なんでだろう~♪なんでだろう~♪
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少し前の漫才コンビの歌詩である。
子供の頃、誰もが自分の生きる世界の様々な事象について疑問を持ち、そう問い掛けたはずである。
それを止めることが大人(社会人)になることだ。
そうしないと適応できないから。
今年最後のブログになります。
今回与えられたテーマは今年一年の学びそのものだったように思っています。
今まで私達が当たり前としてきた「常識」から半歩距離を置いて、何度もそれが正しいのかを検証していくことの繰り返しで、そんな中で私が掴んだことの一つは常識との向き合い方でした。
常識が私達の生きることにおいて必要なものであると同時に、その半面私達から自由も奪っているということ。
以前に書いたことがありますが、三浦先生は私達に「好きにやっていいが、勝手は許さない」と言われます。
その言葉も私達の常識と向き合っていく中で繋がっていくことであり、大切なことだと思っています。
一週間、そして今年一年ありがとうございました。
来週からは半蔵さんが担当致します。
お愉しみに。
私の中で常識というものの捉え方の参考にしているのが野村克也さんの本です。
野村さんは選手としても監督としても偉大な成績を収めてきましたが、私の印象ですと厳格な方で基本を大切にし、選手にはアスリートとしてだけでなく一社会人としての生き方も大事にされてきた印象でした。
そういった素晴らしい監督がどういった見方、捉え方で野球や人生と向き合ってきたのかがずっと知りたくTVや本で追ってきたのですが、野村さんの常識に対する捉え方は操体を学ぶことにおいても大切なヒントを与えてくれます。
野村さんは著書で「ときには、常識を疑ってみることも必要だ。(省略)ビジネスにおいても、常識を疑うことが課題の解決や新たな発見に繋がることがある。縦に置くのが常識だった部品を横においてみるだけで、画期的なアイデアが生まれるかもしれない」(「野村の金言」セブン&アイ出版より)と述べています。
常識や自身の見解を基本にただ一方向からではなく、多面的な方向から捉え、見ていくことが大切なことで、特に私達のようなからだを診ることを生業とする臨床家はこういった捉え方が最も重要な事ではないでしょうか?
最近私が臨床を通じて感じるのが「やり方を決めて行うことほど、つまらないものはない」ということで、臨床をある原理原則に乗っ取って自由な発想で行うことに面白みを感じています。
そのように愉しみながら臨床を通していくと、からだからは様々なメッセージを受け取ることが出来ます。
そのメッセージは「常識だけに捕らわれていては見えるものも見えてこえないよ」と言っているようです。
恐らく操体の臨床はそんなところに旨味があるのではないでしょうか?
以前読んだ東洋経済ONLINEのサイトで常識を疑うことにおいて重要なのは「常識を疑う態度を身につけるということではなく、見送っていい常識と疑うべき常識を見極める選球眼を持つこと」と書かれていました。
私も日々操体の学びの中で「これで本当に正しいのか?」と思うことがありますが、自分の感じたことが正しいのか、または今までの理論が正しいのかの判断をする事がなかなか出来ません。
そういった疑問の解決の糸口は自分の感じたことよりも、まずは一般的な捉え方を基準にしてしまいますが、この一般的な基準が正しいのかと思うこともありますし、もっと言うならば世間の常識が自分の発想や感性を窮屈にしているようにも感じることさえあります。
よくアスリートでも常識とされる超えた成績を収める選手は日々のルーティーンを大切にし、自身の感覚を基準にトレーニングをしていると言われています。
こういった人程、常識の縛られずに疑う目を持ち、先程書いたような選球眼を持ち合わせているように見えます。
私達もそういった常識に縛られない判断が出来るようにしていくことが学びの本質としてあると思います。
そこで大切になってくるのが「からだが聞き分ける感覚」になるのではないでしょうか?
からだは私達が知らない答えを知っているのですから、そこに答えを委ねてみるのも自分の価値観、常識を超えていく一つの方法なのだと思います。
このテーマに決まってから自身の今までを振り返ってみると、学ぶということにしても臨床にしても若い頃に信じられなかった非常識的なことが今の自分の当たり前になっていることに気が付きました。
皮膚に触れるだけの臨床にしても、また空間を通じて人を診ることが出来るようになったのも、それまでの自分の価値観で操体を捉えずに受け入れることが出来たからだと思います。
そういう自身の変化は生き方にも影響し、操体の学びを得てから自分の中の一番の変化は人や物事に対してまずは受け入れられるようになったことだと感じています。
昔は自分の価値観に反するものや思っていることに対し、否定的な意見や言葉があると真っ先に対立していましたが、今はまずは聞き入れそこから相手の意を汲み取るようにしています。
こういった自分の中の変化で感じることは今の私は常識、非常識というものの基準が私ではなく、からだとからだが聞き分ける感覚で判断するようになったということです。
もちろん最低限の人として、社会人としてのマナーは別にして、からだに関する常識は自分のからだを通して納得することが出来なければ、本当に良いとされる物でも受け入れないようになってきています。
このようにからだを主体にして物事をみていくと世間では非常識な臨床もからだからすれば常識なことのように思えてきます。
操体の常識は世間の非常識という一つの要因はこういったことがあるのかもしれませんね。
「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」
かの有名なエジソンの言葉である。
先日、この話で話題になったのですが、私は今までずっと99%の努力によって1%のひらめきが生まれてくるものだと思っていましたが、エジソンの真意は違うことを知りました。
エジソンは「1%のひらめきがなければ99%の努力が無駄になる」ということが彼が伝えたかったことで、私のような解釈では全くその意味が異なってきます。
この言葉に限らず一般的に認知されていることも意外に間違った解釈がされていることが多いように感じます。
言葉一つの受け取り方次第で学び方、もっと言えば人生も大きく変わってしまうので本当に思い込みというのは怖いことで、常識を疑う目というのは常に持っていなければならないのですね。
エジソンの言葉を少し噛み砕いていくと、彼が皆に伝えたかったことは学ぶことにおいてとても重要なことのように思います。「1%のひらめきを生かすための努力」が新たな気づきや知見を生むのではないでしょうか?
