世の中には、幾多の健康法や心身調整法が在る。
私は寡聞にしてその全貌を知らないが、私の知見の及ぶ限りでは、その多くはジムとか道場などに出向いて、衣服を整えて、その流儀における聖なる状態で行われているものと思われる。
もちろん、操体においても猥雑な空間は好ましくない。
しかし、それぞれの人が、それぞれの日常の中で無理なく実践できる事が指導されている。
与えられた生命をより良く全うするための智恵と工夫(自然法則の応用貢献)が更新されている。
世の中には、幾多の健康法や心身調整法が在る。
私は寡聞にしてその全貌を知らないが、私の知見の及ぶ限りでは、その多くはジムとか道場などに出向いて、衣服を整えて、その流儀における聖なる状態で行われているものと思われる。
もちろん、操体においても猥雑な空間は好ましくない。
しかし、それぞれの人が、それぞれの日常の中で無理なく実践できる事が指導されている。
与えられた生命をより良く全うするための智恵と工夫(自然法則の応用貢献)が更新されている。
上記と題する小論が『生体の歪みを正す』に載せられている。
そこには、
「運動系と植物系との相関の領域こそ、東西医学の融合地点ではないでしょうか。
それには、運動系をもっと力学的に観察する要があるというのが私の所論です。」
と結ばれている。
邪を歪みと読み換え、
「運動時の力の連絡が経絡であろうと私は思っております。」
と宣言された時が、東洋医学から一歩前へ踏み出して、日本医学として歩み始めた記念日であった、と私は思います。
自力自療とは、自分自身が診断・治療の主体である、という事である。
操者も人の子である。体調を崩すこともある。
そんな時、(健康傾斜が大きすぎるものでなければ)自分で自分の健康を管理する事が出来る。
有難い医療体系である。
先に、東西医学の相違点として、病名と証という診断の仕方をあげた。
前者は、神から授けられた職としての絶対者の立場で、医者によって客観的に確かめられるのに対し、後者は、その主体が患者の側にあり、患者の示すものでありながら、医者によって、理解されたものである。そして、その理解は、治療という行為を通して得られたものである。
橋本敬三は、
「医師は医療者ではなく、医療者は患者自身であり、医師は、治療の指導者、コンサルタントの場に立つだけ、ということです。」
と述べている。
操者とからだ&患者、三身一体 の原点である。
病名と証 の違いが東西医学の最も根本的な相違点であることは、先達の誰もが強調されている。
しかし、「証」を定義する事は至難である。
ここでは、めんどうな話を抜きにして「証とは治療法である」としておこう。
例えば、〇〇湯証であれば、〇〇湯を与えれば治る、という経験知が集積された学問である。また、△虚証とか̻□実証であれば、それぞれ虚実を補瀉すれば治るという技術体系である。
ところで、お叱りを覚悟の上で、漢方の臨床を究極まで要約すれば、虚実の補瀉ということになるであろう。
真気の虚を補い、邪気の実を瀉す。
正常でないものを、漢方では邪と言い、邪があるから病人なのである。
邪とは、害悪なものではなく、「牙」すなわち「くいちがい」を語源としている。正常からの「歪(ひずみ)」である。
ここで「邪」という言葉の問題点を指摘しておきたい。
邪は、外邪(侵害刺激:ストレッサー)とそれによっておこる生体の歪(ストレス)の両方に対し、厳密な区別なく使われている事が、現代の何とかしなければならない重要課題なのである。
橋本敬三は、邪(歪み)が身体を病気に導いたのだから、全身の歪みを調達することで、健康状態に戻せると考えた。
虚実の補瀉を、運動系で捉えようとした偉大な先人である。
漢の時代は、それまでの文化を集大成したことで評価されている。
「漢方」と呼ばれる中国医学もその一つである。外来医術を体系づけ再構築したものである。その諸法の中心に位置づけられたものが「導引按蹻」である。
導引は、四肢を動かすこと、按蹻は、手技を示している。
しこりを取り、虚実を平にし、気血の巡りを良くし、身体のバランスをとることを目的とする。
操体も、この大きな流れの中の一つである。
テーマは引き続き「私があなたに操体を説明したら」です。
西洋医学が病気を治すための疾病医学であるのに対し、東洋医学は「未病を治す」と言われる様に健康医学である。
操体は、この系譜に属する。
操体の身体観は、健康な状態が疾病状態に傾斜している、と捉える。
そして、それを復元するからだの自然治癒力を信頼しゆだねている。
さらに、操体を日々実践する事により、予防医学、健康増進医学となる、と謳っている。
「生かされている」ことの有難さを知る学問だということです。
私は10年以上の期間操体の学びと向き合ってきましたが、その学びの中で掴んできたことは何も特別な知識とかではなく、呼吸にしても、食にしても、それまで当たり前としてきたことへの気付きがほとんどでした。
その当たり前だと思ってきたことをからだとの対話の中でより良いものにしていくこと、そして感謝していくことがこの学問の核にあるのです。
操体の臨床でもそういったことに意識を向けてもらうことが本来あるべき臨床の姿なのだと思っています。
一週間お付き合い頂きありがとうございました。
明日からは半蔵さんが担当致します。
お愉しみに。
昨日までは操体における「感覚と動き」の大切さを書いてきましたが、操体を説明する中でこの2つと同じ位大切なのが「想念」になります。
この操体における想念を理解することが出来なければ、これまでに挙げてきた「感覚と動き」をはじめとした操体の世界観も理解することは出来ません。
想念における大切なことはたくさんありますが、初めての人達に操体を説明することにおいて1つ挙げるとすれば「言葉」の大切さを挙げます。
操体の臨床における診断ではからだの構造、動作と同様に患者の使っている言葉等も重視して診ていますが、長年操体を学んでいると患者のちょっとした動作(しぐさ)や言葉使いを聞いただけで、その人の人生のバックボーンやからだとの向き合い方の片鱗がみえてくるのです。
医療者達が全く注視しない、症状と関係なさそうなところに注目し、その変化を診ていくことも操体の特徴の1つと言えます。
からだの変化だけでなく、そういったものの変化こそが操体の臨床では大切なことで健康維持増進に繋がる1歩だと思っています。
昨日の続きになりますが、当時、橋本敬三先生の臨床は「辛い方から楽な方」に動かすという分析法(第一分析)で患者を診ていました。
この分析法はからだの構造を左右対称に整えることを目的としています。
歪みを改善し、からだを左右均等にすることで、結果的に症状の改善、そして息・食・動・想の4つの命の営みのバランスが取れてくるという捉え方であったのだと思いますが、橋本敬三先生はこのやり方で患者の健康維持増進に繋がっていく臨床になるとは考えていなかったと思います。
からだの構造を左右均等に整えるだけでは、患者の訴える症状・疾患は改善することは出来てもまた元の状態に戻る可能性は大いにあります。
操体を健康維持増進医学として提唱されている以上、橋本敬三先生も目指していたのは患者が自分の力で健康を勝ち取っていくために必要なものを臨床の中で提供していくことを目指していたのではないでしょうか?
そのひとつが「感覚」であり、橋本敬三先生も晩年「動きよりも感覚を重視しなさい」といます。
そしてもうひとつが「きもちのよさ」であり、これらを「からだに聞き分けて味わう」ことが出来れば、先ほど挙げた問題もクリアになってきます。
それはからだが要求しているものであり、その要求を無視することの出来ない自分を形成していくことが操体、もしくは操体法にはあるのです。