投稿者: karib_sotai

  • 1日目

    今日から三浦が担当します。

     操体を初心者に説明する。

     

    何から手をつけたらいいのか。

     

    しばらくの間、ペンを取らずに漠然考えを巡らせていた。

    初心者といっても、まったくの素人もいれば、医師でありながら、職業を明かさない人もいる。

    芸術家もいれば、多種の仕事をもつ人も、初心者である。

    私はなぜ、それらの人達が、学びにくるのか、その動機とか、きっかけに興味がある。

    どのようなところに興味を覚えて学びにくるのか。その人の人生とその生き方と切り離せないと思うのである。

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  • 「よくわかる操体と操体法」7

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    あまりよくわかる説明かどうか果てしなく謎で申しわけありませんが、操体あるいは操体法のしっぽが少し見えたでしょうか。

     
    なお、他でも書いていますが、操体と操体法の違いを説明します。
     
    操体法、は、操体の中でも「臨床」の部分を指します。つまり、操体法は、操体の一部分にあたります。なので、操体法だけ(つまり、臨床やテクニックのみ)勉強しても方手落ちということです。我々東京操体フォーラム実行委委員は、操体をまるごと勉強している、というわけです。
     
    このあたりは、我々のちょっとした「心の支え」です。
    操体の一部分だけではなく、橋本敬三の世界観や哲学を含めて学んでいる、ということなんです。
     
    なお、私自身は自分の勉強もまだまだですが、後輩の育成にも力を入れています。
     
    私の知りあいで、ある技法を教えているその業界での第一人者の先生がいます。
    その方、昔大先輩に言われたことが「間違ったことを教わっても、困るのは自分だけ。でも、間違ったことを教えたら、教えた人の分だけ困る人が増える。なので教えるということについては、細心の注意を払わないといけない」ということなのだそうです。
     
    操体に関しては「間違ったこと」というよりは、「からだの理に適っていないこと、環境に適っていないこと」かもしれません。
     
    また、橋本先生が現役で臨床をなさっていた時代と、現在は、やはり環境が大きく違います。
    1945年(昭和20年)、800年続いた武士の時代(陽の時代)は、終わりを告げました。1945年から800年は「陰」の時代に入っています。むこう700年くらいは「陰」の時代が続くわけです。
    物質的で男性的な時代から、感覚的で女性的な時代にはいり、それが続くということです。
     
    我々は陽の時代から陰の時代の転換期(800年といっても急激に変わるわけではなく、徐々に変わると思われます。800年のうち、最初100年と最後の100年くらいは、転換期です)を経験しているわけです。
     
    操体も、
     
    0. 正體術の時代
    1 第一分析
    1-1 楽な方に動かして瞬間的に脱力(楽と快の区別がはっきりしていなかった)
    1-2 橋本先生「動きより感覚を大事にしなさい」「きもちのよさでよくなる」
    楽(運動分析)から快(感覚分析)への変革
     
    2 第二分析
    3 第三分析
    3-1 面の渦状波
    3-2 点の渦状波
     
    からだの中心、腰を要とした動きから、末端からの動きへの変革
     
    4 第四分析
    5 第五分析
     
     
    というように、大きく変わっています。
     
     
    何故、操体が進化してきたか。
    それは、時代や環境が変わってきたということもあります。
     
    医療の世界にしろ、セカンド・オピニオンが当たり前になりました。
     
    昭和の時代は、バキバキ、ボキボキというような他力暴力的な施術がまかり通っており、指圧やマッサージも「強圧」というのが流行っていたそうです。
    また、
    「はい、治った~!!!」と、いわゆる口で「治す」治療家もたくさんいました。
    一方、鍼灸師などは、職人気質というか、患者さんとコミュニケーションをとらないで「治せればいい」というスタンスが多かったようですが、今ではそうはいきません。
     
    なお、橋本敬三先生が若き日の三浦寛先生におっしゃった言葉です。
     
    自分のやっていることは60年先を行ってるんで、今、理解されなくても仕方ない。
     
    操体の常識は世間の非常識でした。
     
     
    ところで、最近伝統療法カンファレンスに参加したところ、腱引き関係の方や、その他の参加者の方から「きもちいい」という言葉を結構聞きました。
     
    まだまだ「言葉のみ感」は、ありますが「痛くなきゃ、我慢しなきゃ治らない」という時代から「きもちのよさで、よくなる」という時代に「本格的に」入って来た気がします。
     
    一週間ありがとうございました。
     
    明日からは、操体をこの世で一番知っている人、三浦寛先生です。
     
     
     
