。
友松 誠。
おはようございます。
サントリーの創業者である鳥井信治郎氏は、とても信心深い人だったようです。
例えば、伊集院静氏の小説「琥珀の夢」にも、その信心深さを物語るエピソードや、信心深さを育んだ幼少期の母親の教えが書かれています。
この本(琥珀の夢、上巻)の中には、鳥井信治郎氏の幼少期から丁稚奉公の少年時代のエピソードが書かれています。
その中に、奉公の年季が明け、自分の商売を始める前、実家から支度金を貰ったのはいいが、突発的に神戸港で見た大型客船に乗りたくなり、支度金をつぎ込み大型客船の、それも一等客室に乗り込んだ時の話があります。
当時の一等客室での船旅ですから、まわりは外国の富裕層ばかり。そんななかでイギリス公使や将官とも仲良くなり、晩さん会に呼ばれた時に、こんなやりとりがありました。
・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・
公使が信治郎に言った。
「鳥井さん、ひとつ質問してよいですか」
「へぇ~、こないにご馳走になりましたんや、何でも聞いておくれやす」
「日本にはたくさんの神さまがいますね。”八百万の神さま”たちです。あなたも、その神さまを信じていらっしゃるのですか」
「へぇ~、そら神さんは信じてます」
「その大勢の神さまは役割があるのですか?」
・・・役割? 何のこっちゃ・・・。
御利益がちがうということではないでしょうか、と正吉(通訳)が言った。
「ふぅ~ん、御利益かいな。公使はん、わてはそないに思うたことはありまへん。神さんは神さんだす。一生懸命、手を合わせていれば商いのことも、病気や災いからも守ってくれはりますわ。それが神さんからの施しだすわ。けど施しは見えしまへんで」
信治郎の言葉に公使が怪訝そうな顔をした。
「鳥井さん、施しが見えないとはどういうことですか?」
公使はじっと信治郎の話に聞き入っていた。
「何百、何千と手を合わせたから、神さんがこれだけのことをしてくれるというのは間違うてま。神さんを大事にして、一生懸命働いとったら、それでええんだす。施しは目に見えんもんで、見えたら施しになりまへん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このやり取りだけでは、イギリス公使は理解できず、母親ゆずりの陰徳の思想についても説明していたところ、イギリス公使は突然、目をかがやかせて拍手し「素晴らしい。鳥井さん、あなたも日本人も素晴らしい」と言ったと書かれています。
ここに書かれているイギリス公使ばかりでなく、信仰心はあっても、その信仰の見返りに、目に見えるかたちで自分(自我)の思い描く幸福(御利益)を得たい、と思う人は多いと思います。
しかし、それは相対的な信仰心であり、絶対的なものではない。だから、いくら拝んでも思い描く幸せが実現しなければ、拝むのをやめてしまうだろうし、貢物を求める宗教だったら、貢物が足りないからだと思い込まされるかもしれない。
神仏は絶対と本当に思えるならば、自分にとって嫌な事があっても、それもきちんと受け止め信心する。弁償法の考え方からすれば、嫌な事があっても、それは今以上に良くなるための試練という捉え方も出来る。
鳥井信治郎の信心とは、そういう絶対的な信心であり、嫌な事、凹む事、難題が立ちふさがっても、自分は神仏の庇護のもとに在るという、そういう信念も持っていたのだと感じます。
そのような信念が持てるまで信心していれば、何が起きても現実を前向きに捉えることが出来るのだと思います。
そして、前向きに一生懸命働く、そのプロセスの中で、何かヒビキ(気づき)を得、それが事業成功への原動力にもなっていた。
これは理屈ではなく、誰にでもある事だと思いますが、自分中心の相対的価値観ばかりに囚われていると、ヒビイテきても、それをキャッチできずにスルーしてしまう。
なにか信心を持つこともヒビキを得るためには必要なのだと思います。これは特定の宗教でなければダメとか、そういうことではないのです。
自然界の全てのモノに神仏(太極)の意志は貫通しており、勿論ご自分のからだにも神仏(太極)の意志は貫通しています。
ですから、ご自分のからだに一日一回でも「いつもありがとう」という感謝の気持ちを伝えるだけでも立派な信心だと思います。
信心は、信じる心と書きますが、自分自身を信じる心を育むためにも、からだへの感謝の気持ちは持つべきだと思います。
おはようございます。
「からだにききわける」ということについて、補足というかたちで不快感覚、快適感覚について一昨日、昨日と書いてきました。
からだのサインを無視することなく、積極的に快をききわけていくことは、より良く生きていく方向性として正しい。
しかし、実際の臨床の場で、からだに快適感覚を問いかける動診、操法を行っている施設は、本当に限られてきます。それだけ操体法の基礎を基にした熟練度と勇気が求められるものなのです。実際には、快適感覚のききわけが難しい人も居りますから。
そこで、皮膚へのアプローチ(渦状波®)が、三浦寛先生によって体系化されました。
これにより、被験者本人の意識介入なしでも、からだの無意識に直接快適感覚を問いかけることが、可能となりました。
そして、皮膚へのアプローチは刺激するのではなく、接触ですから、からだに負担を強いる事なく、治癒に向くからだの要求を満たし、バランス改善へと導いてあげられる。
操体法の進化は「からだにとってどうなのか」という、からだからの学びの実践の上での進化なのです。
この症状には、こうすればいいだろうという机上の方法論の進化ではありません。
実際に、からだから学んだ上での進化。
臨床経験50年以上の三浦寛先生は、日々からだからの学びを通じて、従来行われてきた操体法の基礎の基から見直し、快、不快の原則をも超越し、この世に存在する限り絶対的なからだの求め、に応えられるよう診断分析法を新たに発案しました。
それが、新重心理論による「重心の適正化」です。
新重心理論。その体得にも、理論に基づいてからだを動かし、感覚をききわけるという事は必須です。
自分、からだ、空間、この関わり、生かされて生きている中でのヒビキを感じとることが大切と思います。ただの真似事と本物では違うのですから。
三浦寛先生の独演会である「操体曼荼羅」が、今年も「海の日」に開催となります。
「操体曼荼羅」は予約受付のみとなっており、7月12日(木)、今日が最終受付となっております。
行ってみようかなと思った方、あれこれ迷わず、Yesでお願いいたします。