私のような解釈では努力した分の報酬は返ってくるというような捉え方で、そこから先というのはなかなか見えてこないように感じます。
こういったヒントから少しでも常識や自分が身に付けてきたことを見直してみると、また違った世界が見えてくるのではないでしょうか?
「操体の常識は世間の非常識」
これは先月開催されたフォーラムや今回のブログで実行委員の寺本さんが言われていた言葉です。
生前、橋本敬三先生は「ワシのやっていることは60年先のことをやっているから今理解出来る者はいない」と言われていたそうですが、この言葉からも操体でやっていることは世間からみれば非常識なのかもしれませんね。
私自身も元々は会社勤めを辞め、この世界に身を置いた時に最初は橋本敬三先生の哲学や三浦先生の言われていることが、それまでの世界感からあまりにかけ離れた非常識なことでしたが、今は操体の世界感を基準に物事を見れるようになっています。
それまでの自分にとっての非常識が少しずつ自身の常識に変わっていく事でからだも変化したように思います。
それは恐らく、私の中の常識に対する価値観も変化と共に、からだの中の常識も変わったのでしょう。
この変化の中で自分の何が変わったのかを考えてみたのですが、自分の身の周りの事や世間で起こっていることとの距離の取り方が変わりました。
一歩、もしくは半歩距離を置いて物事と向き合うことで客観的に見れるようになり、昔は否定的な見方しか出来なかったものも肯定的な目で見れるようになったように感じます。
世間の常識、非常識もこういった捉えかたをすれば、また違った価値観が芽生えてくるように思います。
一歩距離を置いて見てみることで世間の非常識だったものが、自分自身の常識になる。
その変化によって、からだとのお付き合いの仕方も変わり、健康との関係も良好になるのではないでしょうか?
三浦先生、一週間ありがとうございました。
今週から三浦寛幸が担当致します。お付き合い下さい。
今回のテーマは「常識を疑う目」となりますが、振り返ると今まで非常識に思われてきたことがいつの間にか当り前の常識になっていることが多くあります。
畠山先生のブログでも書かれていましたが、携帯電話の普及にしても、水を買うことにしても、それまでに有り得なかったことがいつの間にか日常の中の常識になってきていることに個人的に思っていることがあります。
それは世間の常識となってきていることは生活の豊かさには繋がっていても、「からだや命にとっての豊かさに繋がっているのか?」ということです。
例えば携帯電話のことに関して言えば、以前に問題になっていた「歩きスマホ」やネットから得られる情報がからだから見て良いことなのかと考えていくと、決してプラスに働いているようには思えないのです。
歩きスマホや携帯のいじり過ぎが原因でからだを壊した人も診たことがありますし、「~がからだに良い」というネットの情報に惑わされ体調を悪くした人も多く見てきました。
携帯電話が仕事や生活の便利さに繋がる一方、人は大切な何かを少しづつ失くしているような気がします。
このように生活が便利になった反面、様々なリスクを背負わなければならない時代になりました。
そういう時代だからこそ、今まで以上に自身のからだを主体にして常識をみていかなければならないように思います。
今、私が学んでいることの中で目まぐるしく変化していることは、
橋本先生の時代に使われていた「用語」が今、次々に死語化して消えていくことだ。
当時は必要不可欠な用語であった。
今は次々、新たにふさわしい「用語」に転換されている。
当時、生体のバランス制御を「楽」に定め、
動診・操法が問いかけられていた。
しかし、生体のバランス制御が「快」に転換されてくると、
それにふさわしい用語が必要になり、生まれてくるのは当然のことである。
「運動分析」から「感覚分析」に変わり、比較対称の分析ではなくなる。
患者の動きに対応した「抵抗」という表現ではなく、
からだの動きに対応した「介助・補助」という言葉に変わる。
瞬間脱力という表現もなくなり、
操法を数回繰り返す、操者による操法の、回数の決めつけも無くなった。
つまり、操者の決めつけが一切なくなり、からだに問いかけた。
からだの要求と選択を最優先、重視するようになっている。
この辺で一先ずとどめておこう。
私達が続けているブログもかなり注目して読んでいる人たちが増えているようだ。「楽」をバランス制御に定めていたのでは、もったいないことだ。
さらなる可能性がその先にある。
何を基準にし、何を生体のバランス制御に定めて操体法をみているのか?である。「楽」ではないことは確かである。

うたた寝、安眠、熟睡、そして根睡(こんすい)眠り。バロメーター
早朝、喫茶店で2、3時間集中しているとツーつと
意識が消えていくように10分か15分ほどうたた寝してしまう。
脳の眠りではなく、からだが要求してくる眠りのようだ。
その眠りを「眠りの残り火・火種」と名付けて、たのしんでいる。
この残り火はどうも意識では止めようがないとわかっているから、ゆだねてしまう。
なんとも言えず、居心地が良いものである。
就眠、爆睡もするが、爆睡から目醒めると、
からだはスッキリするのだが、脳コリというのか、頭がスッキリとはしない。
まだボーとしている、少々ふらつきながら起き、いつもの椅子に腰掛け、コーヒーを入れて一服となる。
根睡とは、いつの間にか眠りに入って、心もからだも脳ミソもスッキリとして目醒める状態でしょうかネ。それにしても根睡の秘訣は1日1日十分に生きることしかない気がする。