     
     
  • 「よくわかる操体と操体法」6

    説明すればするほど、操体の色々な側面が見えてきて、どれを説明しようかと迷ってしまいますが、操体を説明するならば「操体の常識は世間の非常識」と言えるでしょう。
     
    普通だったら「固まらないように、痛い方、可動域が悪い方を一生懸命に動かす」(リハビリとかそうですよね)
    操体は「動きやすい方、よい方を動かす」
     
    普通「頑張る」
    操体「頑張らない」
     
    「頑張らない」とは、秋のフォーラムにも出てきますが、「頑張らない」というのは、努力しないとか何もしないということではありませんし、だらしなくてよいというわけではありません。
     
    頑張るとは「本当はやりたくないことをやる」
    頑張らないとは「本当はやりたくないことをやらない」
     
    と思っていただければいいでしょう。
    これを
    「からだが、本当はやりたくないことをやる」→ 頑張る
    「からだが、本当はやりたくないことをやらない」→ 頑張らない
     
    とすると、もう少し分かりやすいかもしれません。
    「からだ」を主語にすればクリアになります。
     
    私達はどうしても「からだ」の希望や望みを無視してしまうことがあります。
     
    そこ、からだの声や言い分を聞くお手伝いをするのが、操体の指導者です。
     
     

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  • 「よくわかる操体と操体法」5

    私は何故操体をやっているのか。
     
    よくわかる操体といっても、よく分かるのだろうかとまだまだ心配ですが(汗)、引き続き進めます。
     
    操体をやっていて、一番「よかったな」と思うのは、操体の臨床を行っている本人も「癒される」というところです。
     
    大抵の操者は治療や施術でエネルギーを使い果たしてしまうとか、患者のネガティブなエネルギーや気を貰ってしまうことがあるようですが、操体は被験者と操者が「快」をシェアします。
     
    例えば足趾の操法をやっていて、被験者が「快」に包まれている場合、操者にも「快」がうつります。
    操者のみならず、同じ部屋や近くにいる人にもうつる場合があります。
     
    三浦先生のところに、患者様としてある企業の社長がいらっしゃったことがありました。私も同席していましたが、秘書の方も一緒でした。
    臨床がはじまると、あら不思議?社長の「快」が秘書の方に飛んで、彼女も「意識飛び」をしていましたし、何故かお腹が反応して鳴っていました。
    後で「快に反応したんですよ」と伝えると納得していらっしゃいました。
     
    「快の共有」。
     
    これが操体の特徴の一つでもあります。
     
    快は、一人占めしなくてもよいのです。「快」は広がります。
     
    快といっても、普通に想像しうるような「快」というよりも、生命感覚的な快と言ったらいいでしょうか。
    かゆいところを掻いてきもちいいとか、温泉に入ってきもちいいとか、性的な快とかというよりは「原始感覚的な快」です。この辺りは個々の感覚もあると思いますが、操体で言う快とは、根源的な快なのです。
     

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  • 「よくわかる操体と操体法」4

    「よく分かる操体」というタイトルながら、「よくわかる」ように書けているかどうか、少しばかり心配になってきましたが(笑)、引き続きご紹介します。
     
    たまに、
     
    「操体って最初につま先上げやって、次に膝倒しやって、次にカエル足(我々はカエル足とは言いません。伏臥位膝関節の腋窩挙上とかです)やるって順番決まってるんですよね」と言われることがあります。
     
    ちなみに、橋本敬三先生は「万病を治せる妙療法」でも、「操体B」とか「操体C」というような名称を使っています。
    「つま先上げ」と「膝倒し」「カエル足」というのは、一種のスラングだと思って下さい。日常的に使うのは構いませんが、シンポジウムとか公の場で使う言い方ではありません。
     