おはようございます。
昨日は「からだにききわける」ということについて、不快感覚の捉え方から書きましたが、やはり積極的にききわけるべきは快適感覚なのです。
快を求めるからこそ、からだの不快のサインにも敏感になれ、快を識るからこそ、不快から快への転換が図れる。
また、快を識るからこそ、自分だけでなく他人様が不快感に苛まれていれば、なんとか快の方向性に導く手助けをしてあげたくなる。
一時しのぎではなく、本人と本人のからだが調和するよう、からだの要求を満たしたバランス状態になるよう、手助けしたい。
身心が病み、不快感覚をアラームベルまで増長させた状態だからこそ、からだは「こうしてほしい」という要求を強く表します。
しかし、往々にして不快感に苛まれている本人はその要求を感じとれない。だから、そのからだの要求を満たしてあげたい。
快適感覚を識るからこそ、本人のからだの求めが、こちらのからだにヒビイテくる。

おはようございます。
昨日のブログの最後に「からだにききわける」ということを書きましたが、これについてはもうすこし書いておきたいと思います。
「からだにききわける」この根底には、元々備わる原始感覚で、からだにとって気持ちがいいのか、悪いのか、快、不快を感じわけるということがありますが、単に快か不快かを感じわけるだけでなく、どう気持ちがいいのか、どう気持ちが悪いのか、をからだにききわける事が肝要です。
からだは常に自分と共に在り、自分に対してサインやメッセージを送ってくれています。
そのサインやメッセージは言語で伝わってくるものではなく、言語の枠にとらわれないある種ヒビキとして伝わるものであり、その受け止め方で一人の人間のバランス現象、ひいては人格形成、その後の人生にも影響を与えます。
例えば、痛いのは誰だって嫌で、不快だと思います。しかし、その痛みはからだからのサインであり、アラームベルでもあります。
ただのサインではなく、からだからの有難いサイン。この世に存在するには、からだが無ければ、その存在は無いのですから。
より良く生存する為に、必要不可欠なサイン。そういった捉え方もできます。
からだだって、それぞれが相関相補しバランスをとって、自分に合わせてくれています。しかし、どうにもこのままではワタシも良くないがアナタの為にも良くない、そう判断してサインを送ってくれているのです。
そして、バランスが崩れて間に合わなくなるほど、生存は脅かされますから、そのサインはアラームベルへと変わり、けたたましく鳴り響くようになるのです。
バランスを崩し、からだの不調が重篤さを増すほど、痛みの不快感覚も強くなるのですから、そうなる前に微細なサインの段階で、からだの求めに耳を傾けるという姿勢が必要です。
からだからのサイン、それはからだの身になってこそヒビクものであると感じます。普段の生活態度に懺悔する気持ちにもなりますが、響き合えれば気持ちがいい。その上で有難く出来ているんだなぁ、と感じる事ができ、生活習慣の改善にもつながります。

