投稿者: karib_sotai

  • 「操体の常識は世間の非常識」

    「操体の常識は世間の非常識」という話を寺本君が書いていましたが、

    「症状疾患にとらわれない」

     

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    上野公園のイチョウ。

     

    「痛くない方に動かす」
    「二者択一の場合、楽なほう、辛くない方だけをやればよい」
    「きもちのよさで良くなる」
    「皮膚に接触(指2本)で操法を行う」
    「触れないで治療する」(気功とは違います)
    「操者、患者、患者のからだ、の三位一体という見方をする」

    また、
    「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」
    の「頑張るな」などは、頑張り屋さんの多い日本の皆さんにとっては「??」
    「頑張っちゃいけないの?」ということになります。
    「頑張るっていいことじゃない?」
    (かといってだらけていいとか、だらしなくしてもよい」ということではなく、「作法に従いなさい」ということです)

     

    なお、以前、全国操体バランス運動研究会に参加した時、かなりの方、また、ある程度の年数をやっている方々が、発表時に「がんばります」という言葉を多用していたのには驚きました。

     

    そして「うつ病の人に『頑張れ』と言ってはいけない(頑張れなくて辛いのだ)」ということは、人様を癒す、ケアする立場にあれば常識だと思うのですが。。

     

    「自分の常識は他者の非常識」ということなんですね。

     

    彼らは「操体コンサバティブ派」あるいは「操体原理主義者」(つまり「万病を治せる妙療法」が唯一の操体の教えであり、他は認めないという姿勢の方々)なのですが、橋本敬三先生の思想を支持するのに、なんで「頑張る」っていうんだろう、と思いました。

    「救いと報い」という橋本哲学のコアを学んでいれば、「頑張らなくてもいいんだ」ということは、わかるハズなんですが。

     

    これは、私にとっての「操体の常識」が、「操体やってても操体の常識が通らないこともあるんだ」ということに気づかされた出来事でした。

  • 「今日の異端は明日の正統」

    今週一週間、畠山裕美(はたけやまひろみ)が担当致します。よろしくお願い致します。
     
     
    東京操体フォーラム最高顧問、島地勝彦先生の「はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき」と言う本があります。
     

     

    はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき

    はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき

     

     

     
    そこに出てくる名言が
     
    「今日の異端は明日の正統」です。
     
    人類のほとんどの新しいことは異端からはじまっている。ガリレオは地球が太陽の周りを回っているというコペルニクスの地動説を実証したら、宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を命じられた。そのとき、ガリレオは静かにいった。
    「それでも地球はまわっている」
     
     
    色々考えてみると、私が子どもの頃、体育の時間やスポーツするときには「水を飲んではいけない」ということになっていました。
    今は、スポーツ時の水分補給は常識中の常識ですよね。
     
    また、ペットボトルや缶入りのお茶が出た時
    「お金を出してお茶を買うわけないじゃん」と皆が思いました。
    水も同じです。
    日本は蛇口を捻れば水が出てくる。ペットボトルに入ったお水にお金払うわけないじゃん」
     
    今は、ペットボトルのお茶もお水もふつ~に買いますし、私の家では、母がミネラルウォーターを大量に注文して、お米もミネラルウォーターで炊いています。
     
    ちょっと前まで、非常識とか、考えられなかったことが、常識になっていることは、身の周りにたくさんあります。
     
    特にこの30年位の間に、本当に色々変わりました。
     
     
    さて、今から50年前、操体の創始者、橋本敬三医師は、我らが師匠、三浦寛先生に
     
    「自分のやっていることは60年先を行ってるから、今理解されなくてもしょうがない」
     
    とおっしゃったそうです。
     
    2030年頃には、操体コンサバ派が追いついてくるのでしょうか。
     
    「操体コンサバ派(あるいは操体原理主義者)」(万病を治せる妙療法がバイブルで、なおかつ楽と快の違いが分かっていないのに「快」「きもちのよさ」を連発する皆さん)かなと思います。
     