    我々は、「足趾の背屈」とか「膝の傾倒」「伏臥位膝関節腋窩挙上」というように言ってます(プロだからね)。
     
    順番をつけてパターン化すること、よくアメリカの手技療法家がやります。
    頭蓋仙骨療法でも、テン・ステップ・プロトコルのように、10段階でできるように、危険なく簡素化された(つまり、最大限に希釈された)ものがあります。
     
    パターン化すると、教えるほうは簡単ですが、応用力に欠けることになります。
     
    臨床は、常に想定外です。パターン化された被験者なんてまずいません。
     
    操体の勉強に時間がかかるのは、そのためです。「見立て(診立て)」を学ぶにはある程度の時間は必要です。
     
    つまり、もともと「肩こりにはこの操法」とか「腰痛にはこの操法」というのが、操体にはありません。
     
    というのは、ボディの歪み(や軸)を正すことによって、二次的に症状疾患を解消する、というのが操体だから。
     
    なので、操体は「想定外」には強いのではないかと思います。
     
     

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  • 「よくわかる操体と操体法」3

    操体では「主役」は「からだ」です。
     
    本人ではなく「からだ」なのです。
     
    操体の指導者は、「本人」と対話しているのではなく「からだ」と対話しているのです。
     
    例をあげると、我々は、選択肢が二つ、例えば「こちらの動きは楽で、こちらは痛い」という場合、楽でスムースな動きを選択します。そうですね。仰向けに寝て、膝を二分の一屈曲位にとって、左右に傾倒する場合です。この場合、右傾倒が楽でスムースならば、右傾倒を選択します。
     
    ヨガとかストレッチだと「やりにくいほうを余計に何回かやる」ことがありますが、操体は「動かしやすいほう」(楽にうごかせるほう)のみをやります。
     
    ここで、人間の欲が働くと「両方やったほうがいいんじゃない?」となります。
     
    しかし我々は「いいほうをやれば、よくないほうもよくなってくる」ことを知っていますし「からだ」もそれを知っています。
     
    また「沢山やれば早く効くと思って」回数をガンガンこなすこともしません。
     
    からだは「もう疲れちゃったからやめて~」と言っているのに、「アタマ」は「沢山やったほうが早く治りそう!」と考えるのです。
     
    我々は「からだの言い分」を聞くのです。
     
    「からだの声を聞く」というのは、わりと最近聞く言葉ですが、本当に聞いているのでしょうか。
     
    操体の勉強は「からだの声を聞く」ことを学ぶことでもあります。
     

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  • 「よくわかる操体と操体法」2

    第一分析、第二分析という言葉は、三浦寛先生の考案によります。
     
    第一分析とは、橋本敬三先生の時代の「楽な方に動かして動きをたわめて、瞬間的に脱力」(楽と快の区別がまだついていない)。

    第二分析とは、橋本敬三先生が晩年「楽(運動分析)ではなく快(感覚分析)だ」とおっしゃった事により、三浦寛先生が体系化したものです。
     
    ★ポイント★「楽と快はどう違うか」と思ったら、「運動分析か、感覚分析か」と考えてみてください。
     
    第三分析とは「操体は、動かして診る」というところから、それでは「動けない患者はどうするか」という、いわゆる操体の盲点を解消するために、三浦寛先生が、橋本敬三先生の「運動系は筋骨格系、皮膚をも含めた」という言葉にインスパイアされ、皮膚への刺激にならない接触を用いた診断分析法。刺激にならない接触を選択することによって、無意識(本人が関与しないからだの意識)にアプローチすることが可能になりました。
    単に皮膚に触れ、刺激を与えて「快不快」を唱えているところもありますが、根本的に違うのは「刺激になrない接触」というところ。刺激と接触とでは、神経伝達回路も違います。
    第四分析とは、息診・息法のこと。
    第五分析とは、今までの操体の常識を覆したもの。第五分析の登場によって、連動さえも進化を遂げました。
     
    今、一般に行われている、知られている操体とは「第一分析」です。しかし、言葉のみ「きもちいい」を使っている場合が多いのです。これには弊害があります。
    どういうことかというと、
     