おはようございます。
昨日、ウィスキーのことを書いていたら、ちょっと夜飲んでみたくなって、買いに行ってみたのですけど、「響」は最近売ってないんですね。
先々月あたりに「響」の17年物と「白洲」の12年物が原酒不足で販売休止になることは、小耳にはさんではいたのですが、年代物でない普通のものまで店には置いてない。6、7軒店をまわってみても全然置いてない状態となっていました。
まぁ、いつもは角瓶のハイボールを飲んでいる私としては、プレミアムなウィスキーにはあまり縁がないので、たまにはと思ったのですが・・残念。
それでも、たまには高級なウィスキーをロックで飲ってみたくて、「ローヤル」を買ってみました。
これだって昔の物品税の時代は、かなり高額で売られていた記憶がある。ラベルに60って書いてあったやつですね。
そして、「ローヤル」はサントリーの創業者であり初代マスターブレンダーでもあった鳥井信治郎の最後にして最高の名作とされている。
鳥井信治郎は、「大阪の鼻」と呼ばれるほどの鋭い感性を持っていたといわれます。
「大阪の鼻と呼ばれるほどの鋭い感性」という表現。これは鳥井信治郎について、他のサントリーウィスキーの商品説明でもよく目にしますが、「大阪の鼻と呼ばれるほどの鋭い嗅覚」と表現せずに、感性としているところに、ものすごく的を得ているというか、良い意味でのこだわりを感じます。
確かに、鳥井信治郎はきき酒の名手であり、香りや匂いについても、これは何の匂いかと的確に言い当てたという逸話からも、嗅覚の鋭さは想像できます。
しかし、それだけでは創造性といったものが見えてきません。匂いの違いを感じわけるだけではなく、鳥井信治郎にはそこから皆がよろこぶものをつくりだす感性、創造力があったのだと思います。
操体も「からだにききわける」ということを重視しているが、これは単に快、不快を感じわけるだけでなく、どう気持ちよいのか、どう気持ち悪いのか、そのヒビキ方をききわける必要がある。
このききわけこそが、健康回復、維持、増進、ひいては美容やパフォーマンスの向上にもつながる。

おはようございます。
東京操体フォーラム実行委員ブログ、今日からは友松が担当いたします。
一週間、どうぞよろしくお願いいたします。
今回のテーマは「ひびき」です。「ひびき」と聞いて、はじめに思い浮かんだのが、あの琥珀色の飲み物です。
「響」。このウィスキーは国産のブレンデッドウィスキーのなかでは、最高峰といわれており、普通のウィスキーとは違う趣があります。
日本のウィスキーの場合、シングルモルトのウィスキーよりも、モルトとグレーンをブレンドして作られるブレンデッドウィスキーの方がポピュラーですが、樽の中でしっかり熟成させ、原酒の良さ(個性)を引き出し、そしてそれを見極めてブレンドして、それぞれの持ち味をいっそう引き出していくのは、ものすごく繊細で、文字や数値では表せない感覚的ヒビキと細やかな気配りがモノいう世界なのだと思います。
サントリーの創業者であり初代マスターブレンダーでもあった鳥井信治郎は
「モノいわぬ原酒と会話できるようにならないと、一人前のブレンダーとはいえぬ」
と言っていたそうです。
モノいわぬモノとの会話。言葉を話せるモノとの会話であれば、頭の理解力が優先的となり、感覚的なことは隅に置かれてしまう。
しかし、言葉を話せないモノとの会話では、この感覚がモノいう世界となる。そして、この世界は嘘偽りのない正直な世界。
真剣に取り組んでこそ、モノいわぬモノの言わんとすることが感覚的にヒビク世界。そしてそのヒビキに対して、どう応えるか。
感覚的なヒビキ方、応答の仕方という会話の質が、モノコトの調和の妙、ハーモニーの妙につながる。
だから感覚は鋭敏にして置く必要がある。そして、なによりも、モノいわぬモノに生かされて生きているという観点は必要。そうでなければ、モノいわぬモノに共感は生じづらいし、確かなヒビキは得づらいでしょう。
「からだにききわける」「からだとの対話」によって、からだの要求にどう応えるのが最善かを追求してきた操体、操体法にもいえることだと思います。

(昨日の続き)
からだを診ることと、楽器や音楽に向かう事は
「ヒビキ」というキーワードを持ってつながりをもつことができる。
このようなことを考え始めたのは、
のらりくらりと続けてきた音楽活動を昨年「冬眠」してからのことだった。
音楽での活動で知り合った仲間と
10年以上毎年年末に「ミソカイヴ」というささやかなイベントを開催してきた。
1年の締めくくりに自分も音楽での表現を通して参加していたのだが、
昨年末はこの通り冬眠中だったので、毎年続けてきた事だけれども
参加するのをどうしようかと、ちょうど昨年の今頃の時期からぼんやりと考えていた。
そんな最中、操体の講習のなかで語られた
「ヒビキ」という言葉・捉え方が妙にヒビいた。
「あ、楽器にふれていなくても、自分は未だにからだを介してヒビキに触れているんだ」とヒントをもらえたようだった。
そこで、腹をくくって、昨年末のイベントには「臨床家」として参加することにした。
開演前、または演奏者の許可がおりれば、演奏公演中に
観客がからだを介してのヒビキをききわけてみる、という試みだった。
イベントとして整理できていない何が起こるかわからないような状況にもかかわらず
兄弟子の寛幸さんも助っ人に駆けつけてくださり、また年末にも関わらず師匠や畠山先生も応援に来てくださってありがたかった。
整理、反省、検討する点は多々あったが、収穫と思えるものも多かった。
体験者の方のなかには、真面目に面白がってくださる方もいてありがたかった。
簡単なことではないけれども、空間を介して異種の活動とも
折り合いを見つけることの可能性を感じることはできた。
今年も早いものですでに折り返し地点を過ぎている。
今年の締めくくりに向けて、
今できることを、ただただ地道に続けようと思う。
一週間のお付き合いありがとうございました。
明日から友松実行委員の登場です。おたのしみに。