     
     
     
     
     
  • 「常識を疑う目」より・・・良識から。

    こんにちは。

     

    今回のブログ担当も、今日で最終日となりました。

    陽が暮れるのが早いせいか、一週間が過ぎるのも、凄く早く感じる今日この頃です。

    ふと、遠くから石焼き芋の移動販売車の声が聞こえてきました。

    「 石や~きぃ~もぉ~ 早く来ないと行っちゃ~うよ~ 」

    今日から師走、何かと慌ただしくなりますね。

     

    今回のブログのテーマは「常識を疑う目」でした。

    今回、担当初日にウィキペディアにあった哲学者・三木清氏の常識に関しての記述より、常識の上位概念として良識(りょうしき)があるという事を紹介しました。

    良識ついては、それぞれの社会にそれぞれの常識があるが、あらゆる人間に共通な常識があると考えられ、それは「良識」と称することができる、との事でした。

    この良識については、操体を学ぶ者として、私は凄く共感出来るものがあるのです。

     

    操体の創始者は、医師であった橋本敬三先生であります。

    創始者も、はじめは現代医学をもとに治療にあたっていた。しかし、現代医学だけでなく様々な民間療法の教えも受け、取り入れていった。そうすることで、メディアからも取材が殺到するほどの効果を上げていった。

    そのなかで、創始者は様々な療法すべてに共通する根本原理に気が付いた。それは西洋医学、東洋医学、民間療法といった枠組みを超え、尚且つそれらにもつうじるものであり、生命現象の本質に迫ったものでありました。

     

    西洋医学、東洋医学、民間療法それぞれに、病に対しての診断法、その診断した症状、疾患に対するアプローチの仕方があると思います。

    しかし、操体臨床の場合は、病から診るのではなく、生命そのものから現症の元に必ずあるアンバランスを診、生命現象の写しであるからだの要求に応じたアプローチを行い、本人自身が快適感覚をききわけ、味わう事で生命そのものがバランス制御に向かう。そして結果的に他で診断された症状疾患現象も回復、回善されるのをみるのです。

     

    ですから、生命現象の本質に目を向けず、間違った生活(生命活動)を続け、結果的に生じさせてしまった症状疾患だけを何とかしてもらおうとするのが、常識化してしまっている現代社会の人達の考え方からすれば、操体は常識的ではないかもしれない。

    しかし、今の人達の考え方からは常識的でなくとも、あらゆる人達に宿る生命にとっては、共通の常識であり、良識なのであります。

    常識的に不可能と思われる事も、良識から可能とさせ、快適感覚をつうじて、生命現象の本質への気づきへと導く。必ずや、心もからだもより良く変わっていくでしょう。

    そうしたなかで、今の人々の想いがより良く変われば、常識もより良く変わり、より良き未来への橋渡しとなるでしょう。

     

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    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

    来週は畠山裕美先生の担当となります。

    来週もどうぞよろしくお願いいたします。

     

    友松 誠。

  • 「常識を疑う目」より・・・自明だけでなく。

    おはようございます。

     

    ふと、頭に浮かんだメロディー。

     

    ♪ いつだってわすれない エジソンはえらい人

          そんなの常識 タッタタラリラ~ ♪

                           歌手:B.B.クイーンズ

                           作詞:さくらももこ

                           作曲:織田哲郎  

      

    おどるポンポコリン

    おどるポンポコリン

     

     

    そのエジソンは常識的な人ではなかったという。

    そして、こんな言葉も残しているという。

     

    「 大事なことは、君の頭の中に巣くっている常識という理性を
        きれいさっぱり捨てることだ
     もっともらしい考えの中に新しい問題の解決の糸口はない 」

     

    「常識という理性」という語が出てきたが、これは的を得た言葉だと思う。

    常識には自明な面がある。

    例えば、空は青い、雲は白い、カラスは黒い、というのは当たり前。しかし、その当たり前の共通認識も、光のあたり方をはじめ環境変化で見え方は違ってくる訳であり、その当たり前が真実とは限らない。

