投稿者: karib_sotai

  • 操体における 「頑張るな」 とは ⑥「快適感覚」

     自然生命の柔らかさやしなやかさを表わすのに、操体では 「きもちよさ」 という言葉を用いている。 このきもちよさという自然生命の感覚は、力み、緊張といったからだのこわばり、つまり頑張ることに対して、ゆったりと心地よいという快適なからだの感覚を意味している。

     

     こういった心地よい状態というのは、からだの各関節、筋肉に余裕を持たせており、まるで全身がバネのような弾力を保持している状態のことである。 このことが可能になるのは、各関節や筋肉に適度な可動のあそびがあるからなのだ。 

     

     筋肉の動きというのは、動き出すと、その動くのに必要な一点のみが緊張して、その他の部位はほとんどが緩んでいるという無駄のない動作ができる構造になっている。 それ故に、動くことに必要のない筋肉は動かさないようにできているのだ。 こうした心地よい状態というのは、本来自然に備わっているからだの自然治癒能力が生み出した快感覚なのである。

  • 操体における 「頑張るな」 とは ⑤「脱力」

     頑張ることでからだの一部の筋肉のみが暴走して、全身の関節や筋肉の動き、腕、腰、脚の協調性が乱れてくる。 すると、からだの重心移動や背筋のバランス、足底と地面の接地感覚などが崩れてしまい、まさに地に足が着かない状態になる。

     

     だからといって脱力すればいいというものでもない。 ただ無節制に脱力することは、決して健康的だとは言えない。 そこで操体では、力みではなく、脱力でもない、ほどよく調和した快適な状態を維持することを目的としている。 だから 「頑張るな」 という言葉を用いて戒めとしているのである。

     

     今、世間では 「脱力」 が主流になっている。 これは根性主義や精神至上主義といった時代の反動から来る頑張ることへの反抗なのかも知れない。 昨今の健康療法においてもやたらと 「脱力」 が強調されている。 しかし、脱力やリラクゼーションは、力んで緊張している人を一時的に癒すことはできるが、免疫力等を高めることは決してない。 すなわち、楽にはなっても自然で快適な状態ではないということである。 まさに操体でいう楽と快の違いはここにある。

  • 操体における 「頑張るな」 とは ④「力み」

     頑張るというのはからだが 「力む」 ということに尽きるが、これは周りをよく観察することや、自分の心身の状況を感じる余裕もなく、ただ目的に向かって猪突猛進していく状態である。 当然、からだは感情や意志に強く影響されるので、強烈な力が出るときもあるが、力んでいるので全身が硬直して、いずれ心身のコントロール不能に陥ってしまう。

     

     このような頑張ることで力むというのは、最も幼稚な身体反応であり、からだにとっては不必要な身体感覚である。 また極度の心身硬直状態になることで免疫力が低下して、疾病に陥りやすくなり、からだの感性も麻痺させて体調の変化に対しても鈍感になってしまう。

     

     力むのではなく心身の緊張を解き、からだの自然な要求に耳を傾けることで、感じる余裕が出てくる。 すると、全身的な無駄のない動きが生みだされ、リラックスとストレス解消によって免疫力を高めてくれることが期待できる。

  • 操体における 「頑張るな」 とは ③「根性主義」

     昭和の時代にNHKの朝ドラで 「おしん」 というのをやっていた。 このドラマは、歯を食いしばって堪え忍ぶことを美化したストーリーであるが、この時代は中学、高校のスポーツ系の部活においても、死に物狂いでやれとか、頑張り通せといった 「根性主義」 がまかり通っていた。

     

     全身を過度に緊張させて、心身を鍛え上げることで、病気に負けない屈強なからだを作ることができるのだと皆が信じ込まされていた。 このような精神至上主義は、迷ったり悩んだりしている人には単純で分かりやすく魅力的なものであったはずだ。

     

     ところが、この根性主義や精神至上主義は、一概にその効果がないというわけでもない。 それらの主義主張は確かに危機的状況の中にあっては自らが選択するやむを得ない身構えでもある。 しかし、危機的状況においての根性や忍耐は緊急避難と何ら関係するものではなく、火事場の馬鹿力の例えにあるように、こういったからだの自然な反応は内なる筋肉によるものである。

  • 操体における 「頑張るな」 とは ②「スポーツ」

     頑張ることを余儀なくしているのは、一体どのような人だろうか? はじめに思いつくのが西洋から入ってきたスポーツをする人達だ。 それはオリンピックをはじめとする競争性・競技性を重視したからだの動きのことである。 