    「楽か、辛いか」という運動分析をしているのに「きもちいいか?」という問いかけをして、被験者を迷わせるという弊害です。
     
    「楽と快の違い」を混同している、つまり「運動分析」と「感覚分析」を混同しているのです。
     
    確かに「きもちよく伸びましょう」というようなストレッチの指導をすることがありますが、その前提は「元気で健康な人」です。
    しかし実際に操体を受けに来る方は、どこかにトラブルがあるわけです。急性の症状で痛みを抱えている人に「きもちいいですか」とか「きもちよく動いてぇ」なんていったら怒られます。
     
    そして、さらに言うと「きもちよい」というのは、感覚なので「やってみなければわからない」のです。
    動いてみないとわかりません。なので「きもちよく動いて」というのは、健康体操やストレッチ的には問題ありませんが、操体の診断・分析においては、問題があります。
    きもちいいか、そうでないかは、動いてみないとわからないからです。
     
     

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    真魚(まお)君。まーちゃんです。
     
  • 「よくわかる操体と操体法」1

    こんにちは。畠山裕美です。今週一週間よろしくお願い致します。
     
    「世の中の90%の事は、グーグル先生に聞けばわかるが、操体はグーグル先生に聞いても分からない」By 畠山裕美 
     
     
    よく受講生が「操体を家族や友人に説明するのが難しい」と言います。
    何と言うか、とても素晴らしいものなのだけれども、核心をついた説明ができないということと、手技療法系をやっていると言うと、ほぼ100パーセントの人が「整体と違うんですか」と聞きますし、親指で指圧するポーズをとられたり(かなりの確率)、「マッサージ」だと思われ、親戚のオジサンに「揉んでくれ」と言われて、ブチ切れそうになったこともあります(笑)。
     
     
    一方、私は東京生まれなのですが、親戚の多くは宮城や仙台に住んでいます。操体は仙台がお膝元ですから、私の仙台の叔母が、今先生の治療室に通っていたとか、そんなこともあるのですが、仙台の従姉妹などに聞いてみると、操体の認知度はかなり高いようです。
     
    この場合聞いてみると「楽な方に動かして、瞬間的に脱力」という、第一分析という古典的なやり方がメインだということがわかりました。
    まあ、橋本敬三先生がなさっていたのだから、当然と言えば当然です。
     
     
    元々操体は、正體術(整体とは異なる)という、力をぐっと入れて、瞬間的に脱力することによって骨格の歪みを正すという矯正法を源流とします。実は、楽な方、動かしやすい方に動かして、脱力に導くという方法は、骨法(わからない人はGoogle先生にきくべし)などの古武術の時代からあったようです。それを、大正時代に高橋迪雄(たかはしみちお)先生が体系化し「正體術」としたわけです。操体の創始者、医師橋本敬三は、昭和初期、函館にいたときに、友人のお父様が高橋迪雄先生の高弟の施術を受けて元気になったという話を聞いて、興味を持たれたようです。
     
    なので、正體術から第一分析時代は、「楽な方に動かして、動きをたわめて、瞬間急速脱力する」という説明で足りるわけなんです。
     
    しかし、第二分析以降になってくると「感覚」と「快」という概念が入ってくるため、一気に説明のハードルが上がります。
     
    感覚、というのはパーソナルなものだから。なので、説明が大変なのは当然といえば当然なのです。というわけで、個々人の「感覚の差」を加味して説明しなければなりません。
     
     そこが「説明しがたい」というところではないでしょうか。その他にも操体は、単なるテクニックではなく「橋本哲学」とでも言うものがあります。
    代表的なものが「救いと報い」の違いと理解、ですが(操体の施術者、操体の勉強している人は)この辺りは押さえておく必要があります。
     
    受ける方は、素直に、からだの要求に従って受けて頂ければよいのです。
     

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    子ねこの「りんちゃん」。台風娘リンリンです。
  • 操体の説明・・・7

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム理事長である三浦寛先生が、操体創始者である橋本敬三先生の内弟子になった時に、初めに教えていただいたのが、人間を含めた生物の起因や生命現象創生にまつわる話だったと聞きます。

     