     

    エジソンは、そういった不確かな面もある推論能力(理性)から、いくら考察を重ねても現状をより良くする為の問題解決(発明家であれば発明の)の糸口は見えてこない、と言っているのだと思う。

    それよりも、実際に自分自身で感覚をとおして、やってみる事。

     

    エジソンは、幼い頃から疑問に思った事は、実験してみて、その根拠を確かめていたという。

    他の人からすれば、わざわざ実験などしなくとも、知識として知っているだけで十分だ、と思われる事柄もあったろう。

    しかし、やってみなければ、本当の理解につうじない事柄は沢山ある。

    その、本当の理解、本質的な理解が、発明という新たな展開につながっていったのだと思う。

     

  • 「常識を疑う目」より・・・どう見える?

    おはようございます。

     

    一般的に、目で見るという行為は、メカニズム的にカメラのような仕組みとその情報が脳に伝達されて見ている、という説明がなされる。

    しかし、生体はカメラと違う。例えば、アモーダル補完というのがあるが、これは対象物の一部がレンズに映りこんでいなくとも、その欠けた部分を脳内で補完して全体像を認識するという事。

    私達は、単に目に入るものだけでなく、脳内で解釈が加わったものを認識しているという事であり、脳の視覚皮質の活動は、見えている物体に対してのみ生じるのではなく、見えていなくともその存在を感じるだけで生じるのだという。

     

    私達の見る行為は、一瞬だけを捉えるカメラとは違う。常に時間、空間との関連性がある。
    どう感じ、脳内でどう解釈するかが重要となるが、それは視覚だけでなく、他の触覚、聴覚、嗅覚、味覚などとも関連した感覚的積み重ねが大切であり、それがイメージにつながり、目に入るものとそのイメージとで、見たものを認識しているのではないかと思う。

     

    そうなると、良いイメージを持つ事が非常に大切となるが、その時に重要なのが快、不快の感覚をききわける事であり、逆に支障となるのが知識だけの固定観念や常識なのではないだろうか。

     

    例えば、観葉植物のちょっと干乾びた葉っぱを見て、これはどのような色ですか?と尋ねたとする。

    ある人は、そんな当たり前の事わざわざ聞くな、といった表情で「ちょっと茶色がかった緑色です」と答えた。

    しかし、ある人は「これは水分が足らずに不快な状態に陥っている色であり、水をあげて元気にしてやった方がいいですよ」と言って、水を汲みに行った。

     

    治療家、療法家、臨床家として、どちらの見え方が支持されるべきでしょうか?

     

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  • 「常識を疑う目」より・・・救いの生命観を持つ。

    おはようございます。

     

    昨日ブログを書いていて、書き進むまま文中に「目から鱗が落ちる」と自分で書いていましたが、なにかこの言葉が離れなくなっていました。

     

    目から鱗が落ちるとは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになることのたとえ。

    由来を辿れば、キリスト教の迫害者サウロが使徒パウロに変わる回心の場面を書いた「新約聖書」使徒行伝・第9章「The scales fall from ones eyes」という言葉に基づいており、本来は、誤りを悟り、迷いから覚める意味で使われていたという。

     

    サウロ、パウロに関しては、橋本敬三先生の書き記した論文の中に出てきたものがあると思い出し、著書を捲っていると『心の調和-「救い」と「報い」』という項目に辿り着いた。

    もう何回読み返したか、それでも読み返してみると操体創始者の思想、哲学、生命観の凄さを、改めて思い知らされる。

     

    そして、現代訳の聖書にないサウロとパウロの決定的な違い、というものが見えてくる。

    サウロとパウロは、もちろん同一人物だが、キリスト教徒を迫害しサウロを名乗っていた頃のパウロにはなかったもの、それは「救い」。

     

    橋本敬三先生は、こう書いている。

    ~「救い」は絶対、「報い」は相対だ、という事である。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。~