     

     具体的にいうと、ある特定の筋肉を発達させることにより、より速く・より長く動くために特別の鍛錬法が推奨されている。 そこでは、勝つため、記録を伸ばすために、からだの運動能力の限界を超えることもしばしばあり、日常の自然な動きはまったく無視されることになる。

     

     そのためアスリート達は、不自然なからだの動きからプロ・アマを問わずからだの故障に悩まされており、こういったストレスでかえって心身の不調の原因になっている。 これも自分に対して無理なプレッシャーをかけて頑張ったことによる副作用なのである。

  • 操体における 「頑張るな」 とは ➀「日常動作」

     今回のタイトルは操体では馴染の深い 「頑張るな」 とは です。

     

     操体で 「頑張るな」 とは、自分に対して心身に歯を食いしばるような無理な負荷、すなわちストレスをかけるようなことをするな! というからだからのメッセージであると私は受け止めている。 

     

     健康を維持しながら社会生活の中で、日常動作を効率よくこなしていくためには、過剰な緊張や無理な訓練などの特別な動きを頑張る必要はまったくない。 本来、からだに備わっている自然な動きを使いこなして、きもちよく動くことにおいて日常生活の動作を安全に無理なく達成することができる。

     

     日常生活において、我々が最も純粋な幸福感を感じるのは、からだを通して感じていくものだ。 それはからだがスムーズに動いているということで、たった今この瞬間の姿勢があり、四肢末端から腰の動き、そして全身へと連動していく日常動作は、最も基本的な生きがいであると言える。

  • 想いの重さを知る⑦

    今日が最終日となります、よろしくお願いいたします。

     

    実は今回のブログ、先に書いた四日間分を後で書き、後の三日分は

    先に書いているので(ややこしい)始め重く、後は軽くしました。

     

    実はテーマを持ち、学び続けることに快感を感じるようになった事、

    紛れもなく三浦理事長の下で「操体」を学び始めてからなんですね。

     

    ワタシは、変な人間を自覚しており、頑張ってはなぜいけないのか、

    だからこそ、変な人間が救われる道はないのか。そう考え続けます。

     

    大人として一人前になるには、何をもってそう言えるのか、とかね。

     

    ただ、人に後ろ指をさされないように、己の良心を裏切らないよう、

    頑張っていてもなお、何か違う気がしていた事も事実なのです。

     

    世の中には多くの家庭でも、みんな演じていたりする事もある。

    いい大人なんだから。長男(女)だから。良い妻であろうとか、貴方も

    もう親なんだから、とか。

     

    勿論、理想を追求して努力する事は素晴らしいことです。

     

    しかし、それに縛られ過ぎて自分自身を見失っては、上手にいくもの

    も上手くいかなくなったりしますよね。

     

    ワタシ自身も身に覚えがあることで、精神的に追い詰めてしまう方は、
    そのようにして苦しんでメンタル的に苦しみを味わう場合もあります。

     

    そもそも演じているばかりでは、疲れてしまう事もよくあるのです。

     

    なので、そのままで居ても良いんだ。

    だから、頑張りすぎないで、自分自身を縛り過ぎないで欲しい。

    だって、そのまんまでいいんだから。

     

    そのまんまの自身自身を、自分の感覚を、騙して生きることなんて、
    どうしたって出来ないのですからネ!

     

    そのようなことを踏まえて、秋季東京操体フォーラムでは「想」を、

    紐解いていけたらいいなぁ、と今からワタシ自身愉しみにしています。

     

    それでは、一週間有難うございました。

    明日からは、日下相談役の登場です!

    引き続いて東京操体フォーラムブログを、お愉しみ下さいませ。

     

     

     

  • 想いの重さを知る⑥

    「頑張ってみます!」

     

    この言いかたは、ワタシ自身よく身に覚えがあることです。

    以前、ある資格を習得する勉強をしている頃の話。
    まぁなんとなく受けてみよう、なんとなく受かるんじゃないか、と考えました。

    元がそんな考えですから、集中力は途切れ途切れとなり、試験は不合格でした。

    次の年には、これは少し本腰を入れて勉強していこうと考え方を改めて、毎日
    一時間以上は絶対にその勉強時間に費やすことに決めて、三か月集中しました。

    期待していた結果に手が届かなかった場合、その理由を検証して次に生かす。
    努力していたことを理由にして、自分自身成長していない事実を放棄しない為に。
     

    その試験当日、周りがよく見えていたのを思い出します(カンニングじゃないヨ)