    生命現象の生物の組成を逆に考えてみるならば

    生物の世界は有機の世界から生まれる

    有機は無機の世界から

    無機の原子は素粒子より成り

    素粒子はエネルギー波動の世界より生じ

    波動は陰陽二極の世界から起こる

    陰陽なる性質の決定は、無限なる太極の意志である。

    太極の意志とは「愛と調和」である。

    各世界には、ひとかわ上の世界が入り込み

    また各世界には太極が普遍貫通していることになる。

     

    これは「救い」の生命観の根幹を示したものではないかと感じます。

     

    橋本先生は若かりし頃に、盛岡の牧師、平野栄太郎先生から「救い」と「報い」の区別をはっきりと教えられたという。

     

    「報い」は相対的であり、この世に於ける生き方に対する相対的評価であり、自分の行いによって加減変化する価値観である。

     

    「救い」は絶対であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。

    橋本先生は自己単独における観の転換により、この「救い」を悟ったという。

     

    太極を神とすれば、神性相続権というのも頷ける。

    創造主とか神といった言葉が出てくると、怪しいとか胡散臭いと思う人もいるかもしれません。

    しかし、誰にでも神性は宿っています。時には自分に向き過ぎた「報い」の想念から、天に唾を吐くような気持ちになる時もあるでしょうが、そんな気持ちは長くは続かない。
    気持ちが悪いからなのでしょうね。自分はどうでも、自分のからだは気持ち悪いのでしょう。
    だから、誰かを「ゆるせない」といった感情を持ち続ければ、バランスを崩して病に陥りやすいのだと思います。
    誰にでも、神性は宿っており、見えないところでつながっているのでしょうから。

     

    臨床でも、臨床家が向き合うのは単なる物体や機械ではなく、からだであり、神性の宿った生命なのです。

    昔から言われているように、医学は単なる修理医学であってはならないと思うし、臨床家も修理屋であってはならないと思うのです。

    それには、感覚というものを重視する必要があるのです。

     

    操体臨床では、本人にからだの快感覚をききわけていただく第2分析。

    そして、どうしても感覚のききわけが困難な人にも、渦状波®による皮膚へのアプローチにより、からだの生命感覚に直接に快適感覚を問いかける第3分析も行われています。

    そしてまた、三浦寛先生により、操体臨床は第4分析、第5分析へと進化を続けています。

    この進化は生命に優しく、そしてより効果の高いものへの進化です。

    この進化も、操体創始者の橋本敬三先生から臨床技術だけでなく、思想、哲学、真の生命観を学び、操体と操体臨床(操体法)をリンクしながら、50年以上の長きにわたり深め、研鑽を重ねてきた三浦先生だから、可能だったのだと思います。

     

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日から畠山裕美先生の担当となります。

    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

  • 操体の説明・・・6

    おはようございます。

     

    人間は、様々な要因、お陰で、有難く生かされている。そして、その上で生きている。

     

    道元禅師の有名な言葉に
    「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」

    というのがあります。

     

    イノチあるものは、生かしてくれているものがなければ、生きてゆけないのです。

     

    人間も、その人を生かしてくれているものを挙げれば沢山あると思います。

    親、兄弟、友人、恩師、それから食料、電気、水道、今の時代であればスマホと言う人もいるでしょう。

    人に差はあるでしょうが、挙げだしたらキリがなくなります。それだけ様々な恩恵を受けているという事なのでしょうね。

     

    しかし、生命現象の観点から根本的に捉えてみると、重力があり、呼吸をさせてくれているこの空間でしょう。

    道元の言葉につうじるものがあると感じますが、やはり大自然、大自然の愛なくしては全てのイノチあるものは、その存在を保てないのです。

     

    逆に捉えれば、存在しているという事は大自然の愛を受けているという事でもあります。

    大自然の愛、それは見返りを求めない無償の愛であり、宇宙が138億年前に誕生したとすれば、その時からずっと無償の愛を膨らませながら、隅々まで与え続けているのだと思います。

     

    愛を与えられることで、目に見えないものも含めて重さを持つものは、調和へ向かい様々な体(タイ)をなしていったのだと思います。

    そして、重さをもつものは、快、不快によって結びついたり、反発したりを繰り返し、イノチを育んでいった。

    そうしたバランス感覚を持ったイノチの集合体が、存在であり、生命なのだと思います。

     

    では、そのように大自然をつくったのは誰なのでしょうか?