    つまり、「救い」とは、自分自身はイエスと同じように神と同格の神の子であり、他の人も同じで、皆が神性相続権を持っているという事。そして、これは絶対的な事実だという事。

     

    しかし、サウロを名乗っていたころのパウロには、この「救い」と「報い」の違いが分からなかった。

    神と人間は全く別物であり、人間は罪を犯すものであり、その罪を償うために罰を受けたり、神に赦免を請わなくてはならない、と認識していたと思われる。

    だから、異教徒であったサウロは、自分の信じる教えと違うことをする人は罪人であり、罰を受けその「報い」を受けなければならないと考え、迫害に力を入れ、それが正しいと思っていたのではないだろうか。

     

    この世は確かに「報い」の成立する世界だ。善い事をすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いが待っている。

    では、その善い、悪いとは?

    少なくともサウロのように、自分の信仰するものは善く、その信仰に反する事をする人は悪、と決めつけられるものではないだろう。

    この世は、時間、空間のかかわりのなかで、いくつもの事象が折り重なっている。頭で考えると、何が善い事で、何が悪い事なのか、どう生きれば善いのか、考えれば考える程分からなくなり、迷いに陥る。

     

    しかし、感覚には迷いがない。気持ちがいいか、悪いかは、ききわければわかる。だから、有難い。

    人類に、この原始感覚が元々備わっているという事は、神の子である証なのだ。

    神さまは、その子供である人類に、人それぞれが個性を持って構わない、そして個性を持ったそれぞれが、それぞれ気持ちよく、快適に、満足して生き、そして、違う個性も尊重し合い共存共栄が成る世、となる事をはじめから望んでおられた。

    その為に、気持ちよさを求めて生きればいいのだよ、と原始感覚を備えさせたのだと思う。

    元々、「救い」の成立しているイノチなのだという事。

     

    大人になる程、「報い」の相対世界での価値観に囚われやすくなる。その価値観からつくられてきた常識というものは、絶対的ではない。

    今、私たちが生きている「報い」の相対世界での常識は、絶対的「救い」の生命観からみてどうなのか、という感覚をとおした目を持つことも必要だと思います。

     

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  • 「常識を疑う目」より・・・ありのままを見る。

    おはようございます。

     

    ふと、アンデルセン童話の「裸の王様」の話が思い浮かびました。

    この物語は、衣装にうつつをぬかす王様が、仕立て屋を装った詐欺師にだまされ、下着姿で町を練り歩くというストーリーだ。

    詐欺師は、「馬鹿で愚かな人間には見えない」という特別な服を王様に着せるが、王様本人も家来達も町の人達にも見えない。

    それもそのはず、本当はそんな服などなく、みんな馬鹿で愚かな人間と思われたくないが為に、見えているように取り繕っていただけ。

    それを、見栄や体裁を持たない一人の子供が「王様は裸だ」と叫ぶことで、みんな騙されていた、と真実に気付く。

     

    その子供の一言で、目から鱗が落ちる思いだった大人も多かったことでしょう。

    「常識」という社会通念も、何か似たようなものがあると思います。

    常識知らずは、恥知らず、礼儀知らず、世間知らずにも通じるものがある。

    そう思われたり、言われたりするのを避ける為に、その常識や習慣にに合わそうとする。

    それはそれで悪い事ではない。「郷に入れば郷に従え」という諺もある。

    しかし、常識を優先するあまり真実を見ようとしなくなったり、視野が極端に狭くなったりしたのでは本末転倒、本質転倒なのだと思います。

     

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  • 「常識を疑う目」より・・・大人の良識。

    おはようございます。

     

    常識を構築しているのは我々大人たちだと思います。

    生まれたばかりの赤ん坊に常識は通用しない。だから、親をはじめ家族、まわりの大人たちが社会生活も営めるよう教育しながら育てていく。

    大人の役割は重要だ。しかし、その大人たちの常識は正しいとは限らない。かといって正しくないという訳でもない。

    絶対的ではないから、より良くしていかなければならない。

     