    なんとなくというか、不思議ときもちの余裕はうまれていたので、見直しも完璧。

     

    答案用紙から目を離し、ふと目を閉じて、瞼を揉んでいるときのコトでした。

     

    いっぺんに登ろうとしないで、一歩一歩、足元をみて、コツコツやりなさいヨ。

    そのようなエピソードを、操体の講習中耳に入れていたことを想い出したのです。

     

    言葉を紡ぐ自然な想いは、時と空間を超えて伝えられていくものなんですね。

  • 想いの重さを知る⑤

     「気合い!そういうことじゃないの(笑)」

     

    ブログも四日目ですので、気分を変えて書きたくなりました。

    力を抜きすぎな感じの人は「頑張る」に、どの様なイメージがあるか。

     

    身近で(ワタシからすると)人生を綱渡り的に繋げている達人を探し、

    そばにいた長女に訊ねると、「う~ん」といってしばらく黙ったまま、
    ようやく口を開いたと思いきや、笑って「気合いかなぁ」と言われた。

    世の中を気合いで乗り切ることを「頑張る」イメージにしてるなんて、

    長女に怒ってばかりいたワタシの立場からすれば、なんて素直な娘なん

    だろうと、一瞬で想ってしまい、馬鹿な父親だなと心にしまいました。

     

    閑話休題、元に戻します。

    さて、操体で「頑張る」という言葉は、言うまでもなく戒めの一つです。

    何故戒めになっているのか、ワタシ自身考えてきた理由のひとつには、
    明確な目標もなく、無駄な力を込めている事をイメージしてしまいます。

    そもそも、当たり前のようにできる事なら、頑張るとか、頑張りますとは、
    普通に言わないでしょうし、頑張ってますとは、使いませんからね。

    それでは頑張らないためにも、自然とは何なのでしょうか。

    ワタシ自身の言葉で表現するなら、日々の積み重ねではないかと考えます。

    少しづつ、少しづつ、継続している事こそ自然にできてしまうように。

    自分に出来るかどうかわからない事、自分のできる範囲を超えている場合。
    これは、頑張らなくても自然にできてしまった、という成長の証ですよね。

     

    このことは、操体を学問にしていると、頑張らずとも自然になるようです。

  • 想いの重さを知る④

    「すごいね~がんばったね!」

     

    このように親に言われて喜ばない子供はいないと思う。

    自分自身を産んでくれた親は、どの子供でも考えるきっかけを産む。

     

    「頑張ったね」

    細かいことを一切伝えなくても、なんとなく褒めている気分になる。

     

    受け取るのは、内にある感覚の芽。

    種から芽吹いて、必死に上を目指して縦に伸びて、横へ拡がる。

    元々無邪気であっても、邪念はなくとも、知ることの放棄は重い。

     

    どこでも、いつでも、自由気ままに振る舞っていいんだよ。

    明るく元気であれば、子供なんだから大目にみてくれるからね。

     

    いや、自分勝手は不自然。ひとことで言えば、「残念!」

     

    昔、私の接骨院で、あまりに傍若無人な振る舞いの子供を注意した。

    「私は子供を怒らないことにしているの!褒めて育てるんです」と、

    母親に言われて、まだ若かりしワタシもキレそうになって堪えた。

     

    子供の歪みとは、外からの侵害刺激(=ストレッサー)から生じる。

    それだけでなくそれを受ける(感じとる)中からの侵害刺激もある。

     

    少なくとも、接骨院の中は運動の為の公園ではないのだから、他の

    患者さんに何かあってからでは困る、イヤならお金は要らないから、

    他のところへ連れて行って、思う存分遊ばせてきて下さいと言った。

     

    子供を縛っている可能性は、どの親も身に覚えはあるだろう。

    俯瞰してみつめること。

    言葉を発することで視野の狭さもわかる。

     

    操体は何を元に指導していいか認識できる。座標と軸は必要だから。

     

    どんなに狭くとも地域の健康指導は、自然な想いの指導を兼ねる。

    ワタシはこれからも、どのように操体として組めているか、考える。

     

    それ故に、子供という表記で書き、子どもと書かぬ理由も今はある。