見直すってことは、学んできたことを改めて見直す、見直していくこともそうなのだが、それは学んできた自分自身も、改めて見直していくことなのだよ。そして先人(父)が学んできたことも、常に見直していくことだ。
操体法の学びは、「からだが正当に使用されること」である。しかし、どうみても正当な使われ方とは思えない。なぜなら、からだの動きを学んでこなかったことが、正当に使用されていない大きな理由。又その理由は、からだの正当で適性にかなった軸が未完成のまま体幹正中にさらされているからである。

先日、畠山が一つの易の話を、私に教えてくれた。
それは山風蠱(さんふうこ)という易の卦(か)の初爻(しょこう)の話だ
「初六(しょりく)。父の蠱(やぶれ)を幹(ただ)す。子あれば考(ちち)も咎(とがめ)なし。厲(あや)うけれど終には吉なり」と。
この意味は、先人(父)が作った制度やきまり、又は定義や定説がたとえどれほど優れたものであっても、必ず時とともに弊害がでてくるものである。だから後につづく者たちは、常にその見直しをしなければならない。それができれば、途中、ちょっと危ういことがあっても、長い目でみれば、結局、吉である。それをおこたると、永遠に消えてなくなり、後悔することになる。

今回のテーマは「見直し」でしたか。
私も今、執筆中で、「勢い」余って、原稿を書き上げてしまうことがある。
勢い余った分、修正箇所が目立つ。
清書できる段階じゃない。一週間、そして一ヶ月、塩づけした後に再度見直す。
一年間塩づけにしておいた後に、また見直してみる。
その間、私自身の学習能力も磨かれているので、新たな味つけができるようになる。同じ原稿の中身が一変してしまうこともある。
「見直し」と言えば、五十数年間学びつづけてきたことも、学びながら、見直しつづけてきたことなのかもしれない。
見直すことで、さらに、新たな気づきと発想が生まれ、その結果、一冊の本になってしまうこともある。
そんなくり返しのなかで、一冊、又一冊と出版が増えつづけていったようである。
鵜呑みにし、たかをくくって、わかったつもりで、見逃してしまっていることなどは、数々あるようだ。
なので再度の見直しは欠かせない。
常識とされていることも、ピーンときたらホントにそうなのだろうかと、疑ってみることも大切だ。意外と学問的につついてみると、そして磨いてみる。そこには貢献できる愉しさがある

ふと忘れた頃に、突然前ぶれもなく、ブログが巡ってくる。
今は四月の半ば。隣に咲く、樹齢百何十年になろうとする二本の桜の木。今年も見事に開花し、葉ざくらになってしまった。
満開時にはメジロも飛んできて、蜜を吸っていた。ベランダから、目の前に咲く、さくらと空と雲をながめるのが、愉しみである。
今年も定例の、春のフォーラムの開催をひかえて、スタッフの熱気がつたわってくる。キャリアを積んだ弟子も、大きく成長し、どこに出しても、見劣りしないような力を身につけてきた。
毎年続いているフォーラムも、その成長と共に、私の出番はめっきり少なくなった。それでいいのだ。いつまでも私が、でしゃばりつづけていては弟子は育たない。
ただし注文はつける。
昨年から、ナイトセミナーの時間を設けている。フォーラム自体は17時に終わるのだが、ナイトセミナーとして、3時間延長されている。この時間は、私が自由にアレンジ、できる。つまり、すべて筋をとおした上での場当たりの即興である。


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