    温古堂先生語録には

    「原始感覚、気持ち良いか悪いかがわかるから有難い」

    「動物は学問しない。しかし人間は理屈ばかり言っている。知識で判断するから、間違う」とある。

    常識も、その知識だけでは間違う。正しい正しくないではなく、間違う。

    誰もが、時間・空間の間とのかかわりをもっているが、その間違いが時として重大な問題につながることもある。

    間違いではなく、間に合うようにするには、感覚をききわけるという事が肝要となる。

     

    所変われば常識は変わるし、時代によっても変わる。その常識が、常識として通用する時空には限りがある。

    他で通用している常識をそのまま、今居る所にもってきても、知識だけでは間違う事があるし、他で通用している常識を理解することも難しいし、軋轢も生まれるだろう。

    何をするにしても感覚が伴っているのだから、それを隅に追いやらず、ききわける。

    大人になって年を重ねる程、それが疎かになりがちだ。

    ややもすると、間違った古い常識を若年者に押しつけるような事もしてしまう。

     

    大人の良識とか、良識ある大人という言葉をたまに聞くが、その良識には感覚をききわける事が必要。
    からだにききわける、良心にききわける。

    その良識から常識を、より良く覆していく。そしてつなげていく。

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  • 「常識を疑う目」より・・・良識を育む。

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員ブログ、今週は友松が担当いたします。どうぞ宜しくお願い致します。

    今回のブログのテーマは「常識を疑う目」。

    単に「常識を疑う」という事をテーマとしたのではなく、「常識を疑う目」としていることに意味があるように感じられます。

     疑ってばかりでは、猜疑心や疑心暗鬼にもつながり、安心できないですものね。

    しかし、常識に安住してしまえば、進歩や発展は見込めない。

     

    常識ということについて、ウィキペディアを見ていたら、こんなことが書いてありました。

    ・・・哲学者の三木清によれば、常識の上位概念として良識(りょうしき)があるという。彼によれば常識人が常識を無謬のものとして受容し、常識を盾にして非常識を断罪するのに対し、常識に疑問を持てる知恵が良識なのである。・・・

     

    では良識とは?

    常識というものは、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。一つの社会の常識と他の社会の常識には違いがあり、それぞれの社会にそれぞれの常識があるということになる。
    それとは別に、あらゆる人間に共通な人類的な常識というものもあり、こちらは特に「良識」と称することができるという。

    そして、それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもち、知性の自然的な感覚に属しているという。

     

    単に疑うではなく、良識を育むことが大事。そして、良識を育むには感覚を無視してはいけない。

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  • 身体芸術と操体

    昨日の秋季東京操体フォーラム、お陰様で無事に終了致しました。

    ご参加くださった皆様、ありがとうございました。

     

    今回は「身体芸術と操体」というテーマにまさにピッタリなミュージシャンの佐藤正治氏にご参加いただいたり、相談役の川崎先生がいつも以上に場に必要な響きを放ってくださったり、また毎年9月に南会津にて開催されている伝統療法カンファレンスでもお世話になっている筋整流法の先生方にも駆けつけていただき、追い風エネルギーをたくさん頂戴しました。

     

    一日を通して大変印象的だったのは、各人の発表や講義が

    その人にしか生み出せない味わいを放っていたことと、

    それが見えない連鎖をしながらフォーラムという

    ひとつの空間芸術を生み出していたように感じたことです。

     

    一見すると非常識に思える事であっても

    からだとの信頼関係のなかで得られた確かなメッセージを信じ、

    常識にも照らし合わせながら

    その情報を本当に必要としている方に、

    しっかりと届けられるように日々勉強し合う。

     

    東京操体フォーラムはまさにそういうズルい野次馬の集まりです。

    必要としているあなたにちゃんと届けられるように

    これからも学問を続けて参ります。

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日からは常識も非常識もやさしく包み込む手をもつ

    友松実行委員の登場です。

    どうぞ、おたのしみに。